大震災の記憶 ―石巻市―

 

 3月25日。


 僕は仙台市内のホテルで起き、朝食を摂った後にチェックアウト。

 仙台駅にて、特別快速の仙石東北せんせきとうほくライン石巻行きに乗り込んだ。

 この路線は震災後の2015年5月30日に、石巻・女川などの沿岸部自治体に対する復興支援を目的として開通したものだ。

 昨日の地下鉄東西線に比べると、若干乗客は多かった。

 そして、電車は塩釜・高城町・矢本を経て、石巻に到着した。


 ホームに降りると、出迎えてくれたのは〈萬画まんがの国・いしのまき〉と銘打たれ、サイボーグ009が描かれた看板。

 石巻市は、仮面ライダーやサイボーグ009等で有名な萬画家、石ノ森いしのもり章太郎しょうたろうが〈第二の故郷〉としたまちだ。

 そこで、石巻市の商店街におけるシャッター通り化という背景もあり、市を挙げて1996年から〈石巻マンガランド構想〉を策定。

 市内各地に石ノ森作品のキャラクターのオブジェが建てられており、石ノ森萬画館に続くマンガロードなるものも存在する。

 駅舎を出てみればそれは一目瞭然で、駅の外装にも、商店街の通りにも、街灯にも、至る所に〈萬画〉が溢れていた。 

 その光景は、以前に行ったことのある調布の、みずきしげるロードや深大寺を彷彿とさせた。

 そして僕と父は、石巻駅から海岸部の方に向かって歩いて行った。

 石巻駅は〈日和山ひよりやま〉を境にして内陸側に位置しており、少しきつい勾配を乗り越えて、まずは日和山の〈鹿島かしま御児みこ神社じんじゃ〉に向かうことになった。


 三十分は歩いただろうか。坂道を越え、ひとまずの目的地である日和山鎮座へと辿り着いた。

 道中、やはり震災の余波が未だに爪痕として残っているのだろうか街は閑散としており、人通りは決して多くなかった。

 石巻は仙台に次ぐ県下第二の都市ではあるが、仙台と大きな差が出てしまっていることも事実。それには、あの3.11が少なからず関係しているのだろう。

 さて、神社の説明に移ろう。

 鹿島御児神社は〈建御雷タケミカヅチ〉〈鹿島天足別命カシマアマタリワケノミコト〉という親子二神を祀っている神社である。詳しいことは分からないが伝承によると、その二神が奥州平定・開拓の祖神とされており、人々に崇拝されているそうだ。

 それに違わず、神社の前には壮麗な鳥居が待っていた。

 創建は不明らしいが、松尾芭蕉が〈おくのほそ道〉で訪れたという記録を残した石碑もあり、とても歴史がある神社であることは想像に容易い。

 そして僕たちは鳥居を抜け、社殿にて参拝を行った。

 学業とか執筆活動のことなども当然祈願したのだが、それよりも今回の旅において重要なことを想った。

 

 できるだけ早く、荒浜・石巻・宮城・東北の復興が為し得られるように。

 

 そう願って、僕は後ろを振り返る。

 鳥居のその先、開けた展望台から眺望するは石巻の街並み。

 かつては港が整備され、漁業だけではなく工業都市としても発展を遂げていた石巻市。だが今、眼前に広がるのは広漠とした更地。

 点々と建てられた新興住宅やマンション・施設。

 復興を進める無数の作業車。

 作業現場近くに停まる多くの自動車。

 整備されているものは、ひどく真新しいアスファルトの道路。 

 しかし、そもそもの人通りは少ない。

 そして奥に見える海には、数隻の船が浮かんでいる。

 

 元は、どんなまちだったのだろう。

 荒浜のように活気に溢れ、人々の想いが集う。

 そんな、まちだったのだろうか。

 

 ふと、僕は展望台に設置された説明板に目を向けた。

 そこには昔の石巻のまちの様子が、写真として残っていた。


 海に面した豊かなまちのようだった。

 建築物が密集し、小学校も見える。

 森林公園のような場所もあり、自然と人々の調和が取れているように見えた。

 整備された港の発展と共に。

 人々が集まり、仙台に次ぐ都市に成長した石巻のまちが、には在ったのだ。

 僕の、眼前に。


 僕は更に他の説明板の写真を見る。

 3.11の時に此処、日和山から津波の様子を見る人々の姿が在った。

 鉄柵ギリギリに押しかけて、自分たちの大切なものが不条理に押し流されていくのを見ていたのだ。

 

 ……流されたのか。本当に、全て。

 

 荒浜でも感じた想いが再起する。

 どうしてだ、という想いが。

 ただただ残酷に、無慈悲に、不条理が襲う。

 そんな災害が何故、起こってしまったのかと。

 だからって〈自分が震災に遭わなかったからいいや〉なんて、ふざけた気持ちは微塵も起きなかった。

 ただ、静かに怒りの火がたぎる。

 しかしそれを向けるものは、何一つとしてないのだ。

 視界の遥か彼方まで広がる大海原に、ちっぽけな一人の人間である僕の切なる叫びなんて聞こえるはずがない。

 

 僕ができることはそんなことじゃないのだ。

 このことを、この現実を、この恐怖を。

 少しでも知ってもらうために、努力しなくてはならないのだ。

 それだけが、ちっぽけな一人の人間でしかない僕ができる、最大限のだ。

 僕にはそれがやれる、できるはずだ。

 そんな思いを再び胸に抱いて、僕は日和山を後にした。


 日和山の長い石段を下っていくと、展望台の眼下から広がっていた風景がどんどん近づいてくる。

 山の麓ともいえる場所には幾つかの新興住宅があったが人気はなく、空き地ばかりの土地であった。

 しばらく進むと、まちの一角に震災後につくられたとおぼしきお地蔵様が立っていた。色とりどりの献花がされており、決して潰えることなど無い震災への想いを感じ取ることができた。

 お地蔵様にささやかな祈りを捧げ、僕と父は大きな道路沿いに歩いていく。

 見えてきたのは、膨大な数の墓地と奥に見える建造物だった。


 きゅう石巻いしのまき市立しりつ門脇かどわき小学校しょうがっこうである。

 6mを越える津波の襲来によって、児童を迎えにきた保護者達の車までもが流されて、校舎に衝突。漏れ出したガソリンが引火して、校舎は炎に包まれた。

 そのため今では損傷は酷いものの、震災遺構として一部が保存されている。

 そして不幸中の幸いか、学校側は児童や保護者達を裏山に避難させたため、下校中であった児童の内の7名以外は無事であった。

 ……いや、7名死亡がなのか?

 同じく石巻市立である大川おおかわ小学校しょうがっこうにおける児童74名・教職員10名死亡という悲劇的被害よりは……。

 なんて言えるはずがない。

 

 どちらかに優劣を付けるわけではないし、大川小側の対応の甘さは確かに酷いものだが、それは児童が亡くなった遺族にとっては皆同じだ。

 自分の子を、孫を、兄弟姉妹を失って、どの学校の対応が素晴らしかったのか、優れているのかなんて関係がないことなのだ。

 人が一人でも亡くなっているのなら、それは賞賛に値することではない。

 〈門脇小側の対応は素晴らしかった〉なんて評価はくだらないこと。

 

 一番大切なのは、更に被害を減らす為にどうするかということだ。

 比べて悪い方を糾弾し〈良い〉といわれている方を褒め称える。

 それが本当に、震災後の人々の在り方なのか?

 決して、そうではないだろう。

 対応があまりにも甘かったから、賠償金を請求する。非難する。それは道理だ。

 しかし、世間一般で言われている〈良い例〉にも具合の悪い側面があること。

 これを忘れてはいけないのだと思う。


 そんなことを想いながら僕は今まで歩いてきた道を引き返す為に、旧門脇小に背を向けて歩き出した。


 海の方は、殆ど工事が行われていて危険なため行くことはできなかった。

 そのため僕と父は、日和山より内陸部にある〈いしのまき元気市場〉と〈石巻市復興まちづくり情報交流館〉に立ち寄った。

 いしのまき元気市場は、石ノ森萬画館も近くにある北上川きたかみがわ沿いに建てられており、あらゆる石巻ブランドが揃うマーケットである。

 2015年には石巻魚市場が世界最大規模の市場として復活した。

 その大市場こそが〈石巻の復興と人々の元気を取り戻す〉為の大きな原動力になっているのでは、と。

 市場に並ぶ豊富な魚介類の品揃えを見て、そう思った。


 元気市場のすぐ近くにある情報交流館には、小さい一階建ての建物に多くの資料が展示されていた。

 旧荒浜小と同じく、かつての〈まち〉の様子が展示されているコーナーもあった。

 数多くの資料を見て、メモして、撮って。

 僕はその時の人々に思いを馳せながら、石巻を後にした。



 時代を経て移り変わっていった石巻。

 今までの石巻の人々の営みが、確かに此処には在ったのだ。

 その全てを、あの3.11の日に、地震と津波が奪っていった。

 

 思い出の場所も、誰か大切な人も、全て。


 ……自分がそんな偉そうに言えるのか、と思う。

 荒浜でも感じた感情が噴き上がってくる。

 被災地に行ったぐらいで、実際に被害に遭った人々の本当の想いを推し量ることなんてお前にはできないだろう、と。

 〈自分の言葉で伝えていく〉。

 そんな一口で表せないことで欺瞞ぎまんして〈東北の人々に寄り添う自分〉を演じたいだけなのではないのか、と。

 これは、この小説を通じて被災地の状況を伝えようとしている、今執筆中の自分に対する内なる疑問だ。

 お前の本当の想いはどこに向けられているのか。

 

 ……だが。僕は知っている。

 2011年3月11日午後2時46分。

 あの時、起こった未曾有の大災害を。

 

 大きく揺れた保育所の室内。

 慌てふためく園児と先生方。

 避難した先の園庭でも、地揺れは止まらず。

 祖父母に連れられて行ったコンビニには、人が多く集まり。

 

 そして母が入院していた病院のテレビで見た、濁流と流される家屋。


 その後もニュースで連日報道され、巨大被害が出たあの震災を。

 僕は、知っているのだ。

 これから30年以内に70%の確率で来ると言われている〈南海トラフ巨大地震〉の存在も、僕は知っているのだ。

 ならば、知らん顔などできるはずがないのだ。

 もう二度と、同じことが繰り返されないように。

 全ての日本国民が、努力せねばならないことなのだ。

 

 この小説はけして〈東北の人々に寄り添う〉為に書かれたものではないと、今更ながら記しておく。

 この小説は〈全ての日本国民〉が東日本大震災という一つの大災害を乗り越えた〈その先〉に一体何ができるのか、今一度考えてみてほしいと思って書いている。

 

 自分・荒浜・石巻編と経て、最終話では最後らしく今まで書いてきたことを締めくくりたいと思う。

 だから、僕の小説が完結する前でも、後でも。いつでも良いのだ。

 この小説を読んでいる人にはぜひ考えてみてほしい。


 その考える時間が少しでも〈これから〉を変えると信じて。

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