ありがとう Chapter.3
独白吐露を終えたサン・ジェルマン卿は、覚えた疲労感のままに虚空へと意識を逃した。
「──そして、墓荒らしも
「また偽名を?」
「在城者が墓暴きなどをしていると知れたら〝フランケンシュタイン〟の名に泥を塗る形になる。いや、
「誰です?」
「ヨーゼフ・メンゲレの師──
「ッ!」
息を呑むブリュンヒルド!
思いもよらない因縁であった!
まさか、このような形で〝生命創造の狂気〟が
「分かるかい? ブリュンヒルド嬢? 私は〝大罪〟に祝福されし存在なのだよ。神に望まれずして生まれ落ちた〝
あまりに凄惨な経緯に、重い間が刻まれる。
雷雨は
あの日と同じように……。
程無くして沈黙破りに
「それで? あの〈
「肉体
「何故だ?」
「かつて
「成程、
(膨大な
ヘルの黙考を
「だが、仮に落雷を流し込んでも、それだけで再生するとは限らない。
「……ああ」
仮に〈神々〉であっても〝生死の真理〟を完全に解き明かす事など不可能であろう。
それは〈冥女帝〉たる自分とて例外に無い。
ただ
その絶大な真理を〈人間〉
「せめて『Fの書』さえあれば……
誰に言うとでもなく虚空を仰ぐサン・ジェルマン卿。
それに対する返答ではあるまいが、ようやくにしてブリュンヒルドも
「なるほど……事情は分かりました」
深い
と、
「サン・ジェルマン伯爵……
「ああ、その通りだ……弁明はしない」
浴びせられる
それが
「ですが……」ブリュンヒルドの抑揚が一転して
淡い哀しみを
それは〈
「それは『Fの書』!」
「……御返しします」
「何故、
「彼女が大事に持っていた物です。それを没収しました」
「……
「読んでいません。いえ、まだ読解力が付く前に、私が取り上げました」
「……そうか」
軽い安堵を浮かべる。
その
ウォルフガング・ゲルハルトにも、ロキにも、欠落していた感情がある。
それは〈愛情〉だ……と。
なればこそ、
「
「ああ。この書こそは、私の──いや、
血塗られた
それを手放す際、ブリュンヒルドは強い
「ですが、ひとつだけ約束して下さい。この一件が片付いた際には、この禁書を──」
「──約束しよう。永遠に葬り去ると……史実の闇に!」
確固たる意志が返す。
それが信用に足ると思えばこそ、
「
「……そうか」
「……残酷な『絵本』です」
「ああ、紡がれるのは『救いの無い
煉瓦道は煙雨に霞み、体温を蝕む雨は勢いに痛い。
大雨が叩きつける大通りに、街人達は集められていた。
街路中央を埋める
女子供も関係無い。
老若男女も関係無い。
無差別
ロキによる強制だ。
拒否といった選択肢など存在しない。
愚かにも
その絶対無敵の暴力を
「イヒヒヒヒッ……旦那さん? 言われた通り、この界隈の住人は全員集めやしたぜ? もう家屋には
手揉みに御機嫌を
「ああ、御苦労だったな」
素振りもニヤケ
その醜い風貌と性根は
何よりも
圧倒的な
その征服欲が満足を覚えさせる。
望んだものだ。
良い拾い物をしたものである。
出会い頭の非礼は
「それにしても、ウジャウジャと気持ち悪ィな? 蟻の巣をほじくり返した気分だぜ……」
寄り添い怯える群集を
神話の時代、それほど人間は多くなかった。
それが永き封印の間、世を埋め尽くす
だからこそ
蝿やゴキブリと同じ害虫と変わらぬ、汚らわしくも無価値な存在でしか無い。
「で、旦那さん? コイツらを、どうするおつもりで?」
「
「餌?」
「ああ、ひとつは〝オレに楯突いたヤツラへの餌〟──もうひとつは……」
ロキが思索に言い渋った時であった。
「この悪魔め!」
「あん?」
怯え固まる群集の中から
「いいか! この街には〈
「
男の額にトンッと指を当てて神力を注ぐと、肉風船が
「ヘッ……
「ひぃぃ……」「あ……ああ……」
ざわめきに増長する恐怖!
その畏怖を一身に浴び、ロキは悠然と毒突いた。
が、そうした負の連鎖に在っても屈せぬ強い意思がひとつ。
それは幼くも真っ直ぐな純心──マリーであった。
遠くに感じた
「……来たか」
確信に漏らす
改めて再生作業に取り掛かったサン・ジェルマン卿の様子を見れば、
落雷を流し込む
無論、素人目に看破出来る
(いや、好転はしているのであろう。ブリュンヒルドが手渡した書が
時間は、まだまだ掛かる──それは
最悪の場合、総てが徒労で終わる可能性も有り得るだろう。
一方で、ブリュンヒルドは城内探索から帰って来る気配が無かった。
当然だ。
来るべき最終決戦へ向けて武装を整えるという目的であったが、はたして
(……いや、これで良かったのであろう)
内なる決意を固めると、ヘルは気付かれぬように退室した。
朱が躍り息吹く階段を下る。
薄暗い石段は、まるで重圧の奈落に導くかの
そうした想いの総てを受け止め、ヘルは黙々と下る。
(
浮かべる自嘲は諦めの心情にも似ていた。
やがて、ヘルは凛然たる顔を上げる。
その瞳は不思議と晴れやかささえも帯びた印象に在った。
(ならば、
無意味な暴虐から民を護らねばならぬ。
殺戮の毒牙から民を救わねばならぬ。
自分は〈
心に定めた〈
軋み開く正面玄関を抜けると、雷雨轟く闇天が舞台と出迎える。
闘いの舞台だ。
と、眼前に広がる暗い情景に違和感を感じ、ヘルは
数平方メートルにも広がる城門内の庭は粘りつく
冷たい雨が作り出した情景は、ひたすらに暗色で彩られた虚無感の箱庭だ。
そんな荒々しい野外に佇んで待っていたのは、見覚えのあるシルエットであった。
「ブリュンヒルド?」
一瞬の雷光が、鎧装束を克明に浮かび上がらせる。
容赦無い雨に打ち付けられ続け、頭からずぶ濡れとなっていた。
「……
「見掛けぬと思うたが……何故、此処に?」
「たぶん、
近くに見れば
「その武装で出るつもりか?」
ヘルの指摘に、困ったように
「仕方ありませんよ。
値踏み視線で、ヘルはブリュンヒルドの出で立ちを改めて眺めた。
彼女が手にしていた
「……その槍は?」
「城から拝借しました。無いよりはマシですから」
「相手は
「〈
「フッ……重責だな」
自嘲に
「何が〈
「フォ……〈
「そ……そんな?」
「終わりだ……この街の平和な時は、もう終わりだ……」
「これで、この街も他国と同じだ……」
ロキの声高な嘲笑に、街人達の失意は絶望へと色を変えていく。その伝染が悪神には何とも心地良い。
もう〈怪物〉から自分達を保護してくれる存在はいない。
その事実がもたらす無力な絶望感は、依存対象の喪失がもたらすものであった。それだけダルムシュタッドの人々にとって〈
人々は、次第に〈
そんな失望の渦中から、あざとくも
「オ……オレは
一部の街人には知った顔である。パレードの日に、マリーへと難癖を向けた
「あん? 何だ? テメェ?」
「で……ですから、オレは
「ふぅん?」醒めた邪視が値踏みに見定める。「テメェ、
「お……おります。ス……スペインの方に……あ……そ……そうです! そうですとも! 私には
「ふぅん?」
「私が無事に生きているとなれば、家族もどんなに喜ぶか……偉大なる
嘘である。
大嘘である。
この男には家族などいない──いや、正確には〝
年老いた母と妻……そして、六歳の息子だ。
しかし、逃げ回るには足手まといと捨てて来た。
その数秒後には、無数の〈デッド〉に歓迎されていたのを見届けている。
今頃は、とっくに仲間入りだ。
「な……何なら忠誠の証に、コイツらを痛めつけてやりましょうか! いや、御望みなら処分してさえみせますとも!」
「ほぅ?」
「は……はい! 有難うございます!」
晴れやかな安堵に染まる笑顔。
嗚呼、命拾いをしたぜ──と。
「この恥知らずが!」
「人間のクズだわ!」
背後から浴びせられる
むしろ絶対的な優越感を
ほざくな、器量無しのマヌケ共──と。
「弱虫!」
「……あ?」
ふてぶてしい神経を逆撫でしたのは、意外にもシンプルな
子供である。
群衆の中から勇気を
それを視認した
見覚えのある子供だ!
いや、忘れようものか!
勇気ある幼女──マリーは叱責を続ける!
「あなたは
「このクソガキーーッ!」
「きゃ!」
髪の毛を
「テメェ!
虎の威を借るハイエナが暴力をチラつかせて威嚇するも、凛とした幼い瞳は決して屈しない!
そこには
「あなた達なんか、きっと〝お姉ちゃん〟がやっつけてくれる! そうよ……そうだわ! 〝お姉ちゃん〟よ!
「
「
「だから! ソイツは何処にいるってんだよ!」
「あぐっ!」
苛立ち任せに再び髪を
「ナメてんじゃねぇぞ! クソガキが!」
苦悶を浮かべる童顔に、威圧を
そんな安っぽい
だが、それ以上に気になる事がある。
この子供の主張だ。
ここまで屈せぬほど無垢な心酔は、いったい何処から来るのか……いや、そもそも、これほどまでに強い信頼を植え付けるとは
(
ふと脳裏に浮かんだのは、あの〈
(いや、有り得ねぇか。
ロキが黙想を巡らせる中、不意に静かなる凄味が耳に届く。
「……その子から手を放せ」
待ちわびた期待に、悪神の
仰ぎ見る闇空に立つのは、二人の女性のシルエット──〈
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