当人の寝言 Tales

太湖仙貝

プロローグ


 ロシア生まれ、それからロシアで人生最初の十七年間を過ごしていた私は、セミという昆虫についてまるで知らなかった。

 日本に来てから初めて知ったのである。

 暑い時期に地中から出で、木のうえに登り、羽化してから飛べるようになり、それから鳴き出す。ただただ鳴く。噛まれても決して噛むことはしない、故に温順で優しい生き物とも言えるかもしれない。が、実際のところ、醜いし、煩いし、有り体に言えば、どうしてここの人々がこんな気持ち悪いいきものに変な親近感を抱いているのかは私にとってはまったく奇天烈で摩訶不思議なことである。

 夏の風物詩云々と言うのなら、蛙だってトンボだって他にいくらでも代わりはいるはず、寿命が短いだけなら蚊や蝿だって寿命は短い、そのわり生き延びるため一所懸命にその姿を人間に見せつけるーーある意味夏の風物詩とも言えるだろう。『地中で数年十数年間生まれ外に出て二、三週間しか生きられないからあまりにも可哀相』と主張したい人もいるがーーどうだろう、ひょっとしたら数年間に亘る地中生活の日々、案外快適なものかもしれない。地面に出てくるのはあくまでも繁殖のために過ぎず、そのうえ羽化すること自体はそもそも成功率の高いものとは言い難いし、百歩譲って成功したとしても、天敵が多いため交尾する対象と出会う確率もかなり低い、しかも交尾したらすぐ草葉に落ちるーー死んでしまうのである。つまるところ、セミが地面に出る行為は自殺と見做すべき、セミの一生において地上での日々は単なる幽明界を異にする儀式でしかない。極論を言えば、セミの一生、否、セミだけではなく、人生そのものも、単なる世を辞するための準備に過ぎずと言えるだが。

 野暮たる物言いになるかもしれないが、もしセミには思想があるなら、きっと外に出るのは普通に怖がる、そして嫌がると思う、人間と同じように。なにせ、死に直結しているから。

 だから必死に怒鳴る。死ぬまで怒鳴る。怒鳴り続ける。

 死ぬのは嫌、死ぬのは怖い、どうして自分は死ななければならない、と。

 生命を謳歌するならぬ、生命を呪詛するのである。

 これを聞いたら、怒る人結構いるはずと思う。

 『晩節を全うしている』みたいな押し付けるような解釈とは大差はないと思うが。

 どのみち、セミの気持ちはセミにしかわからない、それを揣摩臆測のはセミ以外の者にしかできない。

 「死亡は生存するときにしか考えられないこと、みたいな話だね」耳元に男の声がする。騒々しい蝉声よりは、ずっと美しい声である。

 死亡。死ぬ。亡くなる。 

 命を絶える、絶命する。

 生命の終焉たるもの。体感レベルで実感できる生よりは、よほど不可知で、神秘的である。

 半死半生とかいうものの、半生はともかく、半死は絶対ないと思う。半分さえ生きていれば、それは生のうちに入るべきだろう。瀕死体験というものがあっても、それはあくまでも瀕死であり、垂死である。死に掛かるところというのは、逆に言えばギリギリ生きているところである。

 だから生命は生きる命とは同じことであっても、死命は有無に対立する二つのものでしかないーーまさに有無のように。

 「有無断常で生死を理解するより、有無同然の姿勢で生きる方がもっと気楽と思うが。そういう考え方のままだと、君は人のためじゃなくとも、いつかは一肌脱ぐだろう、きっと」心地良い響きである。もはや内容が聞き取れないくらい。

 ちゃんと聞き取れただが。

 「博士、それ、皮肉というより、嫌がらせには聞こえますが」

 「一応褒めてるつもりだが。君のセミヌード、美しいものだ。もうヌードに匹敵するくらい」

 「それ、立派なセクハラです」

 まあこんなことまでになるのは最早セクハラも何とも言えなくなるだろうが。

 たとえセクハラだとしても、こんなにも美しい声で言われると逆に心嬉しく感じると思うが。本当に人間の感情ってこんなにも矛盾的なものだね。

 「……」

 返事が聞こえなくなった。

 あまりにも美しいので、耳が聞こえなくなるような声って有り得るだろうか。

 超音波でもない限り。

 

 沈黙。

 手をそばに伸ばす。違和感のある感触がする。

 なんだろう、この手触り。

 電灯をともす。

 見て認識する。理解する。それから再び見る。

 やがて解る、返事が聞こえなくなったそのわけ。

 視野に入る光景は、シートに広がるモノである。

 人の形をしているモノ。

 筋肉が無い。骨が無い。血管が無ければ血液も無い。あるのは毛髪と皮膚だけーー人の皮、人の抜け殻。

 まるで絵巻物のような有様である。

 なるほど、現状を把握したーー返事が聞こえなかったではなく、返事が来なかったというわけだ。

 

 絶叫した。思わず絶叫をした。

 声を絶するほど、叫んでいだ。喚き声を上げていた。

 心の中で。

 もし実際に再現できるなら、それはおそらく、否、間違いなく、博士の美声とはまるで対照的なもので、凄く凄惨で、悽愴で、そして凄まじく悲惨なようにも聞こえる悲鳴なんだろう。

 蝉時雨より遥かに五月蝿い。きっと。

 怖い。恐ろしい。理解できない。

 もう、目が見えなくなるくらいだ。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る