第2話

 食事を終え、一人で付近の公園で散策する。

 F市は海に近い。それから地理上では相対的に赤道に近いため、冬になっても特に寒くように感じることなく、分厚い防寒着をきる機会がなかなかない。一番寒い時でも、せいぜいセーター一着くらいで済むのである。

 まあ、それがあくまでも昼間の話で、さすがに夜になると、いささかなる寒気を感じることは避けられず、耐えられないほどの悪寒ではないが。

 とはいうものの、体が動いているので、特に問題にならないと思う。風邪を引いても、うまい飯さえ食べればなんとかなると、小さい頃からそう教育されていた。

 風邪なんかより胃の病気が多いのはそのせいかもしれない。それでご飯をもっと美味しくいただくことができるから、コストパフォーマンスが悪くないと感じる。ちなみに今日の夕食は海の幸炒めご飯に昆布汁で、とてもおいしかった。その上、値段がそうそう高くないので、なお一層美味を感じる。この美味しさは、実際に食べないと、やはり文字では伝わるまいと思う。

 夕飯の味を脳内で再生しながら、僕は公園の中心にある湖の周りでゆっくりと歩く。

 土曜であるから、日課の鍛錬をする老人以外に、子供連れの家族がたくさんいる。若いカップルも数多い。公園内で吹奏楽バーションのアニソンを流れている(選曲の基準は謎です)、明かりの点滅とともに踊る人々の姿もみえる(どんな曲にでも踊れるらしい)。昼間なら、はしゃぎながらあっちこっち走り廻す子供の集団もかなりいると思う。それから世界中から来た観光客も。年齢や性別など問わず、皆の顔にはストレスというものはまるでみえない。

 これがいわゆる幸福、或は幸せという状態なんだろう。実際に体験した覚えがないので、確かなことを言うことはできまい。

 「確かなことって、どんな感じなんだろう」往来する人々を眺めながら、僕が呟いた。「そもそも、不確かでないことって、あるのかな」

 「あるのじゃ、そりゃ」老人の声がした。ジョギング中でたまたま僕の呟きを聞いたらしい。「確かなことなんかこの世にはおらん。四十年間毎日ここへ通うわしがそれをよう知っとる。ここにきた人も、ここに生える草木も、そこらへんに立っとるビルも、皆変わっとる。変わりまくる。これを言うわしだって、今日と昨日はまるで違う、それから明日も、また変わるのじゃろう。明日まで生きていればさ」陽気に笑い出す老人。彼の表情も、ここにいる人たちとは同じようである。

 「おとおさんなら、きっと大丈夫と思いますよ。明日も、その次の明日も」

 「もうちょい言ってくれんのかい。十分さえありゃ、十年分の明日も足りるんじゃろう」老人は両目を細めにし、まるでえびす顔である。

 「そこは自分でなんとか頑張らないと」

 「はっはー、愉快愉快、ほんっとう愉快な人じゃ。君みたいな若者は、そうそう会えぬもんじゃ。んじゃ、わしは続くんで、縁があればまた会おう」楽しそうな顔をしながら、ジョギングに戻ろうとする老人。

 「ああ。縁があればさ」僕が返事する。「そう言えば、おとうさん、四十年間もここに通い続ける間、僕みたいな若者、何人くらいと会ったのでしょうか?」

 「よう覚えておらんのう。五人くらいかな、一人くらいかな」すでに何歩も前に出した老人が答える。

 「不確かですね」

 「そりゃまあ、不確かじゃ」

 二人とも吹き出した。

 僕は今、一体どう言う顔をしているのだろう。

 老人と別れ、散歩を再開する。

 夜風が吹き始める。

 街路灯の黄色い光が届かない小道がいた。

 思わず中へ入るようにした。都心地なのに、人間の痕跡が少ない場所、そうそうないと思うからかもしれない。

 両側は名前の知らない熱帯樹で、その暗闇の中から知らない虫の鳴き声がする。

 舗装された道がなくなった。

 ここぞ鬼が出るか蛇が出るかというところかな。

 深呼吸をし、再び歩き出す。

 方向ではこの先が水辺であると予め承知していたが、人造物でないものが現れると期待している。

 飛び石があった。期待が応えられなさそうだ。 

 それでも進む。進み続ける。

 道を横断する芭蕉の葉の間にくぐり、視野が広げた。

 目の当たりにするその光景について、一文でまとめれば、水面に高層ビルの明かりが反射されている、との一行で済む話である。特に不思議な景色でもあるまい。

 不思議な人間なら、一人はいるが。

 「ごめんなさい」と、いきなり謝られた。相手は他ならぬ、今夜の食事を誘い、なかなか現れなかった四十八願である。「私、ちょっとした事情があったから。せめて変更についての連絡くらいがするべきだったはずだが、できなかった。ごめんなさい。ゆるして」囁やくような声で話す四十八願。

 「貴方が謝るほどのことではないだろう」僕が言う。「それに、貴女ほど約束を大事にするかつ有能な人でも為す術がないハプニングなら、他の誰でも制御できないと思う」これは皮肉ではなく、事実である。

 「事実だけどね」本人があっさりと認可した。皮肉だが。「わかった。自分を許す」

 「夕食は?」こっちから質問する。

 「帰る途中で近くのマクドナルドに寄りましょう。ビッグマックが食べたくなった」

 「奢るよ」

 「貴方は?」

 「もう食べた」

 「じゃあ貴方の分は私が奢る。それから私が食べる」じゃあの意味がよくわからないが、お腹がかなり空いてるようだ。

 「はいはい。それでよいなら」相槌を打ちながら、僕は彼女の起立を手伝う。

 よくも一人でここへたどり着いたなと感心した。

 誰かがここへ連れてきたのかな。

 誰なんだろう。こんな悪質ないたずらをしたのは。

 「ね、四十八願」

 「なんでしょう、ドクター・ストレンジャー」

 「マクドナルドって、バーゲンできる?」

 

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