無花果【上】
孝蔵主が江戸入りしたのは、慶長十九年のこと。
既に孝蔵主が後にしてきた西と新たに身を寄せた東の間に、暗雲色濃く立ち籠めていた頃合いであった。
実際、この年の冬には、関ヶ原以降絶えて無かった大戦が大坂で起きたのは周知の事実だが、無論、孝蔵主には預かり知らぬ近い未来であった。
新しい主君の命令に従い、孝蔵主は案内の者に付いて大坂城やかつての伏見城ーあるいは聚楽第ーにも負けぬ広い江城内を進んだ。
豊家の趣味や意匠とは異なるが、どっしりと落ち着いた造りに天下普請を重ねたという華美豪奢な設えは、やはり流石将軍家、今現在の天下人の家門としか言い様がない、と感心すること頻りであった。
更に。
重々しいだけでなく圧迫感を覚えさせられるような鉄扉を越え、そこ迄案内してきた侍習が侍女に変わった事で、どうやら己は将軍家妻子が住まう奥殿へ導かれたのだと知る。
幾分戸惑い動揺しながらー初めての出仕でこのような扱いを受けるとは全く予想していなかったのだ。何といっても孝蔵主は、江戸入りする迄、つまりは上方に居住していた折りは、亡き太閤の北政所であった高台院に仕えていた身。つまりは徳川将軍家にとっては仮想『敵』である豊家に連なる者であったー、回廊を渡る内に自然視界に入る周囲の光景に目を奪われる。
丁度、百花爛漫と咲き誇る春。
夢心地に誘われる庭々の風景に見惚れながらも、孝蔵主は懸命に足を運び、無愛想と迄は行かないが無言を通している案内の侍女の後を進んだ。
大きく庭、鏡のように澄んだ池の上に張り出した釣殿内へ導かれ、ようやく歩を止め、そこが目的地なのだと孝蔵主は悟るだけでなく、彼女の訪れを待っていたらしき主君の姿をその場に認め、恭しく礼を取った。
「良く来たな、孝蔵主。大儀である」
「上様。御言葉及び御厚情に甘え、罷り越しました」
許しを得て面を上げ、すぐに孝蔵主は、厳重に下ろされた御簾の向こうに確かな気配を感じ、一層の緊張感を覚える。
孝蔵主の予測が誤っていなければ、間違いなくそこには、かつて孝蔵主自身も旧主の命令で世話を焼いた事がある将軍家御台所が座している筈だ。
そして。
これは残念な推測であるが、豊家の略と勝手により散々に翻弄され踏みつけにされた女人は、孝蔵主の事もその手先として恨んでいるに違いなかった。
(致し方ない。詰られようが責められようが甘んじて受けねば)
そんな風に己に言い聞かせ、上座に穏やかに座す新しい主君の顔色を窺う。
御正室を大切にしている方であると聞いているが、同時に下の者達に対して理不尽な振る舞いをするどころか不正や欺瞞を許さない為政者であるとの評も広く得ていると承知している。
俸禄を以て家中に迎えられた以上、女人の恨みで断罪される、などということはない筈だ。
そんな風に自らを宥めつつも身構えていた孝蔵主であったが。
「旦那様。もう宜しゅうございましょう?……孝蔵主殿は女人ですもの、良いでしょう?」
聞き覚えのあるーだが最後に別れた際よりは遙かに明るく弾んだ声音に、孝蔵主は瞠目した。
「誰が相手であろうと、己の身上を忘れてはならぬ」
「でも……これでは満足に話も出来ませぬ!……暫しお時間頂けるとお約束下されたではありませぬか」
「……」
主君は穏やか、というより無感動な眼差しを孝蔵主に向け、何か考えているあるいは解析しているらしかった。
暫し後に、それでも渋々といった幾分押し付けがましい気配を発しつつ、「御簾を上げよ」と控えていた侍女等に命じた。
御簾が完全に上がる前に、城に負けず劣らず豪奢な衣を身につけた女人が素早く進み出て、惚けている孝蔵主と膝突き合わせる程に近付いたと思うと、彼女の手を取り間近から微笑みかけてきた。
「久しいの、孝蔵主。……そなた、全く変わりがないではないか。まこと、政所様の仰せの通り、怪しき比丘尼殿じゃ。……懐かしく思いまするぞ」
「小督様」
思わず以前呼んでいた名を口にしてしまい、慌てて孝蔵主は取り消した。
「いえ、御台所様。過分な御言葉にございまする」
「あら、いやだ」
ころころと華やかにかつ明るく笑う御台所こそ、少女の頃のまま、全く変わらないと孝蔵主は思った。
いや、孝蔵主が最後に御目見得した際に比べ、ずっと若返っているといった感想すら覚えた。
それこそ初めて出逢った頃のような闊達さ、無邪気で悪戯っぽい童女のような微笑みと仕草に、孝蔵主は容易く眩惑される。
「そなたにそのような口の利き方をされると、私は随分と歳を取ってしまったような気がします。そなたには数えきれぬ程に叱られたり、お仕置きを受けたりしたのに」
「……申し訳ございませぬ。ですが、全て姫の為でした故」
「ええ、本当に。私を厳しく躾けてくれたのはそなた位でしたものね。……私、本当に我が儘な子だったのね。不思議だわ」
どうやって皆様、私に我慢出来ていたのでしょう、などと悪戯っぽく微笑まれるのに、孝蔵主はようやく身の緊張を解き、微笑み返した。
「我慢する甲斐はございましたよ。小督様、いえ御台所様とご一緒すれば、何とも心浮き立ち楽しい心地が致しましたもの」
時折、ひどく驚かされたり心配させられたりしましたが、と付け加えてやると、少女の頃と同じように高貴な女人はぷぅと愛らしく頬を膨らませてみせた。
「ま。でも別に悪気があった訳ではないのよ?それだけは信じてもらわないと」
「ええ、分かっておりますとも。姫はただ悪戯で遊び好きであられただけですからね」
「まぁ!」
楽しかった頃の思い出のみ語り合って笑う女二人に、主君は微かな咳払いをして己の存在を知らしめた。
「申し訳ありませぬ、上様。ご無礼を」
「いや。良い。御台の望みである故」
将軍は、慌てて礼を取った孝蔵主に穏やかに応じ、だが御正室に対してはめっと睨んで見せた。
「あまり羽目を外すでないぞ。孝蔵主は私の大事な上臈なのだからな」
「分かっております。どうか御懸念なく」
将軍がさり気なく御正室の頬に触れて撫でた後、泰然かつ粛々と退室していったーおそらく表御殿へ戻って行ったーのを何となく見送ってから、同じく幾分とろんと蕩けたような眼差しで夫君の後姿を見詰めている御台所へと目線を移した。
夫君との間に七人もの御子をもうけているという事実を知らなくとも、御台所が夫君に向ける目付きを見れば、身も心も夫君に捧げているとは一目瞭然だ。
(成る程。……夫婦円満であられる。小督様は……それでは幸せにお過ごしだったのだ)
片時も忘れた事がない、などと言えば完全に嘘になるが、しかし時折、あまりにも一方的に利用され続け、薄幸であった姫君の事を、後悔と共に思い起こした事は屡々あった。
生来無邪気で気儘かつ闊達な、まさしく花か蝶のような少女であったのが、豊家に囲われ、それこそ囚われた獣のような目をしていた頃もあったし、その後、生気を失い、幽霊のように儚く影が薄い時期もあった。
最終的に豊家を出た際には、何よりも縁としていた肉親を悉く奪われ何もかもに絶望した、無感動な目と表情をした、花嫁『人形』としか言い様がない姿だったと孝蔵主は思う。
美しくはあったが、本来、このひとの魅力であった筈の迸るような輝きや瑞々しさなど皆無の、生きながら死んでいる、ただその場にいて息をしているだけという存在だった。
それがこのように、本来の気性の儘の姿と素振りを取り戻したとなれば、それはやはり三人目の御夫君である徳川二代将軍との暮らしにおいて存分に慈しみと愛情を注がれて、心の傷を癒す事が叶ったからに違いなかった。
(この縁談、取り纏めた事で、どうやら私は小督様に償う事が出来た、ということだろうか)
そんな風にしみじみと思っていると。
ようやく我に返ったらしく、御台所は素早く孝蔵主を横目で眺め、頬を染めながらそっぽを向いた。
そういえば、少女の頃も普段は奔放ですらあるのに、時にはひどく初心で引っ込み思案な所がある姫だった、などと微笑ましく思い出す。
「上様とは御仲睦まじくあられると拝察致します。……ほんに良うございました」
「……」
「私だとて。御台所様の事は気掛かりであったのです。高台院様は尚のこと。御台所様には済まない事をしたと、いつも仰せでした」
「そのような事」
ぷるぷるっと御台所は激しく頭を振ってから、言葉でも否定してきた。
「全て御家の為だったのですもの。高台院様は何も悪くありません。無論、孝蔵主殿も」
「……」
「……確かに以前はお恨みしたこともございましたが」
孝蔵主が言葉を呑んだのを誤解したのか、御台所は少し後ろめたそうにー非常に正直にー付け加えた。
「今ならば、私にも……良く分かります。御家の為、旦那様の為、子達の為ならば、何だって致します。喩えこの身は地獄に堕ちようが、如何なる罪だとて……犯すことでしょう。おなごとは、そういうものなのです、きっと」
「はい」
「なるべくならば、誰も傷付けたくはありませぬが」
御台所は、この女人には珍しく意味深長といおうか複雑な感のある溜息を長く吐いた。
「それでも……私は旦那様に従います。あの御方のお望みならば、致し方ないと思ってしまうのです」
「まさしく夫婦の理」
「……」
しょんぼりと萎れた様子の御台所の気持ちを慮って、孝蔵主は合掌してみせた。
くすりと小さく御台所が笑うのに、孝蔵主も少々おどけた笑みを返す。
「どうかこれからは旦那様の手助けをして下さい。孝蔵主殿ならば……旦那様がご入り用の事を多く御存知な筈」
「はい。その、所存です」
太閤亡き後、俗世を捨てた隠遁生活を送っていたとはいえ、高台院を慕って通ってくる武将等は多く、自然高台院に仕える孝蔵主の元には多くの情報が集まった。
既に避けられないという見通しが強くなっている来るべき戦の為に、将軍は可能な限り多くの情報を集めようとして、孝蔵主の身も拾ってくれたのだろう。
そうした恩義には、正しく応えていかねばならない、と孝蔵主は決めていた。
(それに上様の為に働くのは以前にもあった)
そんな風に思い、今では懐かしくー何となく気恥ずかしい思い出も蘇る。
目前で無邪気さと闊達さを取り戻した女人の明るい笑顔も又、孝蔵主の記憶を刺激した。
それは今では随分と昔の事。
*
大陸での戦で太閤の甥が亡くなったという報せは瞬く間に城中に広まった。
「やれやれ。まさか、あの勇猛果敢な秀勝殿が病で身罷るとはのぅ。まことに人の世とは分からぬもの」
穏やかにそう評したのは、孝蔵主の主である太閤の御正室、北政所だ。
常におっとりと穏やかなーつまりは何事があろうと平静を失わぬー女人は、眉を顰め、手にしていた文を孝蔵主に戻した。
「まこと、気の置けぬ事ばかりじゃ。戦は元より、淀殿の腹の子も気に掛かる。……関白殿がますます弱気になられそうなのも、一層気に掛かるぞえ」
「そうで、ございますねぇ」
主の懸念を正確に推測しながら、孝蔵主にはまた別の懸念、というより不安材料があった。
といっても、豊家の為、というより主の為に、どうするのが一番良いのか孝蔵主自身が決めかねているのだが。
こういった場合、やはり主の意思に任せるのが一番なのだろうと考え直し、孝蔵主は口を開いた。
「小督姫は……如何致しましょう。お一人では何かと不都合でしょうし、舅御、姑御にお任せするのも、淀様が御納得なさりますまい。かといって淀様にお預けするのも……」
終い迄言わずとも、主は孝蔵主の言いたい事を察したようで、軽く頷くと共に直ぐさま指示を下した。
「無論、私の元に呼び寄せましょう。小督の腹の子は紛れもなく豊臣の子じゃ。大切にせねばならぬ」
「は。ではそのように」
そういう訳で岐阜宰相の遺児を身籠もっている若い未亡人は、義理の叔母であるだけでなく養母ということになっている北政所の邸に引き取られた。
小督姫の実姉である淀の方は不服であったようだが、太閤の御子を身籠もっておられるとはいえ、まだ子は産まれておらず以前程の力はない。
この時代、子が無事産まれるという保証、産を経てお七夜を無事生き延びる可能性は低かった。
故に、子が名を与えられるのには、重要な意味がある。
北政所にしてみれば、淀の方についてはどうあれ、小督姫の子については確実に生き延びてもらわねばならないという切実な理由がある。
故に幾分強引に、正室としての指図ー命令と言い換えても誤りでない類の強制力を持つーにより、側室である淀の方を従わせた、のだろう。
また北政所が引き取る事によって、小督姫の子は単に亡き岐阜宰相の子というだけでなく、豊家の子なのだと印象付ける事が出来る。ー岐阜宰相が存命ならば、不可能であった芸当であり、北政所の布石だった。
淀の方の再びの懐妊に神経質になっている関白への援護でもあるのだろう。
関白にとっては、叔父太閤の子よりも、己自身の甥ーもしも男児ならば、だがーの方が、競争相手となり得ても随分気安く心強いに違いない。
あるいは子が男児ならば、北政所はその子を関白の養子とする心算なのだろう、と迄推測を巡らせ、孝蔵主はそろそろ臨月を迎えるという未亡人を厳重に迎えた。
小督姫が何処まで、養母と実姉の水面下における諍いに気付いているのか、孝蔵主には分からなかったがーあるいは全く気付いていないのかもしれないと思った。孝蔵主が知る姫君は、姉君方と異なり随分と暢気で気儘、というより人の思惑や策謀には興味を持たぬ人柄だー無事二つ身となるだけでなく、その後も意気消沈する事なく回復してもらわねばならない女人だった。
少なくとも、太閤にしてみれば、未亡人となってしまった以上、姫は大事な政略の駒だろうというのは、考えずとも分かる事だ。
未だ落ち着かぬ内に姫は産気付き、北政所及び関白が大いなる期待を持って見守る中、無事玉のような姫君を産み落とした。
孝蔵主には、北政所が内心大いに落胆し、関白は残念半分喜び半分といった心境であると見て取れたが、初子を得た感動に浸っている小督姫には、産褥の床に駆け付け口々に労いと祝いを与えてくれた北政所と関白に対して、随分と心を和らげるだけでなく、今迄より遙かに強い信頼感と依頼心を覚えたらしかった。
特に、北政所が赤子の姫の名を己が与えようと明言された事、更に関白が亡き弟の忘れ形見の後ろ盾になろう、などと自ら言い出された事に、素直でー肉親の縁に薄かったー小督姫はいたく感動したのだろう。
あるいはこれ迄蟠りを持っていたとしても、小督姫は豊家の親族を頼ると心決めた、と孝蔵主は見て取った。
(淀の方は大いに御不快に感じられるであろうな。……それだけでも北政所様及び関白殿下には溜飲を下げられる、という所か)
小督姫と無事「完」と名付けられた赤子が機嫌良く過ごしているのを確認してから、孝蔵主は姫君の許を退出した。
寄人の世話だけが孝蔵主の仕事ではなく、他にも気掛かりは多い時期だった。
太閤が名護屋の城に滞留中である今は、畿内どころか国内の主は名実共に関白であり、関白を支える北政所も又忙しい。
淀の方の御子が再び男児かもしれぬとの懸念の元、種々様々な手を打ち、策を巡らせているとは、北政所の直接の手足ともいうべき孝蔵主も承知していた。
孝蔵主としては、北政所一派の人々ー木下、浅野といった血筋の人々ーが先走りし過ぎないように、と願い、気を配る事こそ肝要と思われた。
なかなかに強かで並々ならぬ人々であるが、これは太閤と長く共に居過ぎたせいかもしれない、どうにも策謀に走り過ぎるきらいがある。
太閤が己の子というだけでなく淀の方の御子という意味合いで御子と御子を奉じる者達に目を掛けがちなのは、別に理由もあるのではないか、と孝蔵主は穿った見方をしていた。
人間誰しも、己に似た悪癖を持つ者こそ小面憎いと感じるものだ。
そうした時期に己の許に、孝蔵主自身を宛名として届いた文に直ぐには注意が向かなかったとしても致し方ない事だったろう。
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