無花果【下】

 だが自室に落ち着いた夜半、放置状態であった文の差出人の署名を見て、一瞬、孝蔵主は身体中の血の気が引くのを感じた。


(な、何故、このような)


 理由もなくおろおろとし、更には周囲の気配なども窺ってしまう。

 しかし次には何故、自分宛なのだろうという疑問を先ずは覚えた。

 重要な文であれば、当然、北政所宛に差し出される筈でー無論、北政所宛の公的文書には、先ず孝蔵主が目を通す。孝蔵主は北政所の主席秘書のような役目を負っているのだー、個人宛の場合は後回しにされる可能性が高いと、それなりの地位にあるひとなら判っている筈だった。


 それに正直、名と顔を見覚えているというだけで、個人的な文を貰う謂われも覚えも、孝蔵主には皆無であった。


(これは……注意してかからねば)

 そのように思いながらも、なかなかに開く決心が付かず。


 だからといってこのまま夜を明かす訳にもいくまいと、心を静める為に茶を己の為に煎れてから、ようやく孝蔵主は文を改めて手にした。

 几帳面かつ生真面目そうな、規則的に並んだ字、それでいて何処か伸びやかで大らかな感もある手蹟に、孝蔵主は少々意外の感を持ったが。


(何と)


 その内容に驚き、何度も読み返す。


 最初は先ずは大陸で歿した岐阜宰相及びその他の者への悔やみの言葉が並べられていたが、それはあくまでも挨拶と愛想というもので、すぐに差出人の目的は非常に明瞭かつ簡潔に記されていたから、誤解の仕様もない。


(これは……しかし、良く考えてみなければ)


 だが考える迄も無く、太閤の望みに叶う申し出だろうとは容易に想像が付いた。

 関白にもおそらく異論は無いだろう。


 問題は、太閤の周囲の人々ー正確には女達の思惑だ。


(小督姫を、徳川家世嗣の君に娶せる、か)


 だが文の差出人が指摘している通り、姫は亡夫の子を出産したばかり。

 とてもではないが新たな縁談に沿う気持ちにはなれないだろうというのも事実だ。


 素直ではあるが、頑固で一途な所が大いにある姫君であるから、一層、三度目の婚姻となる縁には、非常に後ろ向きに、否定的になるだろう。


 姫が望まぬ以上、姫の姉君である淀の方は躊躇い無く強硬に反対し続ける。

 そうすると御子及び生母大事な太閤は事を進めないに違いない。


(今は明らかにすべきではない)


 そう結論は簡単に出て。

 同時に文の差出人の達見ー差出人本人が、あくまで心に止めておいて欲しいという申し出であり、今は動かない方が良いと迄断言しているーに、孝蔵主は舌を巻いた。


 あるいはこの時に、孝蔵主は将来のー終生のー主を選んだ、のかもしれなかった。


 *


 その後の数年ーというには短いかもしれぬ歳月ーで事情は大きく変わった。

 少なくとも北政所一派は権勢を失い、隠し玉であった金吾中納言も養子に出さねばならなかったのは、北政所にとっては痛恨としか言い様がない結果であったに違いなかった。


 そもそも、淀の方が又も男児を産んだ事こそが、大打撃だったろう。


 北政所は表向きは正室として扱われていたものの敬して遠避けられ、関白はというと、最早かつての権勢や威容は見る影もないといった有様。

 諸候等にも見捨てられ、徐々に形振り構わずといった状況に追い込まれていく、かつては居丈高で横柄ながらもそれなりに太閤の甥として能を発揮していたひとから、孝蔵主も又目を逸らした者の一人だった。


 北政所は未練たらたらであるようだが、深入りすれば、北政所であっても無事では済まされないと、孝蔵主は見ていた。

 そして北政所自身は、義理の甥への愛情と期待よりも、孝蔵主への信頼ーあるいは保身ーを選んだ。

 一派の者達も当然、北政所の意思に従う。


 これまたいつもの事であったが、唯一人、関白の義理の妹という立場にある小督姫が、懸命に姉君に懇願して命乞いなどしているのを傍で見ていると、権勢争いから遠い所にあるが故に何時までも大人になりきれず素直で情に篤い姫君が気の毒になるだけでなく、世の無常というものすら感じてしまう孝蔵主だった。


 そして姫への同情と憐れみの情が、孝蔵主を直接動かした、のかもしれない。

 孝蔵主が密かに伏見城下の徳川邸を訪れたのは、当主が国許へ下る準備に慌ただしく湧いている、そんな状況であった際だった。


「これは孝蔵主殿。ようこそお越し下された」


 大身の大大名にも関わらず、常に誰に対しても穏やかに和やかに接してくれる方だ、との印象を改めながら、孝蔵主は自然、恭しく頭を垂れていた。

 北政所はいざ知らず、昨今の太閤や関白に比べれば、格段に人格的には上だ、などと迄思ってしまい、孝蔵主は慌てて心中に浮かんだ不敬な考えを握り潰した。


「政所様の御用で御座ろうか。何かお困りな事でもおありかな?」

 無論、目前の大名は、当然、太閤と関白の間に生じた軋轢、既に修復仕様がない程に拗れ、破滅へと向かいつつある事態に気付いているだろう。

 あるいはその為に、敢えて今国許へ下ろうとしているのかもしれないが、しかし事を為すには先ずこの人に意を伝えておく必要があると孝蔵主は信じていた。


「いえ。あくまでも私一人の存念で参りました」

「ほう?それはそれは」


 徳川家当主は楽しげに笑い、孝蔵主に茶を勧めた。

 急がず慌てずといった態度に、自然孝蔵主の緊張も解れる。


「実は……徳川家世嗣であられる中納言様の縁談を是非に願いたく参りました。お勧めしたい姫が居るのです」

「ほう。秀忠に、か」


 家康公はさらりと孝蔵主の顔を眺め、軽く顎に手を当てた。

 懸念の素でもあるのだろうかと不安を覚えた孝蔵主に、からかうように続ける。


「いや、何。秀忠の奴は若い癖に随分と物堅い朴念仁でなぁ。女人にとっては、面白味もない男である故に、姫の気に入るかどうか、父親ながらほとほと心許無い故」

「ま。そのような御謙遜を」


 一端断りを口にされてはと孝蔵主は素早く、家康公の言葉を畏れ多い事ではあるが否定した。


「姫君におかれましては、誠実で真摯なお人柄こそを、何よりも大切で稀少と感じられる事でしょう。それはこの孝蔵主めが保証致しまする」

「ほう」

「姫君も……少々、中納言様より年は上でございますが、心根素直で真っ直ぐな御方です。徳川様には決して後悔はさせませぬ」

「さて。……一体、何方であろうかの。先ずはそれを伺ってみなければ」


 ようやく交渉の第一歩を踏み出せたと感じー少なくとも当主の興味を惹けたのだー孝蔵主は安堵しながらも、気を引き締めつつ膝を僅かに進めた。


「浅井の三の姫であり、今は豊家の御養女であられる小督様にございまする。……決して、徳川様には見劣りせぬ姫かと」

「……」


 正直、壮年の男がどのように感じたのか、孝蔵主には判断がつきかねた。

 家康公の表情も目付きにも特に変化は無く、穏やかに無感動な儘、孝蔵主の真意を探るように孝蔵主の面に向けられるだけで、孝蔵主に与えられる情報は皆無だったのだ。


「成る程。小督姫か。それは、それは」

「はい」

「……確かに、秀忠にとっては、これ以上良き縁は無い、であろうが」

「……」


 息を殺して待つ孝蔵主に、家康公は破顔した。


「ま、急ぐ必要はあるまい。それより折角来られたのだ。ゆっくりして行かれよ。儂も色々聞きたい事がある」

 ヒヤリと背筋を走るものを感じながらも、孝蔵主は頷くしかなかった。


 徳川家当主の御前から退出し、身体から力が抜けかけた時に声を掛けられた。

 あるいはと思っていた為、差程驚きはしなかったものの、少々心の臓には悪い気がする。


「孝蔵主殿」

「これは……中納言様、ですね」


 すらりと姿の良い、だが父君に比べれば少々線の細い印象のある少年だった。

 そういえば今年、御年十七歳なのだと思い至り、あるいは未だ時期尚早だったろうか、などと孝蔵主は思いかけたが。


「此度はご尽力有り難う存じます。この恩は決して忘れませぬ」

 丁寧に礼を言われた後、向けられた眼差しに、孝蔵主は一瞬息を呑んだ。


「いえ……私にしても、浅井の姫君には、何としてでも幸せになって頂きたいのです」

「……はい」

 静かに頷く様子も、見かけより余程老成したものを感じ、孝蔵主は何となしに溜息を吐いた。


「ですが。これで成った訳ではありませぬ。私から働き掛けようにも今は……殿下は他の事にかまけておいでですし。おそらく北政所様には……進言は難しいかと」

「はい。承知しております」


 少年は不思議と父君に共通した落ち着きと和やかさを以て頷き、穏やかに続けた。


「父にお話頂けさえすれば、後は最早成ったも同然。……父ならば、それと気付かれる事無く、殿下にお考えを植え付ける事も可能ですから」

「……」

 少々不吉というより不気味な心地を覚えたが、孝蔵主は微かに首を振って、今や余りにも堕落した豊家への盲目的な忠誠心は捨てた。

 無論、北政所を主として仰ぐ気持ちに変わりはないが、容赦なく身内を切り捨てようとするー己の幼い子以外は排除しようとするー太閤に心や魂を預ける気にはなれない。


「それにしても。何故に中納言様御自身が申し出されぬのでしょう。少々、疑念を覚えましたが」

「簡単な事です。……私が個人的存念で申し上げるよりも、孝蔵主のようなお立場の方からのご指摘の方が、父も冷静に判断を下せます故」

「……それは?」

「我が望みとはいえ。御家の為に為らぬのならば、諦めねば、なりませぬ」


 思いも掛けない返事に驚いて目も口も丸くした孝蔵主に、徳川家世嗣はその年頃の少年らしい恥ずかしそうな微笑みを湛えた。


「私自身の考えよりも父の判断の方が信が置けますし、又、父の命ならば……如何に辛かろうが、服さねばならぬと私も決めております」

 ですが、と少年は静かな眼差しに戻って続けた。


「一端許されれば、姫の身は何としてでも私が申し受けましょう。決して憂き目には遭わせぬと約束致します。孝蔵主殿に、決して後悔はさせませぬ」

「……はい。宜しゅう、願いまする」


 不可思議な、己で判別出来かねる感動を覚えながら、孝蔵主は徳川邸を後にした。


(これで漸く、小督様は豊家から逃れられる)


 自室に戻ってから、孝蔵主は文机の上に突っ伏し、そんな風に己を宥めた。

 如何に誤魔化そうが、主の許し無く差し出た振る舞いをしたのは間違いない、逸脱だった。


 だが孝蔵主は、これ以上、無邪気な愛らしい姫君がー既に亡い人を彷彿とさせる女君がー弄ばれ、踏みつけにされるのを見たくなかった。

 このまま何もせずに手を拱いていれば、太閤がその魔手を姫君に延ばすのではないかという怖れを、孝蔵主は最近ひしひしと感じていたのだ。

 太閤自身は未だ自覚していないようだが、明らかに姫を見る目付きが最近変わって来たとは、孝蔵主だけでなく北政所も気付いている事実だ。


 淀の方は最早救えないが、二の姫に続いて三の姫を無事豊家から出す事叶えば、又別の尊い方々との約束を果たす事ともなる。

 現世に在る人々との約定を反故にするのには、場合によっては躊躇いなど感じないが、泉下に棲む人々との誓約は、動かし難い、不動の枷なのだ。


 そしてその後の展開は、孝蔵主の予想以上に速かった。


 太閤は関白が反撃しようとする気を起こす前に、関白を押さえ込み、関白だけでなくその一族郎党迄、悉く極刑に処した。

 更に殆ど間髪容れずー世情を宥め、あるいは己の愛し子及び豊家政権の後ろ盾あるいは前盾とする為にー徳川家と縁を結び、早々に小督姫を徳川邸に輿入れさせた。


 過ぎてみれば、あっという間の出来事だ。


 後味の悪さが何時までも孝蔵主の内に残ったのは、徳川家への輿入れの為、小督姫は豊家の血を引く娘を手放さざるを得ず。

 可愛い盛りの姫君に深く思い入れ、慈しんでいたらしいー元々感情過多な女人であるだけに、その傾倒の深さ激しさは想像出来るー為に、別離が小督姫を一時的に茫然自失といった、あるいは絶望しきった状態に追い込み、そしてそんな姫を為す術もなくそのまま、婚家へ送り出さねばならなかった故、だろう。


 だが姫があのようなー生きた死人のようなー状態であったからこそ、太閤も快く嫁がせたのだろうと、孝蔵主は察していた。


 淀の方は最後迄憤慨していたし、又、決して妹を突如奪われた恨みは忘れないだろうし、北政所も小督姫の流転の境遇に憐れみを覚えていたようだが、己だけは小督姫の前途に望みをかけ、将来を言祝ごうと心定めた。


(必ずや、守って下さると。そう信じよう。あの若君を……そして私自身を)


 心穏やかにという訳にはいかないが、その後も姫の動向、更には徳川家の状況についても孝蔵主は心を配り続け。


 関ヶ原の大戦では、縁類でもあった西方の総大将の振る舞いに眉を顰めながらも結局は手を貸さざるを得ず、これで己自身の、徳川家に繋がる縁は完全に途絶えた、などと思った。


 だが実質的には豊家になりかわって天下人のお家柄となった徳川家の人々ーその当主も次の当主もーは、『敵』を徹底的に掃討する心算は無かった模様で、又、北政所の庇護の力もあったのだろう、有り難い事に、孝蔵主はその後も無事、命長らえて過ごして来た訳だが。


 孝蔵主は目前の、笑顔でありながら少し哀しげな目をしている相も変わらず美しく可憐な御台所に注意を移した。


「姉君も、姫もご健勝であられます。ご心配はいりませぬ」

「……」

 驚きを素直に表して、黒目がちの大きな瞳をより大きく丸くする女君に、孝蔵主は思わず苦笑を浮かべる。


「全て上様にお任せなさいませ。……上様は決して御台所様を傷付けたりなさいませぬ」

「ええ」

 御台所は直ぐに頷いて、少し恥ずしそうに頬を染めた。


「旦那様は……とても、良い方ですもの。私、信じております」

「はい。それで万事、上手く行きまする。御家安泰、夫婦円満の秘訣でございますよ」

「ま!孝蔵主殿の何と賢しい!」


 少し拗ねたように唇を尖らせながら何とか憎まれ口らしき言葉を口にする、今はかつての暗く悲惨な影など微塵も帯びていない輝かしいひとの姿に、孝蔵主は確固たる太平の到来を確信出来た。


 西に日が沈む、少し前のこと。

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