雷命の造娘

凰太郎

~序幕~

アワレナムスメ

 ──闇暦あんれき二八年、ドイツ・ダルムシュタット。

 ドイツ中央に位置するこの街の郊外には、蒼い霊気に祝福された城影じょうえいそびえている。南へ五キロほど離れた丘陵きゅうりょうに在るそれは、むべき奇怪城として人々を畏怖させ続けていた。

 その名を〝フランケンシュタイン城〟とう。

 名門貴族〝フォン・フランケンシュタイン〟によって築かれた名城を一転して呪われた城へとおとしめたのは、旧暦中世に居城した錬金科学者〝ヨハン・コンラッド・ディッペル〟の影であろう。彼は解剖学へ先駆的に傾倒しており、夜毎よごとに死体泥棒を犯しては怪しげな実験を繰り返した。その奇異性が居城の心象へと直結し、今日こんにちいたる。

 一説では錬金術の秘奥技ひおうぎたる〈人造生命体ホムンクルス〉を生み出すために、科学的アプローチを模索もさくしていたという噂もある。

 そして、そのこころみは成功した……とも。

 いずれにしても真偽しんぎを知る者など、もはや存在しない。



 雷雨が激しく地表を叩きつけ、わずらわしい泥濘でいねいを生む。

 城の窓は過剰に洗われ、のぞけるはずの外界をぼやけさせた。

 唯一ゆいいつはっきりと認識できるのは、慢性的な暗黒の空──そして、黄色い単眼で下界を見据える漆黒の月。

 理不尽で異様な現世げんせ魔界まかいだ。

 それでも〈〉は、眺め続ける。

 飽きる事無く、ただうつろな眼差まなざしで……。

 外界には〝変化・・〟が在る。

 自然が生み、生命いのちはぐくみ、感情が動かす〝変化・・〟が。

 それは〝城〟の中には無いものだ。

 知らず知らずの内にがれた。

 その世界に受け入れられてみたいと思うようになった。

 未知なる外界には〝何〟があるのか──まったく見当も付かない。

 好奇心がうずく。

 いな、好奇心ではない。

 これは〝寂しさ・・・〟だ。

 自分の存在を閉鎖された城にいて、長らくさいなんできた虚無感きょむかんだ。

 鳥や樹々や草花は、きっと優しく自分を迎え入れてくれるだろう──淡い期待だけがつのる。

 自分を愛してくれるのならば、この容赦ない雷雨が相手でも構わない。

 自分・・が存在しない世界は、もう嫌だった。

 雷鳴がとどろく!

 冷酷な稲光いなびかりが、彼女の顔を窓へとさらうつした!

 手入れなく荒れた黒い長髪に、何処かはかなげな眼差まなざし。通った鼻筋に、精気無き青いくちびる

 そして、顔半分をへだてる縫合ほうごう痕跡こんせき──みぎ頭頂とうちょうから袈裟掛けさがけに刻まれた針痕はりあと。右目周辺はほほに掛けてみにくただれ、眼球もしの状態に近かった。その部位に皮膚は無い。筋肉繊維が生々なまなましくも痛々いたいたしく露出していた。生気せいき薄くも美貌を刻むひだり顔面がんめんとの対比が、ますます無情にみにくさを演出する。

「ヴァァァアアーーーーーーッ!」

 声にならない悲鳴をえた!

 おぞましく醜怪しゅうかいな〈怪物・・〉を拒絶し、その顔をおおってうずくまる。二メートル弱の巨体は、赤子のようにおびかがんだ。

 この顔は何だ?

 この身体からだは何だ?

 四肢ししも……胴体も……総てを縫合ほうごうつなまとめられたちぐはぐさ・・・・・は!

 嗚呼、この世の物とは思えぬグロテスクさ!

 身の毛もよだつ奇怪な外見!

 二度と見るのも御免であった!

 それがおのれだと自認じにんするたびに、彼女の心は八つ裂き刑にもてあそばれる。

 こんな化け物・・・が、誰かに受け入れて貰えるはずがない!

 樹々のざわめきは沈黙し、草花は枯れ果て、鳥は遠く飛び去るだろう!

 あわれな〈〉は苦しみなげいた。

 この慟哭どうこく幾度目いくどめか数えるのも疲れ果てるほどに……。



「〈ドルター〉! どうした!」

 厚い樫の扉を乱暴に開け破り、城のあるじが駆け入って来た!

 どうやら階下にて、獣の悲鳴を聞き付けたらしい。

 三〇代前半といった男性だ。

 真っ直ぐな意志力を宿したコバルトブルーの慧眼けいがんに、くっきりと通った高い鼻筋──シャープに整った顔立ちは気品と精悍さを共存させ、若獅子の貫禄さえ感受させる。

 紺色のスーツ姿は各所にきらびやかな貴金属の装飾がまばゆく、彼が時代錯誤な爵位にある事を主張していた。

 彼はうずくる〈〉に寄り添い、穏やかな抑揚でなだめる。

「大丈夫、落ち着くんだ〈ドルター〉……」

「ぅ……ぁ……〝……じぇるま・・・・〟……?」

 残酷さの拒絶に怯えていた〈〉は、ようやく落ち着きを取り戻した。

 保護者の名を呼ぶ発声は、耳障みみざわりにひずんでいる。

「そうだ、私は〝サン・ジェルマン〟だ。解るな?」

「ぁ……ぁ……」

 何度も大きくうなずき続けた。

 サン・ジェルマン卿は〈〉をいて立ち上がると、事態把握に室内を展望する。

 何があったのか・・・・・・・は、大方おおかたっしはつくが……。

(……やはりな)

 窓のカーテンが開いていた。

 外界を切望し、おのれに失望する──幾度いくどとなく繰り返された哀れな葛藤だ。

 しかし……。

(間隔が早くなっている)

 二週間が十日になり、十日が一週間──そして、現在では二日間隔だ。

(それだけ外界への関心が強まっているという事か……一度、納得させた方がいいかもしれないな)

 深刻な面持おももちのサン・ジェルマン卿を仰ぎ見つめ、〈〉は闇がいろどる窓を一生懸命に指し示した。

 そこには〈おぞましい怪物じぶん〉がいる……と。

「ぁ……ぁ……」

 伝えるだけの言葉はつむげない。

 そのさま健気けなげながらも薄気味悪く映った。

 さりとも、サン・ジェルマン卿は、そうは思わない。

 この〈〉は、無二の存在であった。

 この〈〉は、あいすべき対象であった。

 まるで我が子をいつくしむかのようなみを飾り、サン・ジェルマン卿は優しくさとす。

「〈ドルター〉、まずは座ろうか」

 樫席へとうながす。

「ぁ……ぅ……ぁ」

 〈〉は、まだ状況を伝えようと悪戦苦闘ジェスチャーを続けている。卿の言葉が耳に入っていない様子だった。

座りなさいセッツディッチ! 座るんだセッツディッチ! 〈ドルター〉!」

 多少、語気を強めた。

 だがしかし、彼としては叱ったつもりはない。

 これはしつけにも似た強要である。

 保護者の意向を感じとり、ようやく〈〉は従順に腰掛ける。巨躯に見合うだけの緩慢な動作であった。

 サン・ジェルマン卿は〈〉の両肩を押さえ、目線を合わせた正視に懇々こんこんと語り聞かせる。

「いいかい〈ドルター〉? 外の世界・・・・は、とても怖い所なんだよ……きみにとってはね」

「ぅ……ぁ……ごば……い?」

「そうだ。とても怖く、恐ろしく、残酷で、苦しい世界なのさ」

「……ざ……ごぐ……」

 言葉の意味は理解できている。

 ただ、自身がつむげないだけだ。

は、この城から出てはいけない……出るべきではない・・・・・・・・んだ。何故なら、残酷な運命がきみを殺してしまうから」

「ごろ……ず……?」

 ──。

 慈愛・・殺意・・──。

 そして、創造・・破壊・・────。

 知っている。

 いずれも本から学習した。

 されども、それが如何いかなるものかは、漠然としか分からない。

 まだ実感をともなわない概念を、頭の中で噛み砕く。

 奇怪な美貌が刻む沈思。

 ややあって〈〉が理解したと感じたか──サン・ジェルマン卿はちからを抜いた微笑ほほえみを飾り、舞台役者の如く両腕を広げて室内を見渡した。

「だが、この城に居れば何の心配もない。きみは護られる。此処は君の為の世界・・・・・・なのだからね」

 高らかなる誇示。

「ぅ……ぁ……」

 その背後にて〈〉が嫌々と首を振る姿は、不幸にも彼の視界には入らなかった。

 納得できない想いを訴えようとするも、それは叶わない。

 サン・ジェルマン卿の言葉は理解できても、サン・ジェルマン卿に心情を伝える事はできない。

 もどかしく口惜くちおしい主従関係であった。



つなぎ止めておくのも限界かもしれないな)

 うねる石造りの階段をくだりながら、サン・ジェルマンは懸念けねんを噛んだ。

かのじよの知性──いや、あるいはか──それ・・は日に日に成長している。いちじるしいほどに……)

 壁掛けの燭台しょくだい灯火ともしび息吹いぶかせ、白亜の石壁をおもむきのある橙色だいだいへと染めあげる。それは温かくも冷たい心象であり、呼応して小躍りするサン・ジェルマン卿の陰影はあざけ幽鬼ゆうきにも映った。はたして、それは彼の心底に眠る罪悪感の具現化なのだろうか。

 黙想に階段を抜けると、暖炉が盛る応接間へと向かう。

 現状いまは接客の続きを演じなければならない。



 サン・ジェルマン卿が去ると、部屋は再び閑寂かんじゃくとした霊気に支配された。

 ポツンと置かれた〈〉は、うつろに室内を見渡す。

 仄暗ほのぐらいランタンの灯火ともしびが、不規則な呼吸に物品ぶっぴんの影を〈妖精コボルト〉の如く暴れさせた。されど、それらは何かを起こすわけでもなく、音ひとつ立てはしないが……。

 あかりの勢いは小さく、室内の蒼さを呑み返すには貧弱であった。石壁の冷気と霊気はとどこおる。部屋の片隅に飾られた蜘蛛の巣が、自分以外の〈生命せいめい〉を感受させる唯一の装飾だ。

 樫製の長卓がいくつも並び置かれ、その上には何やら書かれたメモやノートが乱雑に放置されている。

 文字を読めるまでには学習していたが、まだ単純な文章までだ。記載されている文面は複雑過ぎる。読み解く事などできない。

 だが、描かれている図が人間の部位である事は大凡おおよそ見当着いた。それらを指して、つぶさに注意項目が書き殴られている。

 試験管や薬瓶といった実験器具が卓上に並ぶ。それらが何なのか〈〉には分からなかったが、久しく使われていない事は明らかであった。とはいえ、使い掛けの片鱗はうかがえる。道具の持ち主は、失踪直前まで実験を繰り返していたのであろう──何の実験かは皆目検討も着かないが。

 やがて〈〉は立ち上がり、のそりのそりと部屋の一角へと向かった。

 壁際に据えられたくすんだ大きな木板。馬車の荷台から車輪を外したかのような粗雑な作りであった。要所には厚みある黒金具が強度の補強としてあり、見た目の襤褸ボロさに反して頑丈な代物だ。とりわけ拘束こうそく用の鉄枷てつかせは、如何物いかもの的な印象を強調する。

 それを中核として大掛かりで怪しげな機械が壁と囲い、木板に取り付けられた機械部品類と配線でつながっていた。避雷針から吸収した電気を変換し、木台上の対象へと供給する超高圧変電装置ハイヴォルトコンプレッサーである。

 それが〈〉の寝床……そして、この世で最初に目覚めた場所であった。

 寝台に横になると、頸動脈けいどうみゃく付近の丸頭ボルトを少しだけ引き出し、超高圧変電装置ハイヴォルトコンプレッサーの配線とつないだ。

 今宵こよいは雷雨が激しい。

 数ヶ月分のかて蓄電ちくでんするには事欠かさない。




「御待たせしました、ミスター・ゲルハルト」

 何事も無かったかのように抑揚を偽装ぎそうするサン・ジェルマン卿。

 暖炉が熱を奏でる応接間はビロードの赤絨毯あかじゅうたんが敷かれ、格調高い意匠をほどこした調度品をアクセントといろどっていた。歓待の華といこわせるのは、人間臭い生活臭と無駄な絢爛けんらんさ。

 豪奢ごうしゃなロングソファーにて待っていた来客らいきゃくは、けているかのような上目遣うわめづかいで若き城主の挙動を観察した。そもそも陰気な容姿のせいか、物言わずとも責め立てているかのような気難きむずかしい印象をいだかせる。

 年齢は四〇代後半か。

 薄い髪量をオールバックに流し、卵形の細面ほそおもてけわしさにほほけていた。そこにくぼんだ大きな目はうとむかのようにまぶたが垂れ、相手の本質を値踏みしようとする陰湿な気質を感受させる。幅薄くも高い鼻筋が、そうした神経質な印象を助長していた。

 カーキ色の軍服姿が物語る通り、彼はダルムシュタットを防衛する〈完璧なる軍隊フォルコメン・アルメーコーア〉の将校である。

 名を〝ウォルフガング・ゲルハルト〟という。

 彼の背後には、規律然と立つ二名の護衛兵。

 全身を固める特殊装備は、さながら『SF作品』に登場する〈近未来戦士サイボーグ〉を彷彿ほうふつさせた。魔界とした闇暦あんれき世界には不釣り合いな異質感だ。

 頭部には完全密封フルフェイス型ヘルメット。そのため、表情や素顔をうかがう事は出来ない。

 口部マスクから生え伸びる呼吸用ホースは、胸部の生体維持装置バイタルシステムへとつながっていた。毒ガスはおろか、世界に蔓延まんえんする魔気ダークエーテルさえも遮蔽しゃへいする脅威の科学技術テクノロジーである。

「先程の雄叫びは?」

 二人分のブランデーを用意するサン・ジェルマン卿の背中へ、暗い声音が問い掛ける。

ですよ」

「獣?」

「ええ、おのが衝動を持て余す飢えた獣・・・・──それだけです」

「フン……冥府魔犬ガルムでも飼っているのかね?」

 自分と客人のグラスを卓上へと置き、サン・ジェルマン卿は談義の席へと着いた。

 腹を探り会う接待に平然をつくろい、彼はうそぶく。

「この闇暦あんれきでは、何時いつ如何いかなる状況が襲ってくるか判らない……護身用ですよ」

我々われわれ完璧なる軍隊フォルコメン・アルメーコーア〉が信用には当たらない……と?」

 ウォルフガングは背後の科学武装兵士ウィッセンチャフト・ソルダット一瞥いちべつし、暗黙の誇示を臭わせた。

「まさか?」くゆらすグラスの変化を眺め、サン・ジェルマン卿は武勇をたたえる。「先代領主〈冥女帝ヘル〉をくだし、その領有権を人間の掌中へと奪還した……その戦果に敬意を表しこそすれ、懸念を抱く事などありませんよ」

「フン……民話フォークテールの遺物など、人類が探究蓄積してきた叡智〈科学〉の前には迷信時代の俗害でしかない」

「そして、やがて〈科学〉は総てを凌駕りょうがする……と?」

「そうだ」

「〝〟と〝〟さえも?」

「例え〈〉でさえも……だ」

 ウォルフガングが自尊に息巻いた。

 そのさまに重ねて、サン・ジェルマンは思うのだ──その先・・・があるのだ──と。

 永き歳月に噛み締めてきたむなしさを、彼はころす。

 悟られてはならない。

「それで? 今宵こよい如何いかなる御用件を?」

「……何度も言わせるな。『Fの書』だ」

 寸分すんぶんたがわず予想通りの追及が向けられた。

 毎夜のようにウォルフガングが来城する理由は、他に無い。

 だからこそ、サン・ジェルマン卿の返事も変わらなかった。

「以前から御話ししてますが、アレ・・はただの迷信──都市伝説というやつです。実存すらしていませんよ」

「私を見くびるなよ、ハリー・・・クラーヴァル・・・・・・!」

 呪怨を込めたかのような上目遣うわめづかいが、相手の名前・・・・・くちにする。

 ウォルフガングは知らなかった。

 自身の眼前に居る相手が、史実上に暗躍した〈伝説の怪紳士〉たる〝サン・ジェルマン伯爵〟だとは……。

 いな、ウォルフガングだけではない。

 彼の正体を知る人間・・など一人ひとりとしていない。

 仮に看破する者がいたとしたら、それは〈魔〉に属する者──〈怪物〉だ。

すで我々われわれは、確信を得ているのだ! かつて旧暦中世に居城した錬金科学者〝ヨハン・コンラッド・ディッペル〟は〈人造生命体〉の創造に成功し、その詳細を手記にまとめた──それこそが、我々われわれの追い求める『Fの書』だ! そして、それ・・は、この城に有る! 必ずな!」

「ですから、それは俗信だと──」

「いいや、有る! 何故なら、の〝フォン・フェルシェア〟は、此処で人体実験のノウハウを独学したのだからな!」

「──!」

 動揺に息をむ!

「だが、如何いかにフォン・フェルシェアとはいえ、まったくの独学であれほどの才を開花できたか? いな! そこには『Fの書』があったはずだ! それを秘匿ひとく教書きょうしょとして、彼は非凡なる生体実験知識をつちかったのだ!」

あなどっていた……まさか〈完璧なる軍隊フォルコメン・アルメーコーア〉の情報分析力が……いや『Fの書』への執念が、これほどとは)

 フォン・フェルシェアは、旧暦に実在した遺伝学者である。

 ベルリンに設立された〈カイザー・ウィルヘルム研究所〉の所長であり、第二次世界大戦にいて悪名高き〈ナチス〉の生体実験施設〈アウシュビッツ強制収容所〉の確立に一役買った人物である。

 フェルシェアは「ゲルマン民族以外は劣性種族であり、下等な家畜同然である」という信憑性しんぴょうせい皆無かいむ偏見へんけん学説がくせつ『アーリア・ゲルマン民族至上主義』に心酔し、非人道ひじんどう所業しょぎょうにもユダヤ人逹を〝臨床実験動物モルモット〟として扱った。

 それは〈ナチス〉が──あの史上最悪の独裁者〝アドルフ・ヒトラー〟が──かかげる理念と合致がっちするものであり、ともすれば両組織が結託へといたったのは当然と言える。

 そして、その狂気的理念はまな弟子でしたる〝ヨーゼフ・メンゲレ〟へと色濃く受け継がれ、彼を〝アウシュビッツの死の天使〟と呼ばれるまでの狂人医学者マッド・サイエンティストそだて上げたのだ。

 だからこそ、サン・ジェルマンは、改めて静かなる決意を固める。

(忌まわしい……人類が繰り返してはならない汚点……いや、絶対に繰り返させてはならない・・・・・・・・・・・・・・・!)

 それは、贖罪しょくざい弾劾だんがいを内包した義務感・・・であった。

「どうした? 顔色が悪いぞ?」サン・ジェルマン卿──ハリー・クラーヴァルの機微を嗅ぎ取り、ウォルフガングはたたみ掛ける。「あるいは、貴様が持っているのではあるまいな?」

「仮に、そうだとして──仮に私が所有していたとしても、それ・・を見る事は無いでしょう」

「何?」

「何故なら、私自身が焚書たきしょさばくからです」

「き……貴様?」

 驚愕に席を立つウォルフガング!

 悲願たる秘宝を脅迫材料と取られ、その形勢は逆転した!

 が──「御安心を。私が所有していれば・・・・・・・……の話ですよ」──クラーヴァルは余裕然とした微笑びしょうを浮かべ、現存の可能性を否定した。




 今宵こよいの対立も、平行線のまま幕を閉じた。

 ハリー・クラーヴァルは形式的な礼節に準じて、ウォルフガングを玄関まで見送る。

 城門前に停車してあったのは、武骨な重チタン鋼を誇る車輌であった。車高は三メートル弱といったところか。鈍く反射する鋼色が、頑強な装甲の厚さを物語る。形状的にはキャンピングカーと酷似しているものの、兵士達を収容する後部コンテナは物々しくも大きい。

「やはり雨脚が強いようですね」

 クラーヴァルは闇空やみぞらを仰ぎ眺めた。

 雨雲さえも押し退けて存在を誇示するのは、巨大な単眼を核とした黒き月──。

 白い環光で地上を照らす黒き月──。

 黄色く淀んだ単眼は、威圧感に彼を見つめ返してくる。

「ミスター・ゲルハルト、くれぐれも帰路は御気を付けて……。この雷雨では視界が悪い。加えて、泥濘ぬかるんだ足場では、万ヶ一遭遇・・した場合は厄介ですから」

 護送車に乗り込まんとトレンチコートを羽織る来客へ、一応の老婆心を添えた。

「フン……〈デッド〉の心配か」軽んじて鼻を鳴らす。「何のための〈完璧なる軍隊フォルコメン・アルメーコーア〉だと思っている? そもそもは、デッド駆逐を第一目的に造られた兵士逹だぞ?」

 攻撃的なにらけに対して、クラーヴァルは優雅な一礼で謝罪の意を示す。

「失礼致しました。若輩者じゃくはいものの無知なる非礼と、どうか御容赦を……」

「……フン」

 不機嫌さを置き土産に、ウォルフガングは去って行った。

 無論〈完璧なる軍隊フォルコメン・アルメーコーア〉が護衛に就いている以上、何の心配も無いだろう。

 叩きつける煙雨えんうかすむ情景に、物々しい車輌が遠ざかって行く。

 それを黙想に見送ると、今一度いまいちど黒月こくげつを仰ぎ眺めた。

 地上を見据える巨大な単眼が、実際にを見定めているかは判らない。

 その視界は、闇暦あんれき世界全土をとらえているのだから……。

 さりながら、サン・ジェルマンはみずからが標的とされているかのように感じるのだ。

 おのれ心底しんていに隠し殺したとが看破かんぱされているかのように……。

「罪……か」

 吐露にも似た呟きを噛み締め、彼はきびすを返した。




「ハリー・クラーヴァルめ……喰えぬヤツだ」荒れた路面に激しく揺らされる助手席で、ウォルフガングは憤慨ふんがいを吐き散らした。「ヤツは絶対に『Fの書』を所有している。しんば、そうでなくとも在処ありかは知っているはずなのだ」

 同意を期待して運転席へと視線を送るも、この兵士逹にそれだけの器量が有るはずもない。ただ黙々と指令をこなすだけの木偶デクだ。

 晴れぬ不快に、雨粒が狂い殴る車窓を眺めた。

 フラトレーションを解消するすべは、結局自分で探り当てるしかない。

(それにしても、あの若僧は何者なのだ?)

 常々つねづねいだいていた疑問が、頭の中をめぐった。

(ある日、突然にあらわれ、あの〝フランケンシュタイン城〟へと住み着いた。爵位とてあやしいものだ。だが『Fの書』に携わっているのは明らか……)

 すべる景色はすべてを暗色ダークトーンに呑み、目まぐるしく過ぎる樹林じゅりんのシルエットを〝魔物のうたげ〟とえる。

 地表には墨色すみいろのドライアイスがただよい、タイヤの位置まで車体をまとわり呑んでいた。

 闇暦あんれき全土に蔓延まんえんする〝漆黒しっこく魔気まき〟──〈ダークエーテル〉だ。

 その中をひらき進む車輌は、まるで大海を航行する水陸両用車にも映る。

(……いったい何者だ? 何を目的としている?)

 思索に集中する最中さなか、不意に車輌が急停止した!

「うおっ? 何だ? 何事だ?」

 コンソールへと突っ伏しそうになる体勢をなおし、状況報告を求める。

 が、やはり兵士ソルダットは答えない。

 無表情なフルヘルメットは、機能停止でもしたかのように正面を見据えているだけだ。

 いぶかしんで目線を追う。

 左右には深緑と染まる雑木群が壁としげり、蒼い闇と同化していた。その中央を剥き出しの土肌が道程どうていと伸びている──現在走行してる泥濘ぬかるんだみちだ。

 ヘッドライトが照らし浮かばせる範囲はわずか数メートル程度しかなく、白い光に解放された空間にはそそぐ大粒が周囲よりも力強ちからづよく視認できた。

 そこに、はいた。

 まるで自殺志願者のように車輌の前へと立ち尽くし、その進路を妨害している。

 顔は暗がりでよく確かめる事は出来なかったが、白光びゃっこうさらされた衣服は襤褸ボロ雑巾を彷彿させる汚れ具合であった。

 フラフラと不安定な体幹たいかんに揺れ、虚脱的に身を委ねる様はさながら不器用な案山子かかしか。

 この男が何者か──ウォルフガングには、迷いもせず看破できた。

 いな、彼でなくとも判るだろう……闇暦あんれきに生きる者ならば!

「フン……デッドか」

 魔界の黒霧〈ダークエーテル〉は、死体の脳へと干渉して〈生ける屍デッド〉と再活動させる性質を宿す。

 無作為無尽蔵に増産される〈デッド〉には、自我も心も欠損している。

 捕食本能のみに動かされるまま人間を襲い喰らう食人屍しょくじんきであった。

 そして、襲われた者も〈デッド〉の仲間入りをしてしまう……。

 生存者を常時おびやかす〝連鎖サイクル〟が、闇暦あんれきの自然摂理として構築されていた。

 だがしかし、それは一般人・・・に限った話ではあるが……。

 次第にデッドの頭数が増えていく。

 しげみから、あるいは暗がりから、ゾロゾロと姿をあらわした。あれよあれよと十人強までふくれ上がり、ウォルフガングが乗る装甲車を取り囲む。

 はたしてアイドリングの音が呼び寄せたか……それともヘッドライトの明かりか……いずれにせよ生者せいじゃ痕跡こんせきが呼び水になったのは間違いない。

「……排除はいじょしろ」

 コンソールのマイクを手に取ると、ウォルフガングは冷徹に命令を吐き捨てた。

 それは後部コンテナで待機状態にあった〈完璧なる軍隊フォルコメン・アルメーコーア〉の武装兵士ソルダット逹へとつたわる。

 ──ヴォン!

 ゴーグルの奥で一斉いっせいともる赤い目!

 彼等は座していたわけではない。

 各固が直立型調整庫ハンガードックへとフックされ、宙吊り体勢のまま休眠待機していた。

 そして、上官命令によって再起動リブートした彼等は、その指令を実行すべく解放ロールアウトされた。

 コンテナ最後尾の扉が、軋む駆動音を鳴いて左右に開く。冷却ガスが白いもやと垂れ流され、地表の黒霧こくむと取っ組み合いを始めた。

 降り立つ科学武装兵士ウィッセンチャフト・ソルダット達は機械的に標的ターゲットを見定め、同時に喰屍デッド達は獲物を捕捉する。

 前哨ぜんしょうも無く始まる交戦!

 それは、対怪物戦に特化した〈完璧なる軍隊フォルコメン・アルメーコーア〉の虐殺劇でもあった!

 ゴーグルの紅眼あかめから照射される赤外線がしかばねの眉間に糸をつなぎ、拳の甲に仕込まれた内蔵銃が弾ける火花につらぬく!

 如何いかに〝動く死体デッド〟とはいえ、存在のかなめたる死脳しのうを破壊されては活動停止におちいらざる得ない。

 火花と銃声と硝煙臭しょうえんしゅう──。

 そして、血飛沫ちしぶき────。

 それだけが繰り返される。

 助手席で事態収束を待つウォルフガングは、やがて沈静化した環境音に煙草タバコを消した。圧勝を確信しているからこその余裕であった。

 車外へと降り立つと、周囲を展望して戦況を把握する。

 まんいちに備えた事後警戒にたたずむ自軍兵士達と、頭部を撃ち抜かれて転がる死体達──。

 予想通りの戦果は、取り立てて関心をいだほどでもない。

 と、不意にしげみがざわめいた!

 低木を掻き分けて現れたのは、少年……のデッド!

「フン……大方、家族ぐるみでデッドに襲われたか」

 先刻と現在の状況を統合的な判断材料として、そう結論着く。瞬間的な演繹能力えんえきのうりょくの高さは、彼の頭脳明晰さを立証するものであった。

「カアッ!」

 口腔こうこうを開いた少年が、ウォルフガング目掛けて飛び掛かって来た!

 いたちごとき跳躍と素早さは、小柄な体躯たいくせるわざだ!

 しかし、ウォルフガングは平然を崩さない。

 対処法は、すでに叩き込んである。

 手近な科学武装兵士ウィッセンチャフト・ソルダット赤外線せきがいせん照準サイトが、少年のこめかみ・・・・つながる!

 手首甲部の内蔵小径銃が火を吹いた!

 が──「何っ?」──攻撃がはずれた!

 跳躍の慣性に標的こめかみ弾道だんどうを通過し、その銃弾は後ろ髪をかすめるのみ!

 それはウォルフガング自身が招いた誤算!

 子供ゆえの小柄さ……素早さ……そして、反射神経の高さ…………そうした条件データは、兵士達へ与えていない!

 対象指定としてあったのは〝成人男性〟のみ!

 完全に予測外イレギュラーの事態であった!

「クッ?」

 ふところの携帯拳銃を取り出そうとするも、もう遅い!

 小さな肉食獣は、すでにウォルフガングへと飛びついていた!

「ガアァァッ!」

「うおおっ?」

 身動きがままならない!

 噛まれないように顎下あごしたへと腕をみ、必死に押し返すだけで精一杯であった!

何をしている・・・・・・! 撃ち殺せ・・・・ーーーーっ!」

 棒立ちに対応を見せない兵士へと、戦慄せんりつとも怒号どごうとも取れる命令を叫んだ!

 生者せいじゃの肉を千切ちぎらんと、目と鼻の先で死顎あぎとが暴れる!

「カアァァァーーッ!」

「うおおぉぉぉーーーーっ?」

 弾け飛ぶ血飛沫ちしぶき

 ウォルフガングの……ではない。

 少年デッドの物である。

 間一髪で、科学武装兵士ウィッセンチャフト・ソルダットの射撃対応が間にあった。

 組み付いた事で座標が固定されたのが項をそうした形である。

 まさに『九死に一生』であった。

「ハァ……ハァ……ハァ…………」

 あらげた心拍をあえととのえる。

 さすがに生きた心地がしなかった。

 脂汗あぶらあせぬぐいつつ、地面へと転がる死体を見遣みやる。

 こめかみを撃ち抜かれたそれ・・は、路傍ろぼうに転がる野良犬の死骸と同じに過ぎない。先刻の野獣然とした狂暴性など微塵も感じられなかった。

 徐々に取り戻したせいの実感が、沸々ふつふつとした憤慨ふんがいへと転化していく。

「この……死体風情ふぜいがぁぁぁーーっ!」

 ふところの携帯拳銃を乱暴に抜き出すと、物言わぬ無抵抗へと狂ったように発砲した!

 幾度いくども! 幾度いくども!

 装填した弾丸が尽きるまで!

 カチリカチリと引き金が空鳴からなきすると、ようやくウォルフガングは激昂げっこうを自覚に鎮めた。

「……クソ餓鬼ガキが!」

 亡骸なきがらの腹を蹴り上げてくくりとする。

 車輌へと戻る足取りの中で、彼は改めて野望を噛み締めた。

「見ていろよ〈怪物〉共! この世界を征するべきは、我等われら人間・・〉……が〈完璧なる軍隊フォルコメン・アルメーコーア〉なのだ!」




 応接間へと差し掛かったと同時に、サン・ジェルマンは気配・・を感じた。

 誰も居なくなったはずの室内からだ。

 人間・・のものではない。

 独特のよどんだ瘴気しょうきが、それを裏付けている。

 警戒心をいだきつつ扉を開くと、久しく会わなかった顔見知りが居た。

「ィェッヘッヘッ……よう、お久しぶりだな? サン・・ジェルマン伯爵・・・・・・・殿?」

 みすぼらしくせた黒人紳士だ。

 黒いジャケット姿に、黒い山高帽子。いやしく笑う口角こうかくにはくわ葉巻はまき紫煙しえんあぶす。

 家具の価値など些末さまつとばかりにテーブルへと足を投げ出し、我が物顔でソファに寝寛ねくつろいでいた。城主に断りも無く、酒も飲み放題だ。

「……ゲデか」

 あきれともあきらめとも取れる嘆息たんそくを吐いて、サン・ジェルマンは正面ソファへと相席した。

 客人から・・・・差し出されたグラスを受け取る。

「ワインも有るが?」

「ケッ! 葡萄ジュース・・・・・・なんざらねぇよ!」

 高貴と卑俗ひぞくという両極端な性格に在りながらも、両者は旧知であった。

 決して友人・・ではないが……。

何時いつ、ドイツへ?」

「数時間前さな。ま、オレ様には〝時間〟も〝距離〟も関係無ぇけどよ……ィェッヘッヘッ」

 独特の笑い方を濁声だみごえが刻む。

 彼自身が言う通り〝時間〟と〝距離〟は無意味な制約だった。

 この品性下劣な男は〝ブードゥー教〟の〈死神〉──世界中何処であろうと〈死〉の臭いを嗅ぎ付けてはあらわれ、そして〈死〉をかて満喫まんきつしては去って行く。彷徨ほうこう疫病神やくびょうがみである。

「それで? わざわざ懐かしんで来たわけではないようだが?」

「まぁな」

 相槌あいづちそぞろに、グラスのウィスキーをあおった。

 と、死神ゲデの性質を想起そうきしたサン・ジェルマン卿は、懸念けねんまゆひそめる。

「まさか! きみが訪れたのは?」 

「ィェッヘッヘッ……そう警戒しなさんなよ? 別にドイツを餌場・・にしようってんじゃねぇ。ま、それも一興いっきょうだが……残念ながら、オレ様はロンドンにおもむなきゃならねぇのよ」

「ロンドン?」

 予想外の返答に、内心ホッとした。

 ゲデにしてみれば、そうした忌避感きひかんもお見通しだが……。

 品行方正ぶった詭弁者ジェントルマンうとまれるのも、これまた心地いい。

 さかなのナッツへと手を伸ばし、死神は続ける。

「どうやら吸血鬼共が新興勢力を立ち上げようって動きがあってな、その下調べってトコだ」

「そこで、また混乱こんらんを引き起こそうと?」

「ィェッヘッヘッ……刈り取る・・・・のは、まだまだ先さな。充分れてくれなきゃうまくもねぇしな。今回は下調べだよ」ウイスキーの酒瓶を取ると、主人の承諾など得る気も無いままに二杯目を注いだ。「しかし、超科学の軍隊・・・・・・……ねぇ? オレ様に言わせりゃあ『カルト魔術』も『科学盲信もうしん』も同じ。違いが解らねぇやな……ィェッヘッヘッ」

 皮肉な指摘に同感を噛みなからも、サン・ジェルマン卿はそれを示す事をしなかった。

 この男とは距離を置きたい本音もあったが、何よりも彼自身がそうした文明の恩恵・・・・・・・・・あやか人間・・だからであろう。他人事ひとごとではない。

 落とす眼差まなざしにグラスの氷を遊ばせ、サン・ジェルマン卿は話題の進展をうながした。

「それで? 此処へ来た本題は?」

「邪険だねぇ? そんなに早く帰ってもらいてぇのかよ?」ニタリとゆがんで茶化ちゃかす。「既知ダチとして警告に来てやったんだよ。近ぇ内にドイツ……ことに、このダルムシュタッドは荒れるぜぇ?」

「……何?」

 ピクリと反応した機微を嗅ぎ取り、ゲデは軽い悦を味わう。

「どうやら〈ロキ〉の野郎が、何かを画策かくさくしてやがる……ま、何か・・は知らねぇがな? あの野郎が姦計かんけいしているならロクな事じゃあるめぇよ……ィェッヘッヘッ」

「馬鹿な!」

 サン・ジェルマン卿は戦慄に立ちあがった!

「ロキは幽閉されているはずだ。やがて訪れる〈神々の黄昏ラグナロク〉まで、何処かの洞窟へと……」

 北欧神話に名高い悪神〈ロキ〉──そもそもは北欧の神々〈アース神族〉と敵対する種族〈霜の巨人〉に属する者でありながら、狡猾こうかつに取り入って神々の仲間入りを果たした異端である。

 その性根は邪悪。

 目の前に座る死神・・と負けず劣らずの〝悪徳の申し子〟である。

「へっ……〈神々の黄昏ラグナロク〉だぁ? そんなモン来るはずァねぇだろ」

 ブードゥー教の死神があざけた。

 北欧神話にいて、神々の終末戦争は事前に決定されている──その結末までも。

 最高神〈オーディン〉が『未来予知の目』を所有するがゆえだ。

 すなわち、発端から末路に至るまで万事ばんじが〝運命〟であり、言い換えるならば『運命の消化試合』とも表現できる。

 それが〈神々の黄昏ラグナロク〉と呼ばれる終末戦争だ。

 北欧神話が他の神話群と一線を画する特色である。

「御存知の通り、現在いま闇暦あんれきだ。旧暦ならいざ知らず、この現世魔界で〈終末世界観〉もクソもあるかよ。キリストも仏陀ブッダさじ投げ、大天使ミカエル弥勒菩薩みろくとやらも出る幕は無ぇよ。在るのは忌み呪われた〈怪物・・〉だけさ……ィェッヘッヘッ」

「しかし、オーディンの未来予知は絶対のはず……」

そんなモン・・・・・に依存するからさね。未来なんざ手繰たぐりきれない糸の束だ。何か・・の拍子で歯車なんざ簡単に狂っちまう。オーディンが見てるのは、その一本に過ぎねぇのさ。そもそも、こんな未来・・・・・を、誰が予見した? ああ、確か終末預言者ノストラダムスがいたか。もっとも、そいつに耳を傾けなかった結果、闇暦あんれき世界が顕現したんだがな。一九九九年七の月にな……ィェッヘッヘッ」

 眼前へと持ち上げたウイスキー越しに、死神は万事ばんじ見透みすかすかのような目を覗かせる。

人間テメエらが何をしたか……心当りは、あるだろうよ?」

 深淵しんえん想起そうきさせる瞳力どうりょく──普段のおどけ・・・からは見せない深い闇だ。

「……〈冥女帝ヘル〉か」

 先代領主〈冥女帝ヘル〉──北欧神話にける〈冥界の女神〉である。

 そして〝悪神ロキ〟の娘でもあった。

「娘の仇討あだうち……か」

「ィェッヘッヘッ……あの野郎ロキが〝父娘おやこ愛〟なんて安っぽい情で動くたァ思えねぇよ。目的は『闇暦あんれきの覇権』さね。だが、事を起こす口実こうじつとしちゃあ充分だ」

 重い沈黙が刻まれる。

 ややあってゲデは再び道化どうけよそおい、辛辣しんらつ讒言ざんげんまとめた。

「ま、どちらにせよ神界の奴等は現世に介入できねぇ。何せ〈黒月アイツ〉が強力な負念でさえぎってるからな。ロキにしてみれば好機チャンスだよ……ィェッヘッヘッ」

 サン・ジェルマン卿はドサリと腰を下ろす。

「ロキが復活すれば、おそらく多くの犠牲が……」

「だろうな。ロキが動いて、平穏無事で終わるワケは無ぇ。何せ、あの野郎は〝うとみ、うとまれる〟だ。が混沌となげきに包まれれば包まれるほど、ヤツの喜びと達成感は満たされる。してや、現在いまは人間側も〈軍隊〉──確か〈完璧なる軍隊フォルコメン・アルメーコーア〉とか言ったか──を持ってやがるからな。火種は充分だ。陰惨な混沌はまぬがれめぇよ。うらやましいねぇ? ロンドン行きを取り止めてぇぐらいだ……ィェッヘッヘッ」

 最低な下劣ぶりを土産みやげと吐き、ゲデは満足気まんぞくげに席を立つ。

 どうやら、そろそろ旅立つ気になったらしい。

 山高帽子を身嗜みだしなみとかぶり、ステッキを回し遊びながら窓際へと歩き出す。

「それにしても意外だな」

 サン・ジェルマン卿の言葉に、窓際で立ち止まった。

「あ? 何がよ?」

「何故、こうも貴重な情報を? 君は、てっきり悪神ロキとは馬が合う・・・・ものだと思っていたが?」

「冗談よせやィ? あの野郎なんざ大っ嫌いだよ!」

「ほう?」

キャラが被って・・・・・・・やがる……ィェッヘッヘッ!」

 サン・ジェルマン卿は乾いた苦笑を返答とする。

 どこまでが本気か分からない──つくづつ食えぬ男・・・・だ。

「ま、あの野郎よりもイケ好かねぇモンもあるがな」

「何だね?」

「そいつぁ〝絶対ぜってぇ死なねぇヤツ・・・・・・〟だよ。不死の男サン・ジェルマンさんよォ? ィェッヘッヘッ!」

「ッ?」

「何をしても死なねぇ存在・・・・・・──自然の摂理からも魔のことわりからもはずれた異端いたん──実に怖ぇ・・ねぇ? ィェッヘッヘッ……ィェッヘッヘッヘッヘッ……」

 下卑げびた嘲笑を置き土産みやげ木霊こだまさせ、死神は黒く霧散して去った。

「ゲデめ、私の過去・・・・を軽く覗いた・・・な」

 立て続いた緊迫から解放され、疲労感のままに深く背凭せもたれる。

 仰ぐシャンデリアに放心を乗せ、孤独な想いを無意識に吐露した。

「私は……どうしたらつぐなえる…………」

 込み上げる感情をこらえつつも、彼は涙を流せなかった。

 悲しみと後悔と懺悔──それをかかえ生きる事がみずからに課しただと知るから……。

 雷雨が騒ぐ。激しく責め立てるかの如く。

 静まり返った広い部屋は、それを無遠慮に響かせ続けた。

 それは、彼を〈咎人とがびと〉と糾弾きゅうだんする刑罰であった…………。





 落雷の怒号を子守唄と身を委ねて〈〉は夢幻むげんをたゆとう。


 ──彼女かれに会いたい……。


 その想いが、日々つのる。


 ──かのじよを護らなければ……。


 その意志が、現状に焦燥を抱かせた。


 ──彼女かれとは……かのじよとは誰だ・・


 奇妙だった。

 見知らぬ相手に、強く呼ばれている・・・・・・感覚だった。

 その不可解な感覚を〈〉の心は持て余し続けた。



 むべき〈〉──。

 憐れな〈〉──。

 彼女に〝名前〟など無い。

 ただ〈ドルター〉という名詞で識別される存在……。

 されど、それ・・名前・・ではない…………。

 存在じぶんの意味すら見つけられない現状では、まだ〝名前〟を求める事すらおこがましい。

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