第7話 片瀬には、片瀬の良さがある
朝の目覚めが嫌でなくなったのは……たぶん、昨日の出来事が原因だろう。三人の少女から「好きだよ」と言われた、甘酸っぱくも心地よい体験。
その記憶が、今の現実を素敵なモノに変えていた。僕の心を温める……そう、切なくも穏やかな感覚に。僕は、その感覚に酔い痴れた。
「うん」
僕は洗面所で顔を洗い、それから家のリビングに行った。家のリビングでは、父さんが今日の朝食を食べていた。僕は父さんの隣に座ると、穏やかな気持ちで自分の両親に挨拶した。
「おはよう」
二人は、僕の挨拶に驚いた。特に母さんはテーブルに僕の朝食を運んだ後も、「え、ええ?」と驚いていた。
「何か、あったの?」
「何かって?」
「進の雰囲気が……その、いつもと違うから。『何かあったのかな?』って」
「ふーん」
僕は、自分の朝食に視線を移した。
「別に。いつもと変わらないよ? 母さんの気のせいなんじゃない?」
「そ、そう。それなら良いんだけど」
父さんは、僕の横顔を見つめた。まるで僕の真意を見定めるように。父さんは僕の横顔から視線を逸らした後も(僕が朝食を食べ終えた時は違ったが)、不思議そうな顔で自分の朝食を食べつづけた。
僕は、洗面所で歯を磨いた。今日の歯磨きは、いつもより時間が掛かった。いつもなら一、二分で終わるのに。今日は、それよりも二分ほど遅れてしまった。
僕は所定の場所に歯ブラシを戻すと、明るい気持ちで自分の部屋に戻った。部屋の中ではもちろん、彼女達が僕の事を待っていた。
僕は、学校の鞄を背負った。と、「忘れ物は、無い?」
天道寺さんが、僕に話しかけた。
僕は、彼女の声にうなずいた。
「ありません。昨日の夜にちゃんと確かめたから」
「そう」
こころちゃんの声が響いた。
「今日は、何時くらいに帰る?」
「昨日よりはたぶん、早いと思うよ? 今日は、掃除の当番も無いし」
「分かった!」
「進くん」
理穂子さんは、僕に笑いかけた。
「行ってらっしゃい」
僕も、彼女に笑いかえした。
「行って来ます」
僕は部屋の中から出て、いつもの待ち合わせ場所に向かった。
「おはよう」
友達は、僕の声に首を傾げた。
「なあ、進」
「なに?」
「今日のお前さ」
「何だか、いつもと違くねぇ?」
「いつもと違う?」
「ああ。何かこう」
「『雰囲気が柔らかい』って言うか。うーん」
「何か良い事でもあったの?」
僕は、彼らの疑問に首を振った。
「別に。いつもと変わらないよ? みんなの気のせいなんじゃない?」
「そ、そうか?」
友達は、互いの顔を見合った。「やっぱり、いつもと違うよな?」と言ったり、「う、うん」と応えたりして。彼らは僕の顔に視線を戻すと、また不思議そうな顔で「今日は、雪でも降るんじゃねぇ?」と言ったり、「もしくは、嵐が来たりして?」と言ったりした。
僕は、彼らの言葉に苛立たなかった。どんな嵐が来ようと、この
僕は、昨日の事を思い返した。天道寺さんが訊く、「君はまだ」の質問を。 僕は、その続きに眉を寄せた。
君はまだ、あたしたちの事を「幻だ」と思っている?
いえ、「幻だ」とは思っていません。少なくても。
ふーん。なら、「妄想の中に出てくる住人」とは?
それも良く。理穂子さんは、「今の現実を信じて欲しい」と言っていましたが。それでも。
まだ、信じられない?
この幻は、僕にとって都合が良すぎます。自分の好きな人と「両想いだった」なんて。ご都合主義にも程がありますよ。僕は、ラノベの主人公じゃない。
ラノベの主人公じゃなきゃ、好きな人と両想いになっちゃいけないの?
それは……そんな事は、ないと思いますが。
片瀬君。
はい?
今の世界に騙されなさい。それがたとえ、「妄想の世界」であっても。君は、それを楽しむ権利がある。
う、うううっ。
疑心は、幸運の大敵よ? 片瀬君、妄想の世界には……。
分かりました。
え?
あなたの言う事、本当は不安でいっぱいですが。「信じてみよう」と思います、僕は。
あたしは、「今の世界に騙されなさい」と言ったのよ?
だから、それを「信じてみよう」と思うんです。疑いの心を捨てて。
片瀬君。
天道寺さん!
はい?
ありがとう。
お礼を言う事は、ないわ。あたしはただ、自分の考えを言っただけだもの。
昨日の僕は、彼女の優しさに微笑んだ。
それ……。
それにしても。
はい?
君はぜんぜん、あたしの事を持って行ってくれないのね? スマホの本体も、机の上にずっと置きっぱなしだし。
最近の中学は、スマホの携帯を禁止していますから。風紀とかの問題で。
ふーん。最近の中学は、厳しいのね。
天道寺の高校は確か、自由でしたよね? 学校にケータイを持って行くのは。
ええ、そうよ。君、良く知っているわね。あたしの
高校生は、良いですね。
早く高校生になりたい?
それ程。僕はまだ……。
今日の僕は、昨日の自分から意識を戻した。
「中学生でいたい。今の自分をもっと、好きになるためにも。だから」
今日も学校に行こう。あそこは、戦場だ。僕の心を苦しめる、最強にして最悪の戦場。その中を生き残るためには……。
僕は、彼女達の笑顔に目を瞑った。
友達はたぶん、僕の行動に驚いているだろう。僕が両目を開けた瞬間、不思議そうな顔で「片瀬?」と驚いていたし。彼らは、僕の行動に首を傾げた。
「どうしたんだ?」
「うんう、何でもない。ただちょっと」
「ん?」
「目にゴミが入っただけ」
友達は、僕の答えに瞬いた。
「ふ、ふーん。そう」
「目の中にゴミが入っただけか」
僕達は「アハハハ」と笑って、学校の教室に向かった。
僕は、机の上に鞄を置いた。と、「おっはよう、片瀬君!」
また、彼女達の声が響いた。
僕は、その声に震えたが……何だろう? 不思議な感覚だ。「恐怖」の方はまだ、ぜんぜん消えていないのに。心の負担が、昨日よりもずっと軽くなっている。まるで魔法にでも掛かったかのように。彼女達を見る目にも、若干「余裕」のようなモノが感じられた。
僕は、六道君の顔に目をやった。六道君はやはり、僕の様子を眺めている。僕がまた、彼女達にやられてしまうのではないか? と。
彼は不安な顔で、自分の席から立ち上がった。
僕は、その厚意に首を振った。
「大丈夫」
彼の「片瀬?」が、聞こえた気がした。
僕は、彼女達の顔に視線を戻した。
「おはよう」
彼女達は、僕の挨拶に驚いた。僕の挨拶が、あまりにも自然だったから。彼女達は互いの顔を見合うと、不思議そうな顔で「……!」と驚きはじめた。
僕は、胸の動悸を抑えた。
「怖かった。でも」
何だろう? 物凄く嬉しい。本当は、嬉しがるような事でもないのに。今は!
僕は、右手の拳を握った。
放課後のチャイムが鳴った。
僕は自分の鞄を背負って、教室の中から出て行った。教室の外は、静かだった。
二年生フロアの廊下で屯する生徒達はもちろん、野球部の掛け声や、ブラスバンド部の演理穂子が聞こえて来るが、それ以外の音はほとんど聞こえて来なかった。下駄箱の中から、自分の靴を取り出す時も同じ。
僕は穏やかな顔で、その靴にそっと履き替えた。と、「片瀬」
彼の声が聞こえる。
俺は、その声に驚いた。
「六道、君?」
「やあ」
僕は、気持ちの動揺を抑えた。
「今から部活?」
「ああ。昨日は、サボっちゃったからね。今日は、ちゃんと行かないと」
心が暗くなる。
「ごめん」
「片瀬の所為じゃない。あれは、俺が勝手にやった事だ。自分の心に従って」
だから気にする事はないよ? と、彼は微笑んだ。
「片瀬も、今から部活?」
「うんう。僕は、帰宅部だからね。このまま家に帰るだけ」
「そうか」
「うん」
「なあ、片瀬」
「ん?」
「テニス部に入る気はない?」
一瞬、彼の言葉に戸惑った。
「僕がテニス部に?」
「そう。何の部活にも入っていないなら。テニスは、良いよ。やっていてすごく楽しいし。学校の女子にだって」
「モテなくて良いよ」
僕は、自分の足下に目を落とした。
「ここの女子は、嫌いだから」
「……そうか。でも」
彼は、僕の横を通りすぎた。
「気が変わったら、で良い。テニス部は、いつでも歓迎するよ? 選手層が厚くなるのは、テニス部としても有り難いからね。部員の質も上がるし」
「僕は、『部員の質を下げる』と思う」
「そんな事は、うんう。それは、片瀬の努力次第だね。片瀬がどれだけ努力するか」
「努力しても、超えられないモノはある。君は、テニス部のエースなんでしょう?」
「俺がテニス部のエース?」
「学校のみんなが言っている。君は、『テニス部のエースだ』って。それを超えるのは」
「片瀬。俺は」
彼は、俺の目を見つめた。
「俺は、テニス部のエースじゃないよ? それに」
「ん?」
「無理してエースになる事もない。エースは、周りの人が勝手に決めるモノだからね。自分の意思で、そんなモノになる必要はない。片瀬には、片瀬の良さがある」
「僕の良さ?」
「うん」
「そんなモノは、無いよ。僕には」
「本当に?」
彼は、僕の狼狽を見逃さなかった。
「僕は、そうは思わないな。片瀬自身が、それに気づいていなくても」
「うううっ」
僕は、彼の言葉に俯いた。
彼は、その反応に微笑んだ(と思う)。
「それじゃ、また」
彼は、昇降口の中から出て行った。
僕は、その姿をしばらく見つづけた。
「僕自身が気づいていなくても、か」
僕は複雑な思いで、自分の家に帰った。
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