奪還編
第33話やまない雨
雨が降る音がする。
ぱらぱらと、絶え間なく降りしきる雨の音が。
私は目を閉じたままそれをじっと聞いていた。窓越しに降っている雨の音を。
まぶたがひどく重かったが、私はゆっくりと目を開ける。
――真っ白な部屋の中、私はベッドに
消毒液のにおいが鼻をかすめる。
ベッドをぐるりと
ナースステーションから聞こえてくる、テレメータの電子音も聞こえる。
少し目線をずらすと、点滴スタンドにTPN(高カロリー輸液)パックがぶらさがっているのが見えた。
思わずパックから伸びているカテーテルを目線で追えば、それは自分の鎖骨下につながっているらしいことが分かった。
ポジショニングをしてくれているらしいクッションの感触も、何かが手足にぐるぐる巻きに装着されている感触も、なんとなくだけど分かる。褥瘡や筋肉拘縮を防ぐための処置だ。
見慣れた、いや、もはや職業上見飽きている、病棟の中の日常風景。
「……どう、して……」
誰にともなく、私は呟く。自分の声のはずなのに、とても掠れているせいでまるで自分のものではないように感じられる。
病棟の中はエアコンで四六時中乾燥しているから、喉の奥まで乾ききっていたのだろう。
唇がしっとりしているのは、スタッフの誰かがワセリンを塗ってくれていたからだろうか?
(……それとも、お母さんがお
そんなことを考えながら、私は再び目を閉じる。
――帰ってきた、という思いよりも、今までに感じたことのないくらいに
(……私、『また』、助かっちゃったんだ……)
状況を頭の中で整理しているうちに、じわりと涙があふれてくる。ただただ悲しかった。
こういう形で助かってしまった経験は、私にとって決して初めてのことではない。
慣れ親しんだ現実の世界に、帰ってくることができた。
それはとても嬉しいことではあるのだけれど、その代わりに決して失ってはならないものを失ってしまった……そんな、気持ちだった。
私はじっと目を閉じたまま、涙があふれて頬を伝い落ちていくに任せる。
(……こんなのって、ないよ……)
死ぬはずだったところを、助けてもらった。……私には、決してそんな価値はないのに。
☆
――それからほんの少しだけ、日数が経過し、視点も変わる。
朝倉江里華は西武新宿駅の正面口を出たところで、降りしきる雨を見上げて
(……やだなあ。ここ最近、毎日ずっと降っているじゃない)
天気予報によれば、今週いっぱいは降るのだという。この時期にしては珍しい天候だ。
冬が近づいてきているせいだろうか、今日の雨も少し冷たく感じられる。
(……って、ボーっと空なんか見てる場合じゃなかった。
せっかくの平日休みなんだし、いろいろと用事を済ませないと……)
そんなことを考えながら、朝倉は傘も差さずに歩き出す。
すぐに地下街に入ってしまえば、どうということはないと考えたのだ。
……と、急ぎ足で歩きはじめた彼女の背後に、ぬっと現れる人影がある。
傘をさしていたその人影は、嬉しそうにニヤリと笑ったかと思うと、持っていたカバンを傘を持っている方の手に移して、空いた片手で朝倉の肩をポンと叩いた。
「エリカちゃん、みーつけた」
「ぎゃー!!」
唐突な肩タッチ&「みーつけた」に、思わず
その体を片手でひょいと支えたのは、朝倉にとって
「……っと、危ないなあ。大丈夫?」
「みみみみた、みたむっ、みたむらっ……!」
三田村を見上げたままガタガタと震え、日本語さえまともに話せなくなっている朝倉。
「だーかーら、別に何もしないって。なーんでそう怖がるかなあ?
今の俺、仕事中のリーマン以外のなにものでもないだろ?」
三田村は
――無難なスーツ姿で、黒くてごついアタッシュケースらしきものを持っている彼の姿は、確かに普通に仕事中のサラリーマン以外には見えなかった。
体格がかなりよく、端正かつ若干軽薄そうな顔立ちをしているあたりは『普通』の基準からは外れているのだろうが……。
「だ……だって、だってだってだって!
いきなり背後に立たれたら誰だって怖いでしょう!? ていうか、あなたはどうしてしょっちゅう私の前に現れるのよ!」
「えー? ないしょー」
「なにそれ怖いっ!!
やっぱり不動産屋は人を付け回して
という朝倉の言葉には、三田村は速攻で首を振った。
「ねーよ! はいってねーよ! これはホムセンで4980円で買ったタダのインパクトドライバーセットですぅー! ……ほらっ! ね?」
「……ほ、本当だ……首じゃない……」
ケースの中身を見せられた朝倉はほっと息をつき、そこでようやく落ち着いたようだった。
それを見て、三田村もまたため息をつく。
「本当にさあ。エリカちゃん、なんで俺のことを怖がるのさ? っていうか、ひょっとしなくても俺のことだけじゃないよね。不動産屋っていう職業のことも怖がってるよね?」
三田村は器用にケースを立ったまま閉めつつも、朝倉を見おろして首をかしげる。
「……そりゃ、人柄じゃなくて職業を見て怖がったりするのは、悪いことだとは思ってるわよ……。でも、不動産屋は本当に怖いんだって、ドキアリで習ったから……」
「ドキアリ? なにそれ?」
「……。……なんでもない。忘れて頂戴」
一般人の前でうっかりキワモノオトメゲータイトルを口走るという失態を犯してしまった朝倉は、即座にそれを撤回する。
そして傘を持っていない方の手で顔を
「……大体、あなたもあなたよ。一体どうして私なんかのことを構いたがるのよ……」
と、困惑の声を上げつつも肩を落とす。
朝倉の問いかけに、今度は三田村は何故かうろたえたように目を泳がせた。
「え!? えーと……だ、だって、その……」
「……」
「だから、えーと……」
「……なによ?」
朝倉はようやく顔を上げて三田村を見据える。三田村は何故か何度も目を
「……えーと……」
「……」
「……え、ええと。そんなに嫌い? 俺のこと」
三田村は朝倉の問いに何故か答えず、無理やり話の方向を元に戻した。
……よくわからないが、これをさらに問い詰めるのはかわいそうだ。
そう思った朝倉はふっと三田村から目をそらし、唇を尖らせながら考え始める。
「……意外と真面目なところは、凄いなーって感心してるわよ。あと、声も結構好きだと思うわ。背が高くて体格がいいのも、正直うらやましい。……私の体は
「……よ、よかった……思っていたほど嫌われてなかった……」
三田村はほっと胸をなでおろした。
そして嬉しそうな笑みを頬に刻んだかと思うと、気を取り直したように朝倉の周りをチョロチョロし始める。
「んじゃあさ、じゃあさ、俺のこと嫌いじゃないならこれから一緒にお昼ご飯とかどう? ちょっとだけ歩くけど、あっちの方の居ぬき物件に出来たシンガポール料理屋が美味しいんだよねー」
「……アンタ、ちょっとはエンゲル係数を下げる努力をしなさいよ……。ていうか、今日はご飯無理。これから用事を済ませまくるから、あんまり時間がないのよ」
「ちぇ。そっかー。残念だけど、そういうことなら仕方ないかな」
と、朝倉に用事があると知った三田村は、口を尖らせながらも素直に引き下がった。
……三田村という人間は、強引なところもあるが決して粗暴ではない。そういった部分も、ひょっとしたら朝倉にとっては好ましい要素なのかもしれなかった。
三田村の様子を微笑しながら見上げていた朝倉だったが、ふと思い出したことがあり、表情を曇らせる。
「……そういえば、今日が退院日だっけ」
「え?」
「大丈夫かしら、あの子……」
「えーと、あの子って……夕ちゃんっていう子だっけ?」
と、三田村は首を傾げた。朝倉はそれに頷いて、
「うん、
「うーん、大丈夫か大丈夫じゃないかって言ったら、大丈夫じゃないんじゃないかなあ。どう考えてもダメージが大きいでしょ、あれは」
首をかしげながら三田村が言う。
「やっぱりそうよね……」
と、朝倉は辛そうにため息をついて目を伏せる。
――笹野原と異世界で協力し、助け合っていたはずの青年・蒔田(異世界では桐生と名乗っていた)は、自分の身と引き換えに、笹野原だけを救出した。
犠牲の上に成り立った『生還』だ。笹野原が喜ぶわけはない。
朝倉は何度か見舞いには行ったものの、ほとんど何も話せなかった。
明るく元気で能天気だったはずの笹野原が、その
彼女は何度も「自分には、命と引き換えに助けてもらうほどの価値はなかったのに」という。
……朝倉は、そこまで笹野原に言わせてしまった蒔田に対して、むしろ怒りを覚えていた。
朝倉の怒りは蒔田だけでなく朝倉自身にも向けられている。
自分に出来ることはそばにいてあげることだけだと分かっていても、何も話せない自分のことがとてもはがゆく感じられたからだ。
「……まあ、夕ちゃんのことも心配だけどさ」
と、朝倉の落ち込んだ様子を見た三田村が、それとなく話の流れを変える。
「俺が職業柄気になってるのはさ、蒔田さんの家の家賃」
「あ。あー……確かに。どうなるのかしらね」
朝倉も思わず首を傾げた。
ちなみに蒔田の現実の体(意識を失っていた)は、三田村が「重い!」と半ギレになりながらも大█保の大通りからタクシーに詰め込んで、とりあえず病院にでも連れて行こうかとスマホを開いていた途中に……いつのまにか、消えていたのだという。
この世界から完全に消失してしまったのだ。
「気になるんだよなあ。どうせ自動振り込みにでもしているんだろうけども、預金残高が尽きればどうなることやら」
と、三田村は少しだけ苦笑を見せつつ、
「……それとも尽きないのかな。名刺を見た感じお金はまあありそうな人だったし、結構な期間イケちゃいそうな気もするなあ」
「どっちでもいいと思っていたのかしら。……それにしても、蒔田さんの一連の行動って、そういう身じまいを全部考えたうえでの行動だったのかしらねえ」
「いや、多分衝動的に動いちゃったんじゃねえかなあ。
時間的にも状況的にも、あんなに追い詰められた状況だったんだ、家賃のことなんて多分考えてなかったよ」
と、三田村は苦笑を深めた。……朝倉の表情から悲哀の色が和らいだのを見て、内心ホッと胸をなでおろしつつ。
「でも、まあ……これ以上の『異世界』の調査は出来ないな。『管理者』宅の資材はあらかた持ち出されたし、ゾンビが出てきた天袋の穴は、俺が押し込んだゾンビどもの死体もろとも消えちまった。
……て感じで、ヒントが全部消えちまってるし、そもそも俺たちは日々の仕事で忙しい。
悔しいし残念だけど、出来ることはもうないんじゃないかなあ……」
☆
雨が降る音がする。
ぱらぱらと、絶え間なく降りしきる雨の音が。
退院した私は売店で買ったビニール傘を差して、大久保の廃屋前に立っていた。エリザベート……じゃない、お見舞いに来てくれた朝倉さんに聞いたのだ。蒔田さんはここで真相を究明して、そして、私を助けるためにたった一人で異世界へと乗り込んだのだと。
現実世界に残されたはずの蒔田さんの体は、その後、跡形もなく消えてしまったとも。
それはつまり……完全に『あちら側』の住民になってしまったということなのだろうか?
そんなことを考えながら、私は傘を差していない方の手を胸の前で握り締める。
――なぜここにきてしまったのかは分からない。何がしたいわけでも、何が出来ると思っていた訳でもない。
私はただそこに立ち尽くして、呆然と見るともなしに廃屋を眺めていた。
――……と。
「ここ、女の子一人じゃ危ないよ。……それともこの家に、何か特別な用事でもあるの?」
どこかで少しだけ聞いたことのある、中性的な声が私にかけられた。
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