青い花ならあったのに

千住

「ねぇ、アキト。新しい彼氏できたんだ!」

 僕はチャイナブルーをひっくり返しそうになった。


 真由まゆ先輩が前の彼氏と別れてから、まだ一週間も経っていない。


「……もう好きな人ができたんですか?」


「ちがうちがう。なんとですよ。生まれて初めて! 告白されちゃいましたー! 見てこれ。じゃーん」


 真由先輩は足元のバッグから洋風のツボのようなものを取り出し、僕の前で開けてみせた。中にはバラの花びら、本物ではないようだけれど、がびっしり入っている。


「……なんですかこれ」


「レ・メルヴェイユーズ ラデュレのチークですよ。すごい女子力でしょ。少し早いけど誕生日プレゼントだって、告白のときにもらったのです」


 チークがなんだか分からなかったので僕は黙っていた。そんな僕のことを知ってか知らずか単に自慢したいだけなのか、真由先輩は鏡とブラシを取り出してバラの花びらをかきまわし、それを頬に塗りはじめた。なるほど。


「アキトもね、彼女ができたらこういうのを買ってあげるといいですよ」


「嬉しそうですね」


「マジで嬉しい」


 僕はとりあえずチャイナブルーをすすった。ほとんどグレープフルーツジュースの味しかしない。


 二十になってまだ二ヶ月、飲み慣れない酒、通い慣れないバー。大学近くのここは真由先輩がよく行く店だという。誕生日になにか奢りたいと言ったら、ここがいいと。


 二歳上の真由先輩に彼氏が途切れたことはなかった。サークルのかけもちで男友達が多い上、惚れっぽいのだ。そして惚れるとすぐに告白する。そこそこ可愛いのでOKされる。でもお互いなんとなくの付き合いなので、長続きせず別れる。だいたい2ヶ月くらいで。


「なに黙ってんの。ほら」


 真由先輩が鏡をパタンと閉じて、こっちを向いた。豹変した微笑みに、僕は息を飲む。偽りのバラで赤く染まった頬は、まるで恥じらっているかのようだ。


「めちゃくちゃ変わりますね……」


「そう。アキトもね、彼女ができたらこういうのを買ってあげるといいですよ。お菓子とか花束なんかじゃなくて」


 がちん。僕のグラスがミックスナッツの皿にぶつかり、耳ざわりな音を立てた。僕は改めてゆっくりとグラスをカウンターに戻す。


 真由先輩がチークの器を小さなバッグに戻している。幅30センチもないバッグに対してあまりにも大きい。わざわざ自慢するために持ってきたのか。


「このあとも実は彼氏とおデート。もうちょっとお高いお店にいきまーす」


 先輩は名前の知らない真っ赤なカクテルをぐいーと飲み干した。

 なんだ。僕じゃなくて彼氏に見せるために持ってきたのか。会う直前にこれ使ってきたんだよ、って。


「ということで、ごちそうさま!」


「あ、はい。楽しんできてください」


「ありがと。また遊ぼうねー」


「彼氏さん、どんな人なんです?」


 立ち去りかけた先輩の背に、僕は問う。酔って制御を失ったか。声が少し大きくなってしまった。


 真由先輩は少し驚いたように振り向き、そして笑った。


「バイト先のてんちょー。私が入ってきたときから、私のこと気になってて、彼氏途切れるの待ってたんだって」


 もう三年も毎週のように会って、待っていた人なのか。なら今回は長続きしてしまうかもしれないな。


 先輩がひらひらと手を振る。


「ごちそうさま!」


「おめでとうございます」


「ありがとアキトっ」


 僕も二年間、待っていたのだけれど。


 先輩が店を出て、ドアベルの残響も消えた。


 僕の名のアキトは亜紀斗と書く。亜の字は、次とか二番目という意味を持つ。僕はどうにもこの字に呪われている気がして、ずっと嫌いだった。


 真由先輩はLINEで連絡をくれるとき、必ずカタカナでアキトと書いてくれていた。そういうところも僕は。


「すみません」


 僕はバーテンに声をかけた。足元に隠していた紙袋を、カウンターにあげる。


「これ、捨てといてください」


 バーテンが紙袋を覗きこみ、ぴくりと眉を動かした。


「見事じゃないですか。もったいないですね。本当にいいんですか?」


「いいです。いりません。なんならお店に飾ってください」


「では、お言葉に甘えて」


 バーテンは紙袋から、フラワーアレンジメントを取り出した。青を基調に作ってもらった、大きな花かごだ。僕は手を伸ばして『For Mayu』と書かれたシールを破った。


「あとレジはどこですか」


「お会計ですか? お席でうかがいますので、少々お待ちを」


 バーテンが花かごを置き、他の客をかまっている間に、僕はチャイナブルーを飲み干した。


 初めて告白した人になれなかったからって、手遅れだとは限らない。今回だって長続きするとは限らない。でも二番目の告白の可能性を信じるには、僕は青すぎた。頭ではわかっているんだ。でもなんだかダメなんだ。勝てる気がしないんだ。何と戦っているんだ僕は?


 思ったより高くなってしまった会計を、先月作ったばかりのカードで支払った。とにかく今は早く帰って眠りたい。二番目の告白の可能性とか、自分の青さとか、そういうのを全部忘れてただこんこんと。

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青い花ならあったのに 千住 @Senju

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