第21話 吾輩は・・・ (没21)
『吾 輩 は ・・・』 (没21)
人間は成長すると共に顔形ばかりか性格や信条も変わる。しかし死ぬまで変わらない、いや、変われないのが個人名である。
姓は結婚によって変わる事もあるが、この世でたった一人の個人を特定する下の名前は一生その人に付きまとう。実は生涯でそれほど個人名が重要であるにも拘らず両親は殆どその認識を欠き、子の命名に関して軽率すぎると思われる事例を今回は糾弾しよう。
わが子の誕生を喜ばない両親はいないが、妊娠から出産までおよそ肉体的な変化を受けない父親は、お腹をさする妻の笑みと更なる母子のスキンシップに親子の結びつきで圧倒的劣位に立たされる疎外感から、自己の存在を主張するために往々にして自らの名前の一字をわが子に付けることで、過去から未来にわたる劣勢を挽回しようと企む。
しかし子供は母の胎内を出た瞬間から親とは似て非なる一個人としての人生が始まり、父親がいかに音訓の読みを変えた命名で自己の占有権を表明しても早晩、父の野望は虚しい結果に終わる。
むしろ子供は親から離れたがる。分別が付く年頃になって、顔形のみならず性格や好みまで親に似てきたと気づいた時、親子だから仕方がない・・と渋々承知しても、逃れられないのは名前からの呪縛である。それは親が有名であればあるほど子供の立場を不安定なものにする。一例として、自分が独立した一個人でありたいと願っても親が有名であれば自らが勝ち得た名声に至るまでの努力も「親の名前に依存する所が多い」と冷ややかな眼で見られ、あるいは仮に自分が非力な場合は常に親の偉大さを際立たせるための生け贄にしか映らない不条理を感じる。
そして次に親のわがままと言えるものは、親自身が敬愛する人からの借用だろう。自分が敬愛するからと言って子供も同じ感情を抱くとは断定できず、明らかにスーパースターにあやかったと分かる命名も子供の活動する分野が違えば、本人には不快感を助長させるだけかも知れない。加えてあまりに言葉遊びか強引な当て字の名付けも、人々に容易に覚えられる長所はあるものの、時として名前によるイジメの対象になりかねない。言うまでもなく有りふれた名前が平凡な人間を作り、特異な名前が個性的な才能を育むのではない。たとえ「これからの子供達は日本という狭い殻に閉じこもっているようではいけない」と飛翔を促す論に賛同するとしても、世界に通用する個人名が必ずしもカタカナまがいでなくてはいけない理由は全くない。
それゆえ親は自己の欲望を消化するための命名に拘泥するよりも、将来どのような人間に育って欲しいかを願う素直な気持ちを名前に託す方が、結局は子供への愛情を示す一番の贈り物になるに違いない。(とすれば、どうやら私も親の非を子供達に詫びなければならない父親失格の一員のようだ・・・)
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