第9話 それじゃ、僕の町を案内するよ

 今夜の夕食は多分、美味しかったのだろう。キッチンの流し台まで運んだ茶碗には、ご飯粒が一つも残っていなかった。

 

 僕は呆けた顔で、父さんの「進」に振りかえった。

 

 父さんは、僕の目を見つめた。


「どうしたんだ?」


「へっ? うんう、何でもないよ」


「そ、そうか」


 数秒の間。


「部屋には、戻らないのか?」


「う、うん。今日は……ちょっとね」


「そうか。まあ、そう言う日があっても良いだろう」


 父さんは、テレビの画面に視線を戻した。


 僕は、その画面に視線を向けなかった。


「父さん」


「ん?」


「今日は、少し早めに入ってもいい」


「風呂に、か?」


「うん。いつもは、父さんが一番に入っているから」


 父さんは横目で、僕の表情を窺った。


「ああ、良いよ。お前が先に入って」


「本当!」


「だが」


「え?」


「お湯の温度は、熱めにしておけ」


「分かった」


 僕は、父さんの注文に微笑んだ。


「父さんは、熱めのお湯が好きだからね。言われた通りにするよ」


 部屋の時計に目をやる。


「七時三十六分、か。うん、八時になったら入ろう」


 僕はワクワクした気持ちで、時計が八時になるのを待った。八時になった後は、家の風呂に入り、その風呂から上がって、自分の部屋に戻った。

 

 僕は、パソコンの画面を覗いたが……。


「あれ?」


 僕は、画面の表示に首を傾げた。


「理穂子さんがいない」


 どうしたんだ?


 僕は、パソコンの画面に触れようとした。だがその瞬間、オーディオのこころちゃんから「理穂子さんならお風呂に入っているよ!」と話しかけられてしまった。伸ばし掛けた手を引っ込める。

 

 僕は、こころちゃんの顔に視線を移した。


「お風呂に入っている?」


「うん! スーちゃんがいない間に。スーちゃんもお風呂に入ったの?」


「うん、入った」


 僕は、パジャマ姿のこころちゃんに微笑んだ。


「こころちゃんも、お風呂に入ったんだね?」


「うん、すごく気持ちよかった! ピンク色のお風呂に入って。スーちゃんは、お風呂は好き?」


「うん、好きだよ。こころちゃんは?」


「大好き!」


「そっか」


「ねぇ、スーちゃん」


「うん?」


「今度、一緒にお風呂入ろう!」


 僕は、その言葉に仰天した。


「い、一緒に入る?」


「うん!」


 彼女は上目遣いで、僕の答えを誘った。


「ダメ、かな?」


 僕は、彼女の質問に動揺した。


「一緒に入るって事は(防水加工にはなっているが)……その、こころちゃんの裸が見られるって事だよ? 僕に」


「うん!」


「こころちゃんは、僕に裸を見られても良いの?」


「うん! スーちゃんなら、裸を見られても平気」


 彼女は、パジャマの上をおもむろに脱ぎはじめた。


 僕は、その光景に思わず驚いた。


「いけない」


「え?」


 僕は、彼女から視線を逸らした。


「小学生がそんな! 君はもう、小学生なんだし」


「小学生は、中学生の前で裸になっちゃだめなの?」


「ダメだ!」


「ヒィ」


 僕は、彼女の泣き顔に謝った。


「ごめん、大声出して。でも」


「でも?」


「そう言うのは、簡単に見せちゃいけないと思う。特に君のような子は」


「ワタシのような子?」


 僕は、彼女の目を見つめた。


「こころちゃんは、多くの人に元気を与える子だ。君の目の前にいる僕とは、違ってね。君は、みんなの宝物なんだよ。多くの人々を救う。僕も」


「スーちゃん?」


「君の歌に救われた」


 僕は、外付けスピーカーの表面を撫でた。


「二次元の君とは、一緒の風呂には入れない。でも、その声を聞く事はできる。僕は、画面の君と話せるだけで幸せなんだ」


 こころちゃんは、両目の涙を拭った。


「ごめんなさい」


 僕は、彼女の謝罪に首を振った。


「僕の方こそ、きつい事を言ってごめんね」


 彼女は、僕の言葉にニッコリと笑った。


「スーちゃん」


「なに?」


「大好き!」


 彼女は、残念そうに笑った。


「スーちゃんが二次元の男の子なら良かったのになぁ」


 僕は、今の一言に胸が締め付けられた。


「二次元の男の子……」


 僕は、自分の存在に眉を寄せた。と同時、「進くん?」

 

 パソコンの画面から声が聞こえた。

 

 僕は、そのパソコンの画面に目をやった。パソコンの画面には、最愛の女性ひとが映っていた。僕は慌てて、その人に謝った。


「ご、ごめん! その、つい」


 彼女は、「つい」から続く言葉を聞かなかった。


「ごめんなさい」


「え?」


「あなたの事を待たせてしまって」


「そ、そんな事ないよ! 僕も、ついさっき」


「本当ですか?」


「だから、気にしなくて良いよ」


「そうですか。良かった」


 彼女は、満面の笑みを浮かべた。


 僕は、その笑みにドキッとした。彼女のパジャマ姿が妙に色っぽく見える事にも、そして、その頬がうっすらと染まっている事にも。僕は彼女が「進くん?」と話しかけるまで、その姿にただただ見惚れつづけた。


「な、何でもない」


「そう、ですか」


 僕は、心の動揺を何とか抑えた。


「ふう、よし」


 僕は、ネットの画面を開いた。ネットの画面は、やはり見やすかった。最近新しいバージョンが更新されたとの事で、マウスポインタの表示はもちろん、画面の送りもスラスラとできる。正に「ネット社会万歳」と言う感じだった。

 

 僕は、検索エンジンのマップ項目を開いた。


「家の住所を入力、と。理穂子さん」


「は、はい?」


「家の住所なんか調べて、『どうするんだ?』って思ったでしょう?」


 彼女は、僕の質問にハッとした。


「は、はい。その」


「だよね? でも、謝る事はないよ。現代いまは自分の家にいても、世界の事を調べられるから」

 

 僕は、画面の一カ所にマウスポインタを動かした。


「ここが僕の家」


 彼女は、その家に微笑んだ。


「素敵な家ですね」


「そうかな? 僕からすれば、ただの賃貸マンションだけど」


「そんな事は、ないです。ここの屋上なんから、とても趣味が良いと思います」


 僕は、彼女の感想に戸惑った。この家を選んだのは、確かに父さんだけど。父さんの趣味は、僕よりもずっと華やかだった。

 

 僕は不機嫌な顔で、彼女の笑顔から視線を逸らした。


「まあ、ここの屋上は別に良いとして」


 右手のマウスに力を入れる。


「何処に行きたい?」


「え?」


「何処か行きたい所はある?」


「わたしは……」


 彼女は、僕の目を見つめた。


「あなたの町を見てみたい。あなたがどんな町に住んでいるのか、それを」


「ちょっと待って!」


 彼女の言葉を遮る。


「理穂子さんは……その、僕の町を知らないの?」


「はい。この町については、何も。わたしが知っているのは、あなたの姿と名前、それと通っている学校だけです」


 僕は、彼女の話に腕を組んだ。


「どう言う事だろう?」


「さあ? わたしにも、さっぱりです。なぜ、それしか知らないのか? 進くんの事を」


「うーん。理穂子さん」


「はい?」


「今度、じっくり」


 僕は、「じっくり」の続きを飲みこんだ。それを言ったら多分、「この夢が覚めてしまう」と思ったから。僕は「アハハ」と笑って、「何でもない」と誤魔化した。


「それじゃ、僕の町を案内するよ」


「よろしくお願いします!」


 僕は、画面のマウスポインタを動かした。一つ一つの場所を説明するように。僕は穏やかな顔で、だが何処かぎこちない顔で、彼女に自分の町を案内しつづけた。

 

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