口づけた幸福論

夏祈

口づけた幸福論

 ──私、あんたのこと嫌いなんだよね。

 目の前で、持っていた箸を落とす幼馴染を見て、スプーンを握る手が震えた。


 幼稚園の頃から家も近く、小中高も一緒のこの幼馴染は、なぜだか選んだ大学も学部も一緒だった。黒縁の、レンズが厚い眼鏡。大学だしとりあえず、という具合に染めた茶色の髪は、とても手入れされているようには見えず。いかにも冴えないその幼馴染は、いつも私と一緒に行動をしていた。お昼ご飯も、移動教室も、修学旅行までも。同性の友達はいないのかと思えばそうでも無いらしく、談笑する場面も出掛けている場面も見たことがある。それでもこいつは、私と行動するのをやめなかった。

 大学一年生、初夏。私は、もう何度言ったかわからない問いを彼にぶつける。どうして私と一緒に行動したがるの、と。返ってきた言葉は至極単純に。好きだから、と。昼休みの食堂の喧噪に紛れ込ませるように、彼はそう零す。こんなにも騒がしいのに、小さく落とされたそれはスッと耳に入ってきた。少し俯きながら、春を終えた強い陽射しに薄く染めた頬を照らされながら。噛んだ唇には力が込められていて、そっと触れれば血が流れそうに。混乱を極めた脳は、この状況の最適解も出してくれない。やがて開いた口は、どうしたって天邪鬼だった。

「……私、あんたのこと、嫌いなんだよね」

 ──あんたが、その姿のままでいるなら。

 後半部分も口に出したつもりだったのに、それは音になっていなかったらしい。カランカラン、と箸を落として、レンズの奥の目を大きく開く彼のその姿を見て、とんでもないことをしたのだと気付く。

「──そうだよね、ごめん……僕、一花の気持ちも考えないでずっと一緒にいて。……じゃあ」

 訂正するだけの間も無く、彼はお盆を持って立ち去った。かけた私の声は、聞いてもくれなかった。


 彼は、長い付き合いの中で特に変わっていった人だった。昔はあんなでは無かったのだ。中学生の頃までは、クラスや学年で特に目立つ方。勉強も運動も出来たし、整った容姿と誰にでも優しいその性格で随分な人気者だった。バレンタインに貰ったチョコレートの消費を手伝ってくれと言われたこともあった。でも高校から、彼は変わった。逆高校デビューとでも言えば良いのだろうか。ダサい眼鏡にぼさぼさの髪。教室の隅で一人本と向き合うような休み時間。これまでの彼とは似ても似つかない。目立たないことに重きを置いたのかもしれないそれは、逆に悪目立ちをするだけだった。何かあったのと問うても、こっちが本当の僕だから、と言われるだけ。そんなの嘘だ。彼がその姿を無理して作っていることはとっくにバレている。でもそうする理由も、これだけ一緒にいるのに教えてくれない。見た目があれだけ変わっても、中身は変わらない彼のままなのが、一等酷だった。無理矢理に作った彼の外装は、大嫌い。でもそれで、周りの敵が減ることに喜んでいる感情がある自分が、一番嫌い。

 謝って、訂正して、私の気持ちも全部伝えようと、とうに食欲も失せたカレーに謝罪しながら席を立った。


 次の授業の席取りのために、隣に置いていたはずの彼の鞄はそこには無かった。授業前に出会えるからと、甘くいた私が馬鹿だったのだ。電話をかけても繋がらなくて、メッセージを飛ばしても既読は付かない。そんなことは無いと信じたいけれど、もしもがあったらと不安が頭を過り、消えてくれない。何度もメッセージを送って、やっと一言だけ返ってきた言葉。

『ごめんね』

 謝るのは私の方でしょう。食べ物で機嫌を取るように思われそうだけど、ケーキでも買って彼の家に向かおうと、授業をサボる覚悟をしてリュックを背負う。

──あれ、彼の一人暮らしのアパートって、どこだっけ。


授業は受けた。バイトにも行った。彼の住む家は、思い出せなかった。

一人きりの自宅に帰って、一直線にベッドに飛び込む。あまりに今日はついていない日。いつもならしないミスをいくつもバイトでしでかすし、帰りに卵を買えば、何もない所で転んで半分割った。車に水もかけられた。そういう時に限って特別お気に入りの服を着ている。優しいのはベッドだけだ。世界はあまりにも優しくない。放り投げた鞄から微かな着信音が聞こえて、重い身体を起こしてスマホに手を伸ばす。新着メッセージ一件。その相手は、彼。

『ねぇ一花、いま幸せ?』

 たった一つ、それだけの、無機質な人生アンケート。幸せ──幸せ? この状態が?

「幸せ…じゃ、ない」

 あんたに本当のことも言えない、こんな人生じゃあ。

 それを打つよりも先に、飛び込んだベッドが私の意識を奪っていった。最後に薄っすら見えた画面。ごめんね、の四文字で、もうそれは取り返しのつかないことなのだと悟る。


* *


 目を覚まして、あくびをひとつ。目を擦りながらベッドから降りて、カーテンを開く。冬の日差しが白い雪に反射して、きらきら目に刺さる。どうやら一晩で積もったらしい。階下から呼ばれる名前に返事をしながら、階段を駆け下りた。おにぎりとふっくら巻かれた卵焼き、湯気をたてる豚汁の並んだテーブルについて、いただきます、と言ってから箸をとる。良い塩加減のお米の中には昨晩の夕飯のおかずであった鮭が入っていた。大きめにほぐされたそれを端から零し、受け止めて口に運びながら、ひとつ、お腹に入れていく。そんなに急いだら喉に詰まるでしょ、と母がお茶を差し出してくれて、父はどうやらもう仕事に向かうよう。豚汁の入ったお椀に口をつけながら、空いている手を振れば、少し照れながら振り返してくれる。食べ終えて、両手を合わせながらごちそうさまと口にして、席を立つ。歯を磨いて顔を洗って、ヘアアイロンで髪を整えて。ハンガーにかけられたブラウスを手に取りながら部屋に戻り、パジャマを脱いでそれに袖を通す。胸元には赤いリボン。チェックのスカートを履いて、濃いグレーのブレザーを羽織れば、準備などほぼ出来たようなものだ。黒のハイソックスを膝下まで上げて、コートを着てからリュックを背負う。そこで、家のチャイムが鳴った。

「おはよう、一花」

「ん、おはよ」

 鍵が開いてるのを知っているように、チャイムは形式的なものに過ぎないかのように玄関の扉を開けたそいつは、近くに住む幼馴染。私は毎朝律儀に迎えに来るこいつと、いつも一緒に登校している。母に手を振り、飛び出した外は銀世界だった。子供みたいに真っ新な白に足跡を付けて、はしゃいで、呆れられる。

「ほら、危ないよ?」

 手袋に包まれた右手を差し出されて、私は素直にその手を握った。少しだけ寒さに鼻を赤くしたその顔が、愛おしかった。綺麗に整えられた黒髪が淡い風に攫われて乱れる様が、背景の白に映えて酷く美しい。勉強も運動も得意で、整った容姿をしているうえ、性格まで良い完璧な彼が、私のこんな近くにいて良いのかといつも思う。周りの女子からやっかまれても、彼が私の傍で生きてくれるならそんなもの些細な話だ。彼はそのことに気付かない。気付かせない。気付いたら、自分のせいだと責めてしまうから。

遮るものもない大きな瞳が、私が見つめていることに気が付いたようで、こちらを向く。

「なぁに?」

「……ううん、なんでもない」

 視線を逸らす動作が、不自然すぎではなかっただろうか。ずっと見ていたなんてバレたら少し恥ずかしい。誤魔化すように、繋いだ手にぎゅっと力を込めて、それに気付いた彼が柔く笑う。

「ねぇ一花」

優しい声色。安心するような、私の好きな声。でもそれが、その言葉が、何故か私の胸をざわつかせた。

「いま幸せ?」

 歩みが止まる。それに引きずられるように、私も止まる。一歩分先にいる私は振り返って、彼の真剣な目を見た。好きな彼がいて、優しい父と母がいて、充実した毎日があって。これを不幸と呼ぶのなら、一生幸せの意味を知ることは叶わないだろう。

「……うん。幸せ」

 私の言葉を聞いて、彼はゆっくりと笑んだ。それが、怖かった。

 彼という人格を脱いで、他の誰かとしての笑みに見えた。知らない、こんな人、知らない。それは、感情も知らずに、笑うという行為のやり方だけを与えられたような表情。彼の身体から、彼が消えたみたいに。

「あぁ、良かった」

 繋いだままの私の手を引っ張って、よろけた私を抱き留める。そして、耳元で囁く。

「君には、二番目の人生の方がお好みだったんだね」

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