第28話 11/15 魔界に足を踏み入れる者は、自ずと魔物になる。

 徳川秀忠に嫁いだ淀の妹であるお江与。恐妻家のお江与は夫・秀忠から家康に、

淀と秀頼を助けられないか、と願いを託した。秀忠は「そなたの意を察するも、如何なるものか」と思案顔。ダメもとでお江与の意を家康に伝えたが「そのような事は、叶わぬものよ。二度と言うではない」と、無碍に断られた。

 家康の返答に「それ見たことか」と思いつつ秀忠は、お江与に伝えた。お江与もまた「やはり」と納得したように、深追いをしなかったのです。

 お江与もまた内心、「これで人としての行いは、努めました。後は、家康様のお心ひとつ、私には無縁のもので御座います」と、至って冷静に受け止めていた。

 お江与の本意は、織田信長と母・市の娘である淀は、父・浅井長政を自害に追い込んだ憎き者の娘。それを父から聞かされていたからだった。


 では、何故、お江与が動いたかと言えば、日頃、自分を見下す淀の態度、父の無念を思う憎しみから、自分を頼りにする淀に一泡吹かせて溜飲を下ろしてやるかと、同情を隠れ蓑に人芝居打ったので御座います。


 お江与は、豊臣秀吉の政略結婚の道具として使われていた。最初に使われたのは、11歳の時だった。信長の甥である佐治一成に嫁がされたのだ(1584年・天正12年)。

 娘ふたりを授かった頃、秀吉から佐治一成に文が届いた。そこには茶々(淀)が病に掛かり、お江与に会いたがっている、と記されていた。佐治一成はそれならばと、大坂行きを後押しした。しかし、これは秀吉の策略だった。勢力を伸ばす家康に船を貸すなど、便宜を図った事に怒りを覚えた秀吉は、仲睦まじき一成とお江与の間を引き裂こうと企んだのです。人間ひと皮剥けば、嫉妬心の塊。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、と言うように切っ掛けは些細なことであれ、嫉妬心は、積もり積もれば、あらぬ方向へ飛び火する。案の定と言うにはおこがましいが、その後、佐治は領地を取り上げられる始末。感受性が強く、まだまだ世間を知らないお江与の長女・おきたは、あまりの理不尽さと悲しみのあまり伊勢湾で入水自殺してしまうので御座います。 

 佐治一成はもう役には立たぬ、と判断した秀吉は、何かと難癖をつけ、佐治一成に

お江与との離縁を強要し、お江与を次なる覇権強化の道具として手元に置くのです。

 それから四年後、お江与、18歳の時、次なる指令が下るのです。


 「江、我が甥、秀勝の嫁にどうかと思ってな」

 「私には夫がおりまする」

 「佐治の事か、奴は女房を娶ったと聞き及ぶぞ」

 「偽りで御座います。太閤様が離縁させたのであって、江は」

 「黙れ、黙れ。黙れ。そなたは、儂の道具じゃ、道具はもの言わず儂の言う通りにしとればよいのじゃ」


 お江与は傲慢な秀吉を睨み付けていた。そんなお江与を見て、秀吉は面白がるように「それとも何か、儂に逆らうか。ふふふ、直ぐに祝言じゃ、わかったな、あははははは」と聞く耳、持たず。1592年(天正20年)、結局、お江与の意志など、どこ吹く風で、秀吉の甥・秀勝に嫁がされてしまうのです。

 戦国の世では、おなごは家と家の繋がりを強化する道具。秀吉は次なる強化先を見つけると、夫、秀勝に朝鮮出兵を命じるのです。秀勝が戦で命を落とせば儲け物、落とさなくとも、何らかの責任を取らせる腹積もり。それは、秀勝とお江与の間に子供が生まれようとした頃でした。天下人になる者の思いは強く、秀勝は、戦地で病気が元で不遇の死を迎えるのです。それは、お江与が秀勝との子を出産した頃でした。お江与の悲しみは幾許かのものか。「この子は、とと様のお顔を知らずに…不憫な。もう、耐えられませぬ、憎きは秀吉、お恨み申します」と我が子を抱えた胸には、あかごの温もりと秀吉への憎悪の炎で満ちていたので御座います。

 一方、秀吉は、お江与の気持ちなど外せず、新たな政略の機会を虎視眈眈と探して時を待っていた。それが訪れたのは、秀勝の死後から三年後のことでした。


 「江、そろそろ、婿殿をとるか」

 「嫌で御座います」

 「ほう、逆らうか。誰に養ってもらっておると思うのじゃ」

 「ならば、お暇申し上げます」

 「ほう、どこに行くと申すのじゃ。天下は儂のもの。どこのどいつが儂に逆らって、そなたを受け入れると言うのじゃ。出家でもするか、ならば、その寺事なくせば良いだけ。どこに行こうとも儂からは、逃れることは出来ぬは、ふふふふ」

 「ならば、死を選びます」

 「ほう死ぬか。ならばそなたの子たちは、哀れよな」


 お江与は、死ぬることも、逆らうこともできず、自暴自棄になるしかなかった。


 「天下は儂のものよ。お主がどうあがこうと、どうにもならぬわ。要約、家康が儂の言うことを聞いて、世継ぎを差し出すと言うのじゃ。何か土産を持たせてやらねばなるまい。お主は格好の土産なのじゃ」

 「なんと言うことを」

 「そう怒るな。そちの使い道など、その程度しかあるまい」


 お江与は、絶望の淵を歩む自らの宿命を恨んだ。退室するお江与の背中に、秀吉の小馬鹿にした笑い声が痛いほどに突き刺さってきた。


 秀吉は、家康の世継ぎがきたことを大いに喜び、秀吉の秀の字を与え元服させ、秀忠と名乗らせた。そしてお江与は、三度目の結婚をさせられるので御座います。


 「まぁ、女房が少し年を食ってはおるが、まぁ似合いの二人じゃ」


 この時、お江与22歳、秀忠は16歳だった。秀勝との間に生まれた娘を、非情にも茶々(淀)に預けさせ、お江与から娘をも引き離したのです。


 「可愛いさかりの娘とこのような形で別れねばならぬ…お恨み申しますぞ、秀吉」


 お江与の秀吉への恨みは、限界を遥かに超えていた。人の心を捨て、魔界に委ねるほどに、煮えついていた。徳川秀忠との婚姻は、お江与に大きな転機を迎えさせた。

秀吉の呪縛から解かれたお江与は、家康と言う大きな後ろ盾を手に入れたのです。


 「何があろうと、徳川の力で、豊臣を滅ぼして見せようぞ」


 お江与は、恨みと悲しみを、復讐、報復の力に変えたのです。1597年(慶長2年)、秀忠との最初の娘・千姫を出産。数奇な運命と申しますか、住む場所に指定されたのは、何と秀吉のいる伏見城。謀反の恐れのある徳川家康の血筋を城内に置くことは、戦国の世では、至極、当たり前の事。しかし、これが、運命の歯車を急速に動かすことになるので御座います。

 

 千姫を産み、その千姫を家康が溺愛する姿を見て、お江与の心の中のどす黒い渦がひと塊となり、形を成した。「家康殿は、秀吉と匹敵するほどの力を持っておられる。今の秀吉を殺しても、徳川家の世継ぎである正室の私を攻める者など、誰もおるまい、今しかない、意を決する時は。父・浅井長政と母・お市の方の恨みを晴らす…最早、これは運命ではあるまいか」。この千載一遇の機会を活かすためにお江与は、策略を寝るので御座います。

 秀吉の側室を調べてみると驚くべき事実が浮かび上がった。秀吉が、茶々(淀)と並び寵愛した側室に松の丸がいた。この松の丸こそ、浅井長政の姉の娘だった。つまり、お江与と従兄弟にあたる関係の側室だった。しかも、松の丸の夫は、山崎の戦いで秀吉に殺されていたのです。更に松の丸の侍女・くすの父親は、なんと浅井長政だった。くすは、長政と側室との娘、お江与とは、姉妹関係にあったのです。

 更に、お江与は、秀吉の側近を調べてみた。すると、秀吉の政治などの相談を受ける役目の御伽衆の中に宮部継潤と言う者がいた。この宮部継潤は、元浅井の家臣。この時には、家督を息子に譲り、秀吉の側にいたのです。

 運命の悪戯なのか。伏見城に居た秀吉の周りには、浅井家ゆかりの者が多く存在していた。魔界の導きか、自分に怨念を抱く者たちに囲まれていた秀吉。この異常な状態は、お江与にとって好都合だった。隠密に、急ぎ、皆と繋ぎをとるお江与。権力の傘の下に押しつぶされていた怨念は、新たな同士を得て、「埋もれ木に花が咲く」如くだった。お江与は、側室の松の丸、侍女のくす、御伽衆の宮部継潤と密かに連絡を取り合い、思いの丈を解いてみせた。そして、ついにお江与は、浅井家の怨念を晴らすべく、動いたのです。


 「松の丸様、くす様、これを秀吉に」


と、お江与は、懐から紙包を取り出した。


 「いよいよ…ですね」


 松の丸は、神妙な面持ちで、紙包を受け取った。また、くすも同じだった。


 「お父上、お母上の恨みを晴らす時が来たのですね」


 お江与は、俯きながら、無念の思いを秘め、小さく頷いた。ふたりが立ち上がると、微笑みを口元に浮かべて、見送った。そこに宮部継潤が現れ、跪いた。


 「宮部殿、秀吉とふたりだけになる時には…」

 「御意」


 宮部継潤には、お江与の言わんとすることは分かっていた。魔界への計画は、実行に移された。

 1598年(慶長3年)3月15日、醍醐の花見。

 秀吉の親族や側室を始め、全国の大名など二千人が参加。史上最大の催し物を成功させた秀吉。自らの権威を全国に知らしめ、秀吉自身も安堵の時を迎えていた。その頃から、秀吉に変化が見られるようになった。秀吉の体調は、日に日に悪化の兆しが顕著となっていた。用いた毒物は、ヒ素、亜砒酸だった。


 当時、要人暗殺に用いられていた毒物。0.1gから0.3g位、耳かきに数杯位で死に至るもの。毒物を用いいて殺害を企てるのは、か弱き女性に多く見られた傾向。


 お江与たちは、その毒物を晩酌や四方山話の酒に混ぜ、少しづつ、日々与え、体内に蓄積させ、体調を害させていった。秀吉は、下痢、腹痛、食欲不振、手足の痛み、失禁、精神錯乱などを訴えるようになっていた。そして、醍醐の花見から四ヶ月後の1598年7月には、秀吉は自らの死期を悟り始めたのです。秀吉は、急ぎ家康を呼び寄せた。


 「家康よ、息子秀頼を頼むぞ、ゴホン、ゴホン。後見人として…」

 「お任せくだされ、この家康、秀頼様を見守りましょうぞ」

 「頼んだぞ」

 

 息子・秀頼の後見人を家康に託すと秀吉は、1598年8月18日に帰らぬ人となった。


 「見たか秀吉、あはははははは」


 お江与はついに、度重なる怨念を晴らせて見せたのです。驚くことに天下人となった秀吉だが、世の混乱を避けるための時間稼ぎとして、葬儀も上げず、すぐに阿弥陀ヶ峰に埋葬。それを知ったお江与は直様、動いた。


 「秀忠様、江は早く江戸に参りとう御座います」

 「しかし、秀吉公がお亡くなりになり、まだ日が浅い。他の家の者は、大坂に留まっておる。我らだけが江戸にいくのは…」


 尻込みする秀忠にそっと寄り添ったお江与は


 「ここには悲しい思いしか御座いません。このままここに留まれば、江は、気がおかしく成り申します。江は、秀忠様と新たな場所で新たに生きたいので御座います」

 「皆はどう言うか…」

 「私を大事と思われませぬか」


 お江与は、毅然とした態度で言い放った。恐妻家のお江与に咎められた秀忠は、渋々、頷くしかなかった。お江与は1599年に、江戸城西の丸完成を待って、江戸へ。江戸に移り住んだお江与は、ついに豊臣家の崩壊に動くのです。


 「お久しぶりで御座いますな、お江のお方」

 「これはこれは、天海殿では御座いませぬか」

 「上手く行きましたな。見事なお手並みでしたぞ」

 「何時ぞやは天海殿のお知恵をお借り致し、忝のう御座った」

 「私は、四方山話をお聞かせしたまで、はて、何の話かな」

 「怖い、怖い。家康様の言われていた通りで御座いますな」

 「どのような事を…これはひと言、申さねばなるまいか」

 「ご冗談を」

 「あはははは…」


 お江与に取ってみれば、狸親父の家康がぼやく、狸の僧侶、天海。いづれも、裏腹、読むに難しの食わせ者、とでも言いたくなる存在。秀吉に歯を剥く集合体に陽が差し掛かるのを感じていた。お江与と天海は、再会を祝うように笑っていた。


 「して、次なる手立ては、如何なるものになりまする。私を江戸に呼ばれたのも、何か訳あってのことよな」

 「堪りませぬなぁ、まぁ、ここからは家康様にお任せして…」

 「ほんに、食えぬ男よな、そなたは」

 「お江様にもひと肌も、ふた肌も脱いでもらいますよ」

 「この命、そなたらに預けたゆえ、好きに使うが良い」

 「有り難く、聞き留めておきましょう」


 男社会で生き抜く術を得たお江与は、これまで押さえつけてきた野心に躊躇う事無く、油を注ぐのです。

 お江が、江戸に移り住み、一年が過ぎようとしていた、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが勃発。秀吉没後、2年のことでした。

 この戦いに勝利し天下は、徳川家のものになる。そこで、お江の新たな野望が芽生える。それは、こともあろうか、徳川家の乗っ取りだったのです。魔界へと踏み入れた者の宿命、「欲」。それに歯止めが効かなくなっていた。お江が産んだふたりの男子。竹千代こと後の三代将軍・家光。弟の国松こと、後の忠長。この兄弟が一時、天下を二分していた。

 忠長は、母、お江が溺愛し、五十五萬石の領地を所有し、将軍・家光に匹敵するほどの権力を握らせていた。

 東の家光、西の忠長と、ふたりの将軍がいる、と言われてた程だった。忠長には多くの謎があった。複数の誕生日の存在。そこには、驚くべき事実が隠されていた。

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