第5話 無慈悲で温かな幻想
僕は、家の玄関に走った。その途中ですれ違った、母さんの「え? まだ行っていなかったの?」を無視して。僕はいつもの靴を履くと、家の玄関から出て、友達が待つ待ち合わせの場所に向かった。待ち合わせの場所では、友達が僕の到着を待っていた。
僕は、周りの友達に謝った。
「ごめん、遅れちゃって」
「ああ、うん」
「それは、別に良いんだけど」
友達は、俺の顔を睨んだ。
「寝坊か?」
「うん、寝坊」
「そうか。寝坊か」
友達は(何故か)、ニヤニヤした。
「どうせ、エロい動画でも観ていたんだろう?」
「なっ!」
「お! その反応」
「やっぱり、観ていたんだな」
「親に隠れてコソコソと」
「嫌らしい」
「夜更かしする
僕は、彼らの言葉にイラッとした。
「それは、全国の中学生に失礼だよ。夜更かしする人の中にだって」
彼らは、僕の反論を聞かなかった。
「やっぱ女子も、エロ本とか観るのかな? 自分の部屋で、俺らと同じように」
「さあね? 『男は、顔だ』って言っている奴らだし。そう言うのは、観ないんじゃないの? 『イケメン以外の裸は、キモイ』とか。アイツら、平気で言いそうじゃん?」
「うん、確かに」
「俺らも、美人以外の裸なんか観たくねぇつーの」
「不細工の裸とか、マジあり得ないよな?」
友達は、今の「不細工」に爆笑した。
僕は、その「不細工」を笑えなかった。不細工の苦しみは、今の僕が一番良く分かっていたから。彼らのように「ギャハハ」とは、笑えなかった。
僕は、自分の足下に目を落とした。
「不細工の裸も、案外良いかも知れないよ?」
友達の笑いが止まった。
「え?」
「進?」
友達は、僕の横顔を見つめた。
「お前って、まさか」
「ブス専ってヤツ?」
僕は、それらの声を無視した。
友達はその態度に首を傾げたが、学校の教室まで行くと、いつもの調子で、教室の男子達に「おはよう」と挨拶した。
僕は彼らに続いて(挨拶はもちろんした)、教室の中に入った。教室の中は、やはり五月蠅かった。クラスの真ん中辺りに集まっている女子達はもちろん、そこに加われない女子達(あるいは、それぞれの趣味を言い合っている女子達)は静かだったが、それ以外は文字通りに「ペチャクチャ」と喋りまくっていた。
僕は、その騒音から視線を逸らした。
友達は、それぞれの席に向かった。右の男子が窓際なら、左の男子は左側と言う風に。僕も彼らに倣って、自分の席に向かった。
僕は、机の上に鞄を置いた。と、「おっはよう、片瀬君」
それに合わせて女子達の声。
僕は、その声に固まった。顔の筋肉も強ばって、その表情を上手く作る事ができない。文字通りのカチンコチンになってしまった。
僕は不安な顔で、声の主に目をやった。声の主はやはり、あの峰岸香菜(正確には、その取り巻きも)だった。僕は、彼女の笑顔に思わず怯んだ。
「あ、う、ん。おはよう」
僕は、自分の声に俯いた。声が裏返ってしまった。本当は「おはよう」と、普通に返すつもりだったのに。僕は暗い顔で、自分の右手を握り締めた。
女子達は、僕の失態を嘲笑った。
「ぷっ、何アレ? 今の聞いた?」
「『あ、う』だって? お前は、オットセイかよ?」
「ただ挨拶しただけなのに、キモーい」
女子達は、腹を抱えて笑いだした。
僕は、両目の涙を必死に堪えた。
「くそ」
女子達は、僕の怒りに気づかなかった。それどころか、「興味はない」と言わんばかりに視線を逸らして。彼女達は仲間の顔に視線を戻すと、楽しげな顔で「三年生の誰々先輩が格好いい」とか「昨日も、誰々に告白された」とか話しはじめた。
僕は、自分の机に視線を戻した。この苛立ちを忘れるために。僕は真面目な顔で、彼女の笑顔を思い浮かべた。
「理穂子さん」
僕は彼女の……いや、「彼女」だけではない。彼女達の事を思った。彼女達は今、何をしているのだろう? と。あの狭い部屋の中で……まさか、僕の帰りを待っているのだろうか? 僕がまだ、「半信半疑」である事も知らず、真剣に。
僕は、自分の疑問に眉をひそめた。
「彼女達は一体、何者なんだろう?」
僕は真剣な顔で、疑問の答えを考えつづけた。
疑問の答えは、結局分からなかった。色んな仮説を立ててみても、うーむ。やはり、どれもピンと来ない。仮説のすべてが、的外れな気もする。答えの線から遠退いて行くような、そんな感覚が今日の放課後まで離れなかった。
僕は暗い顔で、自分の鞄を背負った。
だが、「うっ」
足の動きが止まる。これは、何かの不運なのだろうか? あの女子達に話しかけられてしまった。ニッコリと笑う女子達の表情。その手には、「箒」や「チリトリ」と言った掃除用具が握られている。とても面倒くさそうな手つきで、その目にも「それ」がありありと浮かんでいた。
僕は、その表情に汗を浮かべた。
「あ、あの」
女子達は、僕の声を無視した。
「片瀬君」
「は、はい?」
「今日の掃除当番なんだけどさ。悪いけど、代わってくれない?」
「掃除当番を?」
「うん」
女子達は、一人の女子生徒に目をやった。
「今日の放課後さ。コイツ、彼とデートなんだよね? 彼氏を待たせるのは、悪いし」
女子達の目が鋭くなった。
「ねぇ、片瀬君。アタシらが言いたい事、分かるよね?」
僕はもちろん、その意味が分かった。つまりは、「分かったよ。今日の掃除当番を代わる」って事だよね? 君達の求める答えは。
僕は暗い顔で、女子達の目を見返した。
女子達は、僕の答えを喜んだ。右の女子が「アハッ」と笑えば、左の女子も「分かっているじゃん」と言う風に。彼女達は僕に掃除用具を渡すと、何処か嬉しそうな顔で教室の中から出て行った。
僕は、右手の箒を動かした。心では、「嫌だ」と思っていても。僕は憂鬱な顔で、自分の教室を掃除しはじめた。教室の掃除は、なかなか終わらなかった。本当なら十分くらいで終わる筈なのに。床のゴミを掃こうとすると……何故か分からないが、その指から力がスッと抜けてしまった。
僕は、両目の涙を拭った。
「ちくしょう」
「何が『ちくしょう』なんだい?」
「え?」
僕は、声の主に目をやった。
声の主は……女子達の憧れ、「六道真弥」だった。
僕は、彼の微笑みから視線を逸らした。
「別に。ただ、自分に苛立っていただけで」
「自分に苛立っていただけ?」
「そう」
「今日の当番は、片瀬だっけ?」
彼の質問に苛立った。
「いや。でも、代わってあげたんだ。『今日の放課後は、どうしても外せない用事がある』って。だから」
「片瀬は、優しいね」
一瞬、彼の言葉に戸惑った。
「優しい? 僕が?」
「ああ。俺よりもずっと。普通は」
「僕は、優しくない!」
語気が強くなる。
「僕は、弱虫だ。自分の言いたい事も言えない。ただの」
「片瀬……」
六道君は、掃除用具入れの中から箒を一本取りだした。
僕は、その光景に目を見開いた。
「え?」
「二人でやる方が早いだろう?」
僕は彼の言葉に感動する一方、それが無性に悔しくて仕方なかった。
「委員会に戻らなくても良いの?」
「今日は、休み」
「なら、部活は?」
「偶には、サボりたい時もあるさ」
僕は、彼の優しさに溜め息をついた。
「お礼は、言わないよ?」
「ああ。俺も、お礼を言われたくない」
彼は「ニコッ」と笑って、教室の中を掃除しはじめた。
僕は、その様子をしばらく見つづけた。
彼は横目で、僕の方を見た。
「なあ、片瀬」
「なに?」
「君は、アイツらに」
「何だよ?」
「やられているのか?」
「君は、そう見えるの?」
「ああうん、悪いけどね。最近のあれを見ていると」
「そうか。なら、そう言う事だよ。僕は、アイツらにやられている」
「周りの友達には、話したのか?」
「いいや」
「なら、担任の先生には?」
「ぜんぜん」
「片瀬!」
彼の語気が強くなった。
「どうして、誰にも言わないんだ?」
僕は、右手の箒を動かした。
「誰かの注意で止まるなら、くっ。そう言う奴らは、何を言っても聞かない。逆恨みされるのがオチさ。『アタシ達は、何も悪くない』って。教室の様子を見れば、分かるだろう? アイツらは、人の心を抉るマシーンだ。恋愛の事しか考えてない」
僕は、彼に微笑んだ。
「君は、そのマシーンに好かれている」
「君も、そのマシーンに好かれたいの?」
「まさか! 僕は、アイツらの事が嫌いだ。いつも五月蠅くて。僕は、その声に悩まされている。『どうしたら黙ってくれるのか?』って。僕は」
「片瀬はずっと、苦しい思いをしてきたんだね? 俺なんかじゃ、想像もつかない。本当の地獄を」
「笑える?」
「笑えない」
「面白いでしょう?」
「面白くない」
ちっとも面白くないよ、と、彼は言った。
「他人の不幸を笑うのは、人としておかしい。俺はそう、大事な人から教わった。『人の幸せを祈れる人になって』って。そうでなきゃ」
「この世は、地獄になる?」
彼は、教室の床に目を落とした。
「俺はまだ、悪魔になりたくない。片瀬が今の地獄に苦しむ姿も」
「だから、僕に話しかけたんだね?」
「偽善、かな?」
「いや。それがたぶん、『普通だ』と思うよ。誰だって、他人の苦しむ姿は見たくないだろうし。それに胸を痛めるのは」
「ありがとう。片瀬はやっぱり」
「さっきも言ったでしょう? 『僕は、君の言うように優しくない』って。本当は」
彼は、僕の言葉を無視した。
「片瀬」
「なに?」
「『今すぐに』とは、言わない。けどもし、今の状況に耐えられなくなったら」
彼は一つ、息を吸った。
「いつでも相談して欲しい。僕は『ああ言う』の、本気で嫌いだからさ。たった一人の相手に大勢で」
「ありがとう。六道君の気持ちは、本当に嬉しい。でも、僕は大丈夫だから」
「片瀬」
僕は、彼に手を伸ばした。
「掃除用具、片づけるよ。今日の掃除を手伝ってくれたお礼に」
彼は僕の行為に戸惑ったが、やがて「ありがとう」と微笑んだ。
僕は、彼の手から箒を受け取った。
「あとは、僕一人でやる。元々は、僕が頼まれた仕事だからね。仕事はちゃんと、最後までやらないと」
「本当に良いのか?」
「うん」
「分かった」
彼は、僕の前から歩き出した。
「本当に辛くなったら言えよ?」
「うん、分かっている。ありがとう」
僕は「ニコッ」と笑って、彼の姿を見送った。
「さて」
ちゃっちゃっと終わらせますか。
僕は真面目な顔で、教室の中を掃除しつづけた。教室の掃除は、すぐに終わった。さっきのアレが嘘のように、床のモップ掛けはもちろん、ゴミの回収もあっと言う間に終わってしまった。僕は、用具入れの中に掃除用具を片づけた。
「よし」
これでようやく帰れる。
僕は教室の電気を消して、自分の家に帰った。家の中では、母さんが僕の帰りを待っていた。僕は、母さんに挨拶した。
「ただいま」
「お帰り。今日はちょっと、帰りが遅かったわね? 何処かで寄り道でもしたの?」
僕は、心の動揺を誤魔化した。
「ああうん、ちょっとね。今日は、教室の掃除当番でさ」
「ふーん」
母さんは、僕の鞄に視線を移した。
「お弁当、流しの方に出しておいてね」
「分かっているよ」
僕は、流し台の中に弁当箱を置いた。
「はあ」
僕は、自分の部屋に行った。部屋の中で待つ……いや、本当はもう待っていないかも知れない。あるいは、最初からいなかったりして。虚構の人物に自我が宿る……そんな事は、現実の世界ではあり得ない事だ。
たとえ、世の中の常識が変わってしまったとしても。それだけは、何があっても起こりはしない。彼女達はきっと、僕の作った幻だ。現実逃避の先に待つ、無慈悲で温かな幻影。その幻影こそ、彼女達の正体に違いない。僕の心をそっと癒す。
僕は暗い顔で、部屋の中に入った。
「ただいま」
僕は、部屋の中をそっと見渡した。部屋の中には、いつもと同じ家具が並んでいて。彼女達の声が聞こえたのは、正にその瞬間だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます