4 つき
これまで私はどうやって春之に会っていたんだっけ? 立ち止まってそんなことを考えてしまうくらい、春之には会わなくなった。本家に行ってもいつもすれ違い。中学校に上がると私の方が忙しくなって、そもそも本家に行くことも少なくなってしまった。
思い返してみると、会うと言ってもせいぜい年に数回程度。大きな町でもないのに偶然会うこともない。どの辺りに住んでいるのかさえ知らない。春之の実家の連絡先はわかっても、本人に直接繋がる番号は知らなかった。例え自宅を知ったところでそこは紗英さんとふたりの家だし、電話をかけてまで話す用事もない。私と春之をつなぐものは、あるかどうかもわからない薄い血縁以外には、あまりにも希薄だった。
それでも確かにつながっている印のように、私の家にも春之と紗英さんの結婚集合写真がある。親戚だけしか写っていないそれに、笑顔の紗英さんと、口角をわずかに上げた春之と、まったく無表情の私が一緒にいる。隣り合うふたりに対し、二列目一番端の私は遠く、心の隔たりはそれ以上に遠い。
私が紗英さんに花束を渡している写真も残っている。やっぱり私に笑顔はなかったけれど、「あいちゃんったらすごく緊張しちゃって」とみんな笑って許してくれた。その点だけは子どもでよかったと思う。
誰も私が紗英さんに嫉妬しているなんて思わなかった。それくらい私と春之は釣り合っていないのだ。
伯母さんを通して、春之からも中学校の入学祝いをもらった。『水沢春之』ときれいな右払いが並んでいた。春之の字は見たことがないけれど、これを書いたのは紗英さんに違いないと思った。いまだに右払いが苦手な私は、指で何度なぞっても、こんなにきれいに書ける気がしない。
私の部屋は南向きで狭い庭に面している。住宅街で高いビルもないため日当たりがよく、夜には月がよく見えた。特に満月に近いときにはまぶしいくらいに光が入って、月の陽だまりができるほど。
その光の中で、私はひたすら春之を想った。
あの客間の陽だまりで、春之は何を思っていたのだろう。私を見つめる目に、触れる指先に、好意の欠片は含まれていなかっただろうか。
もしただの憧れなら、早く消えて欲しかった。もし本物の恋なら、抱えて生きる強さが欲しかった。どちらにしても、苦しいばかりのこの気持ちから抜け出したかった。
私の気持ちは消えることのないまま、時間だけが何年も過ぎた。春之はもちろん、月さえも私の願いに応えてくれることはなかった。
◇
高校一年生の夏、私は久しぶりに本家を訪れた。本当は宿題も多く、夏休みも講習が入っていて暇ではないのだけど、いただいた入学祝いのお礼くらい直接伝えるのが礼儀だと思ったのだ。去年は受験があったので、訪問さえ一年半ぶりだった。
「あいちゃん、おめでとう! 頑張ったわねえ」
「たくさんお祝いいただいて、ありがとうございました」
「まあ、ご挨拶まで立派になって! 私も年を取るわけね」
リビングに通されると、穏やかにほほえむ春之が真っ先に目に入った。何年ぶりだろうか。見下ろす角度が昔と違うのは、私の身長が伸びたせいなのだろう。さりげなく見回してみるが、紗英さんの姿はない。
「あいちゃん、ちょっと見ないうちにきれいになったねえ」
「あ、
瑞恵おばさんが親戚から取りまとめて持ってきてくれたお祝いの中に、春之のものも含まれていた。
『水沢春之』
中学校入学のときにもらったきれいな文字ではなく、ブツッと切れるようなとても下手くそな右払いだった。
いただいたご祝儀袋は申し訳ないと思いながら捨ててしまったのに、春之からもらったそれだけは今もこっそり引出しにしまってある。何度取り出して眺めても、心臓が痛くなる文字だった。
ちゃんと自分でお礼が言えるようになっても、春之にだけはすんなり言えなくて、瑞恵おばさんに言うついでに付け足してしまった。それでも春之はやっぱりにこにこと穏やかな表情を変えずに、黙って私を見ていた。
私が何をしても、何を言っても、どんなに変わっても、春之はいつも変わらない。昔はそれが嬉しかったのに、今はその笑顔が悲しい。好きなのに、久しぶりに会えたのに。
高校生になっても、大人から見たら私はまだまだ子どもだ。宴会の間、たまに話は振られるものの、結局は蚊帳の外。多少ビールをついで回ったり、後片付けのお手伝いをするくらいはできるようになったけれど、それも終わってしまうとぽっかり暇になった。そうなれば、私にできることは隣の部屋でぼんやりすることだけ。
夏の日差しは強く、幼い頃みたいに無防備になれない私は、日焼けしないように日の当たらない場所から窓の外を眺めていた。地面スレスレに咲くオレンジ色のマリーゴールドにさえ、濃い影ができるほど太陽は元気だ。だけど室内は冷房が効いていて、薄着だと少し寒い。触れてみると腕はひんやり冷たくて、自分の手のひらのぬくもりが気持ちよかった。
脚を抱え込んで両手で自分を抱きしめるように小さくまるまっていると、建て付けが悪くなった襖のガタッという音がした。
予想していたとおり、春之だった。
ひなたぼっこをするようにいつも陽だまりに座っていた春之も、今日は日差しを避けて私の隣に座った。
春之は変わらない。私が生まれてから十五歳年を取ったはずなのに、ちゃんと三十代に見えるのに、それでも春之はずっと変わらない。それは新しかったフローリングが傷だらけになっても、この陽だまりに変化を感じないのと同じようだ。
だけど傷だらけの私は、昔と同じように無邪気な目を春之に向けることはできなくなっていた。チラッと向けた視線の先には春之の大きな手が見えて、その指にはシンプルなかまぼこ型の結婚指輪がされている。結婚式でピカピカに光っていたそれは、細かい傷で輝きをやわらかくしており、春之の手にしっくりと馴染んでいる。月に祈っても、何を望むこともできない相手だった。
恋心に気付いた小学生のときには漠然としていても、高校生にもなればはっきり絶望できる。だからといって、気持ちの処理の仕方がわかるほど成長していない。もっと大人になれば、それも自在にコントロールできるのだろうか。私が子どもだから、ずっと子どもだったから、すべてがうまくいかないような気がしていた。
「春之」
つぶやくように呼びかけると、春之はゆっくりと私に視線を合わせて「ん?」と首を傾けた。
「私ね、ずっとずっと春之のことが好きなの」
積年の想いを根こそぎ摘み取っても、言葉だけは単純だった。だけど私から春之に話すことなんて、もうそれしかない。学校であった出来事も、昨日みたテレビの話も、ありもしない妄想も出てこない。春之への気持ちに気付いてから、私の中は切り落とされた爪の先ですらその気持ちでいっぱいなのだから。
私の放った言葉は、まるで速度が遅いとでも言うみたいに、春之に届くまで少しだけ時間がかかっていた。呆けたように、春之は動かない。
困ってくれればいいと思った。うろたえてくれればいい。強く突き放して決定的に望みを断ってくれたら、私は前に進めるから。
ところが、ようやく届いた私の言葉に春之はふわんと笑った。
「ありがとう。俺もあいちゃんが好きだよ」
そう言って、指輪のされた大きな手で軽くぽんっと私の頭を撫でた。
大好きな春之の手だった。大好きな声だった。大好きなぬくもりだった。大好きな笑顔だった。何も変わらない、思い出の中にあるとおりの。私の中の春之を毛ほども裏切らないその姿が、とてもとても悲しかった。
春之が私に与えた絶望は、私が期待したものと違っていて、もっとずっと辛辣だった。
思い出の中に春之を探して、恋のかけらを集めても集めてもそれは恋にはならず、砂の中から役に立たないガラス片を集めるようなものだった。子どもの私にとってそのガラス片は宝石以上のものだったが、大人からすればイミテーションにすらならないまがい物だっただろう。もちろん、大人である春之にとっても。
だけど“大人”と呼ばれる年齢になってみて思う。どんなに高価な宝石でも、子どもの頃集めたガラス片以上に私をときめかせるものはない。あのとき、私にとって確かにあれは宝石で、確かにあれは恋だった。
私が大人だったら……
同じ大学だったら……
犬や小鳥だったら……
春之のいない世界だったら……
私の恋は私のすべてを否定し続ける。私の恋は私を幸せにはしない。実態の定かでないものとの闘いは、私を疲弊させていた。
私は月を見なくなった。夜になるとカーテンを閉め、朝まで開けない。目をそらしていれば、いつか別のものが見えるようになるかもしれないと、願って。
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