~第一幕~
ともだち Chapter.1
昼の
ダルムシュタッドの町外れに
ヴァイオリンの
質素な
慢性的な闇が染め上げる現世魔界に
さりながら、その旋律は浄化のような安らぎを周囲に拡散した。
この音色にたゆとう間だけは、不思議と心に情景が広がった。
見た事すら無い情景が……。
青は澄み、緑は萌え、風はそよぎ、鳥は
やがて終幕を迎える、かけがえの無い時間……。
寂しくも満ち足りた想いを
目の前に居る奏者──ロッキングチェアに座る盲目の老人は暖炉の暖かさに揺れつつ、愛用のヴァイオリンを静かに膝元へと置いた。
「ありがとう」
心から惜しみ無い拍手を送り〈
満足そうな温顔で応え、老人は席を立つ。
そろりそろりと安全を確保しながら、食卓へと誘導する。
「続きは、また明日な……」
「うん」
質素な
二人だけが共有する
「それはそうと、娘さん? お前さんが来て何日になるかの?」
マグカップのミルクを飲みながら、老人が切り出した。
「半年以上になる」と、答えて〈
「まさか?」老人は白長い
「ありがとう」
「それに、娘さんや? オマエさんには行く所なぞ無いのじゃろう?」
「うん、無い」
「だったら、ずっと此処に
「そうか、ありがとう」
優しい
この〈
というよりは、
だからこそ、盲目の老人は満足そうな笑みで受け入れるのであった。
それは、おそらく〝子供のような無垢な心〟
一方で〈
彼は、あれこれと詮索する事をしなかった。
だからこそ名前を追求される事も無く、そのまま〝娘さん〟で通っている。
そして──幸か不幸か──盲目であった事から、彼女の醜怪な容姿を見られる心配が無い。
長く伸ばした前髪を垂らして醜い右顔面を覆い隠してはいたが、それでも一目見れば異様さに気付いたであろう。
フランケンシュタイン城から逃走して一年弱──。
彼女は
それは
老人が分け与えてくれたパンを受け取る。質素ながらも二人の昼飯だ。
「パン……おいしい……」
大事そうに一口食べると、自覚無き実感を小さく漏らし呟いた。
焦げた厚皮はボロボロと固かったが、それでも〈
木の実よりはマシだ。
「アンファーレン」
「うん? 何じゃね?」
「ありがとう」
素直な感情を現す。
この老人から教わった〝優しさ〟に感謝する言葉──大好きな言葉であった。
ややあって、不意に玄関の
予期せぬ来客の反応を警戒して〈
自衛手段だ。
彼女の姿を見た者は例外無く恐れおののき、そして、拒絶と加虐心に任せて迫害した。
此処へと辿り着くまで、幾度となく〈
「おじいちゃん、いるでしょ?」
幼女の声であった。
ひとまずの安心を得た〈
扉を開けて入って来たのは、愛らしい少女であった。まだ九才だ。
幼き身を軟らかな彩りに飾るピンク色のチャイルドドレス。赤いバケット帽からは、金髪の
「あ、やっぱりお姉ちゃんもいた」
「うん、いた」
素直な
「何じゃ? マリーよ、また
出迎えようとする老体を気遣いに制して〈
相手が幼い少女であるせいか、玄関先で並ぶと彼女の巨体が際立つ。
マリーは〈
まだ感情の表現が上手く出来ない……だから、これが精一杯の〝友情の
「マリー、
先刻の老人の言葉を、そのまま繰り返す。
「そうよ?」
幼さ
いずれにしろ〈
来客であるはずの少女が、主導権を持って〈
こうして、
「ああ、また
質素な食事を見て、マリーが
「マリー、パンは何かをしてくれている」
「え?」
「私のお腹を満たしてくれている」
的外れな〈
「そうじゃないのよ、お姉ちゃん。わたしが言っているのは、
「そうか、ありがとう」
「何を『ありがとう』なの?」
「教えてくれた」
このお姉さんの事は大好きだが、どうにも常識がズレている。下手をしたら、自分よりも知識が無いのかもしれない──そう感じた時から、マリーは自発的に〝教育係〟を意識していた。
「たぶん、こんなことだと思ったの。だから、コレを持ってきてあげたのよ?」そう言って、バスケットケースから
「いちごじゃむ……」
初めて見る物体を、まじまじと〈
「なあ、マリー?」アンファーレン老人は
「デッドのこと?」祖父の心配とは裏腹に、少女は涼しい態度で食事の準備を進める。「だいじょうぶよ、おじいちゃん。このまちには〝兵隊さん〟がいるから、デッドなんかこないもの」
「……〈
この世に『
人生の深みに
「私が着いていく」
唐突に〈
「ついていく……って、お姉ちゃんが、わたしをおくってくれるの?」
「うん」
赤い
「かえりはいいけど、くるときは?」
「呼べばいい。聞こえる」
「きこえないわよ! おうちまで一〇分もかかるのよ?」
「大丈夫。聞こえる」
「きこえませんよーだ!」
「聞こえる。マリーの声だから」
実際〈
彼女の聴覚は常人レベルを
ただし、万事を集音していては精神的に
そんな状態になれば、常時に
だから〈
生体的なスイッチのオンオフである。
だが、マリーとアンファーレン老人は〈
だからこそ、常にオンとしても良い──そう判断した。
「じゃあ、わたしがピンチのときも、お姉ちゃんがたすけにきてくれるの?」
「うん、行く」
ジッとイチゴジャムを見据えながら言う。
「……そっか」
マリーは何故だか嬉しくなって、パンを大きく
幼い
「……マリー?」
ようやく〈
「なあに? お姉ちゃん?」
食べる手を休めずに、マリーが応える。
「いちごじゃむは、
口に含んだミルクを思わず噴き出すアンファーレン。
あまりに突飛でグロテスクな発想に、少女は顔をしかめるしかなかった。
せっかくの食欲も減退したが、食卓は大笑いに包まれる。
ただ
慢性的な黒雲に覆われている
陽光は闇の層に遮られて弱体化するものの、一応は判別可能だ。
日中は
従って、少なくとも現状は夕刻だ。
街へと続く
「ねえ、お姉ちゃん?」マリーが見上げて言う。「お姉ちゃんは、どうして街に来たがらないの?」
優しい困惑を浮かべ〈
「私は行ってはいけない……嫌われる」
「そんなことないわ! 街の人達は、みんな優しいのよ?」
「そうだな……優しい人達だ」
それは知っていた。
実際に
物影に隠れて
坂道に立ち往生する荷馬車が在れば通りすがりが
何処かの誰かが困れば、何処かの誰かが手を貸す──そんな人達だ。
強く
だからこそ〈
それは、きっと
かつて、サン・ジェルマンは言った──「
その言葉の意味を、
心の痛みを……。
普段は優しい人々も、
それでも〝
憎めない自分が恨めしくさえ思えた。
だから〈
毎日……毎日…………。
ひたすらに
自分の
「……マリー」
「なに? お姉ちゃん?」
「私が怖くない?」
「顔のこと?」
「うん」
長い前髪を垂らしたところで、完全に隠し通せるはずもない。せいぜい遠目か
当然ながら、マリーは〈
その醜怪さを……。
さすがに
「こわいわよ?」
「そうか」
当然の返答とばかりに〈
「こわいに決まっているじゃない。顔だけじゃなく、体もキズだらけだもん。最初に見たときは〈デッド〉かと思ったわ」
「うん、ごめん」
何故か謝っていた。
「でも、しかたないわよ? だって、それだけの大ケガをしたんでしょう?」
「……うん」
この子と初めて出会った時に〈
厳密にはアンファーレン老が
正直、
たぶん、それは〝罪〟であり、この
「それにね? わたし、お姉ちゃん好きだもん」
またも
それは〈
「怖いのに?」
「うん、やさしいから」
「そうか」
何故だろう……胸が温かく、そして苦しかった。
けれども、この苦しみは
これまで味わった〝寒い苦しみ〟とは違う。
それを
「マリー」
「なに? さっきから?」
「ありがとう」
心から涌き出る想いそのままに〈
小さなともだちは
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます