第3話 2/25 知らぬは仏、知らぬは損。

化かし、化かされ、馬鹿を見る。そんなこの世は、狐と狸。「あんさん、その話、尻尾が見えてますぜ」 信じた者が馬鹿なのか、信じぬ者が馬鹿なのか。知らぬが仏。知らぬは損。無関心なら怪我はしないって。そりゃぁ、勿体無い。気づけば、身包み剥がされ丸裸。世間とはそう言うもので御座います。


 マジっすか!❶❷の裏側を少しずつ剥がして参りますか。と言っても行ったり来たりは疲れます。時系列で「明智光秀」の話・筋道を辿ることに致しました。誠に勝手ながら、お付き合いくだされ。心配ご無用。同じようでも同じではない。知っているのに知らない舞台裏がそこにはあります。映画の回想シーンならいいが、文章では少々厄介なもの。それを解消致します。前のめりであの世を掴みましょう、坂本竜馬のように。伸ばした右手は、生きなければ、生きたいと掴もうとした把手だったのでしょうか。不都合があれば勇気を持って、やり直す、それが生きている証ですから。


 「光秀様ぁぁぁ~」

 悲痛な叫びは、雨音と共に闇夜にひと際、大きく響き渡った。


 武士で落胆、消息不明、黒衣の宰相。

 運命、狂った本能寺の変。

 実証怪奇、動機不詳、結末疑問。その後は、数奇。

 生き様、狂気。謎多きは、慈眼大師南光坊天海。

 家康、秀忠、家光と三代に渡って大活躍。

 家光の光と、秀忠の秀で、光秀。

 奇人、変人、はたまた怪人。

 知られていても資料がない。正体が、ない。

 現れた時期が、とんでも、ない。

 ミステリアスな男を追い掛けて、早足で駆け抜ける。

 それでは、史実の謎、紐、解くよぉ。Oh. yeah.



 光秀は思っていたのです。自分に対する仕打ちや所業は、我慢致しましょう。しかし、神仏を恐れぬ所業は、この国の秩序を崩壊させる。この男を活かしておいては、世のため人のためにならぬ、と思っていたので御座います。


 僧兵たちは、近江の門前町坂本や下坂本に、たむろして。最早、僧侶の姿なし。女・色を貪って、魚も鳥もバクバクと。食えねぇ輩と化してます。

 金に困ると、糧米・灯油を横流し。法儀料、お布施もくすめとる。

 権威を笠に賄賂の要求。それを資金にあこぎな高利貸し。

 果てには、脅して、たかって、嫌がらせ。

 意に反する者は、ボカーンと殴って黙らせる。

 ありとあらゆる悪態三昧。腐りきった生臭坊主で、御座います。

 織田信長は、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスらと関わりを持つが、異文化に興味があっただけで、信仰と言うものには関心を示さなかった。

 信長は、予てからここ坂本を重要な街道の拠点として狙っていたが、そこは聖地とされる処。佛への信仰を冒涜することは、朝廷への印象を悪くする厄介、この上ないものだった。


 「聖地か…。糞坊主共目、信仰を嵩に五月蝿い奴らだ。それを見て見ぬ振りしおって朝廷の奴らも奴らだ。白々しく物乞い地味たことも平気。本に、気に食わぬわ」


 信長は、僧兵たちの悪行の全てを探らさせ、それに纏わる者たちの洗い出しを急がせた。調査結果は、僧兵と繋がり、甘い汁を啜る者、旅人を喰い物にする者、僧侶にあるまじき子を設け、その子が不良と化し、群れをなし、秩序など通る余地もない、見るも無残な荒廃した町の様子を浮き彫りにしていた。


 「この町は腐りきっておるわ。このままでは、佛の道を後ろ盾に民衆を隷属する。更に朝廷への賄賂による支配が、まかり通るは必定。捨て置けば、腐敗政治が天下を席巻するのは明白なり」


と、信長は激高し、現状を強く、危惧していた。


 当時、将軍足利義昭と織田信長は、権力争いにおいて、険悪な関係だった。

 義昭は、越前の朝倉、北近江の浅井に手を回し、石山本願寺と気脈を通じていた。それに、比叡山延暦寺も呼応したのです。延暦寺のある坂本付近は、岐阜から京都へ向かう時の大きな合流点。諸国大名を黙らせ、朝廷を牛耳ろうとする信長にとってこの街道は、京都進行の大きな障害となっていた。


 比叡山は仏様の聖地と言うより、その権威を背景に、某邪気無人に振舞う僧侶たちの腐敗の巣窟と化していた。

 比叡山は、院生・堂衆・学生・公人の四階層から成り立っていた。腐敗の中心となっていたのは、最下層の僧兵(公人)だった。僧兵たちは、常に、比叡山の権力を笠に着ていた。


 民衆の仏様への信仰で逆らえないのをいいことに、肩で風をきり、容赦ない山領の年貢の督促をしていた。有事には、頭部に白い布を巻き、黒衣を纏い、武器を手に、日吉大社の神輿を担ぎ、都大路を練り歩き、要求が通るまで、嫌がらせを繰り返していた。神仏への恐れや尊い心は、そこには見る影もなかった。


 比叡山と信長の対立。それは、信長による比叡山領の横領に端を発していた。


 天台座主が朝廷に働きかけ、寺領回復を図ったが、信長はそれに従わなかった。

 元亀元年(1570年)6月28日、姉川の戦いで、信長は、朝倉義景討伐に動いた。義景は、浅井長政と強い同盟を結び対抗。

 8月26日、野田城・福島城の戦いで信長は、背後を取られ、苦戦するも、何とか形勢を逆転させた。浅井長政・朝倉義景連合は、比叡山に立てこもり、攻防を繰り広げた。何とか、正親町天皇の調停により、信長と和睦をしたものの、浅井長政・朝倉義景は、自らの連合に加え、甲賀の六角義賢、摂津・河内の三好三人衆と合流し、信長打倒の旗印のための京都奪還を企てたのです。


 「信長め、仏を仏と思わぬ行い、許しがたし。成敗してくれよう」


 石山本願寺を率いる僧・本願寺顕如(本名:大谷光佐)は、信長のお膝元、尾張の門徒衆に号令を発し、信長打倒を図っていた。

 顕如の企みを知った信長は、これに業を煮やし、元亀2年の正月の賀礼に訪れた細川藤孝らに向かって


 「浅井、朝倉ども、いい気になりよって。あ奴ら、許さん。もう我慢も尽きた。今年こそ、山門を滅ぼす」


と、怒りをぶちまけたのです。


 元亀2年1月2日には、横山城の城主の木下秀吉に命じて、大坂から越前に通じる海路、陸路を封鎖させた。その目的は、石山本願寺の僧・本願寺顕如と浅井・朝倉連合軍、六角義賢との連絡を遮断することだった。信長の怒りは最高峰に達していた。


 「不審な者は、殺害せよ」


 その命令は、信長の、固い決意と警戒心の現れだった。

 5月には浅井軍は、一向一揆と組み、姉川に進行し、堀秀村を攻め立てたが、木下秀吉の援軍を受け、敗退。参加した長島一向一揆の村は、反逆の狼煙として、焼き放たれた。元亀2年6月12日、ついに信長は、全軍に攻撃の命を出した。


 「絵巻、一字も残さず、雲霞の如く、焼き払え~」


 山門の人々は、老若男女を問わず、右往左往、逃げ惑った。比叡山側の生臭坊主らは「金を払うから、許してくれ」と、言う始末。

 僧兵は、浅井家・朝倉家に協力し、延暦寺を軍事拠点にして


 「我らに逆らうは、仏罰が下る」


と脅し、民衆をも支配する貪欲さは、信長の激怒の引き金となった。


 「遺恨一切残さず、哀れ、これ一切、無用なり」


 信長の強い意思は家臣に浸透し、腐りきった山門一味として、僧俗、智者、児童、上人を問わず、片っ端に首を切っていった。

 逃げ惑う者たちは、日吉大社の奥宮の八王子山に立て篭ったが、容赦なく、焼き払った。葬った数、1500~4000人。これが世に言う、比叡山焼き討ちである。


(本当にそのようなことがあったのか、その真偽は、都合上、不明ということで。

 ただ、根本中堂は自焼、山王二十一社などは既に衰退していた。また、葬った亡骸も焼失された木片も発掘に至っていない。もし、比叡山が火の海と化したなら、京都や琵琶湖周辺に赤々と立ち上る火柱や煙が確認できたはず。その記述もない。

 現代でも琵琶湖の花火大会が牛尾山越しに京都から見える。町明かりのない当時であれば、炎と黒煙は天空を騒然とさせたはず。京の都でも噂や話題に。それも一切ない。となれば、比叡山焼き討ちそのものは、反信長の者が信長に汚名を浴びせるために、書き足したものであると、考える方が妥当かと推察される)


 天皇を凌ぐ権力を振り翳し、傍若無人の振る舞い。仏法を説くことを忘れ、色事、金、欲にうつつを抜かす教団に、天に代わって信長が鉄槌を下した。仏への信仰に逆らう驚異を、信長自らが無力化としたものだった。


 焼き討ち直前に、地元国人、和田秀純などを取り組み、織田軍の湖東進路を確保するなど、懐柔工作を行っていたのが光秀。

 信長からの信頼を得た光秀は、戦後処理に取り掛かる。延暦寺や日吉大社は消滅し、寺領、社領は、明智光秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀に配分された。光秀はこの領地に、坂本城を築城した。


 時同じくして、足利義満は、武田信玄の病死により、後ろ盾をなくしていた。

 室町幕府は、義満が京都を追われたことにより終焉を迎えた。

 足利義満と言う後ろ盾を失くした天皇は、新たな後ろ盾とし、織田信長を選んだ。最大の権力を得た信長は、独裁的な勢力を露呈し始めたのです。

 信長は、武将たちと和睦を結ぶも、勢力を増長させる者は、我が勢力を脅かす者。ならば、全ての領地を剥奪し、傘下として抑えるしかないと考えた。


 中国地方の毛利氏、越後の上杉氏を攻め、平定へと向かわせた。その頃には敵となるのは、四国の長宗我部元親のみとなっていた。その長宗我部元親に信長は、四国領有を容認し、平定を得た。

 この約束事の有無が、本能寺の変勃発の一旦となるのです。


 長宗我部元親と斎藤利三は親戚関係にあり、光秀の信頼する家臣だった。

 独裁者信長は、長宗我部元親への四国領有の容認を反故にし、四国征伐を決意。

 驚愕した光秀は、直様、信長と斎藤歳三を通して、長宗我部元親との関係修復に乗り出した。長宗我部元親は、信長に歩み寄る書簡を斎藤利三に託した。しかし、その思いは信長には、通じなかった。天下人の道を歩む信長は、疑心暗鬼に飲み込まれていたので御座います。


 光秀は、無用な戦を好む男ではなかった。信長は、自分を脅かしそうな勢力を被害妄想よろしく敵対視する思いを抑えきれないでいたのです。

 その筆頭に、松平元康こと徳川家康いた。三河国を束ね、勢力をつけてきていた。

 松平元康は幼少時、今川家と織田家を、人質として、行ったり来たり。幼少時14歳くらいの信長、12歳の秀吉と遊んだ過去があったので御座います。


 今川義元は、京を目指していた時、桶狭間で、信長の急襲に合い戦死。今川の一部隊だった松平元康は、岡崎城に帰還。今川から独立し、清洲で織田信長と清洲同盟を結んだ。その頃、名を松平元康から徳川家康と改めたのです。


 家康は、血気盛んに信長に敵対する武田信玄に挑むが大敗。それを恥じて、絵にした程だった。しかし、この果断に挑んだ戦いは、信長や諸大名の好感を得ることになる。その後も、援軍を出すなど、家康は、信長との関係を着実に深めていった。

 家康にとって信長、秀吉は兄者のような存在だった。

 しかし、信長は勢力を付ける家康を脅威に感じ始めていた。

 権力を増大させた信長の興味は家康一点に注がれ、長宗我部元親は、利用価値のない過去の存在となっていた。


 明智光秀は、焦っていた。約束を約束と思わない信長に憔悴仕切っていた。光秀には優秀な探偵がいた。探偵とは密偵のこと。俗に言う忍者のことだ。忍者は情報の収集や操作を営みとしていた。探偵の武器は戦うものではなく、危険回避のもの。忍法や軽業師のような印象は、大衆演芸による影響が大きい。その探偵から近い内に、家康の暗殺、長宗我部元親に対する四国征伐が実行される報告が上がってきていた。


 いくさに前向きな秀吉は信長の信頼を受け、いくさの意義を申し立てる光秀は、信長からの信頼を受けるのに欠けるものがあった。その不調和音がギシギシと音を立て崩れていくのを光秀は感じ取っていた。


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