貴族の山小屋
ぐんぐん飛んでいくティフは、向かい風に目を細めて気持ち良さそうだった。
エナルは散々やった鬼ごっこのせいでへばってしまったし、カナルは何が楽しいのか一人で縄の上を駆け回っている。
(思い入れなんてないつもりだったんだけどな)
遠くに見える自分の故郷、エル・グランデを眺めて、イヴはため息をついた。
あそこで主人に会ってなかったら、あそこで捨てられなかったら、あそこで生まれなかったら。
そんなことを漠然と考えているように見えた。
「わ、あんなところに山小屋があるわよ」
つまらなそうに寝転んで外を眺めていたエナルが声をあげた。
カナルも覗き込んで、目を輝かせた。
「イヴ!」
「憲兵の駐在所だったら困るからダメ」
「イヴのけち、せっかく楽しそうなのに!」
不貞腐れるカナルは、最終手段だというように叫んだ。
「ティフ! 下の山小屋めがけて下降しちゃえ!」
「あ、おい!」
イヴが慌てて止めるのも虚しく、ティフは指示通り下降する。
エナルも困ったように笑っていたが、目はキラキラと光っている。
「……ちょっと覗いたらすぐ戻るんだからな」
こんなに楽しそうにされてしまうと、イヴは武が悪かった。
やった、と姉妹仲良くハイタッチをする皇女は、ピッカピカの笑顔だった。
「おし、着いたよ。ほらイヴも降りよ」
トンっと軽い着地の衝撃が届いたと思ったら、カナルはその場で足踏みをした。
もう一秒だって待てないみたいな、そんな仕草だ。
「分かった、分かったから」
カナルに手を引っ張られてイヴが降りた先には、おとぎ話にでも出てきそうな小屋だった。
「思ったよりも綺麗なのね」
「馬小屋もあるね? 憲兵の駐在所にしては管理が行き届き過ぎてるし」
駐在所に行くような憲兵はおじさんが多かった。森一個に対して駐在所ひとつなんてこともザラなので、ベテランが起用されるのだった。
それ故か、小屋の周りの掃除はなかなかされていない。
ガチャガチャ。
緑が生い茂るその場所に相応しくない金属音が遠くから流れてくる。
ハッと顔を強張らせたエナルが、その場で手をあげる。植物の声に耳を傾けているのは言うまでもなかった。
「憲兵ではなさそうだけど……」
ちらっとイヴを見る瞳は、もう既に不安が支配していた。
「ティフはもう隠しようがないから、そこの木陰に隠れて様子を見よう」
イヴが言い終わる頃には金属音はもう間近で、三人は急いで木陰に身を潜めた。
しばらくして姿を現したのは、木に引っかかってしまいそうな飾り帽を被ったら男だった。よく見るとその後ろにも、何人か従者を従えている。
「貴族か……?」
イヴは気付かれないように呟いた。
いかにも金が余っていますという格好をした男は、馬も無駄に飾りたてている。
「流石でございます」
従者の中でもいい格好をした男が、貼り付けたような笑顔で媚を売っているのが聞こえた。
「あ!」
思わず声が出てしまったというように、カナルは口を抑える。
しっかり聞こえてしまったようで、貴族の男はきょろきょろと辺りを見回している。
「今、女の声が聞こえはしなかったか?」
「鹿でございましょう。時に鹿は女のような濡れた声を出します故」
「あっはっは。いい女が濡れた声が歌鳥なら、下手な売女の声は鹿か」
さも愉快そうな笑いを浮かべる貴族の男に、イヴは心から嫌悪の顔をした。
昔、裏路地で強姦されたであろう女がむせ返るような男の匂いの中に、白目を向いて死んでいたことがあったのを思い出したからだった。
「濡れた声ってなにかしら」
隣でボソッと呟く若草色の少女だけが、いやに純粋だった。
カナルがこそっとエナルに耳打ちをした。
「多分あの人、サリヤ・リオネスの息子だよ」
意地悪そうに尖った鼻、赤紫のくすんだ髪。
父親が死んで、やけに嬉しそうに王に報告する彼の顔をエナルは思い出したようだった。
「イヴ。あの人、その、息子さん……」
誰のとは言いづらいというように、エナルはそこで言葉を切った。
イヴは察して微笑むと、いつになく優しい声を出した。
「サリヤのか。確かイリナ・リオネスだったね」
「大丈夫?」
こんな時かける言葉が分からないのは誰だって同じだった。そこの立場にあるイヴだってきっと分かってないだろう。
「結構殺した後のお家騒動を探ることも多いからな。大丈夫」
仕事だから。
そこまで割り切って言うことは、イヴにも出来なかった。
「ぎゃっ!!」
従者が情けない声を出した。
何事かとイリナが見た先には、ドンとそびえる緑色の竜がいた。
「これは……」
皇女様方と暗殺者は、ドキドキしてイリナの次の言葉を待った。
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