第4話   エ セ 映 画 つ う (没4)

 

 私は一時期、映画に狂った時があった。

 数としては圧倒的に洋画の方が多かったけど、どれだけ感動しても同じ映画を何回も見ることはなかった。それは時間とお金のムダを省くためのみならず、感動は一回きりの真剣勝負に賭けたいとする私の信条からでもあった。つまり、結末を知っている推理小説の再読では犯人捜しの興が削がれるように、映画も傑作と感じたものであればあるほど、二回目では次のシーンが先回りして折角得た前回の鮮烈な感動をかえって損ねてしまう。それゆえ私は映画にも『一期一会』を求めていた。(時代と共に人智も進化するせいだろうか、最近の映画はストーリーが複雑で一度観た限りではなかなか理解できない作品が多いような・・。それとも、オッサンの知能が確実に退化している証か?)

 さらに私は(見る前も見た後も)批評文や解説の類を読まない偏屈を通していた。仮に何かを作ることに携わっている人であれば、どんな分野であろうと他の作家とは違う新しい作品を創りだす苦労を知っている。もちろん褒められて気分を害する作者はいないだろうが、他人が作品の粗を探して(勝手気ままに)論評することは、その作者の人格までも否定することにつながると思える。それは辛辣な批判が最も良い批評と錯覚しているような文が、しばしば見受けられるからである。

 極論すればプロの批評家といえども価値判断はその人の基準で行われているのだから、優劣に批評家個人の好みが反映されたり他の作品との比較で決められる時もあるはずだ。むしろ作者はプロの批評文よりも一般人の率直な感想の方が、より気になっているに違いない。よって、その映画が傑作か駄作かの押印のみならず単に面白いか退屈だったかどうかの判断さえ、見た人の個人的な感覚にゆだねて構わないと没価値男は断言する。恐らくほとんどの作者は他の作家との競いあいや、あの作品を追いこしてやろう・・などという意図ではなく実に純粋な欲求から、それぞれの作品を創りあげているに違いない。

 特に映画の場合は一人の想像で済む小説と違って、たかだか二時間の作品に莫大な費用と長い年月をかけて、俳優やさまざまな係を分担した多くの人々との共同作業の結実である。その全てがつまらない映画も少ないはずで、私はイマイチ・・と思った映画からも必ず何かしらのヒントを与えられた。

 ところで男優に関しては、GペックよりもAクイン、AドロンよりもJPベルモンドと、同じ映画に出演していても男前より個性派の方が好きだったけど(そして不死身のヒーローは誰よりも強面『シュワ』ちゃん)、確実に作品の華となる(その人を見ているだけで満足し、時にはストーリーすら二の次にさせる)女優は、ただの美人や肉体派じゃつまらねぇ。例えば、おっと残念、もう余白がなくなってしまったか・・・。

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