2 あおぞら
小学校に上がる頃には、私も将来は誰かと“けっこん”して“およめさん”になるのだと思っていた。だけどその“およめさん”は絵本やテレビの中の“おひめさま”と何ら違いはなく、“おうじさま”が誰かということにも考えが至っていなかった。ただきれいなドレスを着て、キラキラした宝石をつけて物語の主人公になりたい、という単純な憧れ。
小学校四年生の頃には、実際のクラスで誰が誰を好きだとか、両思いだ片思いだ、という話の方に夢中になる。私ももうキラキラやふわふわの“おひめさま”からは卒業していて、同じクラスで足の速い男の子を好きだと言ってみたりした。
だけど本当は「好き」ということがどんな気持ちなのかわからずにいた。どうやら私はそのあたりの発達が周りより遅いらしい。童顔で背の低い見た目と同様に、それは私のコンプレックスにもなっていた。
そのためその頃の私は青や紫といった落ち着いた色の服ばかりを着ていた。それが“大人っぽい”ことなのだと信じ込んでいたのだ。
だからある日、母がピンクの花柄のドレスを買ってきたときには猛反発した。
「こんなピンクなんて絶対嫌! 子どもっぽい!」
「あんたは子どもなんだからいいのよ」
「もっと大人っぽいデザインにしてよ。私が選ぶから!」
「ダメ。もう買っちゃったし、あんたが選ぶのは地味だから」
「地味でいいじゃない! 派手なのは嫌いなの!」
「好き嫌いの問題じゃないの。お祝い事には華やかな格好で参加するのがマナーなのよ。特に子どもは華やぎなんだからこれでいいの」
「せめて黒にして」
「お祝い事だって言ったでしょう? 明るい色じゃないとダメよ」
「じゃあ白!」
「白はお嫁さんしか着ちゃいけないの。わがまま言わないでこれ着なさい!」
経済的な母のことだ。恐らくこのピンクの花柄ドレスが一番安かったのだろう。眉間に深く皺を寄せ出した母に私が敵うはずがなく、来るその“お祝い事”にこの恥ずかしいドレスを着る覚悟をしぶしぶと決めた。
「“お祝い事”って何?」
最も重要であるはずの質問を、私は投げやりな気持ちで訊いた。
「水沢さんの家の春之君が来月結婚するの。式には全員で出席するからその時着るのよ」
「春之が?」
「あんたその呼び捨てやめなさい! 『春之お兄ちゃん』って言いなさいって何回も言ってるでしょ!」
だって春之は“お兄ちゃん”じゃないんだもん。
イライラした母に口ごたえするのはやめて、心の中で反論しながら自分の部屋に逃げた。
その後、父や母の会話から、春之の“およめさん”は
大学卒業後、春之は地元に戻って中古車販売の雑誌を作る会社に就職していた。紗英さんは春之の高校と大学の先輩だけど、四つ年上だから学校内で知り合ったわけではないらしい。“ゼミのOG”という、幼い私には何度聞いても理解できない関係の人だった。春之の話ならどんなことでも知りたかったのに、聞いても「ふーん」としか答えられない。
私はまったくピンときていなかったのだ。春之が結婚するということが、どういうことなのか。とにかくピンクの花柄で春之に会うのは嫌だなー、と。ただそのことにだけ落ち込んでいた。
◇
春之の結婚式の日は、見事なまでによく晴れた。
紅葉は終わっても、まだ雪は降らない十一月最初の土曜日。予報は曇りで、ギリギリ雨だけは降らないで欲しい、というみんなの願いを笑って突き返すような快晴だった。
私は例のピンクの花柄ドレスを着せられ、顎のラインで切り揃えられたボブもその日だけはふわふわに巻かれた。安っぽいビジュー付きヘアアクセサリーまでつけられる。昔憧れた“おひめさま”の簡易劣化版。明るい日差しは、薄っぺらい布地をますます際立たせて惨めだった。
披露宴はホテルの宴会場で行われるが、結婚式は隣接したチャペルでするらしい。薄着で「寒い寒い」と縮こまって着いたチャペルの入り口は、絵本から飛び出したような豪華な階段の上にあった。汚れひとつない真っ白な大理石。曲線的なその手すりにはピンクや白のバラが飾られている。もしここにガラスの靴を落としたなら、リンロンと澄んだメロディーが流れるに違いない。
「最後に新郎新婦がこの階段を降りてくるのね。今日は晴れて本当によかった。外だから、雨なんて降ったら最悪よ」
母が父にそう言って、父も黙ってうなずいている。私は新郎新婦が誰と誰を指すのか思い至らず、“おうじさま”と“おひめさま”が降りてくる姿をぼんやりと想像しながら「ほえー」とその階段を見上げた。
生まれて初めて入ったチャペルは、こちらも真っ白で夢のような場所だった。壁も天井もイスも真っ白。バージンロードはガラス張りで、その下にはこれまた真っ白なバラが敷き詰められている。正面には壁とガラスとが十字架の形に組まれていて、外から入る自然光でその十字架が輝いて見えるような造りになっていた。
いくら“おひめさま”を卒業した私でも、こんなロマンチックな場所にいて胸がときめかないはずがない。口をポカンと開けたまま突っ立っている私を、母がぐいぐい引っ張って席に座らせた。バージンロードより右側の、前から五列目の席だった。
母は私と兄を奥に座らせようとしたけれど、光る十字架と床下の白いバラをもっと見たくて、一番バージンロードに近い位置に座らせてもらった。
見飽きることなく床と正面をキョロキョロしているうちに座席は埋まり、ほどなくして入り口がふたたび開いた。カツカツとバージンロードを歩く音に、私は顔を上げる。
しかし、真っ白な衣装を着たその人が春之だと、最初はわからなかった。やわらかい髪の毛がベタベタと固められて、キラキラした変な粉までつけられていたからだ。それでも、そんなカッチリした衣装もいつもの猫背で台無しにする後ろ姿は、間違いなく春之のものだった。
ここにきて、私は初めてこれが異常事態であると気づいた。イスでたった五列分。走れば数秒とかからない春之との距離が、ものすごく遠いのだ。いや、例え遠くてもただの距離の問題ならば足を進めればたどり着ける。けれど、私が春之のところに、隣に行ってはいけないのだ。
非日常感で高揚していた気持ちが冷え、顔から表情が抜け落ちた。決して私の方を見ない春之の後ろ姿をじっと見つめながら、私は精一杯何かを理解しようとしていた。けれど私が理解しようとした何かは、チャペル全体を包み込む大音量の音楽にかき消されてしまう。
あっさりと入ってきた春之と違い、真っ白な“おひめさま”は荘厳な音楽と光に包まれながら姿を見せた。男性と腕を組み、ゆっくりゆっくりと春之に向かって歩いていく。春之はその様子をおだやかな表情で見守っていた。そこにどんな気持ちが込められているのか、私にはわからない。
初めて見る紗英さんはベールの奥で切れ長の目を伏せていた。そのためちゃんと顔は見えないのに、その凛とした雰囲気に圧倒された。光にあふれるこのチャペルで、その光をすべて集めているようにも、自らが光そのものであるようにも見えた。
拍手をするのも忘れて、私はその異常事態の
春之に手を引かれ、紗英さんはいとも簡単にいつもの私の場所、春之の左隣に並んだ。誓いの言葉を述べ、指輪の交換が行われていく。真っ白な二人を呆然と見ながら、母に『白は“およめさん”しか着ちゃダメなの』と言われたことを思い出していた。真っ白で上品な紗英さんに対して、私は安っぽいピンクを着ている。そのことがどうしようもなく恥ずかしく悲しくなっていた。
白いドレスだったら、私も紗英さんみたいに、紗英さん以上にきれいになれただろうか。春之の隣に立てただろうか。
ドレスの色の問題でないことなど、小学四年生ともなればわかっていたけれど、それしか春之に近づく
「それでは誓いのキスを」
今まで存在すら意識していなかった神父さんの言葉が、そこだけくっきりと耳に入ってきた。
え? キス? 本当に? 本当にキスするの?
テレビやマンガでしか見たことがないキス。動揺して整理がつかない私のことなど待ってくれるはずもなく、少しかがんだ紗英さんの軽やかなベールを春之が持ち上げる。紗英さんの華奢な肩をやさしく春之は掴んで、ためらうことなくすーっと顔を近づけた。
“キス”という言葉の持つ恥ずかしさや嫌らしさがまったくない、ただ少し触れるだけの、風が花を揺らすような、そんな自然体のキスだった。とても春之らしいキスだった。
一秒にも満たないその光景が私に与えた衝撃。それは私の短い人生では表現できる言葉を教わっておらず。せいぜい砂の滑り台が一瞬で崩れ去るような、それより百層倍も千層倍もショックな出来事だった、と言うしかない。
歌ったことのない賛美歌を機械的に歌った。口から象形文字でも吐き出しているような、色も味もない歌だった。祝福の歌声は、高い高い天井を昇っていく。私の声など、誰の耳にも届かなかった。
動こうという意志さえなく、突っ立ったままの私の背を、母はぐいぐい押してチャペルを出た。春之は、とうとう一度も私の方を見なかった。
耳の奥ではまだ讃美歌が反響していて、母の手の感触も、大理石を踏む足音も、私を包む膜の外側のこととしか感じられなかった。
そんな私にもピンクの花びらが入った小さな籠が渡され、シンデレラの階段脇に立たされた。これから新郎新婦が出てくるから、彼らに向かってその花びらを撒くのだという。
“新郎新婦”が春之と紗英さんのことだと、私はやっと理解していた。これは“お祝い事”で、「おめでとう」と声をかけて花びらを撒かなければならないのだ。
チャペルの扉が開いて、腕を組んだ春之と紗英さんが出てくる。式の間の少し緊張した顔とは違って、紗英さんは満面の笑みを浮かべている。春之も、私が大好きなおだやかな笑顔をみんなに向けていた。
ゆっくり降りてくるふたりに向かって、みんな笑顔で「おめでとう!」と声をかけ、花びらを撒いている。肩や頭にそれらをつけたふたりは、笑顔で「ありがとう」と答え、またゆっくりと階段を降りる。
いよいよ私の前にふたりが来た。生来真面目な
「ありがとう」
やさしいやわらかい声で春之が言う。すると春之の向こうから、紗英さんがひょこっと顔を覗かせた。
「もしかして、あいちゃん?」
春之やその家族から私のことを聞いていたのだろう。“親戚の女の子・あいちゃん”として。春之側の親族で幼い子どもは私ひとりだったから、紗英さんはすぐに私が藤嶋あいであるとわかったのだ。
「……はい」
「聞いてたとおり、とってもかわいいね。今日はどうもありがとう」
まだまだ背の低い私が紗英さんを見上げると、彼女の後ろには雨の気配すらない真っ青な空が広がっていた。気温が低いせいでいつもより澄んだ空は雲ひとつなく、ポリバケツと同じくらい濃い色をしている。そんなちょっとびっくりするくらい晴れた空を背景に、紗英さんがにっこりと笑っていた。
きれいだなあ、と思った。内側からあふれる幸せが、風となってベールを運ぶ。私は春之の奥さんを、とてもきれいだと思ってしまった。
きれいなものを見たのに、私の心はどんどん沈んでいった。青空に体温を奪われていくようだった。それがなぜなのか、その時の私にはわからなかった。
春之と紗英さんはまた階段を降りはじめた。次の人が花びらを撒いたのを見て、私はやっと自分が撒き忘れてしまったことに気づいた。手つかずのままの籠をどうしたらいいのかわからず、とりあえず
子どもにとって冠婚葬祭は退屈なものだ。兄は高校三年生だったけれど、それでも飽きて会場を出たり入ったり落ち着きなく動いていた。しかし大人にとっては食事や写真撮影、挨拶など忙しく立ち回らなければならない。そのため、元々手の掛からない私など、すっかり放置されていた。
お子さまランチのような食事でお腹はいっぱいで、あとは母の食事についていた大きなエビの殻を弄ぶくらいしかできることもない。
エビのひげを引っ張りながら遥か遠くにいる春之を見る。次々と挨拶に訪れる人に頭を下げ、注がれたお酒に口をつけているせいか、珍しく顔が少し赤い。そんな春之の隣で紗英さんも笑顔で挨拶をしたり、春之の耳元に口を寄せて何か話しかけたりしている。
私がどんなに退屈していても、今日は春之は来てくれない。紗英さんの話にうなずいて、親戚や知人に頭を下げて、私のくだらない話を聞く暇なんてない。ふと気付くと、テーブルの上には抜けたエビのひげが無惨に散らばっていた。
「あいちゃん、ちょっと」
退屈な時間以上に、得体の知れない気持ちを持て余していた私は、伯母さんに呼ばれて会場の外に連れ出された。
ドアが閉まると喧騒は急に聞こえなくなる。
「この後、サプライズでふたりに花束を渡すことにしてるんだけど、紗英さんにはあいちゃんが渡してね」
そう言われて、華やかだけどどこかゴチャゴチャした印象の花束を、ドサッと腕に乗せられた。春之に花束を渡すのは、紗英さんの姪っ子で四歳になるリオちゃんだという。
リオちゃんは、やはりプリンセスみたいなピンクのドレスを着ていた。学校では小さい方の私でも、四歳の子に比べればさすがにひょろっと高い。それなのに同じようなピンクのフリフリを着ているなんて滑稽だった。それでも春之側の出席者で一番幼いのは私で、この役を代わってもらえそうな人はいない。
ホテルの人に指示されるまま、ゴチャゴチャの花束を持って、私はリオちゃんと一緒に会場に入った。
小さな女の子が花束を持っているだけで、みんなのボルテージは上がるようだ。もちろん、私ではなくリオちゃんの話。ピンスポットライトの光が熱い。大きな拍手のせいで係の人の声も聞こえない。誘導されながら進むリオちゃんの背だけを追って、私も高砂へと進んだ。
春之と紗英さんはテーブルの前に立って私たちを迎えた。春之はしゃがんでリオちゃんから花束を受け取る。シャッターと拍手の音で聞こえなかったけれど、「ありがとう」と口が動いていた。私もリオちゃんに続いて紗英さんに花束を渡した。
「あいちゃん、ありがとう!」
少し声を張って、紗英さんが言った。そこで初めて真っ正面から紗英さんを見た。さっきの青空みたいに曇りの欠片もない笑顔だった。
羨ましかった。大人であることが。春之より年上であることが。春之と同じ高校だったことが。同じ大学だったことが。“ゼミのOG”だったことが。紗英さんであることが。
今でも時々思う。私が私じゃなかったら、春之は私を選んでくれたのだろうかと。私が大人で、春之より年上で、同じ高校と大学で、“ゼミのOG”で、紗英さんみたいだったら……。
それでもやっぱり、春之は本物の紗英さんを選ぶのだろう。
それならいっそ、男に生まれたかった。犬や小鳥に生まれたかった。春之のいない世界に生まれたかった。
選びようもなく私は女で、私は子どもで、私は私で、春之のいる世界にいるなんて、あまりに惨い。
私はこの日、生まれて初めて失恋した。恋を知る前に失恋してしまった。そして、そのことすら自覚できないほどに子どもだった。
順番がぐちゃぐちゃだった私は、ちゃんと失恋することができず、ちゃんと恋をすることもできなくなった。歪んで脆い土台の上に、さらに砂の滑り台を高く高く築くように、私の恋はいつもひどく不安定だった。
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