嗤う鬼面鏡

石上あさ

第1話



 陰鬱と木々が生い茂る富士の樹海に、冴えない青年の姿があった。

 彼はつい最近片思いの女性に振られたばかりで、それがすべての原因というわけではなかったけれど、ともかくそれが引き金となって死ぬことにした。

 さてどこで死のうかと歩いていると、なにやら遠くに人の姿のようなものが見える。

 それはかなり帽子を目深に被った男であり、今まさに脚立をたちあげて枝に縄を結んでいるところだ。

 これから死のうというときに目の前で死なれちゃ迷惑だ。彼は男に声をかけた。

「あのう、すみません」

 すると男は気の毒なほどの驚き方をして脚立から落ちる。

 あの落ち方はさすがにまずいかもしれない、そう心配した彼は一応、男のもとへ駆けつけてみることにした。

 しかし、男は枯葉の上に尻餅をついたまま、なにやらひどく怯えていた。そしてその視線はすぐ近くの地面に釘付けにされている。顔色がみるみるうちに悪くなり、しまいには

「あ、あ――あああああ!」

 という絶叫まであげながら走り去っていった。

 取り残された彼がさきほどまで男のいた場所に辿り着くと、そこにはCDくらいの大きさの鏡があった。これが驚いた原因だろうか、そう思って手にとってみると、途端に不思議なことが起こった。なんと、さきほどまで彼の顔が映っていた鏡の表面が波のように揺れ出して、そこにたくさんの札束があらわれたのだ。

 彼も驚いて思わず投げ捨てる。

 気味が悪いからそのまま置いて帰ろうとすると、不意になにかにつまずいた。立ち上がって足下を確かめると、どうやらスーツケースの持ち手らしい。こんなところに埋めるくらいだからどうせろくなものじゃない、そう思いながらもどうしてなのか何かに導かれるように彼は素手でスーツケースを掘り起こした。

 そして、開いたとき彼は自分の目を疑わずにはいられなかった。なんとそこにはぎっしりと大量の札束が詰め込まれていたのだ。それを見た彼の脳裏には、当然さきほどの鏡に映った札束がよぎる。

 鏡の方を振り返ると――そこには生き埋めにされた鬼の顔があった。

 たまらず彼も尻餅をつく。……が、よく見たら見間違いで、単に鏡の裏側に鬼の顔をかたどった彫刻がほどこされているにすぎなかった。彼は一息ついて改めて鏡を手に取ってみる。その鬼は、おどろおどろしい悪鬼羅刹の類というよりかは悪戯好きな小鬼に見えた。

 これはもしや願いを叶える魔法の鏡なんじゃないか。そんな期待と興奮の入り交じった気持ちで、彼は小鬼の瞳を見つめた。

 そして、それを見つめ返す小鬼の顔は、まるで彼の心を見透かしているかのように微笑んでいた。


 次の日、彼は都内を一望できる高級レストランにいた。昨日の札束で仕立てたばかりのオーダーメイドのスーツに身を包み待っていると、一人の女が現れる。

 それは、かつて彼を振った女だった。

 食事を楽しみ、酒も進み、頃合いを見計らって彼は自信満々に女に告げる。自分が女のことを誰よりも愛していること。今の自分ならどんな願いでも叶えてやれること。しかし女の返答は冷淡だった。

「金メッキで取り繕っても、変えられるのはうわべだけみたいね」

 その後、家に帰った彼は考えた。これが願いを叶える鏡であることは疑うべくもない。となると、物質を出現させることはできるものの、人の心までは変えられないということなのだろうか。まあいい、女なんて他にもいる。また鏡に願いを叶えてもらおう。そうだ、イケメンになってみるというのはどうだろう。

 男は鏡を取り出して、じっと見つめる。やがて表面が波打ちだして――しかし、そこに映ったのは血色がいいけれども顔形はそのままの自分だった。

 どうやら鏡が次に与えてくれたのは「健康」ということらしい。確かにそれも願っていないわけではない。これから一切病気もケガもしないというのは安心でもある。だが、はてな、自分が願ったのは美貌のはずだったが。

 ともあれ、金には困っていなかった彼はとびきり腕の良い美容外科に手術を依頼した。 そしていざ包帯をとって理想の自分と対面するというとき、しかし思いも寄らない悲劇が起きた。

 手渡された鏡に映っていたのは、想像を絶する醜男だったのだ。

 おかしい。いくつか願いが叶えられているにもかかわらず、なぜだか自分の願いだけが見透かされたように叶わない。彼は絶望の中にあって、いわく言いがたい不吉な予感を感じていた。そしてとある閃きを得た。病院を飛び出して自宅に帰ると、彼は自宅のパソコンであるものを調べた。

 彼が調べていたもの、それは――「天邪鬼」。

 仏教においては、煩悩をあらわす象徴とされ、妖怪としては人の心を読み取って反対の悪戯をしかける小鬼とされている。

 そしてそれが、その「天邪鬼」こそが、あの鏡の裏側でほくそ笑んでいた小鬼にほかならなかったたのだ。彼はすべてを理解した。つまり、あの鏡は確かに願い事を叶えはするが、それには条件がある。鏡が叶えてくれるのは「二番目の」願い事だけなのだ。そしてそのそれは一番目の願い事を代償にして達成される。言い換えれば、あの鏡に願い事をする限りその時点における最も大切な願望は絶対に成就することがない。相手の最大の願いを読み取って、それと真逆の事象を引き起こす願望反射の呪い――それがあの鬼面鏡の副作用なのだ。

 彼は今まで自分が代償にしてきた願い達を振り返ってみる。自分を振った女を振り向かせたい、イケメンになりたい。これらは二つはもう二度と叶わない。前者はまあいいとしよう。だが後者が厄介だ。このまま一生醜男として生きるのは辛い。

 金を得たところまではよかったのだ。せめてあの時点からやり直すことができれば――

 そう考えた瞬間、彼ははっとした。あの鏡は一番目の願いを反対にして成就させる。ということは、やり直すことを自分が今願っている以上、それはどうやっても達成されることがない。

 だが、裏を返せば、この状況は好機でもある。これまでとは違い、今の自分は何を代償として支払うか予め知っているのだ。だから不測の事態を恐れる心配はない。しかも、人生をやり直すことができないことだって誰にとっても当たり前のことだ。それができなくなったからといって大した損失にはならない。そうだ、あと一回だけ、もうひとつだけ願いを叶えてもらおう。

 彼は鏡をのぞきこむ。金や健康、誰もがうらやむそれらと同じだけの価値あるものをもうひとつ自分は手にすることができるのだ。やがて鏡の表面が波打つように揺れ始め、そこに……

 そこには――何も映らなかった。

 現れたのは「無」だったのだ。彼は一瞬動揺した。だが元を正せば彼の願望を反映した結果。彼はすぐに理解した。 

 つまりこういうことだ。これから先、彼にはこれ以上悪いことは起こら「ない」のである。誰かに振られるということも、醜男だからといって差別されたり偏見を浴びせられることもない。もはや何の心配も必要ないのだ。


 それからの日々は、彼の願望通りただただ平穏に無難に過ぎていった。悪いこと、悲しいこと、嫌なことなど一つも起こらなかった。ただひとつだけ誤算だったのが、良いことも何一つ起こらなかったということだ。そうして彼はその理由を考え抜いてようやく気づいた。「金が欲しい」という二番目の願望を初めて成就させたとき、彼はその代償が自分を「振った女を振り向かせること」だと思い込んでいた。だが、現実はそうじゃなかった。なにせそれは最も自由にあらゆることを願うことができていた状況での、一番目の願い。

 それは考え得る限り一つしかない。

 ――「幸せになりたい」

 この人類普遍、生涯を通して最大の願望を彼は代償としてすでに支払ったのだ。

 そうして、愛されもせず、憎まれもせず、何一つ得ることがないかわりに何かを失うことも決してない。整形やらに散財したせいで金はそんなに多くは残ってないが、慎ましく暮らせばやっていけないことはない。幸せにはなれないが、その代わり嫌なことも起こらない。

 理想的といえば理想的――そんな単調な生活の中で、しかし彼の心は腐り、人格は歪み、軋み、やがて最終的には壊れてしまった。


 男はそして、死ぬことに決めた。

 帽子を目深に被り、脚立と縄を持って富士の樹海へと赴く。

 鬼面鏡は恐ろしいといえば恐ろしいが、唯一救いと呼べる点は鏡を覗きさえしなければ願望が叶わないかわりに代償を払うこともないということだ。だから、死んで楽になりたいとか、鏡との縁を切りたいとかいう願いをもっていても、取り出さなければなんの憂いもない。

 男は脚立を立て、縄を枝に結び、よし死のうというときに、 

「あのう、すみません」

 聞き覚えのある声がした。男が脚立から落ちる。

「健康」のおかげでケガはないものの、どうにか立ち上がろうとしたときに「それ」は起こった。

「――!!」

 男の視線の先は、転倒した際にこぼれ落ちた鬼面鏡があったのだ。男は魅入られたようにそれから目を離すことができない。おぞましい直観が全身を総毛立たせ、背骨をあっという間に氷柱へと変える。

 待てよ、そんな――。

 俺は今「何を」願っていた?何を「代償」として持って行かれる?

 楽になりたいと願った。すべてを終わらせてこの生きる地獄から解放されたいと願ってしまっていた。つまり――。

 鏡の表面が波打つように揺れる。そこに割れた鬼面鏡の姿が映し出される。これで願望反射の呪いは成立した。男の「二番目」の願い「鬼面鏡との縁を切ること」がこの瞬間成就されたのだ。

「あ、あ――あああああ!」

 男は叫びを上げ、走り出す。

 そしてあてのない、終わりもない真っ暗な闇の中へと消えていく。

 やがて青年がそこへやってきて鏡を拾い上げる。

 青年を見つめる小鬼の顔は、まるで彼の未来をを見透かしているかのように嗤っているのだった。

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