第4話 残りの二人も

「僕は」


 目頭が熱くなる。


「ついにおかしくなったのかな? 虚像あっち現実こっちの区別も付かなくなって。とうとう」

 

 僕は、彼女の前で泣き叫んだ。

 

 彼女は、そんな僕に話しかけた。


「大丈夫ですか? 何処か具合でも? しっかりして下さい!」


 僕は、その声に顔を上げた。


「ぐ、う、え?」


「あなたは、おかしくないですよ?」


「僕は、おかしくない?」


 彼女は、僕の声にうなずいた。


「何もおかしくない。あなたは今も、現実の世界を生きています。あなたが思う現実に。私も」

「理穂子、さん」


 僕は、画面の彼女に触れようとした。だが、その瞬間!


「おはよう、スーちゃん!」


 物凄いこえだった。部屋の中が一瞬、ぐらりと揺れてしまう程の……とても元気で明るい声。僕は、近くの外付けスピーカーに目をやった。

 スピーカーの中央には、あのオーディオプレーヤーがささっている。上部の液晶画面が点いた状態で。その画面には、「彼女」の画像が表示されていた。

 

 僕は、その画面に生唾を呑んだ。


「富田、こころ、ちゃん?」


 相手の答えは、「そうだよ!」だった。「わたしの名前は、富田こころ!」

 

 彼女は、にっこり笑った。

 

 僕は、スマホの画面を点けた。ほとんど反射的に。今の二人がこうなっているなら、あの人もきっと「そう」なっている筈だ。


 僕は、スマホの画面に恐る恐る目をやった。スマホの画面には、って!


「あれ?」


 嘘だろう?


 彼女の画像が無い。画面のロックを外しても、彼女の画像は一向に現れなかった。僕は不安な気持ちで、スマホのフォトギャラリーを開いた。ギャラリーの中には一応、彼女の画像が入っている。彼女のすべてを覆い隠す、文字通りの真っ黒な画像が。僕は、その画像に焦った。


「はあ? へ? そんな」


 信じられない。


 まさか、壊れちゃったのか?


 僕は、スマホの画面を必死に弄りつづけた。


 このままでは、父さんに叱られてしまう! と。スマホのスピーカーから「それ」が聞こえたのは、正にその瞬間だった。

「ごめんね、片瀬君。あたし今、シャワーを浴びているの」


 僕は、その声にポカンとした。


「シャワーを浴びている?」


 僕はその意味が分からず、今の画面を思わず動かしてしまった。サッと切り替わる液晶画面。その先に待っていたのは、シャワーの温水に濡れる美しい女性の裸体だった。僕は、その裸体に思わず魅入ってしまった。

 

 女性は僕の視線を睨んだが、僕が「う、え?」と脅えると、その口許に笑みを浮かべて、自分の胸や局部を静かに隠した。


「ふふふ。やっぱり、男の子ね。おねえさんの裸がそんなに見たかった?」


 彼女の言葉に固まった。文字通りの思考停止。頭のネジがぶっ飛んで、自分が何を言っているのか分からなくなった。


「え、あ、えぇえええ!」


 僕は、画面の彼女に何度も謝った。


「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」


 息が乱れる。頭の方もクラクラして。気づいた時にはもう、ベッドの端に寄り掛かっていた。僕は、自分の頭を掻いた。


「な、なんで、こんな事に? 昨日は、普通の」


「進くん?」


「え?」


 僕は、パソコンの画面に目をやった。画面の彼女……理穂子さんは今も、僕の顔を見つめている。その瞳を光らせるように。

 

 彼女はその光を抑えると、不安な顔で自分の胸に右手を当てた。


「落ち着いてください。さっきも言いますが。あなたは、何もおかしくありません。私があなたを心配する気持ちも」

 

 僕は、彼女の言葉に胸を打たれた。彼女は本気で(口調から察する限り)、僕の事を心配している。こんなにも情けない僕の事を、そして、今の状況に戸惑っている僕自身を、心の底から「大丈夫ですか?」と心配しているのだ。

 

 彼女は不安げな顔で、僕の目をじっと見返した。


「落ち着いてください」


 僕は、床の上から立ち上がった。


「うん、ありがとう。君のお陰で、だいぶ落ち着いた」


「そうですか。良かった」


 僕は、彼女の笑顔に見惚れた。彼女の笑顔があまりにも綺麗すぎて。僕はパソコンの前から離れると、学校の制服に着替えて(理穂子さんはその光景に慌て、こころちゃんは「スーちゃんの裸だぁ!」と喜んだ)、部屋の扉に向かった。


「ごめん。朝ごはん、食べてくる」


「は、はい。行ってらっしゃい」


 僕は部屋の中から出て、洗面所で顔を洗い、それから家のダイニングに行った。ダイニングの中では、父さんが今日の朝ごはんを食べていた。僕は父さんの隣に座ると(本当は、かなり冷や冷やしたが)、普段通りの態度で自分の朝食を食べはじめた。


「いただきます」


 母さんが、僕の前に座った。


「進」


「なに?」


「今日の朝なんだけど」


 僕は、母さんの言葉にヒヤッとした。「まさか、バレてしなかったのか?」 と。僕は不安な顔で、母さんの目を見返した。


「な、なに?」


「今日の朝は、お弁当をちゃんと持って行って。コンビニのパンなんか買わずに。今日のおかずは、あなたの大好きなハンバーグだから」


「そ、そう(良かった! どうやらばれていないようだ)」

 

 皿の上に箸を置く。


「ごちそうさま」

 

 僕は今日の弁当を持って、自分の部屋に戻った。部屋の中ではもちろん、「待っていた」と言う表現は合っているのだろうか? 彼女達が、僕の事を待っていた。彼女達は僕が学校の鞄を背負うと、それぞれの調子で僕に「進くん」とか「スーちゃん」とか話しかけた。「行ってらっしゃい」


 僕は、その言葉に胸を打たれた。


 何だろう? この、心がくすぐられるような感覚は。とても照れ臭いのに、何故かとても温かい。人の温もりを感じる。生身の人間では決して味わえない、彼女達だからこそ味わえる温もりを。

 

 僕は、その温もりに酔い痴れた。でも、「片瀬君」

 

 年上の魔力は、恐ろしい。彼女の声が、それを許さなかった。彼女は周りの「秋音さん!」を無視すると、艶めかしい声で「フフフ」と笑いだした。


「学校、行かなくても良いの? それとも、あたし達と一緒に課外授業する?」


「か、課外授業?」


 彼女の声が一層、艶めかしくなった。


「そう、とっても気持ちいい課外授業。男の子なら」


「うっ」


「言わなくても分かるわよね?」


 部屋の中が静かになった。画面の彼女はもちろん、オーディオの彼女もまったく喋らない。すべてが、静寂に包まれている。パソコンの作動音は時折聞こえて来るが、それ以外の音はほとんど聞こえて来なかった。


 僕は、その沈黙に息を飲んだ。


「う、うん、はい。それは」


「秋音さん!」


 怒声が響いた。パソコンのスピーカーから「キンッ」と。


 僕は、パソコンの画面を恐る恐る見た。

 

 理穂子さんは真っ赤な顔で、スマホの天道寺さんを睨んだ。


「小学生のもいるんですよ? そう言う話は」


 僕は、こころちゃんの顔に目をやった。こころちゃんは、ポカンとしている。今の言葉が「分からない」と言う風に、僕の顔を「ふぇ?」と言いながら眺めていた。僕は、その表情に罪悪感を覚えた。

 

 天道寺さんは、僕の反応をクスクスと笑った。


「ええ、しないわよ? こころちゃんの前ではね。今も、『気持ちいい』としか言っていないじゃない? 気持ちいい課外授業は、世の中に腐るほどあるわ」

 

 理穂子さんは、彼女の言葉に閉口した。

 

 天道寺さんは、その態度に微笑んだ。


「理穂子ちゃんは、真面目すぎるのよ。だから」


「何です?」


「男の子はちょっとくらい、エッチなが好きだったって事」


「……そうなんですか?」


 僕は、理穂子さんの睨みに怯んだ。


「あ、う、ええっと。うん、別にエッチじゃなくても良いよ? 女の子は」


「そ、そうですか。なら」


「ん?」


「エッチじゃなくても良いんですね?」


「う、うん。その人が、大切な人なら」


 理穂子さんの顔が赤くなった。


「大切な人なら?」


「うん」


「良かった」


「え?」


 僕は、パソコンの画面に触れようとした。今の、「良かった」の意味を聞こうとして。だが「そうしよう」とした瞬間、スマホの天道寺に「片瀬君」と止められてしまった。

 

 天道寺さんは(何故か淋しげな顔で)、僕に「クスッ」と微笑んだ。


「学校、早く行かないと遅刻しちゃうじゃない?」


「あ!」

 僕は慌てて(机の上にスマホを置きつつも)、今の場所から走りだした。


「ごめんなさい! 行って来ます」

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