第1話

 僕は人間である。名前はヒミツ。シークレットの意味ではなく、名前の発音がたまたま日本語の秘密という単語と同じであるだけ。漢字を書けば氷見津。今時流行りの物言いをすれば、キラキラネームであるに違いない。

 この名前になった経緯、そして名前に含んだ意味は、謎です。

 一応そのわけを探ることもあったけれど、収穫無しという結果に終えた。親がつけた名前ではないので、彼らに聞いても、わからないとしか言うまい。で、肝心要たる名つけ親の正体についてだが、結局のところ、僕の名前よりも謎であることが明らかになった。

 謎が明らかになったとしても、謎であること自体は変わらないが。

 とはいえ、別に僕は名前なんかに拘るような奴ではないから、それはそれでどうでも良いことだと思う。呼び名もなく、身元不明たる不審者として扱われるよりずっとマシだ。その割、自己紹介するときちょっと厄介だが。でも、覚えやすいから、特に損した感じはない。渾名のミスター・シークレットも案外格好良い響きをしてるし。

 ちょうど響きと言ったところ、携帯が短く振動音をした。友人の四十八願からの新着メールである。

 今夜の食事の誘いだ。

 「ねね、アカイさん、ドクター・ストレンジャーって何?まさかアカイさんの職業はお医者さん?でもストレンジャーって、知らない人間の意味でしょ、見知らぬ人間が自分の手術をするなんて、想像だけでゾッとするんだ、あたし。とても安心できないよ。それ、本当に大丈夫なの?」女の子の声が、背後からいきなり耳にした。

 「いや、医者さんとは、大体の場合知り合いではないだろう。なんで自分が手術を受けることを前提にするんだい?あと、質問が多すぎると困る。僕、答える途中で忘れるから」

 「まぁ、そりゃ大変」女の子が前に出た。年齢は二十歳くらいに見える。格好がとても変わった子である。だぼだぼたる作業服にネコミミとシッポの装飾はともかくとして、灰色に染めた髪と異色たる瞳の方がより目立つ。緑色に青色、生まれつきでなければ、カラーコンタクトとしか考えられない。いや、むしろこの場合、カラーコンタクトとして認識する方が普通だろう。

 なんのキャラクターのコスプレかな。デザインのセンスがやや微妙だが。

 「君、さっきから僕のことを赤井さんとかで呼んでたけれど、僕の苗字は赤井ではないね。誰かと間違ってるかな?」

 「ううん。アカイさんはアカイさんでしょ、それだけが間違えないもん。さっきの質問だけど、ドクター・ストレンジャーって何?」

 「ああ、あれか。友人が勝手につけた呼び名だ。僕は多少神経質のところがあるから、ドクターを呼ばれた。ストレンジャーはさっき君が言ってた通り、見知らぬ人間だ。僕の名前はヒミツだから、それに意訳してただろう。ドクター・ストレンジは元ネタ。ほら、あの時間も操れる魔法使いなんだ、最近映画化したばっかりのやつ」初対面であるはずなのに、こんなにも益体の無い話をすらすらと言い出すなんて、我ながら不思議である。向こうが年頃の女性だなんて、尚更である。

 「ふん。じゃあ、アカイさんで良いじゃない?赤の他人とか、よくいうでしょ」女の子が上目遣いしながら言う。気にしていないようだ。

 「言われてみれば、確かにそうだけど……」相槌を打つ。

 「ドクター・レッドってもっとカッコ良いと思うよ。そんで、ドクターを先生のと訳すなら、アカイさんのこと、なんと、赤井先生になるんだ、すごいでしょ」

 「はあ……」どう返事するかはわからなくなった。ある意味、本当にすごいかもしれない。

 「あっ、今度セーラー服を着てみようかな。本物の機関銃はちょっと入手し難いけど。ほんっとう格好良いよね、泉おやぶん」機関銃を撃つような真似をする彼女。「でもあたし、佐久間さんの方がもっと好き」何気なく本物の銃の話で勝手に盛り上がる女の子を見るのも初めてではないけれど、ここまでボディーランゲージの豊かな人と会うのは多分初めてである。まあ、そもそも僕、普段から人との交流が少ない方で、詰まる所世間知らずであるから、こういうタイプの人、実は結構いる、たまたま僕の周りにはなかなか現れないだけかもしれない。

 そういえば、『セーラー服と機関銃』の作者って、確か赤川先生ではなかったっけ?小説にはあまり詳しくはないけど。ジャンルなんてものには苦手だから。

 「別にあたし、赤井先生が作者だなんて、全然言ってないけど?」悪戯っぽく笑う女の子。「それとも、赤井先生が、似たようなものを書けたとでもいうの?」

 「僕、そもそも物書きはしないんだ。小説に対する興味も、それほどでも」素直に答えた。

 「まぁ、面白い人」と、向こうが評価した。

 「僕ほどつまらない人間、今まで見たことない」これも素直な感想である。

 「ふん」女の子が片目を細める。それからすぐ背中を見せる。

 素直な感想は、だいたい人を面食らわせるものである。

 その感想を素直に述べる僕の方も、やはりどうかしているが。

 「名前、聞かないの?」急に頭を後ろに向けて言い出す彼女。「あたしのこと、単に性格が変わった子と思ってるでしょう?」

 『鋭いね。でもちょっと違う。残念ながら、僕には君ほどの鋭さがないから、数分間で変だと思えるのは、せいぜい格好ぐらいのことだが』みたいな野暮たることまで素直に言える僕ではないので、ここは従うことにしよう。

 「君の名は?」

 「マル」女の子が歯を見せて笑った。

 「はい?」名前を聞いてたのに、いつのまにクイズになったのかをわからない僕が、今、怪訝そうな表情になっただろう、鏡がなければ自分では観えないだが。僕のことをあまり知らない人間にとって、どんな表情も無表情に見えるらしい。

 「な・ま・え。初めまして、あたし、マルです。よろしくっ☆」こっちに向かって、一歩を踏み出してから右手を伸ばすマル。

 「はじめまして、僕はヒミツです。よろしくお願いします」僕も一歩出て、右手を伸ばして握手をしようとする。

 が、手首が掴まれた。

 反応に迷う途端、向こうが回転し始め、二人の距離が一気に縮めることになった。一連の動作があまりにも流暢で、まるでタンゴのようだった。

 そして、ぐっと抱きしめられた。

 あまりにも突然の出来事で、こっちはかなり硬直していた。だから、向こうが小さく震えているのは、はっきりと伝わる。

 彼女は笑っているのか。それとも、泣いているのか。

 僕にはわからない。

 このままにした方が良いのか。それとも、もっと力強く、抱きしめ返した方が良いのか。

 やはり、わからない。

 薄いミントの香りがする。

 日差しがガジュマルの枝葉の間から差し込む。やがて僕らのところに届ける。

 十二月なのに、春のように暖かい。

 ハグしているからかもしれない。日光があるからかもしれない。

 

 はて、どっちなんだろう。

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