わたし Chapter.2
「マリー? 入ってもいいですか?」
ブリュンヒルドは、優しいノックから呼び掛ける。
マリーの部屋の前だ。
母親に聞けば、
正直、ブリュンヒルドにしても、腫れ物に触るように気は重い。
(とは言っても、放っておくわけにもいきませんよね。
ややあって扉が小さく開いた。
隙間から覗く幼い目が警戒する。
それは、まるで抗議するかのようにも映った。
「あ、マリー?」
確認する
その唐突な展開は、俊敏にして強引!
「ひゃう?」
珍妙な悲鳴を残して、ブリュンヒルドは為すがままに呑み込まれた……。
「ったく、シケた牢獄だなぁ? オイ?」
「……父上」
またも来訪した
衛兵たる
監視システムも作動している。
科学牢獄のセキリュティは、以前と変わらず万全であった。
なればこそ、彼女は
にも
おそらくロキの神力による仕業で間違いないだろうが、それにしても不可解であった。
(
「腑に落ちねぇ……って顔だな?」胸中を見透かしたかのようにロキが揺さぶる。「種明かしをしてやるよ。
「手駒? まさか! 精神支配を?」
「
「……此処へ訪れる
「ま、
(成程。道理で、あの誘いをしておきながらも私を解放せず、日に日に通っていたわけだ)
つまりは
私兵増産の時間が……。
「ウォルフガング・ゲルハルトには?」
「ハッ! あの石頭が気付くと思うか? テメェの軍隊は
確かに、そうだろう──ヘルは、これまでの観察に納得する。
ウォルフガングは科学者・独裁者としては卓越した才を発揮するようだが、対人心理的な機微には
おそらく
それを『慢心』と言うのだろうが。
「さて……と、んじゃ此処とオサラバといくか?」
唐突な宣言に、ヘルが
「これから……ですか?」
「ヘッ……名残惜しいかよ?」
「いえ……そうではありませんが……」
ロキの茶化しに違和感を覚える。
先の思索通り、ロキが解放を引き延ばしていたのは私兵を増産する目的があればこそ……だ。
つまりは戦力増強。
それを切り上げたという事は、充分な勝算が見積れたという事を意味する。
ともすれば、もしや──?
「
「相変わらず呑み込みが早ぇじゃねえか? ま、
(やはり!)
危惧を押し殺して噛む。
災厄の火種は、
だとすれば、また多くの〈
苦しみと
それを考えただけで、
さりとも、
彼女は〈
「……して、その場所とは?」
その問い掛けに、ロキは浅く自嘲を浮かべる。
「抑えきれねぇほど高い魔力が溢れ出てんだからよ、そりゃ〈
「それは
ヘルの疑問を受け、ロキは
「ヘッ……『灯台下暗し』ってヤツだな」
子供らしい飾り気に彩られた部屋で、ようやくブリュンヒルドはマリーとの対話に腰を落ち着ける事が出来た。
大きな熊のぬいぐるみを抱えて、ベッドの上へと座り込む
ブリュンヒルドは、その脇へと柔らかく腰掛け、彼女自身から心を開くのを待つ事とした。
消沈しているのか
まるで悲哀にも映る表情は、
感情を持て余しているのは明白だ。
(無理もありません。悠久の
「……お姉ちゃんは──」
「え?」
「──お姉ちゃんは、元気?」
困惑の中で、やっとの事で紡ぎ出したのだろう。
だから、穏和な物腰で諭すように導く。
「気になりますか?」
しかし、女児は
「……本当は、会いたいのではないのですか?」
一層激しく首を振った。
ぬいぐるみの頭に深く顔を
(この恐怖を何とか
後悔はさせたくない。
「マリー? 聞いて下さい……確かに、
幼女の反応は無い。
頭を
それでも構わずブリュンヒルドは続ける。
率直な誠実さが無垢な童心に
「
「……わかってる……」
消沈が
「黙っていれば、
「わかってるよ! そんなこと!」
哀しく
「お姉ちゃん、優しい人だもん! いつも自分のことなんか構わないで、わたしのことばかり! わたしの……こと……ばかり…………」
限界だった。
だから、ふくよかな頬を熱いものが伝った。
感情を懸命に
「……余程、会いたいのですね」
「そうよ! 会いたいわよ! 会いたいの! でも、怖いの!」
「でしたら、会いに行きましょう? 私と一緒に……」
「ダメよ! もう無理なの! あんなお姉ちゃんを見ちゃったら、わたし……わたし……もう昔みたいに見れないもの! 大好きなのに、怖いの! 怖くて怖くて、しかたないの!」
会いたくとも、会うのが怖い──。
会って真実を確かめるのが怖くて仕方ない──。
さりとも、会いたい想いは
相反する感情に苦しめられるも、それは何一つ矛盾していない。
だが、だからこそ、ブリュンヒルドの語気は強くなるのだ!
「そこまで〝会いたい〟という気持ちが強いなら会うべきです! でなければ、
「ブリュド?」
唐突に声を張った叱咤に、マリーが目を丸くする。
呆気に捕らわれて驚く女児の視線に、ブリュンヒルドは感情を鎮めた。
「……少し、
かつて神話の時代、人間界には見目麗しき姫君がいた。
ブズリ王の娘である。
「ねえ、シグルズ?」
萌える丘陵で共に
「ん? 何だ?」
腕組みを枕に横臥する青年は、おおらかな物臭に応える。
精悍で
彼こそが北欧神話に名を馳せた英雄〝戦士の王シグルズ〟であった。愛用の〈魔剣グラム〉によって〈悪竜ファブニル〉を退治し、その黄金を掌中に収めた
「その……あの……婚姻の事……なんだけど……」恥じらいに紅潮しながら、モジモジと指を絡ませ遊んだ。「その……そのね? すぐでなくても、いいんだけど……その……そろそろ……」
「するよ」
「……え?」
あまりに自然体な返答に少々意表を突かれる。
「俺はお前と結婚する」
いつの間にやら彼は、片肘枕でこちらへ向き直っていた。その気負わぬも迷いなき正視が何だか恥ずかしく、王女はますます赤面して顔を
「も……もう! 茶化さないで! 私は真剣に……」
「茶化してなんかいないさ。俺はお前が好きだったんだからな……ずっと前から」
「え? そ……そそそ……そんなの聞いた事も……」
「あははは……赤くなってやがんの」
「もう! 茶化さないでってば!」
「俺だって本気さ」
屈託なく彼は笑った。
込み上げてくる至福。
いつからだろう。
この
と、彼は両手広げの仰臥に青空を眺め、穏やかな抑揚に申し出た。
「ただ、もう少しだけ待っていてほしい……最後にやるべき事を終えるまで」
「え?」
胸中を
彼の指す事柄が、
ブズリ王家と冷戦状態が続くギューキ王家の事だ。
何かの火種があれば、両王家は戦争へと突入するだろう。
その関係悪化を払拭すべく、彼は〝和平の使者〟を買って出たのだった。
愛しきシグルズが旅立って、幾日が過ぎたのであろうか?
来る日も来る日も凱旋を待ち焦がれた。
だがしかし、彼女の下へ訪れたのは、到底信じ
「嘘よ! 嘘! 嘘!」
ベッドへと泣き崩れる。
『ギューキ王女〝グズルーン〟とシグルズの婚姻』──それが彼女にもたらされた現実だ。
「何故? 何故なの? シグルズ……」
深く愛し合っていた。
永劫の
神々でさえ引き裂く事が叶わぬ愛だと……。
それなのに、どうして心変わりをしたのか──分からない。
いくら考えても分からない。
あまりにも残酷な傷心に……。
「会いたい……会いたいよ……シグルズ」
狂おしい
いますぐにでも城を飛び出したい!
総てを投げ捨ててでも、愛しい
真相を確めたかった。
彼の
……そうではない。
否定して欲しかったのだ──いつもと変わらぬ笑顔で「お前以外に
「……だけど……もしも……」
胸中を不安が支配していく。
怖い。
会うのが怖い。
この情報が真実だとしたら?
いままでの愛が
その時、自分は正気でいられるだろうか……。
永遠の名に育んだ愛が幻想と消え、果てぬ憤怒に呑まれるのではないだろうか?
血塗られた剣を
だから……泣き濡れるしかなかった。
泣いても泣いても枯れぬ涙に、王女は泣き濡れるしかなかった。
その心が死に果てるまで…………。
もはや笑う事すら忘却に
だから、王女は政略結婚すら拒まない。
相手がギューキ王家第一王子〝グンナル〟というのは、何とも皮肉な話だが……。
よりにもよって、
さりとも、それすらどうでもいい。
城郭から眼下を眺め、王女は冷ややかに思う。
(……安っぽい)
高々と燃え盛る炎の壁。
それを物ともせずに飛び込み、グンナルは王女への求愛の強さを示すというのだ。
(……安っぽいパフォーマンス)
遠き日に──愛しい人との思い出に──総てを投棄したのだから。
はたして、グンナルは
これで父王ブズリの信頼は絶大なものとなったであろう。
後は『婚礼の儀式』という消化作業に望むだけだ。
「それでは……それでは、
グンナルが
のみならず、それを発案したのも、義兄を気遣ったシグルズだというではないか!
「そこまで……そこまでして、私を捨て去りたいのですか! シグルズ!」
心の氷が一瞬にして溶かされる!
情念の炎によって!
さりながら、
転じた憎悪!
あれほど愛した想い人は、胸の内で憎しみの対象と化けた!
「シグ……ルズ……シグルズ……シグルズ! シグルゥゥゥーーーーズ!」
滲む視界を睨み据え、王女は呪詛を叫ぶ!
狂ったかのように……。
総てを失った。
事の真相を知ったのは、焦がれた
ギューキ女王〝グリームヒルド〟は魔術に長けた人物であった。
彼は魔術によって過去を忘却させられ、グズルーンへの〈
「嗚呼、シグルズ……シグルズ……」
王女は、ひたすらに
何故、彼を信じられなかったのであろう?
何故、
そもそも、彼に会って確かめていれば、事無きを得ていたのではあるまいか?
たったそれだけ──それだけの勇気で、残酷なる歯車は狂ったのではないだろうか?
「シグルズ……シグルズ……!」
悔いても悔いても
彼は〈
二度と還らぬ。
(ならば、私も……)
天を仰ぎ、嘆願を吠えた!
「偉大なる
そして、王女は
愛しい人の忘れ形見〈魔剣グラム〉を用いて……。
壮絶な
一方でブリュンヒルドには高揚する様子もなく、思いの外に涼しい。
その表情は、寂しそうな
ややあって深い呼吸をすると、彼女は普段の沈着さへと立ち返り正視に告げた。
「いいですか、マリー? 大事な人に『会いたい』という想いが強いのなら、絶対に会うべきなんです。
「う……ん、でも……」
渋った態度に
けれど、ブリュンヒルドが伝えたい事は、しっかりと直視してくれた。それだけは確かだ。
どうせ即決させるには無理な話だ──
「その気になったら言って下さい。私は、いつでも付き添います」
心静かに立ち去ろうと、ブリュンヒルドは腰を上げる。
と、マリーが慌てて後ろ髪を引いた。
「あ! ブリュド、待って!」
「どうしました?」
「そ……その後は? どうなっちゃったの?」
強い関心に問う。
語り部は柔らかい
「皆、滅びました……悲恋の運命に巻き込まれたかのように。グンナルと弟のヘグニは王女の兄であるアトリ王の報復によって殺され、今度は妹のグズルーンがアトリ王に復讐を──」
「ううん! ちがうの!」
「──え?」
「王女様は? シグルズに会えたの?」
思い掛けない質問に驚く。
子供の視点というものは、どうやらとことんまっすぐらしい。
「……会えるはずですよ、いつかは」
悲恋の王女は、柔和な
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