【短編】右から2番目に輝く恋
幸野つみ
【短編】右から2番目に輝く恋
「シュウくん、どうしたの?」
夕陽を背にした彼女の顔は逆光になっていてよく見えない。しかし二つの瞳がこちらの顔色を読み取ろうとしていることがひしひしと伝わってきて、僕の焦りは増していった。
視線から逃れるように正面に向き直ると、西日に染まる街並みが見える。JRタワー、テレビ塔、百年記念塔、札幌ドーム……目に入るものすべてが僕を苦しめた。
「ああ……きれいだなって、思って……」
「ねえ、シュウくん」
彼女の小さな手が僕の汗ばんだ腕を掴んだ。僕は手錠を掛けられた犯人の気分で思わず振り返った。
「今、何考えているの?」
セミの声がうるさい。カラスも鳴いている。風の音、葉擦れの音もあるはずだ。なのに、彼女の声だけが油性ペンで縁取りされたように輪郭がはっきりとしていた。
「……前に、ここに来た時のこと」
彼女は一度俯いてから、再び僕の顔をまっすぐに見つめた。
「私のこと、好き?」
手首を掴む彼女の手に、僕の脈拍が早まったのが伝わってしまっただろうか。
太陽が山々に隠れた瞬間、彼女の悲しそうな表情が鮮明になり、僕の網膜に焼き付いた。
僕らにとって待ち合わせに使う「いつもの場所」といえば、ここ、中島公園の入り口だった。
「悪いな、時間作ってもらって」
僕はわざとらしく頭を掻いた。
「ほんとだよ。こっちは芝居の稽古で大忙しなんだから」
そう言いつつも彼はにやっと笑った。
「ありがとう」
彼は大げさな身振りで気色悪がった。
「なんもだ。その代わり今日も缶コーヒー奢ってくれよ? 心配すんな、すぐに人気俳優になって倍にして返すから」
豪快に笑い飛ばして僕の前を通り過ぎ、公園の奥へと歩いていってしまう。
「役者、大変だな。やりたいこと続けてて、すごいと思うよ」
話し掛けても彼は立ち止まることなく大きく伸びをしたりしながら歩みを進める。並木道とはいえ日陰は少なく、夏の日差しが僕らを容赦なく照らした。
「でー? 何? チトセちゃんとのこと?」
ろくにこちらの顔も見ていないはずなのに言い当てられる。ひょうひょうとしているが相変わらず鋭い男だ。
「せっかくの休日なのに、今日は彼女に会わなくていいのか?」
「今、実家に帰ってるんだよ」
「マジ? 逃げられた? 『アタクシ実家に帰らせていただきます』ってヤツ?」
「違うって!」
僕の慌てた声を聞いてすぐにまた大声で笑われる。
「で? どこまでいった?」
彼は振り向いて僕の顔を覗き込む。
「えっと……この前、旭山記念公園に行ってきたよ」
器用にうしろ向きに歩いていた彼は僕の答えを聞いて吹き出した。
「そうじゃないだろ、どこまでいったかっていうのは。どこに行ったのかを聞いてんじゃねえよ。俺が聞いてんのは……」
「わ、わかってるって!」
「せっかく大学時代の大恋愛を吹っ切って、ようやく2人目の彼女ができたっていうのになぁ……」
肩をすくめて黙り込む僕を見て、彼は、悪い悪い、と言いながらもまだ、くくく、と堪え切れずに笑った。しかしふと親のような優しい目に変わって僕を観察し、そうかと思うと、Y字路に差し掛かったことを背中で察したのかあっさりと前を向いた。
左に進んでいくと、右手に池が見えてくる。水面に反射する太陽の光が揺れて眩しい。次第に、すすきのの喧騒も公園の遊具ではしゃぐ子供達の声も遠ざかり、しばらく静かな時間が流れた。
「彼女を、悲しませたみたいで」
「なんで?」
彼は振り向き様に直球の疑問を投げかける。僕は話しながら言葉を探した。
「たぶん……前の彼女のことを話したからだ」
あ、カモだ、と言って流されてしまう。いつものことながら彼の思考は読めない。
「ジハン。缶コーヒー。ブラックで」
彼はボート乗り場の横にある自動販売機を指差し業務連絡のように淡々と言い放った。僕は溜息を吐きながらも財布を取り出した。
「だーいじょうぶだって。すぐに人気俳優になって倍にして返すから」
「別に奢るのが嫌で溜息吐いたんじゃないけど」
ボタンを押すと、重たい金属が落ちる音が響く。よく冷えた缶を取り出し彼に渡す。
「で? なんで?」
彼はプルタブを引き缶を開けながら聞いてきた。
「だから……さっき言っただろ? 前の彼女の話をしたんだよ。正確にはさ、今何考えてるって聞かれたから、前にここに来た時のこと、って言っただけなんだけど。彼女、勘が良いから、それだけで伝わっちゃったんだと思うんだ。前に来たときは、前の彼女と一緒だったんだ、って」
彼は缶コーヒーを一口飲むと、再び歩き出した。
「なんで? 前の彼女のこと考えてたんだ?」
「えっと……なんか、あの公園に行って景色を見てたら、思ったんだよ。旭ヶ丘公園にしても、あそこから見える札幌の街にしても、前の……初めての彼女との思い出が詰まり過ぎていて。なんだか……嫌なんだ。大学時代、付き合ってた頃の思い出が、今になってみると全部……偽物だったような感じがして。例えば……あの時……す、好きだとか、ずっと一緒にいたい、とか言ったのは、今ではもう、嘘だったことになるのかなって。あの言葉が、今ではお互いを苦しめる言葉になってしまったことが、嫌なんだ……」
「ふーん」
勇気を出して恥ずかしい言葉を言ってみたものの彼の反応はまたもや薄い。
「なんで? なんでそんなこと考えてたんだ?」
先程と同じ質問ではないか。あの公園の景色を見たからだ。そもそもあそこに行きたいと言われた時点で僕はどきりとしたのだが、理由を説明して断っても彼女を悲しませることになると思った。しかし実際に行ってみると楽しくて愛しくて、でもその感覚が懐かしくて、それを彼女に悟られたくないような、そのすべてを理解してほしいような気がして……
「あ……」
僕は立ち止まった。汗が一滴頬を伝ってアスファルトに落ちた。
「そうだ……彼女のことを考えていた。チトセのことを、考えていたんだ」
そう言うと彼もぴたりと立ち止まった。そして手に持っていた缶コーヒーを眺めたかと思うと、腰に片手を当ててごくごくと勢いよく飲み始めた
「チトセと、たくさん思い出を作っていきたいのに、それがいつかまた偽物に変わるのかなって……チトセに、今の自分の感情をちゃんと言葉にして伝えたいのに、それがいつかまた嘘になるのかなって……お互いを苦しめるんじゃないかって……」
彼は缶コーヒーを一気に飲み干したらしい。長く息を吐いた。
「別れた時のことなんか考えたくないけど……どんなに好き合っていたとしても、別れる可能性があることを知っちゃったから……終わりを意識しちゃうんだ……2番目の彼女だから」
彼は手の甲で荒々しく口元を拭う。
「だから……でも……どうしたらいんだ……? 好きだって答えてよかったのか……?」
空になった缶が放り投げられ、心地好い音が響いて見事にゴミ箱へと入っていった。彼はこちらに不適な笑みを見せ、こう言い放った。
「走るぞ」
次の瞬間には彼はもう走り出していた。唖然とする僕を残して彼の姿はどんどん小さくなっていく。
「……なんで!?」
そう言いつつも僕も遅れまいと走り出していた。急な運動に体が反応せず数歩目でふらついた。急に走り出した二人の男に周囲の視線が集まる。
大学時代、体力作りと称してよく彼やサークルの仲間達とこの公園に走りに来たことを思い出した。あの頃は、無鉄砲で、まわりの目など気にしていなかった。世間知らずで、恐れも知らなければ恥も知らない。ひた向きで、全力だった。例えばこの公園を走りながら大声で発声練習したり……
「って……思ったら……」
前方を走る男が「あーえーいーうーえーおーあーおー!」と叫んでいる。散歩中の柴犬に吠えられて、「おー! すまん!」と返事をしながらも駆け抜けていく。
変わらない奴だな、と思ったが、何故だか負けていられないという気持ちが沸いてきて、僕は地面を蹴る足により一層力を込めた。
思えば前の彼女ともこの公園に一緒に来たことがあった。上手に漕げなかった公園のボート、お祭りの夜の人混み、コンサートへ向かう途中の枯葉の匂い、すすきので飲んだ帰りの冷えた空気……あの時の楽しかった感覚や、隣にいた人への愛しさがありありと甦ってくる。果たして、あれは、偽物だっただろうか。
そして、夕焼け空を背にした悲しそうなチトセの顔が浮かんだ。あの時、上手く返せなかった言葉や、伝えたい思いの数々が溢れてきた。
立ち止まった彼の後ろ姿が見えた。並木道から大きなグラウンドに出ると景色が開け、僕の視界に夏の青空が広がった。
「懐かしい……発声練習とか……よく恥ずかしくないよな」
膝に手を当てて息を整える僕の方に、彼は向き直った。
見上げると彼は鼻で大きく呼吸しながらもやはり笑っていた。
「俺は、人気俳優になるからな」
大きく息を吸って、彼は続けた。
「いつか夢を諦めて普通に働く日が来るのかもしれない、とは思う。そうなったら必死に芝居の練習したことも、必死にチケットを売ったことも、全部無駄だった、そう思うのかもしれない、そうわかってる。でも、無駄にしないためにやるべきことは、できることは、変わらない。ただただ、必死に芝居をすることだけだ」
満足げに笑う彼を見て、僕もつられてにやりと笑った。
芝居の稽古に行く、やる気が出た、ありがとな、と彼は一方的に言って、再び「あめんぼあかいなあいうえおー!」などと叫びながら走っていってしまった。
結局、恋愛相談をしたはずなのに彼は最初から最後まで「俺は人気俳優になる!」と自分のことを語っただけだった。しかし何故だか気持ちはすっきりしている。
僕は先程の彼の真似をして大きく息を吸った。
「2番目の恋」は、「初めて」なんだ。
やるべきことは、できることは、変わらない。ただただ、ひた向きに、全力で、恋することだけだ。
【短編】右から2番目に輝く恋 幸野つみ @yukino-tsumi
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