第4話「知らないこと」
男はテーブル方向、つまりこっちを向いて寝そべっていた。
さすがに正面から行く勇気はなく、背後から近付くことにした。遠回りして別のジャンルの本が並ぶ通路を経て、彼のうしろに立つ。
その距離、およそ五メートルぐらいか。さっきよりも声は聞こえるようになったものの、まだ聞き取れない。彼が僕に気付いているのかどうかはわからないけれど、音を立てないよう、慎重に前進する。残り一メートルぐらいのところで足を止めると、ようやく詳細をつかむことができた。
「トラック行っちゃった」
「CD再生」
「カセットテープ」
「府中病院」
男は、この四つの言葉をローテーションでつぶやいていた。
しかし、まったく意味がわからない。なにかの暗号だろうか。それとも、読んでいる本に書いてあるんだろうか。
あれこれと思考をめぐらせていると、不意に男のつぶやきが止まった。
室内は一瞬にして静寂をまとい、その静寂と目の前に寝そべっている男の組み合わせが気味悪く、思わずしゃちこばってしまう。いま、彼が振り向いたら無事では済まないのではないかという恐怖感に襲われ、僕は直立不動になった。
十数秒の沈黙ののち、男は突然身を起こし、軽快な足取りで児童書コーナーを立ち去った。もうわけがわからない。
これ以上の深入りはさすがに危ない気がしたので、勉強道具をまとめて退室した。
「じゃあな池下! また明日」
木曜日。都筑に誘われるかと思いきや、爽やかな挨拶だけ残して教室から出て行った。彼のランドセルは机に置かれたままだから、今日もドッジボールだろう。
たぶん、気をつかってくれたのだろう。活発でせっかちで、たまにそそっかしいところもあるけれど、友達思いの優しいやつだ。快活って言葉が、都築には似合っているなと思う。
快活。そういえば昨日、家庭科の先生が話していたっけ。
菜の花の花言葉は、「快活」「明るさ」「豊かさ」「小さな幸せ」の四つ。菜の花の天ぷらの苦さにくたびれていたにもかかわらずちゃんと聞いていたことに、われながら感心する。
せっかくこんなに良い意味ばかり持つ花なのだから、天ぷらなんかにしないで黙って観賞しているべきだ。いったい、食用にするなんて奇妙なことをだれが考えたのだろう。
昨日の男の言動といい、この狭い町の中だけでも、僕の理解を超える物事がたくさんある。今の時点でこうなのだから、これから中学・高校と進学して、たぶん大学にも進んで、社会に出て働くようになったらどうなるのだろう。もっともっと知らないことだらけで、いちいち疑問を持っていたら、僕の頭はパンクしてしまうのではないだろうか。
今日も塾はないので、いつもなら迷いなく図書館に向かうところだけれど、昨日の一件がありためらっていた。
またあの男がいるかもしれないという恐怖心が、僕に迷いをもたらす。今日会ったら、こちらに飛びかかってくるかもしれない。わけのわからない男だから、そういう可能性だってあるだろう。
家に帰るか、それか気分転換に本屋でも行くか。でも、やっぱり気になるんだよな。
家と本屋と図書館、それぞれに行き着く
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