3 よみや


 春之に会ったのは、彼の結婚式から二年ほど経ってからのことだ。

 それまでは盆正月を始め、ことあるごとに本家で顔を合わせていたけれど、結婚した春之は紗英さんの実家に行くことも多く、私とはすれ違いになっていた。子どもたちも大きくなり、年老いた大人はお酒が弱くなったり病気をしたりと、昔のように頻繁に宴会が開かれなくなったことも理由のひとつだった。

 その年のお盆は、東京に住んでいる叔父が数年ぶりに帰省することもあり、久しぶりにみんな集まっての食事会が開かれたのだ。


「こんにちは。ご無沙汰いたしております」


 玄関できっちり頭を下げて出迎える紗英さんに、心の準備ができていなかった私は、挨拶すら返すことができなかった。サラサラの長い髪をひとつに束ね、モノトーンのストライプ柄エプロンをしているけれど、その裾はピンクの蘭が華やかに彩っていた。私は相変わらず背伸びをして、無地で落ち着いた色合いの服ばかり着ていたが、それはただ地味なだけで色気はない。スニーカーを脱ぐという理屈をつけて、私は紗英さんから目を逸らした。


「あらあら! こちらこそお久しぶりです。ご実家の方はいいの?」

「はい。うちの方は午前中に済ませてきましたから。あ、スリッパ足りませんか?」

「いいの、いいの。いつもスリッパ使ってないから」


 私が言葉を発しなくても、大人同士の付き合いに影響はない。父と母は私を置いて、慣れた態度で廊下を進んで行った。脱いだ靴を揃えて端に寄せ、両親の後を追おうと振り返ると、紗英さんはまだそこで私を待っていた。

 笑顔でたたずむ紗英さんは、蘭が香るように周りの空気さえ色彩を帯びて見えた。対する私は、廊下と同化しているのかと思うほど、存在が味気ない。


「あいちゃん、こんにちは。ちょっと見ない間に大きくなったね」


 さすがに名指しで話しかけられたら返事せざるを得ない。


「……こんにちは」


 視線を合わせず、私はボソボソと答えた。

 二年も経っているのだから大きくもなる。私にとってあの衝撃的な結婚式はずいぶん遠く感じられるけれど、紗英さんにとっては『ちょっと』らしい。あまりの感覚の違いに、指摘することも億劫だった。


 仏壇に手を合わせてからリビングに移動すると、ずらりと並んだ座布団のひとつに春之が座っていた。


「おお! 久しぶり!」

「どうもどうも。ご無沙汰しております」


 大きな声の挨拶が飛び交う中、春之は私を見てふわっと目を細めた。結婚前とまったく変わらない春之だった。だけど私の方は、以前のように笑顔を返すことができず、目を伏せて黙って母の隣に座った。


「あいちゃん、何飲む? オレンジジュースとコーラと、あとお茶もあるけど」


 紗英さんがグラスを片手に聞いてきた。


「あ……お茶ください」

「あい、お茶飲めるの?」


 母が驚いて声を上げた。紗英さんがお茶と言ったのは緑茶だったからだ。私は苦いのが嫌いで、コーヒーや緑茶は飲めない。お茶はいつもほうじ茶やウーロン茶を飲んでいた。これは子どもだったせいではなく、今でも変わらないから好みなのだろう。

 いつもなら大好きなオレンジジュースをお願いするのだけど、紗英さんに「オレンジジュース」と言うことがどうしてもできなかった。子どもっぽいと思われたくなかった。


「大丈夫」


 母は納得していなかったけれど、紗英さんは私の言葉を尊重して、なみなみと緑茶を注いでくれた。

 しなしなしたエビフライに箸を伸ばせばソースを取ってくれる。届かないお刺身のお皿を回してくれる。食べ終わる頃にはアイスクリームまで勧めてくれる。紗英さんのおかげで、座った座布団から一歩も動かないまま私は食事を終えた。

 私の世話だけでなく、お酒を追加したり、空いたお皿を下げたり、紗英さんは自分は決して座ることなく動いていた。


「紗英さんも座って食べて」


 そう声を掛けられると、


「大丈夫です。ちゃんといただいてます」


 と笑顔でビールのコップを持ち上げたけれど、それは少しも減っていなかった。

 この家なら私の方がたくさん来ているはずで、紗英さんはほとんど知らない場所だろう。それなのに嫌みなく身軽に動ける彼女を見ると、やっぱり私の気持ちは沈んだ。紗英さんでなければ、春之の奥さんでなければ、素直に憧れることができたかもしれないのに。


「紗英、ごめん」


 春之が紗英さんを呼ぶと、紗英さんは笑って新しいおしぼりを手渡した。


「はい、どうぞ」

「ありがと」


 春之は一瞬だけ紗英さんに目をやり、紗英さんはまばたきで応える。隣に座ることも、会話も、このふたりには必要ないのだ。春之と繋がるすべを私は他に知らないのに、紗英さんはきっとたくさん知っている。

 頑張って飲み進めたけれど、緑茶は結局半分以上残してしまった。


 口に残る苦味に顔を歪めながら、私はいつものようにひっそりと隣の客間に移動した。来客が少なくなったせいか、部屋の隅には使わなくなったカラーボックスや、電気ストーブのダンボール箱が置かれている。日が傾いて弱々しくなった陽だまりの真ん中に、体育座りをして庭を眺めた。柿の木は虫がついて去年切ってしまったそうで、庭の隅にはその切り株だけが残っている。

 気配だけで、春之だとわかった。夕日で染まりぼんやりとした部屋の空気に、ぼんやりと馴染む猫背の姿。以前なら浮き立って、いそいそと話題を探したけれど、沈んだ私の心からは何の言葉も浮かんでこなかった。


「夜宮があるらしいんだけど、行く?」


 ずっと黙ったままの私に、珍しく春之が言った。お盆には近所の神社で夜宮があり、出店が出て賑やかになる。小さい頃は母や兄と行ったし、その時春之も一緒だったこともある。それがあの最初の記憶にある夜だ。けれどもう長いこと行っていない。

 夜宮に行きたいわけではない。春之といても、心は沈んだままだ。けれど、私に春之の誘いを断ることはできなかった。


「行く」


 春之とふたりで夜宮に行くのは初めてだった。


「いってらっしゃい。あいちゃん、いっぱいおねだりするといいよ」


 見送りに出た紗英さんの笑顔に、沈んでいた私の気持ちはさらに重くなった。私が大人の女性でも、紗英さんは同じように見送ってくれただろうか。紗英さんの笑顔は、いつも私に立場の自覚を迫る。決して同じ目線には立ってくれない人だった。

 わずかながら神社へと向かう人の流れができていて、私と春之もそれに加わった。お父さんに抱かれた女の子が、レース付きの浴衣を着ている。薄暗い中でも帯のピンク色は鮮やかだった。私はネイビーのTシャツにデニムのショートパンツ。Tシャツにはピンクでリボンが描かれているけれどそれだけだ。浴衣のように目を引く華やかさもない。

 道路の反対側を恋人同士が寄り添って歩いていた。女性は私と同じように、黒っぽいTシャツにデニムのショートパンツ姿だったけれど、スラリと伸びた脚からも、髪の毛を直す腕からも、生々しい女の気配がした。

 悪いのは私だ。紗英さんのせいじゃない。服のせいじゃない。望むものに届かないのは、私が足りていないせいなのだ。

 歩みの遅れた私を置いて、春之はさっさと神社の石段を上り始めた。幅があまりないので、誰かが降りてくる時は一列にならなければならない。

 私は春之のすぐ後に続いたものの、当たり前だがスピードが違う。数段春之と距離が空いた途端、先ほどの恋人たちにすっと入り込まれてしまった。上り終えた春之の背中が視界から消える。階段を駆け上りたかったけど、ゆっくり昇る恋人たちが邪魔でスピードを上げられなかった。

 焦れる気持ちで階段の先を見上げると、目の前にふたりの手が見えた。ただ手をつないでいるのではなく、指と指をからめている。強く握り合っているらしく、爪の先が少し白くなっていた。その手を見つめながらじりじりと石段を上りやっと一番上に着くと。途端にきゅっと手が引かれた。


「よかった。迷子になるところだった」


 まるで自分が迷子だったみたいに、春之は安心した笑顔で言った。少ししっとりした大きなあたたかい手。手をつなぐというよりも、私の小さな手はその中にスポンと収まって「持たれている」といった感じがする。さっきの恋人たちのようにもっと親密に手をつなぎたくても、物理的に難しいほど私の手は足りなかった。

 落ち切らない夏の夕日と、古くて弱々しい提灯の灯り。瞼を閉じると、春之の固い背中の感触が蘇る。

 少し現実離れした頭で、私は唐突に理解した。

 ━━━━━私は、春之が好きなんだ。

 クラスの男の子を好きだとか、テレビで見るアイドルが格好いいとか、学校の友達を真似をして騒いだものとは全然違う。物語の中にあって憧れたものみたいに全然きれいじゃない。自覚した恋は、もっと生々しくて暴力的で悲しいものだった。

 春之の結婚式で感じた衝撃や、紗英さんに対する歪んだ憧れの理由が、カシャンカシャンとひとつの形につながっていった。見事なまでの絶望の形。今更それがわかって、私に何ができるのだろう。

 春之に手を引かれて、屋台で賑わう人をかき分けながら本殿へと歩く。


「五円……はないな。十円も一枚しかないから、あいちゃんは百円ね」


 お金のことなんて何も考えずに来てしまったけれど、春之は当然のように私の分のお賽銭も用意してくれた。春之は自分の分の十円玉を投げ入れて手を合わせている。だから私も、私にとっては大金である百円を投げ入れて、同じように手を合わせた。

 願い事なんてひとつも思い浮かばない。その時の私は驚くほどに空っぽだった。私の世界は360度春之しかいなかった。

 ━━━━━神様、私は春之が好きです。春之が好きなんです。

 ただそれを繰り返して顔を上げた。

 私はどこか冷静な子どもで、恋愛感情には疎いくせに自分が子どもであることをよくわかっていた。大人に何か尋ねたとき「ああ、この人は私が子どもだと思って誤魔化しているな。だけどそれを伝えるにはまだ言葉を知らないな」とぼんやり思う程度には。

 私は春之が好きだし、春之は他の誰とも違って特別だけど、この気持ちは大人に対するただの憧れかもしれない、私が大人になるに従って変わっていくかもしれない、と思った。

 しかしそれと同時に、こんなに強い気持ちが変わるはずがない、とも思っていた。これが本物でないなら、呼吸さえ止まりそうな胸の痛みの説明がつかない、と。

 ただの憧れか、恋か。それを確かめる術なんて当然持っていなかった。いつか大人になればわかるだろうと思っていた。

 でも、大人だって、いつになったって、そんなことは証明できないのだ。そして“本物”とは何なのか、何年も経って私は別の人からそれを教わることになる。


 お参りが済むと、春之は当然のようにまた私の手を引いた。


「何か欲しいものはある?」


 小さな神社の小さな境内。ひしめき合うように屋台は並んでいるけれど、それでもたかが知れている。


「━━━━━いちご飴」


 春之と春之の手にしか意識がいっていなかった私には、屋台なんて見えていなかった。だけど何もいらないと答えたら、この時間が終わってしまいそうだったから、思いつくままにそう言った。

 春之は迷いなくひとつの店へと向かった。本殿に向かうときに見かけて、いちご飴を売っている店を知っていたのだろう。


「いらっしゃいませー」


 おじさんともお兄さんとも言える人が、こちらを見もしないでそう言った。屋台の前には黄金色の飴がからまってつやつやとしたいちご飴やりんご飴がずらりと並んでいる。

 春之がお店の人に声を掛けようとするのを、私は手を強く引いて止めた。グイグイと引っ張って店から離れ、大きな杉の木の根本まで春之を連れていく。黙って引っ張られてきた春之だけど、当然不思議そうな表情をしていた。


「あれじゃない」


 いちご飴はまぎれもなく売っていたけれど、それを買ってしまえばやはり帰らなければならなくなる。私は必死で、なんとかこの時間を引き延ばす方法を考えた。


「青いいちご飴があったの。それがいいの」


 その後あまりお祭りの屋台に行くことはなかったけれど、今に至るまで青いいちご飴など見たことがない。あればいいのに、と思う。少し透き通った青い飴の中に真っ赤なイチゴが閉じこめられていたら、とてもきれいだと思うのだ。口から出任せに言ったのに、そんな自分の想像が思いの外気に入って、本当に見たことがあるような気持ちになってきた。


「青いいちご飴?」


 春之は首をめぐらして青いいちご飴を探している。


「青いいちご飴が欲しい。さっき見たの」


 子どもは子どもなりに計算する。自分の思う通りにするために嘘だってつく。自分が子どもだと自覚していて、それを利用することだって十分にできるのだ。私がありもしない物をねだっても、春之は怒ったりしないとわかっていた。


「じゃあ、一軒ずつ探してみようか」


 春之は青いいちご飴なんてないとわかっていただろうか。それとも本当にどこかにあるかもしれないと思っただろうか。とにかく、私たちは屋台を一軒一軒見て回った。

 青いいちご飴は当然なかった。すべて見終わると、また戻って探した。たくさんいた人の姿がまばらになるまで、十数件しかない屋台を何度も何度も見て回った。


「もういい。帰ろう」


 店じまいをするところが出始めても、春之は「帰ろう」とは言わなかった。帰りたくなくてあんな嘘を言ったのに、とうとう私の方が折れてしまった。

 もう迷子になるほど人はいないのに、春之は私の手を引く。力を込めないように、そっと。気を抜いたらほどけてしまいそうなその手を、結局本家に戻るまでずっとつないでいた。


 ◇


 その年の冬、本家の伯母さんが我が家を訪ねた際に、


「あいちゃん、これ春之から預かってたの」


 と、小さな無地の白い紙袋を渡された。開けてみると、中からは青いいちごの形をした棒飴が出てきた。

 市外にある飴屋さんで、希望すれば好きな形のものを作ってもらえるのだと、後に知った。そこで作ってもらったものだろう。

 やわらかい色付きの飴を練って作るそれは、私の思い描いたものとは全然違っていた。だけど、半年近く経って春之からもらったその飴を、私は結局食べることができず、翌年の猛暑の夏に机の中で悲しいほど無惨に溶けてしまった。

 あの飴のお礼を、私は今に至るまで言えていない。




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