第3話 お気に入りのバスタブ

  ”英語教本の挿絵の”ナイチンゲール”が、ジオラマの中に入ってったーっ”

 これは一大事だ。弟の京志郎に一刻も早く伝えた方がいい。

 ……が、

 

「姉ちゃん、そっちの、イケメン隊長ばっか見てないで、こっちのフィギュアも見てよ。これ、僕の大のお気に入りで、塗装も新たにリニューアルしたんだ」


 京志郎が指さした - 南の森 - の入り口に立っているフィギュア。


 先ほどの近衛兵の隊長より、2mm弱くらいは背が低い。ミニチュアの世界での2mmはけっこうな差だ。けれども、塗装はものすごく凝っている。


 そのフィギュアは、灰汁色あくいろのマントを羽織り、背に斜にかけた鞘には剣。黒装束に身を包んでいた。ブーツと手袋はマントと同じ深い灰色だ。


 剣士?……でも、剣士にしては華奢きゃしゃだし……


「京ちゃん、このフィギュア、男の人にしては小さいのね」


「ちっちっ、姉ちゃん、ナメちゃいけない。それは、”灰色猫グレイ・マウザー”だ。体は小さくても、精神力こころは抜群に冴えてる。そいつは、頭脳明晰な上に剣の腕も立ち、猫のごとく俊敏で時にはずる賢しこくもある。そんな風に三拍子も四拍子もそろった最高にイカした”魔法使い”なんだ」

「へぇ、すごい! そこまで設定を練り込んでジオラマを作ってるなんて」

 

 百合香は感心しながらも、学校にも行かずにジオラマ作りに夢中になっている弟のことが、少し心配になってしまった。

 と、その時、

 ポゥポゥッと、午後9時を知らせる鳩時計の声が上の階から響いてきたのだ。


「うわっ、もう9時。 お腹すいた。 姉ちゃん、こんな場所に何時までもいないで、早く、家に帰って飯だ、飯っ!」


 何言ってんだか。私をここに連れてきたのは、京ちゃんのくせに。


 京志郎はいつも強引だ。

 それでも、百合香は逆らうことができなかった。

 可愛くて賢くて……とりわけ、ジオラマの国があるこの図書館の地下では、弟は絶対に抗うことのできない君主だったのだから。


* *


 ”要するに、その本の内容は、『高嶺の花の女の子に、紅いバラを求められた男の子のために、命まで捨てちゃうドMな鳥の話』 その鳥は、白いバラを自分の血で紅く染めるために、胸をいばらの枝に突き刺して、死んでしまうんだから。おまけに結末は、その紅いバラは、女の子にフラれた男の子に道路に捨てられちまうってわけで”


 夕食後にバスタブにつかりながら、百合香は弟から聞いた”ナイチンゲールと紅の薔薇”のあらすじを、頭の中に思い浮かべていた。


 ”ドM”な鳥……へぇ。


 なんかちょっと興味が沸く……いやいや、要点はそこじゃないって。


 まっ、いいか。今は優雅なバスタイムを楽しむ方が大事!


 風変りな構造をした相良あらい家だったが、それに違わず、風呂場は地下にあった。

 換気はどうしているのか。24時間、いつでも使用可能な風呂水の循環経路はどうなっているのか、などは家族の誰も気にしない。風呂水は、いつも清潔だし、今まで事故なども起きていないのだから。


 百合香は地下の風呂場にあるバスタブが気に入っていた。よく外国の映画に出てくるような白いホーロー製の床に置くタイプで、四隅に金色の猫足がついているオシャレなデザインだからだ。でも、横には【RINNAI】と国産メーカーの名前が書いてある。



「あ~、いい気持ち。でも、英語教本もちょっとは、自分で読んでおかないと、先生に質問された時に困るだろうし」


 バスタブの湯につかりながら、風呂に持ち込んだ”ナイチンゲールと紅い薔薇”のページを濡らさないよう、気を配りながら繰ってゆく。


 やっぱり、知らない英単語がたくさんある。これは京ちゃんのメモがあっても、かなりヤバい。

 ところが、百合香ははたと目を見開き、もう一度、最初から本をめくってみた。


 ちょ、ちょっと、待ってよ。


”全13ぺージ”の教本の”4ページ目”と、”8ページ目”の挿絵が……


「抜け落ちてる。ナイチンゲールの姿だけがっ」


 その時、地下の風呂場が小刻みに揺れだした。


「地震っ……?」


 最初に来たのは小さなカタカタした揺れ。だが、数秒後、

 

「ひゃああああっ!!」


 ゆらゆらゆらっと、風呂の床が大揺れに揺れた。

 百合香の入っていたバスタブが、つるつると横滑る。かと思った瞬間に、衝撃音が、がらがらがらと鳴り響いた。

 そして、風呂場の壁が崩れた。


「京ちゃああんんっ! 助けてぇぇ!!」


 百合香を乗せたバスタブは、風呂の壁を突き破り、隣に位置していた”図書館の地下”へ滑り込んでいったのだった。


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