第2話 森と狼
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部屋に入ってきた男の背後をとった。相手の首にナイフをあて、もう片方の手で扉の鍵を閉める。内側からならば鍵はいらない。
無音の地下に、鍵が閉まる音が響いた。相手はぴくりとも動かない。緊張感が伝わってくる。
「地下ってのは音が響くもんなんだよな。丸聞こえだったぞ、お前の独り言」
あまり一人でぺらぺらしゃべるのは感心しない。どこで誰がきいているか分からないし、そのことで思いもよらない結果を生む可能性もある。こんな風に。
「出口のことか…」
相手が静かにつぶやく。思ったより相手の声はしっかりしていた。普通、暗闇で得体のしれない奴に後ろから刃物を当てられたら、もう少し混乱するものなのだが。貴族故の風格か、経験があるのか。
「ご名答。隠し出口があるんだろ、この部屋は」
最初は、さっさとこの地下から出て逃げるつもりだった。屋敷から出る前に書斎に忍び込むなりなんなりして、現金を盗み出すのも悪くない。だが、隠し出口があるなら知っておいた方が良いだろう。情報を売れば金になる。貴族の豪邸に正門以外の出入り口があるとなれば、知りたいやつはいくらでもいるだろう。封鎖するのにも多少時間がかかるし、情報にはかなりの価値がある。
「分かった。場所を教えればいいんだろう。でも、その前に明かりをつけないか。流石にこう暗くては、何も見えない」
オリクは、相手に当てていたナイフを離した。もし逃げようとしたとしても、扉側には自分がいるのでこちらからは逃げられない。隠し出口から逃げるのは可能だが、この真っ暗な空間で自分を振り切れるとは思えないし、明かりをともしてから逃げれば結局隠し出口の場所は分かる。もともと相手に危害を加えるつもりはないので、逃げられたら逃げられたでそのままこの屋敷から出ればいい。
がちゃがちゃと物をあさる音がする。しばらくして、こちらに話かけてきた。
「君、ここに入る時にランプを使わなかったかい?ここにあったマッチがないのだが」
平然とした声に聞こえた。特に敵意も恐怖も感じない。図太い精神の持ち主なのか、ただのんきなのか。
マッチは自分が持っている。火をつけた後、そのままポケットに入れたのだ。オリクは、無言でテーブルの方にマッチを放り投げた。しばらくして、オレンジ色の光が灯った。部屋をしっかり照らすほどではないが、とりあえずどこに何があるかは分かる。
光に照らされた相手の男は、品の良い服と短めのマントを羽織った、貴族の青年だった。何となくそうではないかとは思っていたのだが、光越しに見て確信した。先ほど当主に怒鳴られていた男と同一人物だ。そして今気づいたのだが、町で小袋を盗んだ相手とも同じ男だった。驚くべき偶然だ。
相手の青年と目が合う。まっすぐな瞳から、育ちの良さが感じ取れた。さぞかし潔白な経歴の持ち主なのだろう。『間違った』ことはしてこなかった人間だ。こんな所で人様の家に侵入して、家主の息子を脅すような真似をしている自分とは、天と地ほども差がある。
青年は傍らに置いてあった剣を取った。あの重い剣を軽々と片手で持ち上げる。剣技の本の持ち主は、この青年なのかもしれない。
斬りかかってくるかと、少し身構えたが、青年は剣を抜かずに腰に括り付けた。
「よし、行こうか」
青年はランプを片手に持ってそう言った。視線がぶつかる。
「ついて来てくれ。逃げたりはしないさ。反抗もしない。案内するよ。もともと私もここから出るつもりだったし」
人のよさそうな笑みを浮かべて、青年はそんなことを言う。こいつは何を考えているのだろうか。何か企んでいるのかと疑ってもみたが、そんな風には見えない。しかし、当主に怒鳴られていた時の態度を思い出すと、感情を隠すのが上手い人間なのかもしれない。油断ならない相手だ。
隙を見せないよう注意して、相手に近付いた。
「ここにあるんだよ。凄いと思わないかい?」
青年は壁に掛かっていた絵画を外しながら言った。どこか楽しそうな声音で、ほんの少し自慢げでもあった。子供が自分の発見を、喜んで誰かに報告する時のような無邪気さを含んでいる。これも演技なのだろうか。
絵があった壁は、特に変わったところがなさそうだったが、ランプの光で照らすと少し影ができていた。微かに窪みがあるようだった。青年が左手を壁に押し当てた。レンガか何かがこすれるような音がして、壁が奥の方へ押し出される。見えてきた床にはぽっかりと穴が開いていて、はしごがつるしてあった。底は深くないようだ。
「何年か前に、偶然見つけたんだ。ここを知っているのは、今の所ご先祖様と私と君だけだな」
青年は、そう言って笑った。この仕掛けを見つけるというのは、確かに凄い。しかも青年はおそらく、隠し出口や地下に関することにはど素人だろう。
「他の家族は知らないのか」
そう尋ねると、少し寂し気に微笑んで、
「皆、地下に興味がないんだ。見ての通りがらくたばかりだからね。まあ地下だから邪魔だということは無いが。…私と違って」
心からの言葉だと思えた。ランプの光に照らされてか、青年の顔の影は濃く見える。何と言っていいか分からず、そのまま黙っていると、青年は普通の笑顔に戻って言った。
「ああ、すまない。私のことはどうでもいいな。行こうか」
青年ははしごを降り始める。地下の奥深く。ここからは未知の場所だ。罠があったとしたら、逃げ切れないかもしれない。そもそも、この先が本当に地下通路なのか。もしや、はめようとしているのではないか。
「こっちだ。奥に進めば階段がある」
はしごを降り切った青年がそう言った。相変わらず、その瞳はまっすぐだ。
もともとノーリスクでできることなど、たかが知れているのだ。多少の思い切りは、生きるために必要だ。ましてやこんな人生、いつ終えたって大して変わらないだろう。ここは覚悟を決めるべきだ。
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相手がはしごを降り切るのを見届けて、床に置いたランプを持ち直した。ソドントは、ランプを持ち上げて相手に向き直った。光に照らされた相手の男は、暗い色の髪を下の方で一つにまとめた、細身の青年だ。ランプの光だけなのでよく分からないが、全体的に黒っぽい服をきているようだ。
年齢はおそらく自分とさほど変わらない。でも、積み上げてきたものはきっと全然違うのだろう。隙の無い身のこなしと、落ち着き払った冷静な態度は、今まで自分が関わってきた、どんな人間にもないものだった。
「お前が先に行けよ。案内するんだろ?」
青年がナイフを弄びながら言う。使い慣れていることは一目瞭然だ。自由自在にくるくる回るナイフを感心して見ていたら、手を止めて訝しげな顔をされた。慌てて進行方向に向き直る。足元を照らしながら歩いていくと、やがて上り階段に差し掛かった。
「ここから階段だ。手すりはないから気を付けてくれ」
返事はないが、後ろから足音はするし、ちゃんと居るようだ。
階段を上っていく。地下の静けさのなか、二人分の足音が響き渡る。変な話だが、一人の時よりも安心できた。たとえ、それが出合い頭に刃物を向けてきた人物だとしても。
最初に目があった時、なぜか嫌な感じがしなかった。家に入ってきたのが良からぬ理由からなのは、おそらく間違いない。もしかしたら、地下を出たら口封じに殺すつもりなのかもしれない。それくらいの危険は承知している。それでも、嫌いになれない何かが、彼にはある気がした。一周回って信用できる気がする。殺すにしてもすっぱりやってくれそうな、性格の良さだろうか。
「そうだ、君。猫を見なかったかい?」
何か話したくて、声を掛けた。
「黒くて、しっぽに緑色の布みたいなものを結んでいる猫なのだが」
「猫?さあ、知らないな」
相手の返事はそっけなかった。だが、特別拒絶している感じでもない。
「そうか…。地下室の方へ走っていくのを見かけたのだけれど。大丈夫だろうか」
ソドントがそう言うと、彼は興味なさそうに答える。
「さあな。暗くて分からなかったが、あのごちゃごちゃした地下室のどっかに隠れてたんじゃないか」
たしかにそうかもしれない。しかしそうだとすると、無事に出られるだろうか。森への出口は石の蓋で閉じられている。猫が開けるのは無理だろう。しかし、あの猫がどこからか入ってきたのは事実だ。猫なら通れる穴か何かがあるのかもしれない。
「地下にあるものが心配か?猫なんかに荒らされちゃかなわないもんな」
後ろから、そんな声が聞こえた。青年の声だ。表情は分からないが、微かに冷たさが感じられた。
「そんなに大事なものがあるわけではないから、荒らされるのは特に問題ないのだが。ちゃんと出られるかと思ってね。閉じ込められたら可哀そうだろう?」
そう答えると、少し間を開けてから彼が言った。
「地下が荒れるのは気にしないなら、猫のことも気にしなくていいだろ。その猫が地下に閉じ込められようが、そこで餓死しようが、お前には関係ない。こんな所に自分から入り込んだそいつが悪いんだ。それが自由の代償というやつだろ。まあ、死体は邪魔かもしれないが」
なかなか冷たいことを言う。猫に恨みでもあるのだろうか。
「そうは言っても、誤って入ってしまったのかもしれないし。真っ暗な地下にたった一匹なんて、なんだか哀しいじゃないか」
「猫は群れる動物じゃないだろ。死ぬときにも、大抵仲間から姿を隠すらしいじゃないか」
「そうかもしれないが、死にそうなときに身を隠そうと思える相手がいないような場所で死ぬのは、悲しすぎるよ。それに、いくら自分のせいだといっても、死んでいい理由にはならない。助けられるのなら、何でも助けたいんだ」
そう思っていなければ、自分の生が揺らぎそうだった。結局は自分の為だ。最悪な人間だとつくづく思う。でも、猫に死んでほしくないという気持ちは本当だ。
「甘いことを言うやつだな」
青年は一言、そう言った。言葉とは裏腹に、その声は少し和らいだような気がした。
やがて、出口にたどり着いた。外へ出て蓋を閉める時、少しだけ開けておいた。猫が出入りできるくらいの隙間。一応防犯のために、蓋を葉っぱで隠しておく。猫がちゃんと出られますように。
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隠し通路を抜けた先は、木々の茂る森の中だった。どんな用途で森の中に続く隠し出口を作ったのかは分からないが、頻繁に利用されている気配はない。そもそも、人目を避けて家を出るなら、こんな所に出口を作っては不便だ。
オリクは、ランプを持って自分の前に立つ青年を見た。まだ明るい森の中ではランプは必要ないと思うが、明かりをつけたままにしている。ついているのを忘れているのか、気にもしていないのか。
亜麻色の、少し癖がある髪の毛がふわっと揺れた。所作も身なりも、生まれの良さを物語っている。
「おい」
呼びかけると、青年は振り向いた。ブラウンの瞳と目が合う。
「もう帰っていいぞ。ここまで来れば追っ手が来ても逃げ切れるしな」
だから、捕まえようとしても意味がないぞ、という意味を込めてそう言ったのだが、相手の青年はなぜかこちらに笑いかけた。
「帰る気はないよ。言っただろう、私もここから出るつもりだった、と」
何をする気か知らないが、ここは町はずれの森林のはずだ。ここから町に出るよりは、家に戻ってからの方が絶対に早い。崖を回り道をしなくてはいけないからだ。
少なくとも、自分の家に忍び込んで、ナイフで脅してきた男と一緒に居る理由は全くない。もし自分なら即座に距離を取ろうとする。それをこの青年は、案内しながら雑談したり、帰って良いと言っても帰ろうとしなかったり、どういうつもりだろう。
「君は、ここから町までの道を知っているかい?」
やはり、町へ行きたいらしい。
「町ならお前の家から行った方が早いだろ」
そう言うと、相手の青年は強く言い切った。
「それでは意味がない。家の人や門番にも知られずに出なくてはいけなかったんだ」
決意は固いようだった。誰にも言わずに家を出てきたらしいが、その理由は分からない。当主にひどく怒鳴られていたことが関係しているのかもしれない。
「私はこの森の出口を知らないんだ。君について行ってもいいかな」
「…お前、正気か?」
確かに、自分の目的地も町だ。しかし、普通に考えてこんな申し出をしてくるだろうか。本当に家を出るつもりだったなら、森の出口を知らないなんてことあるだろうか。読めない男だ。それとも、意図なんてないのか。
「頼むよ。迷惑はかけないから」
青年は申し訳なさそうに言う。迷惑とかいう問題ではない。
「お前さ」
そこで、ナイフを取り出した。
「立場、分かってる?」
相手の前で、ナイフをちらつかせる。銀色の、研ぎ澄まされた刃が光を反射してギラリと光る。だが、青年は顔色も変えずに立ったままだ。憶する様子は見せない。相手が自分に危害を加えないと確信しているのか、もしくは勝てる自信があるのか。だとするなら、その根拠はなにか。
貴族の坊ちゃんの、世間知らずな甘い考えか。
「もしも、」
青年が口を開いた。真剣なまなざしで、こちらをまっすぐ見ている。
「もしもどうしても邪魔だと思ったら」
殺してくれてもいいから。そのナイフで。
可能性はもう一つあった。勝てる自信も、相手を見切れたわけでも、世間知らずでもないなら、それはもう、死んでも良いと思えるほど捨て鉢な思いでここに居る、ということだ。
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ソドントは、青年の後について行った。自分でもどうかしていると思う。
殺してもいい、だなんて。相手もさぞかし変に感じただろう。しかし、
家には戻りたくなかった。それならここで死んだ方がましだとすら思う。
「ここに来たことがあるのかい?」
青年の足取りはしっかりしている。方向が分かっているのだろう。森の中なのによく分かるなぁと、感心した。
「まぁな」
不愛想な返事だ。鬱陶しいと思われているのかもしれない。そう思ってしばらく黙っていたが、結局話しかけていた。
「そういえば、どうして地下の入り口が分かったんだい?家でも限られた人しか知らないのに」
「ダイニングの扉が開きっぱなしになってたからな。しかも椅子が一脚だけ出ていたし」
自分が家に帰ったあと、地下に行く直前で思いとどまりダイニングを出た、まさにその後、彼は地下に入ったのか。しかし、家には使用人もいる。気づかれなかったのだろうか。
「そんなことで気づくのか。すごいな、君は」
そう言うと、青年は何でもないという風に言った。
「あんなにあからさまなら誰でも気づくだろ。あれじゃあ隠し部屋の意味がない」
「それをやったのは私なんだが」
「じゃあお前が無用心なんだな。もう少し気を付けた方がいいぞ」
特に優しげでも親しげでもないが、その話し方には好感が持てた。父のような刺々しさはないし、ルドルのようにあからさまに見下した態度をとることもない。使用人や町の人の、どこかよそよそしい話し方とも違う。
「そうだね。また誰かが忍び込んできたら困る。今度は君より凶悪な…そうだな、暗殺組織とか」
前に、ある貴族の一家が暗殺されかけた、という話を聞いた。詳しくは知らないが、仲間割れをしたとか、その家で雇っていた人物が追い払ったとか、捕まえて処刑したとか、様々なうわさが流れた。かなりあやふやな情報だ。出所もよく分からない。
「まあ居るかどうかも分からないが」
軽くそう言うと、青年が静かに言った。
「いてもおかしくないとは思うけどな。貴族や国の要人を殺したい奴はいくらでもいるだろ。お前だって、気を付けた方が良いぞ。一流貴族の長男なんだろ」
貴族の長男。その言葉は、胸にずしりと重くのしかかる。相手は知らないのだろうが、それは傷に直接触れるような事実なのだ。しかし、こちらから自分は長男だ、と言っただろうか。町の人間ならすぐにわかるだろうが、どことなく異国風な雰囲気な彼は、おそらくここの住民ではない。
まあ、調べる方法はいくらでもあるだろうが。
そこで、まだ相手の名前も聞いていないことを思い出す。町までの付き合いかもしれないが、これも縁だ。
「なぁ、君の名前を聞いてもいいかな。私はソドント・テグロフというのだけれど」
そう言った時、近くの茂みがガサガサと音をたてた。振り向くと、姿を現したのは黒い毛皮の動物だった。犬、いやオオカミか。この森にオオカミがいたなんて。そう思っていると、周りの茂みからも複数のオオカミが出てきた。
「囲まれたか…」
青年のつぶやきの通り、周囲はぎらついた目と唸り声に囲まれていた。
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面倒だな。今日は本当についてない。
オリクは、周りを囲む狼の群れを見回した。あっという間に集まったところを見ると、ここは縄張りだったのかもしれない。狼たちは、追い払おうというよりは喰い殺そうとするような、敵意むき出しの顔だった。
隣にいる青年、ソドントと言ったか。見れば、剣を抜いていた。相手の殺伐とした雰囲気を感じ取ったらしい。
突如、群れの中の一匹が跳びかかってきた。さっと避けてナイフを抜く。素早く突き出し首を狙うが、狼は身をよじらせて躱した。しかし、切った感触はある。浅いだろうが、傷は負わせてはいるだろう。
血の臭いが鼻をかすめる。それが合図だったかのように、狼たちが一斉に襲い掛かってきた。二本目のナイフを取り出して構えたとき、目の前で炎が上がった。ソドントが持っていたランプを投げたらしい。
「動物は火を怖がると聞いたことがあってね」
狼は一瞬ひるんだようだったが、すぐにその炎を避けてこちらに迫ってくる。
「…あまり効果はなかったようだな」
そう言いながら、ソドントは両手で剣を構えなおし、喰いついて来ようとする狼を振り払った。狼が飛び退く。扱い方は慣れている感じだが、実戦経験が無いことは見ていてわかる。あんなに全力で振っていては体力がもたない。
オリクは、背後から来る狼の応戦をした。だが、群れは結構大きいようで、防ぐだけでも一苦労だ。人ならまだしも動物の群れは相手が悪い。
森の草木を燃やしながら、炎は広がっていく。その炎の内側にも外側にも狼は群れを成している。数が増えている気さえする。思ったよりも大きな群れらしい。前にこの森を通った時には、一匹も見かけなかったのだが。
かなりの勢いで襲い掛かってくる狼たちに押されて、じりじりと後退する。ソドントの背と自分の背中が触れる。背中越しに、息が上がっているのが分かった。
背中合わせの自分たちを、狼の群れが囲んでいる。
「君は全然呼吸が乱れていないな。流石だ」
のんきそうな言い方ではあったが、緊張が隠しきれていない。少し声が揺らいでいる。限界が近いな、と感じた。
ソドントの声を聞いて、オリクは思案していた。実を言うなら、自分一人ならば割と簡単にここから逃げ出せる。だが、二人で逃げるのは難しい。完全に囲まれているこの状況では、隙をつくにしても素早い動きが不可欠だ。とてもじゃないが他人の面倒まで見ている余裕はない。
そもそも、自分がこの貴族の青年を助ける義理は無いのだ。今日偶々出会っただけで、ここにこうして一緒にいるのも、向こうが勝手についてきたことが理由だ。仲間でも友人でもないのだから、こいつが死んでも気負う必要はない。
下手な同情は命取りだ。それくらい、経験上分かっている。ただでさえ本調子ではないのだし、無茶はしない方が良い。ただ、ここで見捨てるのが気分の良いものでないのは確かだった。少しは会話をして、名前まで知ってしまった相手だ。
なかなか踏ん切りがつかず、苛立たしげに舌打ちをする。自分の甘さに対して憤りを感じた。なにが一番良い選択かは分かっているのに、行動に移せないでいる。裏切るのが嫌なのだ。
何をいまさら、と自嘲気味に思う。裏切って捨ててきたのは自分じゃないか。独りで生きていく、とあの時決めたのに。
狼たちは勝利を確信して余裕をみせている。心なしかニヤついているようにすら見える。人間臭い獣だ。
「逃げてくれ」
唐突に、ソドントがそう言った。静かだが、しっかりした声だ。
「は?」
「君一人ならなんとかなるだろう。私には無理だが、君は身のこなしが軽い。私でも多少の時間稼ぎにはなるさ。だから、君だけでも逃げてくれ」
予想外の言葉に面食らった。ソドントの声は、やけに清々しい。不安も悲しさも恐怖も感じない。ある種の覚悟が感じられた。
「お前、何言って…」
「良いんだ。どうせ出来損ないの長男だ。急に居なくなったって、そこまで問題にならないさ。私が死ねば、弟が跡継ぎだ。父は喜ぶかもしれない。一種の親孝行だな」
冗談のように言っているが、書斎での一件を見ていたこちらからすれば、痛々しさしか感じない。もちろん相手はそんなこと知らないだろうが。
「分かっていたさ。そんなに上手くはいかないことくらい。私だってそこまで楽観的じゃない。いつかはこんな時が来るとは思っていたけれど、まさかこんなに早いとはね。馬鹿な話だ。これでは本当に逃げただけだ。ルドルの言った通りだったな」
こちらに話しかけるというよりは、自分自身に語り掛けるような口調だった。狼たちはなぜか手を出してこない。じりじりと近づいて、この状況を楽しんでいるようだ。本当に腹立たしい。
「でも」
ソドントが言った。一体どんな表情をしているのか。
「何もできないのは嫌なんだ。どうせ終わってしまうなら、誰かの、いや君の」
最後の方は聞いていなかった。後方で燃え上がる炎の音と熱。こちらを舐めたような顔をした狼どもの群れ。頭上から降り注ぐ、頼りなくも確かにある木漏れ日。やれるか?
「馬鹿にするなよ、俺は」
ソドントを押しのけ、場所を入れ替えた。瞬間、後方から襲い掛かってきた狼に、そちらを向かずにナイフを投げる。間もなくどさりと音がした。
一瞬、狼どもが動きを止める。目の前には黒い群れと揺らぐ炎。
息をつめて意識を集中させる。ざわざわと草木が震えた。
もっと、もっとだ。もっと強く。胸を鷲掴みにされるような苦しさを感じたが、さらに力を込める。竜巻のような強い風が目の前で起こった。
木々が揺れ動き、葉が舞い散る。狼たちが急に襲い掛かってきた。危機感を覚え始めたのだろう。さらにぐっと力を込めた。心臓が激しく波打って、鋭く痛む。体調がよくない状態で使うのはやはりまずかったか。だが、後戻りはできない。強い風で、牙をむく狼を吹き飛ばした。
心拍数がさらに上がり、息苦しい。煩いくらいの鼓動を振り払うように、固く目を閉じる。
「これは一体…」
戸惑うような青年の声が聞こえる。近いような遠いような。苦しさで頭が働かない。これ以上は本当にまずいかもしれない、という不安が脳裏をかすめたが、狼の気配がそれを打ち消す。
目を開けた。狼がこちらに向かってきている。少し引き付け、全身の力一気に放出した。刹那、暴風がうなりをあげて炎に突っ込む。狼たちは火の中に放り込まれて、悲鳴のような声をあげた。風にあおられた炎は、向こう側にいる群れまでも飲み込む。ふっと気が遠くなるような感じがしたが、どうにか踏ん張り後ろに居る青年の腕を掴む。ひんやりと冷たいように感じた。
「お、おい…」
有無を言わせず、そのまま引っ張って炎のなかに突っ込んだ。鋭く強い風を進行方向に吹かせ、炎の中に道を作る。
「これは君が?」
答えている余裕はない。一心不乱に走り抜けた。全身がきしむように痛み、呼吸が上手くできない。まっすぐ走れているのかどうかも、よく分からなかった。
いつのまにか開けた場所に出ていた。どこをどう走ったのか、よく覚えていない。掴んでいた手を放す。全身が沸騰するような、激しい熱さを感じていた。
「大丈夫かい?汗びっしょりだが」
心配そうな表情で青年が声を掛けてくる。ゆっくり呼吸を整えて、できるだけ平然とした声で言った。
「ああ。それより、ここまで来ればもう大丈夫だろ。この先まっすぐ行けば町に出る」
正直、もう限界だった。視界が揺らいで、立っているのもやっとだ。気を抜いたらすぐに気を失ってしまいそうだった。しかし、こんな所で倒れる訳にはいかない。
「君はどうするんだ。町へは行かないのかい?」
「俺は…町に用はない」
この状態で町まで辿り着けるとは思えなかった。一緒に行っても迷惑になる。厄介になるのはごめんだ。
「それならどこへ行くつもりなんだ。早く森を出た方が良いと思うけれど」
「ここから少し離れた場所に、別の所に出る道がある」
別の道など、本当は知らなかった。あるのかどうかも怪しい。
「離れた場所…?別の所ってなんだ。君、本当に大丈夫なのか」
困惑した表情をこちらに向ける、この青年は、たしか。
「ソドント」
意識が朦朧としてきた。自分が何をしているのかも、段々と分からなくなっていく。煩い耳鳴りで、自分の声が上手く聞こえない。
「お前が何をする気で家を出たのか知らないが、そんなに簡単に諦めるなよ」
無理をして、笑って見せる。
「未完成なものを出来損ないとは言わないぜ。多分、お前ならなんとかなるよ」
俺と違って、と続けたかったが、やめておく。ソドントは険しい表情でこちらを見つめていた。まぁ、こんな得体のしれない奴に励まされても嬉しくないか。
「じゃあな」
そう言って、反対方向に歩き始めた。森の中に戻る道だ。さっきの狼に喰われて死ぬか、その前に力尽きて死ぬかの二つに一つ。でも、せめてソドントから見えるところまではどうにか歩いて行こう、と思った。
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「待ってくれ!」
ソドントは、大声で呼び止めた。しかし青年は立ち止まらずに言う。
「俺みたいな奴と、あまり関わらないほうが良い。命取りだ」
それは、拒絶の言葉とも自虐の言葉ともとれた。
「その離れた場所とやらから出るよりも、町に行った方が安全だ。なぜわざわざ森に戻るような事をするんだ!」
「お前には関係ないだろ」
ぴしゃりと言い放つ。青年はこちらに見向きもせず、遠ざかっていく。
追うべきなのか、追っても良いのだろうか。迷っているうちに、青年の姿は見えなくなっていた。
「どうして」
どうして、彼は自分を助けたのだろう。町へ行かないなら、なぜわざわざここまで走って連れてきてくれたのだろうか。あんな目にあったのに、もう一度森へ入るなんておかしいではないか。そんなに自分と一緒に居たくないのか。そんなに嫌われているのだろうか。
それなら、さっきの言葉の意図は?嫌いな相手に微笑みかけるようなことをするだろうか。さっぱり意味が分からない。
けれど、なにか引っかかる。そういえば腕を掴まれたとき、その手が異常に熱かったような気がする。その前にも、急に呼吸が荒くなっていた。逃げる時に突然巻き起こった突風は、彼が作り出したものだろう。いわゆる魔法だ。
仕組みはよく知らないが、たしか自身のエネルギーを魔力に変えて使う、と聞いたことがある。使いすぎれば体に響くのではないか。
「まさか、命の危険が?」
息は多少上がっていたが、そこまで深刻な様子には見えなかった。意図的に悟らせないようにしていたのか。本当は、離れた場所にある別の所に出る道なんてないのではないか。そうだとすれば、今森に戻るのは死にに行くようなものだ。
「なぜ助けを求めようとしないんだ」
森へ向かって走り出した。まだそう遠くへは行っていないはずだ。木々の揺れに合わせて、隙間から差す光も揺れる。オオカミの遠吠えがどこかで聞こえた気がした。
早く見つけ出さないと。手遅れになる前に。
木々の間を通り抜け、茂みをかき分けて進む。どこに居るのだろう。全く見つからない。
しばらく探したが、あの青年らしき姿はどこにもなかった。焦りと悔しさが綯交ぜになった感情が、胸の奥で疼く。木の根に足を取られ、転んだ。頭の中で、父やルドルの嘲笑するような声が聞こえた気がした。何もできないのか。本当に何も。
そう簡単に諦めるなよ。突然、あの青年の声が蘇る。未完成なものを出来損ないとは言わない、か。ふっと頬が緩む。大丈夫、自分ならできる。
そう言い聞かせ、また立ち上がった。なんとかなる。いや、なんとかしてみせるさ。
日が傾きかけている。太陽が沈んだら、探し出すことはおろか森からでることすらままならなくなる。そうなったら、オオカミの餌食になること間違いなしだ。そう思っていると、ガサガサと音がした。オオカミか、あの青年か、他の動物か。そっと近づくと、黒いものが視界に入る。残念ながらオオカミだった。
三匹ほどいるようで、何やら集まっている。離れようとしたが、その中心に何か居るらしいのを認めて、はっとする。あれはまさか。
息をつめて剣を抜いた。しかし、オオカミたちはこちらに気づいたらしい。やはり鼻が利くようだ。こうなれば形振り構っていられない。走って一気に間合いを詰めた。一番近いオオカミに向かって剣を振り下ろす。俊敏な動きでそれをよけたオオカミは、他の二匹と一緒に襲い掛かってきた。
剣を水平に薙いでそれを避け、さっと飛び退く。
あの青年ほど速くは動けないが、悪くない。ここでやられるわけにはいかない。剣を握る手に力を込める。諦めてたまるか。
オオカミは、憎悪のような感情が見え隠れする瞳でこちらを睨み付けていた。相当怒っているようだ。
「悪く思わないでくれ。こちらも必死なんだ」
伝わったのか、そうでないのか。一斉に飛びかかってきた。ソドントは、それを勢いよく振り払った。
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薄ぼんやりとした光の中で、誰かの声が聞こえた。
「やあ、初めまして!今日からよろしくね。僕は…」
少年の声がする。名乗ったようだが、その名前は聞き取れなかった。
「おいおい、急にまくしたてるなよ。ほら、びっくりしてるじゃないか」
別の少年がたしなめるように言う。確かに知っている人物だが、はっきり思い出せない。
「あ、ごめんね?けどさぁ、嬉しくて。仲間が増えるのがさ」
楽し気な声で少年が言う。微かな胸の痛みを感じた。
「そうだ、ねぇ、君の名前を聞いても良いかな?」
ざあっと、自分に闇が迫ってくるような感覚に襲われる。途端に足元の地面が突然消えたような浮遊感を覚えた。不安が全身を包み込む。
どこまでも落ちていく。もう這い上がることができない、奈落の底へ。声が出せない。息が詰まるような苦しさを感じた。
目の前が赤く染まる。体が震えておもだるい。強い光を感じ、目を開けた。くすんだ色の草が目に飛び込んできた。さわさわと小気味の良い音が聞こえる。
嫌な夢だったな。何となくそう思うのだが、どんな夢だったかはよく覚えていない。涼風が体にあたって寒さを感じた。
ゆっくりと体を起こす。鉛の鎖を体に巻き付けているような感覚だ。熱を帯びているのに、ひどく悪寒がする。
ずるっと何かが落ちた。白い布だ。自分の上に掛けられていたらしい。どこかで見たような気がするが、霞がかったようにはっきりしない頭では思い出せなかった。
歩き出してみると、上手く力が入らず、ふらふらと覚束ない足取りになった。体を引きずるように、無理やり足を動かす。こんな開けた場所に一人で居続けるよりは移動した方が良いように思えた。
はたと足を止める。そういえばここはどこだったろう。見覚えのある景色なのだが、なんとなく違和感を覚える。今までなにをしていたのだっけ。
確か、森にいたような。森で…、ああそうだ。狼に襲われたんだ。それで、魔法を使ったおかげでこんなことになっている。もともと、ちゃんとしたものも食べていなかったし、しっかり寝ていたとも言い難い生活をしていた。体力のない状態で魔法を使うことは、死に直結する。そんなことは分かっていた。それでも使った理由は。
少し強めの風が吹いた。先ほどの布が飛んでくる。自分に被さってきたその布は、花の印が描かれていた。五枚の花弁を持つ青い花が二つ。
勿忘草によく似た、テグロフ家の家紋。
「目が覚めていたのか」
頭上から声がした。マントから這い出し、上を見上げる。眩しい日の光と、逆光で暗く見える青年の顔。
「君だったんだな。あの時の黒い猫は」
猫の目で見るソドントは、周りの景色同様色あせて見えたが、疲れた顔をしつつもどこか嬉しそうだった。
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しっぽに緑色の布を結んだ、真っ黒い猫。こちらに向ける瞳は、緑と茶色のグラデーションが美しい、きれいな色だった。
「良かった。もう目覚めないかと、心配していたんだ」
黒猫に、そう笑いかけた。猫はこちらをじっと見つめている。自分が掛けた白いマントを、体の半分あたりまで被っている。おそらく今起きたばかりなのだろう。
オオカミに囲まれていたのは、この黒い猫だった。ソドントは、オオカミを打ち倒すことはできなかったが、粘ってどうにか追い払った。その時、多少噛み付かれたのだが、そこまで大きな傷は作らずに済んだ。
猫を見たとき、はっとした。尻尾に結んだ緑色の布から、地下の入り口で会った猫と同じなのは明らかだ。最初は、地下から出られたところをオオカミに襲われたのだと思った。
しかし、様子がおかしい。猫は気を失っているようだったが、特に怪我をしているわけではないようだった。オオカミを追い払った後に、その猫に触れてみると、妙に熱い。あの青年に腕を掴まれたときに感じた熱さと似ていた。
その時、何となくだが確かに感じた。なにか、あの青年が纏っていた気配のようなものを、この猫に。
ああ、この猫はあの青年なのだ、と直感的に感じた。普通なら考えもしないのだろうが、それはすんなりと受け入れられることだった。
実際、そう考えれば合点のいくことばかりだ。あの青年がどうやって家に侵入したのか、どうして家の使用人に見つからずに地下まで入ってこられたのか。何のことは無い、彼は猫の姿で、正門から入ったのだ。人は難しいだろうが、猫ならば門番の目を盗んで侵入することも可能だろう。室内でも同様に、猫になって動いていたなら、気付かれずに行動できる。
最後にこの黒い猫を見かけたのは、地下の入り口。あの時、彼は地下室を出ようとしていたのだろう。そこで思いがけず自分が入ってきたので、戻らざるを得なかった。それで、少々手荒な真似をして出口まで案内させたのだ。
彼と黒猫が同じだということを確信して、とりあえず気を失っている猫の姿の彼を抱き上げて走った。その頃には日が沈みかけていて、森はオレンジ色に染まっていた。森の出口が分からず散々迷って、遂に日が暮れてしまったころにやっと、開けた場所に出られた。町へ行こうと歩いたのだが、夜が更けて周りがよく見えず、進めなくなってしまったので、この場所で夜を明かすことにした。
ソドントは猫の隣に座った。猫は逃げようとはしなかったが、完全に気を許している風には見えない。
「どこか、痛いところはないかい?オオカミに囲まれているようだったからな。とりあえず、傷はないようだが。あの牙は、かなり鋭いからな」
無意識に腕を押さえていた。噛みつかれた傷が、服に赤い染みを作っていた。じりじりと熱を持った痛みを感じる。早く適切な手当をしないとまずいかな、とも思ったが、今は何も持ち合わせていない。旅の準備は町で買いそろえようと思っていたので、大したものは持ってきていなかった。
「しかし、オオカミとはあんなにも凶暴なものなんだな。知らなかったよ」
知識としてその存在は知っていたし、肉食獣だということも分かってはいたが、実物を見るのは初めてだった。ましてや襲われるなんてことは、普通に暮らしていればまずない。
牙をむき出し、こちらを威嚇してくる様は、本で出てくるオオカミよりも数段恐ろしく感じた。しかも素早く、体力もある。
「三匹だったから何とかなったものの、数十匹に囲まれていたら終わりだったな。その三匹だって倒せたわけじゃないし」
空が綺麗に晴れ渡っている。聞こえるのはオオカミの遠吠えではなく、鳥のさえずりだ。気持ちのいい風が吹き、ほっとした気持ちにさせる。
「昨日はありがとう。君がいなかったら、一分ともたなかった。魔法、凄かったな。炎の中を走っているようだった」
目を閉じると、炎の色やオオカミの瞳が脳裏に浮かぶ。あの時死んでいたかもしれないのだと思うと、本当に助かったのだと実感する。
「しかし、猫になれる人間がいるとは思わなかったな」
「人間じゃない」
振り向くと、さっき猫がいた場所に青年が座っていた。少し息が荒い気がする。
「俺は魔物だ。人でも猫でもない」
何かの比喩で言っているのか、本気なのか。判断できないが、少なくとも冗談ではないようだ。
「魔物、というと、あの?」
青年はゆっくり頷き、言った。
「悪意を振り撒く禍々しい生き物…、化物だ」
その言葉は、どこか熱にうなされた譫言のようにも聞こえたが、それ以上に自らを貶めようとしているものに思えた。
⒘ 🔪⇒🐈
自分が魔物だということを、自ら人に打ち明けたのは、自分が記憶する限りは初めてだった。お前は人じゃないだろうと指摘されて、それを認めることはあったが、それすら今までに一、二回だ。
そうそうばれるものではない。なにしろ、人の時、猫の時はそれにしか見えないから、姿を変える所さえ見られなければいい。魔物どうしだって区別はつかない。
魔物は大体、その事実を隠して生きている。魔物というのは基本的に嫌われる種族で、特にこの国ではそれが酷い。そもそもの原因は、この国でかなり広く信仰されている、拝水教が魔物を最も不浄なものとして忌み嫌っていることなのだが、いまや拝水教徒でなくても魔物をひどく嫌う傾向にある。
なかには魔物だと分かった時点で殺しにかかってくる物騒な人間もいる。そうでなくても大抵の人間は魔物を避ける。おかげでこの国では魔物自体が圧倒的少数派だ。
だから、今目の前にいる人間の青年も、魔物だと分かれば離れていくと思った。しかし、そうはならなかった。
「魔物かぁ。そうか、すごいな」
のんきそうな声で、ソドントは言った。全く動じていない。さらには、
「魔物というのは猫になれるのか。いいなあ、楽しそうだ」
などと言って笑った。
「お前、魔物ってなんだか知らないのか」
「いや、本で読んだことならあるよ。生まれながらにして悪意を持った生き物だとか、禍々しい邪気を放つだとか。会うのは初めてだけど」
この国での拝水教は、多大な権力を持っている。聖都エルブという拝水教の領土が、この国の南西に大都市として存在するほどには。王家は宗教に関しては中立を保っており、拝水教を信仰しているわけではないが、エルブの主要産業は出版業と製紙業だ。つまり、王家の後押しが無くとも、出版を牛耳る拝水教は影響力は強く、出版物の多くに拝水教の思想が反映される。そして、とかく魔物という種は、小説であろうが教養書であろうが、この国の出版物上では迫害されがちだ。
ソドントは、そういう常識の中で生きてきたのだ。
「それなら」
「でも、それは本に書かれた魔物の姿であって、君のことではないだろう。他の魔物のことは知らないが、少なくとも君がそんなに悪い人間じゃないのは分かるよ」
ソドントは、そう言ってこちらに微笑みかけた。そんなことを言うやつに会ったのは初めてだ。ふっと柔らかい息を吐く。相変わらず体は熱っぽいが、なぜだか少しマシになった気がする。
「だから、人間じゃないって」
「そうかい?私には人間に見えるけどな。ヒトではなかったとしても、人間ではあると思うよ」
その言葉の真意は分からなかったが、声の響きは優しげだった。そしてその裏には、どこか自嘲めいた色が隠れているような気もした。
「少なくとも、悪い人間じゃないわけはないだろ。お前の家に忍びこんでナイフを突きつけたんだぞ」
「けれど、結局助けてくれたじゃないか。まあ君にだって事情があるんだろう」
すました顔でそんなことを言う。おめでたい奴だ。危機管理がなってない。ある意味で、それが良いところ、であったりもするのかもしれないが。
「それより、お前はさっさと町に向かった方がいいんじゃないか。怪我してるんだろ」
ソドントの右腕に、赤い染みが見えた。三匹がどうとか言っていたから、オオカミと戦ってできた傷だろう。表情に疲れがにじんでいる。もしかしたら、昨夜は寝ていないのかもしれない。
「一緒に行こう、せっかくだから」
「いや、俺は」
「町に用はない、と言うのか。そんなことは無いはずだぞ。君、体調がよくないのだろう?熱があるんじゃないか。寝床は必要だろう」
ソドントが少し声を荒げる。なぜ怒っているのかはよく分からないが、仕方なく本当のことを言った。
「正直に言って、多分長い距離は歩けない。町まで辿り着けるとは思えない。だから」
俺は置いていけ、と言おうとしたのだが、言葉を遮られた。
「それなら私が町まで連れて行くよ。君は猫になれるのだろう?人を担いでいくより容易い」
なぜそんなことをする必要があるのか。
「何の得にもならないぞ。まともに動けもしない魔物なんか助けても」
「そういう問題ではないだろう。君を置いていくなんて、できない」
「なんでだよ」
まっすぐこちらを見据えて、ソドントは言った。
「君に死んでほしくないからだよ」
真剣な表情だった。その時、温かい風がふわりと吹いて、頬をくすぐった。これは、諦めるしかなさそうだ。苦笑しつつも、胸の奥でじんわりと温かさが広がる。
「オリクだ」
「えっ?」
「俺の名前。お前が聞いてきたんだろ」
ソドントは、きょとんとしていたが、すぐに微笑んで言った。
「そうか、オリクか。なかなかいい名前だな」
それは満足そうで、しかもよく分からない上から目線な物言いだった。悪い気はしない。
「よし、そろそろ出発しようか。傷は痛むし空腹だし疲れたし。店がなければ金は無意味だ」
威勢よくそう言って、ソドントは立ち上がった。そばにあった白いマントをさっと羽織る。
そういえば、こいつは貴族なんだったな。さすが、様になっている。
オリクは猫になって、ソドントに飛び乗ろうとしたが、ふらついて上手くいかなかった。そもそも跳ぶのが無理な気がする。
ソドントに軽々と持ち上げられた。
「うわっ、君熱いな。よくこんな状態で話せたものだ。でも猫の体温は人より高いとも…とはいえ、ここまでではないだろう」
そう言って、町へ続く上り坂を歩み始めた。太陽の光が、道を照らしている。
「森があんな危険な場所だったとはなあ。今後オオカミには気を付けよう」
相変わらず独り言が多いやつだ。初めて、猫の姿で会話できないのが不便に感じた。
黒白グレー 流川あずは @annkomoti
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