第29話 11/25 子は、おなごの戦国の火種となる。

 お江の方の夫・秀忠は、忠長が生まれる前年の2月24日、江戸を出立。4月16、京都二条城で将軍の宣下の儀式に出席。そのまま9月まで京都に滞在し、10月28日に江戸に戻った。

 記録にある忠長の誕生には秘話の匂いが。そう、計算が合わないのである。結ばれたはずの時期にお江と秀忠は一緒にいないのである。そこで忠長は秀忠の子ではない、とう疑惑が浮上する。では、本当の忠長の父親は誰だったのか。そこには、秀吉に道具として使われていたお江の野望が隠されていたので御座います。


 お江には抱える大きな問題があったです。最初の結婚、佐治一成の間には、ふたりの娘。二番目の豊臣秀勝の間には、ひとりの娘。三番目の夫である秀忠との最初の子は、またもや女の子だった。千姫に続いて、珠姫、さらに勝姫、初姫が誕生。世継ぎとなる男子は、生まれなかったのです。


 「なぜ、なぜじゃ、姫ばかり…」


 お江は、焦っていた。それは、側室が男子・長丸を出産したからだった。


 「初めての男子(おのこ)じゃ、おおおーよく泣きよるわ」


 秀忠は、お世継ぎとなるであろう男子の誕生を喜んでいた。その喜びも束の間だった。長丸は、わずか二歳で不審の死を遂げる。ここにも驚愕の記録がある。長丸の死因は、なんとお灸が原因とされている。お灸であればそれに携わった者の処罰が記載されているはず。それはない。側室に嫉妬するお江が仕掛けた疑惑。「憎っくき長丸。あやつがおれば、わらわの願いは叶わぬ」。戦国の世で子は政権奪取の切り札。

お江は、このまま女の子しか産めなかったら用済みとされ、離縁される可能性も出てきていた。


 「わらわにはおなごしか出来ぬのに、どうして、他の女に男子(おのこ)が産まれるのじゃ」


 長丸はお江の立場を危うくする驚異でしかなかったのです。お江に都合のいいことに長丸は亡き者に。嘆く者の裏には、ほくそ笑む者もいる。


 「長丸君が亡くられた今、一刻もはやくお世継ぎ必要で御座います」

 「と申してもこればかりは…」

 「お恐れながら申し上げまする。何も、お江様との子に拘らなくとも、よろしいのでは」


 結婚から八年が経っても、女の子しか産めないお江。当然、側室の話も持ち上がり、益々、お江の焦りは増して行った。


 「おのこが欲しい。でなければ、私の居場所がなくなってしまう」。そんなお江に危機が訪れる。1604年(慶長9年)、竹千代、後の家光が生まれる。竹千代は、お江と秀忠との子ではなかった。


 「お福が…おのこを産んだとのこと」

 「殿の子か」

 「それが…それが…家康様のお子だと」

 「なんと…」


 竹千代(家光)を産んだのはお福。明智光秀の重臣・斎藤利三の娘、後の春日局であると、読み取れる記述が残っている。日光東照宮には、家光の父に関する物が残されている。家光のお守りに、二世権現、二世将軍の文字がある。初代権現、初代将軍は家康。家光は、自らの父親が家康であるという記述が残されているのです。


 お福が、家康の子である男子を産んだことにより、お江は窮地に追い込まれていく。「竹千代は、江の子として、お福が育てる」。この家康の言葉に、お江は崩れ落ちそうになった。


 「なんと、なんとおしゃいまする」

 「まぁまぁ、そう、息巻くな。仕方なかろうて」


 そう言って、お江の怒りを無視して、家康はその場を去った。


 「このままでは終わらせぬ、終わらせてなるものか」


 お江の闘志に新たな火種が、煌々と立ち上ったので御座います。竹千代こと家光の誕生で安心した家康は、1605年(慶長10年)、秀忠に将軍職の座を譲り渡した。秀忠は、将軍就任の儀式のために京都へ向かう。その朝、秀忠を見送ったお江。


 「いつ、お戻りになりまするか」

 「そうさなぁ、九ヶ月の程のことよな」

 「江は、寂しゅう御座います。一刻もはやい、お帰りを」


 秀忠は、意気揚々と将軍職の儀式に向け、江戸を後にした。悠然と京都に向かう秀忠の後ろ姿を、お江は、憎らしく凝視していた。しなやかな振る舞いの裏で、心は煮えたぎっていた。


 「こやつ、竹千代が我らの子ではないことを知っておって腸が穏やかであることはなぜゆえか。将軍職につければ良いのか、後継あっての徳川家の支配。そなたはよくとも、わらわの気は収まらぬわ」


 心の闇の中で、お江は、のたうちまわっていた。


 「このままではわらわの血を引かぬ者が将軍職に就いてしまう。そのようなことを許してなるものか」


 お江の心は、再び魔界への扉を開けるのです。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。戦国三大武将と深く関わった女性、お江与。通称お江。近江の戦国大名の浅井長政と、織田信長の妹・お市の間に生まれ、姉に豊臣秀吉の側室となった茶々(淀)がいる。そんお江の運命は過酷なものだった。秀吉に両親を殺され、さらに秀吉の政治の道具として利用された悲惨な前半生。そして、家康の世継ぎである秀忠と結婚し、将軍の母、天皇の祖母となる華やかな後半生。そんなお江の思いが詰まった建物がある。豊臣秀吉は、勢力を拡大していた家康の世継ぎを迎えることになり、「秀」の字を与え元服させ秀忠と名乗らせ、その秀忠の嫁にお江与(お江)を与えて、豊臣家と徳川家の繋がりの強化を目論んだ。お江22歳、秀忠16歳の時だった。

 お江には、娘がいた。秀吉の甥で、朝鮮出兵させられ、戦地で病死した二度目の夫、秀勝との間に生れた娘だ。その娘とも、秀吉に悲惨にも引き裂かれ、秀吉の側室、お江の姉である茶々(淀)に、無理矢理、預けさせれられた。秀吉にとって、織田家の血を継ぐ、使い勝手のいい道具、お江。秀吉に利用された三度目の結婚。その相手が徳川秀忠だった。

 お江に、心の内に秘められた秀吉への恨みは、抑えきれないほど、増大していた。

お江の心に変化が生じる。どのように歯向かおうが崩すことの出来ない秀吉という壁。ならば、秀吉の懐に入り、従順な者として化け、「内から食らってやろうぞ」

と、決心したのだった。当初、渋っていたお江は、秀忠との結婚を承諾。お江の考え方の変化は、姉である淀の振る舞いにあった。淀は渋る秀吉に執拗にねだり、浅井家の菩提を弔うための養源院を建立したことだった。憎まれ、荒っぽく使われる道具として己の存在。ならば、開き直って可愛がられ、利用価値の高い道具として認識させ、姉、淀のように要望を通すのが賢明なり。そう考えれば、自らが置かれた立場に光明が差した。それが、形として残っている建物が京都市東山区にある淀が建立した養源院です。と言っても養源院は、淀の死後、焼失している。その寺を復興させたのが、お江だった。お江の命で庭を造ったのは浅井家家臣の息子、小堀遠州。また、襖絵を描いたのも浅井家家臣の息子、狩野山楽。

 養源院は、お江と浅井家の縁者たちによって造られている。この建物には、秀吉との深い因縁が込められていた。秀吉が伏見城で使っていた一番大事な中野御殿。それを敢えて、この養源院に移築したのです。浅井家を弔うための寺。その本堂に秀吉の伏見城御殿を使った。お江の恨みがここに垣間見える。秀吉によって衰退させられた浅井家。お江が、死後の秀吉に課したものは、「そなたに積年の恨みを抱く者を、

死後の世界で本堂に身に変え、守りぬくが良い」というものだったのです。更なる呪縛をも、この寺に込めていた。


 関ヶ原の戦いの前哨戦で徳川の武士三百六十人が伏見城内で自害。その遺体は二ヶ月あまりも放置されたままだった。その凄惨な場内の血に染まった手形や人型が残る床板を本堂の天井に、つまり、秀吉の御殿だった天井に配した。「そなたに踏みつけられた者を、天に仰ぎ見るがよいわ」。お江の憎しみは、蛇の如く、秀吉の霊を締め付ける。お江は秀吉の死後、呪縛から解き放たれたはずだった。しかし、徳川に移っても、お江の悲運は消し去られる事はなかったのです。

 世継ぎを望むも、授かるのは、おなごばかり。そこにあろうことか、お福、後の春日局が、家康のおのこを授かる。そのおのこを自らの子として、認めさせられ、お福がそのおのこを育てる。お江にとって、やっと手に入れた天下を奪い取られる思いだったので御座います。「ええい、何故じゃ、何故じゃ…、わらわにこれまで程に不運が付き纏う。わらわが悪いのか…。いやいや、そうではあるまい。では、何が悪いのじゃ…。そうじゃ、男よ。押し付けられた男が悪いのじゃ。ならば、我が意志で男を選べばいい。種を変えれば良いだけのこと。都合の良いことに殿は、京(都)に九ヶ月も行かれ、わらわのすることなど気にも止めますまい。これは、天がわらわに与え申した、絶好の機会ぞな。種を得て、わららがおのこを授かれるおなごであることを

天下に知らしめてやるわ。種さへ宿せば、後は何とでも言い含めて見せましょうぞ。

それくらいの気概がなくして、何が戦国の世を生きるおなごぞな。これは、おなごの意地を掛けた戦なのじゃ」


 自らの血を繋がぬ者が徳川家を支配する…。その切迫した危機感を抱くお江。それを魔性の鬼は、見逃すはずがなかった。虐げられた今までの人生。秀忠と結ばれたことで、希望を見出し、押し込めていた欲望をここぞとばかりに解き放したお江。物の分別など、もう、どうでも良くなっていた。あるのは、徳川家を牛耳り、天下を奪い取ること。その思いが、お江を冥府魔道に導いていた。

 お江は、秀忠が京都にいる間に見事、身篭ってみせた。それが浅井家の血を受け継いだ国松、後の忠長です。お福(春日局)と家康の子、竹千代。だからこそ、家光を嫌い、忠長を溺愛した。


 「よいな、そなたこそが将軍じゃ」

 「兄上は…」

 「あれは、兄ではない」


 そう言い放つと、満面の笑みで忠長を抱きしめた。


 「これを国松様に」

 「国松様、どうか、私の顔を覚えておいてくださいませ」

 「どうか、私の顔も」

 「是非、国松様のご尊顔を拝したく…」

 「私も…」


 江戸城の主だった家臣たちは次々に、お江に愛されている忠長こそが次期将軍だと信じ、御機嫌伺いに日参していた。

 お江の徳川家を利用して天下を牛耳る思いが形となって残されている物がある。埼玉県狭山市にある不動寺。そこには、芝増上寺にあったお江の霊廟の門がある。嘗ては、将軍だけが通ることが許された丁子門。この門の側面には、徳川家の家紋である葵の紋の上にさらに家紋が掲げられている。その家紋は、浅井家の先祖で、藤原季正親町三条氏という一族が丁子を家紋に使っていた。浅井家先祖の家紋が、徳川家の家紋の上に、大きく配されているのです。

 これこそが、お江が浅井家による徳川家乗っ取りを悲願としていた証ではないかという思いを禁じえない。「父上が成し得なかった浅井の天下。私が世継ぎを産めば浅井の天下となり申そうぞ」そう、聞こえてきそうな門の造り。

 さて、話は前後するが、忠長(国松)の父親は誰なのか。1631年(寛永八年)

兄である家光から、忠長は蟄居を言い渡された。その時、慌てて家を捨て、前田家に逃げ込んだ者がいた。「もう、江戸にはいられぬ」その者の名は、藤堂賢政(かたまさ)。家康が信頼していた藤堂高虎の家臣。賢政は、高虎に気に入られ、藤堂一族に迎い入れられていた。その後、奉行職並みの2000石の石高を与えられ、何不自由なく裕福に暮らし、我が世を謳歌していた。その賢政は、忠長の蟄居を知ると全てをなげうち、逃亡したのです。お江が忠長を身篭った1605年。江戸城の工事が行われていた。石垣工事に優れていた藤堂家は、一年近く、江戸城にいた。当時はまだ、大奥は存在していなかった。ゆえに男女が容易に知り合うことが可能だった。お江は、自らの野望のために男を物色していた。お江の甘い蜘蛛の巣に引き寄せられたのが、賢政だった。


 「賢政、わらわには、おのこが必要なのじゃ。わかるであろう、賢政。わらわを助けると思い、わらわの願いを叶えてくだされ」

 「…お、お江様、何と言う戯言を申されるのか…。お人が悪う御座いまする」

 「戯言などではありませぬ」

 「しかし、そのようなこと…」

 「わらわに浅井の子をたもれ」


 賢政にすれば、将軍の正室からの誘いを無碍に断れない。賢政は、流されるまま、お江の願いを受け止めてしまった。お江が、賢政を選んだのには、理由があった。それは、お江の素性を記した柳営婦女伝系にある。その浅井家の家系図には、賢政の名が記されている。豊臣秀吉をヒ素により暗殺した時には、浅井に関わる者が居た。藤堂家の家臣ではあるが、賢政もまた浅井一族の血筋だった。同じ血筋だったお江と賢政は出会いやすかった。お江は、見事、大願成就を果たしたかに、思えた。そのお江の思惑を打ち砕く者が、お江の前に頑強に立ちはだかった。それは、お福こと、春日局だった。春日局もまた戦国の世に生きる野心家な女だった。春日局はお江の考えが手に取るように分かっていた。だからこそ、威厳がある内に家康を説き伏せ、先手を打ったのです。それは、次期将軍に竹千代(家光)を指名させることだった。

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