第3話   本 と の 出 会 い (没3)

 本にはさまざまな知恵や真理が含まれている。それゆえ母はまず子供に絵本を読み聞かせることで本に対する関心を誘い、子供が自分の力で字を読めるようになると盛んに読書を勧める。私もしばしば「本を読みなさい」と母に言われたけど、小学校時代から勉強が大嫌いだった私は『ナンダ、カンダ』と理由をつけて母の忠告をことごとく無視した。

 高校生になってようやく「少し位は本も読まなくちゃ」と思うようになったものの忍耐力を欠くために長編が苦手で、さらに偏屈な性格は好みの作家にしか目を向けなかった。そして三年生の夏、受験用の文学史を勉強しているうちに私の知らない著者と作品名を見つけた。それは「昭和初期のインテリが読む本」の上位にあった。インテリに憧れている以上、読まざるをえないと思ったけど受験勉強に支障をきたすのはマズイので得意の『上っ面』読みを本屋で試みた。ところが結果的に私が本を買い求めたのは、その作品が今までに読んだことのない戯曲で立ち読みし難かった(のと文庫本の)せいだが、その本は確実に私を変えた。

 倉田百三著、『出家とその弟子』

 私は読んで涙が止まらなかったのを覚えている。高三の夏休みと言えば寸暇を惜しんで勉強に励まなくてはいけないのに、私は来る日も来る日も登場人物の言動に自らの答えを重ね、「こんなバカをしていたら大学に落ちるぞ」と迫るもう一人の自分の言葉におびえながらも結局、私は夏休みの一カ月間をほとんど勉強に費やさずに過ごしてしまった。

 どちらかと言えば、答えの分かれる文学よりも真偽の明確な科学の方が性に合っていた私が以降、仏教やキリスト教に関心を持ち、人生論や哲学的思考を好むようになったのもこの作品からの影響であり、これほど鮮烈な衝撃と感動を受けた本は他にない。

 人生にはさまざまな出会いがある。人との出会いばかりか本との出会いもまさに一期一会で、いかに名著と評される作品であろうと人生のある特定の時期に出会わなければ全く意味のない本もある。とすると私が(まだ純粋だった)高校三年生の夏に『出家とその弟子』に出会ったことこそが私の人生において最高のめぐり逢いで、突きつけられた命題に苦悶し続けて受験生には天王山と言われる夏休みを無為に過ごしたから私が浪人したわけでは毛頭ない。むしろ十八歳で『出家とその弟子』に出会っていないことの方が、私の人生にとって遥かに大きな損失となっているに相違ない。(せんえつながら、私が六十で初めて書いた『心の彷徨たび』という駄作は、まさに『出家とその弟子』を読んで、いつの日か自分も小説の類を書きたいと願った十代の細やかな幻の具現ゆえに、かつての名著を引きあいに出す愚かさも容赦していただきたい。そして艱難も含めて今日まで私が経験した全ての出会いに深謝!)

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