第1話
妻から『画皮』という中国の昔話を聞いたことがある。
細かい部分はよく覚えていないが、人の姿に化けるような妖怪変化ということは確かである。妖怪とか言うものの、中国では鬼として定義されているらしいが。まあ別に僕は妻のようなそちら側の関係者でもなければ専門家云々の類でもない、僕にしてみれば所詮呼び名の違いでしかなく、別にどうでもいいと思うが。
「呼び名の大切さについて、この一年間散々酷い目にあったあなたは一番痛感できるでは無いでしょうか。本当エッチくんのそういうところ、全然変わらないね」
「よくわからないものに対してどうでもいいと思うのは大体の人間の反応だと思うが。あと変わらないというならお前も同じだね、波瑠七。伏見波瑠七。いつでもさりげなく僕を揶揄うそういうところ」
「よくわからないものに対して怖くてビビるのは大体の人間の反応だよ。今まで語ったお話の中に出る人たちのように。でも私が言いたかったのはそういうことじゃなかったわよ。ほら、私たち、もう既にゴールインしたでしょう、なのにエッチくんは未だ私のことを伏見波瑠七と呼ぶ、江口波瑠七じゃなくて。お互いにエッチくんやエッチちゃんと呼び合うのは結構期待していたのに」
「互いにエッチくんやエッチちゃんと呼び合うために僕と結婚したみたいな物言いにするな。どんな夫婦かよ。色々アウトだろう、ゴールインって。僕はただ自分の名前で人を縛るのは嫌だけでまだ慣れていないだけさ。いっそ付き合い始めた頃みたいに互いにさん付けで呼び合うよう戻したいくらいな気分だぜ」
「恋人同士がさん付けで呼び合うのもどうかしていると思うが。ご主人様って言われたくないでしょうと考えてから、この呼び名にしたのが、どうやらお気に入らないようだね、エッチくん。江口東と書く、エッチ童貞くん」
「確かにさっきは少し言い過ぎだと自覚しているが、波瑠七、波瑠七ちゃん、その心遣いはありがたいことだが、もしかして、ひょっとしたら、今お前、僕に人身攻撃をしたつもりなのか?しかもかなり悪質な形で」
「そんなわけないでしょう。いくら冷血性が残ったとはいえ、さすがに結婚してから一週間も経たない間に相手にDVを振る舞うような真似をする私ではないわ。まだ新婚旅行もしてないというのに。ああー、期待するわ、私たちの新婚旅行。DVで記録しようかな。それからDVD化して全国販売するわ。副音声は西尾維新先生に書かせてもらおう」
「そうだよね、それから贅沢三昧たる印税生活か……、っておい!新婚旅行の計画に生々しい話を持ち込もな!誰が印税を使って海外で別荘を買って仕事部屋を映画館級に改造したりするんだよ」
「いや、別に私もそこまで具体的に言っていないだが……。なるほど、エッチくんって、映画館でお絵描きをしたいんだ、しかも一人で」
「一人であることを強調するな。絵って大体の場合は一人で仕上げるものだ」
「でも映画館って、大体の場合は一人でいるような場所ではないでしょう。あっ、わかった、エッチくんって、私たちの新婚旅行映像を独り占めつもりだね。ふん、案外愛妻家でエッチなことが好きだよね、さすがエッチくん、まさに噂の通り」
「どこでどんな噂を聞いてたのかはともかくとして、僕たちの新婚旅行映像がアダルト内容しかないことを前提するな。西尾先生に何を書かせるつもりかよ。確かにそっちの方が儲けるような気がするが。しかし波瑠七ちゃん、お前って本当に夫が邪なことが好きという性格に期待しているのか?僕が他の人からエッチくんと呼ばれたらお前が嬉しいのか?」
「普通に嬉しいよ。嬉しいどころかもう嬉し泣きしちゃいそうな気分だわ。だってエッチくんを真なエッチくんとして育てあげたもの。それもある意味のゴールインかもしれない。本当母性愛って仕方のないものわね。もし本当にエッチくんからエッチな要求を申し込まれたら私は大爆笑しながらそれを受け入れるつもりよ、もう片腹が痛いくらいに」
片心が痛いくらいに。片方しか無いが。
これからの婚姻生活、前途がよく見えないくらい眩しい。
結婚は人生の墓場だという物言いについて、なんとなく分かったような気がする。
読み手の誤読から生じたことわざとはいえ、案外的を射ているかもしれない。
ゴールイン。なんちゃって。
人生のゴールなんて、数え切れないものだ。
ともあれ。
「波瑠七、こないだした話についてだが」
「一姫二太郎の話についてもう既に検討済みでしょう。六百年間もかかったのに」
「六百年間も生きられるならもっと建設的ことを検討せよ。それじゃなくて、ほら、画皮の話、あの妖怪変化の」
「妖怪じゃなくて鬼だよ。で、画皮がどうした?」
「いや、別にどうしたかってわけじゃない。僕、これから弐口博士のとこに行くんだろう、お前の紹介のお蔭で。友達とか言うから、ひょっとしたらそっち側の者ではないかと思ってしまって……」
「あっ、なるほどなるほど。それなら、安心しなさい。弐口甲一、世界の真の姿が見える天才、彼こそが正真正銘な人間であること、そして偽りなく天才でもあることを、この私が保証するわ。なんだ、江口くん、もといあなた、今となってもそういう話にビビるとでもいうのかい?私と結婚でもしたのに」
お前と結婚したら恐怖心を克服できるかどうかは知らないが、生を求める本能が高めるのは確かのようだが。心かけてなあ。
「心かけて生を求める……、いやあ、そろそろ下ネタから卒業したい私でもあるが、あなた、そこまで私をそういうキャラとして定着したいなら別に構わないけど……」
「心かけて生を求めるという言葉に反応する奴はお前しかいないと思うが。命かけてそういうキャラとして定着されたいのはいつもお前だけだ。なんだよそのテンション。ノリノリじゃねえか」
「■■が◎▲●を▲△■に☆」
うわ。なんか耳が熱い。
これって、何語?
日本語って、ここまでにも刺激的になれるわけ?
一旦冷静して電話を切ようかな。
「さ・せ・な・い」
「ぺろ」と、耳が舐められた。いや、電話を通して人の耳を舐めるなんて物理的には不可能だから、正確にいうなら、耳が舐められたような感触でした。音質が良いな、最近の携帯電話って。
「物理的には不可能なら、精神的な手段はまだ残ってるはず。両方合わせて生理的にはなるだけど。しかし、たかが電波の届く範囲で維持できる程度の関係なんて、私と江口くんの間に築いたものではないわ。ところで、江口くん、あなた、画皮の話についてだが、一番印象深いところはどこ?というか、そもそも印象が残るようなとこ、あったかしら?この語り手界の牛耳を執る私が直々に語る物語に」
「そういう業界が実在するかどうかはともかくとして、品のないジョークしか言わない点だけでお前に牛耳を執られるわけが微塵ないだろう。そうだな、印象深いというかなんていうか、妻の陳氏が夫を救うために乞食にさせられたこと、あれはかなりインパクトが強かったシーンだね。映像化はさすがは無理だろう。口噛み酒はの方はまだマシと思う」
「どうでしょう。これから再び地上波で色んなことを自由に表現できるような時代を迎えかねないと思うが。地上波が無理ならまだ劇場があるでしょう。なんならネットやアプリで放送しても良いよ」
「しても良いよって。たとえ放送制限の問題は解決されたとしても、内容はそのままで良いわけないだろう。絵面的には凄いことになるぞ、汚いおじさんの唾液を飲むなんて、しかもかなり濃いの方を」
「それ、痰だよ。濃いものなら、濃痰と言い換えるべきかしら。恋のように。大人の恋、いつもドロドロ」
「前から言いたかったんけれど、お前、PTAの標的になりそうだな」
「まぁ。種族の繁衍は神聖たる行為だわ。性的な描写に余計に興奮するのは常に子供しかないわね。誰からも教えられないから。本来なら子供達にはそういう概念はなかったはずというのに。汚いと思うから見たくもなければ聞きたくもない、それはなんの問題もなく、ごく普通の反応だから。自分が好まないから子供にも見せるべきではないと判断する、それから子供に見せない、それも別に悪くない、子育ては自分んちのことだから。しかし団を組んでそれらを表現する創作者たちを攻撃するような真似は、どうでしょう、考え方が子供でありながら手段までも子供っぽくて、児戯に等しいと言わざるを得ないわ。そこまで自分の子供に見せたく無いから最初から懇切丁寧に説明すればよかったのに。いっそCIAに改名した方が良かったのに」
「わかった、お前を煽った僕が悪かった、もうそれ以上言わなくても良いが、ちなみに波瑠七、お前が言ったCIAって何の略?」
「CHILDRENESE INTERNATIONAL ASSOCIATION」
「僕からいうのも少しあれなんだけど、ほら、波瑠七ちゃん、名詞にインターナショナルを組み込む場合は一番の位置に置くべきだよ。一応国際レベルなんだから」
「あっそ。ならICPOに換えておきましょう。INTERNATIONAL CHILDISH PARENTS ORGANIZATION」
あまり認めたくないけど、うまいな。バージョンアップしたところで尚更。
かつての教師と父母の教育会、今となって国際警察組織にまでも匹敵するとは。
いやはや、まったく恐ろしい世の中、感無量せざるを得ない。
今後一線を超えた発言、なるべく控えておこう。
くわばらくわばら。
「とりあえず、波瑠七、のうた……じゃなくて、画皮の話に戻ろう」
誓ってから一言目で失脚しちゃうところだった。剣呑剣呑。
「良いけど。今回は何について話そうかな。鬼が王生の内臓を抉り出すシーンか?それとも道士さんが退治した鬼の皮をぐるぐる巻き上げるところかしら」
「できるなら両方とも話したくないな……、あのさ、波瑠七、僕が聞きたいのは、その画皮という鬼の本質だ。あれって、人の姿に化けるから、人に害を与える点を除けば狸や狐とやらの輩とは区別があるのか?」
「人の姿に化けるのは言うならば生き残るためーー生存するためだよ。一言にすればそれは擬態、つまるところカムフラージュというわけだ。まあ話の中に出たその鬼は、結果としては擬態失敗だったけれど、それはそれで仕方のないことわね、専門家に見破れたもの。まあそれについては擬態の限界性と言うかなんて言うか、狸といい狐といい獺といい、概ね大差がないが。しかし、人に害を与えるなんてさすがに聞き捨てるわけにはいくまいわね。私の伝えたいことわかる?今から夫婦の間の以心伝心、試してみようかな」
「生きているうち、誰かの邪魔になるのも当たり前のことだーーと言いたいだろう。人だって人に害を与える、でなきゃ被害者と加害者という言葉が存在しないね。よく考えてみたら、あれぐらいの神通力の持ち主が人に害を与えようとするなら、最初から化ける必要もないだもんね、昼間では尚更だ、精力の無駄使いでしかない。あれは過剰防衛と見做すべきだろう。ごめん、質問の仕方を間違って」
「また水臭いことを言うね。そこも江口くんらしいだが。まあ人間を相手にするならいくら過剰に見えてもそれは正当な反応と思うけど。『過剰』なんて所詮主観的なものだから。だから個人的には加害者しかいないと信じているわね。『個人的』って実に心地よい響きだね、まさか自らこの言葉を言い出すような日が来るなんて考えもしなかった。改めて感謝するわ、江口くん、もといあなた、私のような存在を人間としてちゃんと受け入れて」
「……どういたしまして。でもこうしてみると、なんだか僕、かなり恩着せがましいやつには見えるだが」
「大丈夫、あなたの可愛いお嫁さん、この私はちゃんとわかるから、心配無用。江口くん自身のことだから、自分が一番わかるはずだが。関係者に限ってちゃんと判る、それから関係者以外立ち入り禁止ーー堅い関係だわ。堅苦しい関係の一歩手前かな。縛るつもりはないけど」
「ああ、わかった。ありがとう、波瑠七。僕と結婚してくれて。そしてこれからもよろしく」
「なんか気持ち悪いね、私の品無しジョークよりも。もう最高の嫌がらせですわ」向こうからけらけらの笑い声が聞こえる。
ここまで元気良く大爆笑するようになったのはつい最近のことだ。
「仇名の件の仕返しですよ、エッチちゃん」こっちも口元を綻ばす。
「自信作と自負していますが」
「センスは微妙としか言えないが、うん、傑作ですね。一応」
「ありがとうございます。ご主人様」向こうはいきなり真剣な口調に変換してから、「気をつけて、私がそばにいなくとも」と言った。
「ああ。しかし、ご主人様って、今更仕返しをしても。僕にはそう呼ばれるような資格はありません」
「そんなことありません。本音です、今までの話全部含めて。本懐でありながら本心でもある、そして、本意も、そのままで」
「かなり本格的だね」
「ええ、本気で言ったのです。なにせ、あなたの本妻なんですから」
「本当に本人なのかな」
「はい、ご心配なく、本物です。本宅であなたを待っております。ちなみに本名が本多重次です」
いや、そこは普通に無理だろう。家に自分を待つ安土桃山時代の武将いるなんて想像するだけでゾッとする。
うむ。帰るときハガキでも書こう。
「では、私の勝ちになるわけね」
「そうね。君には敵わないね。人間になっても強い」
「あなたも決して弱くなんかありませんわ。たとえ人間じゃなくとも」
「大事にしてね、一人いるとき」
「ええ、そちらも、お大事にしてください。では」
「はるな」
「はい」
「愛してる」
「今回はちゃんと言えたわね」
「ああ。なんとか。返事は?」
「そうね。今度『お帰り』を言う時にしましょう」
電話が切った。
耳の辺りがびしょびしょになったような感じがする。
はて、汗でしょうか。
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