薔薇の木に薔薇の花咲く
正就は主の命令及び指図通り、同僚等に気付かれぬよう、裏門から庭伝いに主の部屋の前へと廻った。
どうやら少し前に邸へ戻ってきたらしく、着替え中であった主は軽く目線で頷いて寄越した。
主が身支度を終えた後、縁へと出て来たのに、その場に跪き手にしたものを差し出す。
「……ご苦労であった」
穏やかな、普段と変わらぬ声音であったが、近しく主に近侍するだけでく乳兄弟でもある正就には、主が正就が持ち運んで来たものを見て、機嫌を良くした事ーかなり上機嫌になった事ーを感じ取った。
「其処の筵の上に置け。そっとだぞ」
指図通りの場所に、正就は注意深くー恐る恐るといった感でー鉢植えの草花としか彼の目には見えないモノを置いた。
大きなまだまだ青い蕾が一つ、付いている。
「どちらへのお使い物で?」
無論、近侍である正就は、主ー徳川家世嗣であり、彼より二歳年下の若君、とまだまだ言いたくなる『若殿』だ。先日妻を娶られたのだから、若君と呼んではいけない、などと内々に皆が了解しているーに何の気なしに尋ねた。
主が花を好み、国許の江城では確かに鉢植えや地植えの草花を育てているのは知っているが、同時に伏見屋敷は仮屋と考えているのだろう、一切、栽培どころか植木や庭木にも目を向けないとも承知している。
時折、珍しい種を市などで見つけた際は、贈り物にするかあるいは種を求めて江戸へ送っていたから、今回も当然、公家かあるいは付き合いのある大名家かへの贈り物なのだろうと推測したのだ。
そうした使いも正就は今迄務めていた。
「……余計な事は聞かずとも良い」
打って変わって、今度は声音にも不興を若い主が表したのに、慌てて正就は頭を下げた。
主が正就だけでなく、素手で葉や茎の様子を確かめている主を心配そうに見守っている小姓等をも無視しているのに、正就は溜息を一つ吐いて下がった。
見かけは母君の於愛の方に似て優しげだが、その芯は鉄の棒より固いのではないかと屡々思う事すらある、主家の若君だ。
(……ま、御用があれば御命じ下さるだろう)
そんな風に己を納得させ、更に結構単純な所がある正就はその後の鉢の行方、鉢の存在自体、綺麗さっぱり忘れてしまった。
暫く後、十日程経過した頃だったか、又も正就は同様の使いで町へ出た。
主の近侍達の中で正就は年齢的に下の方であったし、元々大殿に見込まれて若年より主の傅役として仕えていた利勝や徳川家中で筆頭とも言うべき古参譜代の酒井家の面々とは異なり、扱いは軽い。
その頃の主の近臣の中では、端下に近い立ち位置だった為、使い走りー但し、主にとって重要な用件の実行役ーは彼の役目となっていた。
太閤の女婿となった事で、年若ではあるが、主の立場や務めは以前より重くなり、城に拘束される刻も格段に増している。
気が進まなそうに、ではあったが、敢えて正就を選んでお役目を与えてくれた主に正就は素直に感謝しており、花好きな主にとっては全く苦にならないらしい花選びより、堅苦しく面白くもないであろう城仕えに出掛けねばならなかった主を気の毒にも感じていたから、主の意に沿うよう使いを全うせねば、などと些か意気軒昂状態だった。
そうして主に仕えたいと、主の為に働きたいなどという思いが漲っていたせいか、以前覚えた疑問がぼんやりと浮かび上がってくるのはごく自然な事で。
(おかしいな。前の鉢は未だお手元にお持ちだろうに)
あるいは贈ろうとした段になって、完璧主義者の若い主には気に入らない瑕瑾でも見つけ出して新しい苗を求めたのかもしれない。
そんな風に片付けて、正就は主の意向通りー指定の店に赴き、細かく付けられた注文に従って苗を選び、指定通りに鉢植えさせー目的物を邸に持ち帰った。
疑問を抱きつつも、前回家臣の身でありながら詰まらぬ問いを発したせいで主を怒らせたと理解していたから、沈黙を守り、城から戻った主に早々に使いの品を渡した。
そして、非常に迂闊であるがその際、前に運んだ鉢が主の私室近辺には見当たらないと気付く。
(別の御庭に置かれているのだろうか)
ちらとそう思っただけで、正就は常の務めに戻った。
他にも彼に割り当てられている細々とした仕事は多い。
忘れようと決めていたのであるから、この時も正就はきっぱりと己の些細な疑問は忘れた。
忠義の道には不要、とも分かっている。
だが又も、凡そ十日程の間隔を置いて数度、今度は別の植木商に使いにやられ、正就には名前もどのような花が咲くのかも知らない苗を邸へと運んだ。
流石に此処まで続くと、又、己が持ち込んだ筈の鉢が主の近辺に見当たらないし、邸外へも出ていないとなると、忠義こそこの世で最も大切で守るべき、などと考えている正就であっても、好奇心、というより探求心が出て来る。
あるいは、伏見屋敷においても園芸を始める心算となって地植えの畑でも作られたのか、などと思って探してみたが、それらしきモノは見当たらなかった。
(苗ならば日に当てねばならぬだろうし)
そう思いながらも、何となく縁の下を覗いてみたりする。
そんな正就に目敏く気付いたのは、若い近侍等を束ね取り仕切っている利勝だった。
「半九郎、何をしておる。……何か怪しいモノでも見つけたのか」
物堅いだけでなく主大事な為、時に心配性にも過保護にもなる元傅役は、眉間に皺を寄せて問い糾してきた。
「あ。いえ、別に」
「隠し事はならぬぞ!僅かな油断が元で、若殿の御身に危害が及ぶ事になれば如何する?!」
まるで正就が間者を見逃したような言い草と剣幕なのに閉口しながら、正就は、素直に己の疑問を上役に打ち明けた。
何と言っても相手は誰よりも主を理解していると自他共に認めている男だ。
又、正就自身、これ以上細かい事に拘るのも、又詰まらぬ疑問に頭を悩ませるのも嫌だった。
「……鉢か。それならば、御方様の御庭であろう」
「御方様、ですか」
少し驚いて、微妙に外れた声を出した正就を、利勝は厳しいだけでなく憐れむような目付きで睥睨した。
「当然であろうが!……未だご新婚なのだぞ。しかも豊家の姫君ぞ。若殿がお気を遣われるのも当然だ」
「……は」
言われてみればその通りだと正就は今回も素直に納得した。
しかし利勝がぶつぶつと文句を言いながら去った後、それならそうと教えてくれれば良いのに、とちらと若い主に対して僅かな不満を覚えた。
知っていれば、もっと大事な御用と一層喜び勇んでー若殿の正室となられた御方ならば御家にとっても大切な方だー果たす事が出来たのに、と思うのだ。
(しかし。ならば今後はもっと注意して取り掛からねば。万が一にも不足や不良な部分があっては、御方様の御気を損じる事になりかねぬ)
そうなっては御家の危機だ、などと正就は思った。
正就はそれからも数回、誠心誠意、若殿の御用を務め続けたが。
理由は分からぬ迄も、急遽、若殿が国許へ下る事となり、彼だけでなく近侍等皆が忙殺された。
若殿から受けた指図迄手が廻らず、気にはなっていたものの出立準備は最優先で、若殿から次なる指示を受けたのは、本当に若殿が邸を出る寸前だった。
供回りも少なくーだが当然という顔で利勝は随行に加わっているー、正就自身は伏見に残される事になっていたのが不服ではあったが、勿論、主にはそんな不平不満を見せる訳にはいかない、と一応彼なりに堪えているつもりだった。
「先日の物は未だ取りに行っておらぬのか」
「は。申し訳ありませぬ」
「ま、致し方あるまい」
主は僅かに沈んだ声音で許してくれた。
「今後も頼むぞ。……一覧をしたためておいた故、その通りに致せ。別途必要な場合は、その都度、指図を致す」
「は」
まさか態々江戸から使いを寄越すのだろうかとちらと上目遣いに窺ってみて、主の気色に冗談や嘘など微塵も無いと見て取り、どうやらそのおつもりらしい、と受け止めた。
確かに、豊家との縁はそれ程に大切なものなのだろう。
主や主に従う事を許された幸運な同輩達を見送った後、正就は主命を果たす為、町へ出た。
指定の物を手に入れ、邸に戻ってから、はたと既に主は邸にいないのだと気付く。
(これを……如何すれば)
今迄は単純に主に渡せばそれで正就の務めは終了、だったが、主が国許へ下ってしまった以上、そういう訳にはいかないだろう。
主も余程動転していたのかもしれない、特に指示を残して行かれなかったのに、更に、彼の良く知る主らしくない不手際と感じ、あるいは主も父君のお叱りを受け、傷心を覚えておられるのかもしれないと推察した。
ならば、主の御心を汲み取り、明確に発せられなかった命に従うのが臣下の務めと、単純にそう考え、正就はそのまま直接、主の御正室が住まう奥へと向かった。
奥とはいっても、無論城ではなく小さな邸、しかも当主が住まう本邸より小振りな別邸だ。
邸内の奥まった一角が、女人達が住まう場所として定められている、それだけのものに過ぎない。
明確な境がある訳ではなく、主の部屋からは回廊を使わずに庭伝いに行けばすぐだった。
それでも何となく気まずいような、あるいは気後れのような感を覚えつつ、断固として正就は進んだ。
武士として尻込みしたり、怖じる等という事は有り得ないのだ。
先ず正就の目に入ったのは、日当たりの良い縁先に等間隔に並べられた鉢で、己の見当ー正確には同輩の推量ーが正しかったと分かって嬉しくなる。
順当に今持ち運んでいる鉢もあの場に並べれば、己の務めは完遂だと思うと更に嬉しく、正就は遠慮無く大股で目的地に進んだ。
が。
「誰?!」
涙混じりの、小さな悲鳴に近い誰何に、正就は足を止めた。
全く気付いていなかったが、一列に並べられた鉢のすぐ奥に女が一人身を伏せるように座していた、らしい。
女ーといってもごく若い、何処か幼い印象の顔立ちだーが正就に怯えた弱々しい視線を向けてくるのに正就は焦った。
うら若い娘というものは、当時の彼にとっては非常に苦手分野に属する存在だったのだ。
「あ、いや。若殿の御指図故、容赦なされよ」
残りの距離はぎくしゃくと縮めて、空いている場所に鉢を乗せた。
蹲っている娘は鉢と正就を見比べて、それから大きな黒目がちの瞳を潤ませる。
「あ、別に怪しい者ではなくて、」
「この鉢を……秀忠様が?」
娘があまりにも軽々しくも馴れ馴れしく主の諱を口にしたのに、正就は身を強張らせる。
彼にとっては考えられぬ不忠無礼と感じられたのだ。
しかし。
「井上殿ではないですか!如何されました」
正就も良く知る、元々は主付きの侍女が部屋の奥から現れて声を掛けてくるのに、不躾な小娘を叱りつける迄は行かなかった。
そして。
「御方様、大丈夫でございますか」
侍女が今やさめざめと泣き出した娘に対して慌てたように呼び掛けた言葉に、今度は背筋が凍った気がした。
「いいえ……何でも、ないのです。……ただ……旦那様が……お花を、贈って下さったから……」
「御方様」
「申し訳なくて。私……」
一層泣き咽ぶ娘、もとい主の正室を侍女は抱えるようにして室内へと運び入れた。
どうやら正就の事は一時的に忘れ去ったらしい。
今の内に、と正就も素早くその場から逃げ出した。
*
正就は、彼にしては珍しい逡巡を覚えながらー正確には日々、惑う心地を深めながらー、己の務めを律儀に一刻に果たし続けた。
初回の邂逅は、誰にとってもかなり気まずいものだったが、主君の正室は正就の立場や役目について理解と感謝の念を抱いたらしく、正就があの後、鉢を届ける際には愛想良く、侍女に茶と茶菓子を用意させたり、してくれた。
同輩等と同様、若いが昔気質ー三河武士気質、とも言うーの正就は、あくまでも固持したが、それが返って御正室や御正室に仕える豊家から来た侍女達を興がらせたらしい。
少なくとも、最初に遭った時の怯えた、泥棒か刺客にでも出くわしたような表情が嘘のように、御正室は無邪気な愛らしい笑顔を時折、正就にも見せるようになった。
「忙しいでしょうに。申し訳ないわ」
更に御正室は随分と砕けた口調で話し掛けてくる。
主君より六歳年上ーつまりは正就自身よりも四歳年上の筈だーと聞いているのに、容姿だけでなく口振りや表情もあどけなく幼い感じがする、と正就は感じる。
あるいは、正就が知る女達ーつまりは年嵩の女房達や御家大事な侍女達だーよりも、単に感情が隠せない素直な質なのか。
(それとも、本物の姫君というものはこういうものなのかもしれない)
御正室の素性は、若君に相応しい、まさしく武家に於いては並び無きものだ、などと正就は思っていた。
正就自身、実際に己の目で見たことが無い織田右大臣という稀代の英雄には、もっと年嵩の者達とは異なり、強い憧憬と敬慕の念を抱いている。
織田家の血を引くだけでなく、織田及び徳川両家を真っ向から敵に廻しながら堂々と戦い散った武将、及び国の姫というのも、微妙に武士としての興味と義侠心を掻き立てる存在、であった。
おそらく主君も同じような感慨を持っているのだろう。
政略による婚を結んだ御正室を重く扱い、丁寧に遇しておられるのもそうした理由からに違いない、などと正就は考えている。
少なくとも、彼が知る乳兄弟はー無論、元々、産まれた時から大名家の子息であり、長じるに従って御家も主君自身も強大な権勢に包まれる一方であったというのもあるがー身分や地位を重視する型の若者ではなかった。
個々人の能力や気概を正しく評価し、用いようとする、これは父親譲りの美質を持つ人なのだ。
だから寧ろ、縁談の話を聞いた当初は、豊家によって年上の、しかも既に二度も他の男に嫁したことがある後家を押し付けられるという外的状況に、正就等近習一同は憤慨する一方だった。
それでも誠実に花嫁を迎える支度をし、特に怒りや不満を見せずに淡々と過ごしている主君への敬意と賛嘆の気持ちは一層高まったのだが。
「お菓子は嫌いですか?……旦那様もあまり召し上がらないの。東の方達の御口には合わないのかしら」
首を傾げたり、不満そうに赤い艶やかな唇を尖らせたりする御正室の貌から、正就は素早く目を逸らせ、礼儀と忠節を守って面を伏せた。
如何に許されているとはいえー初対面の後、御正室より直々に呼び出され詫びと労いの言葉を与えられるだけでなく今後も宜しくなどと頼まれてしまっているー主の妻女に直に目を向けるなど、臣下として褒められた振る舞いではない。
「……井上殿も随分と無口なのですね」
御正室が少々寂しげに呟くのにも応じる事は出来なかった。
(確かに若殿は言葉少ない御方だが。……しかしそれは誠を尽くされようと常に努めておられるからであって)
「そういえば、土井殿もあまり私とは話して下さいませぬ。他の方達も……皆、誰も私とは口をきいてくれません。……私はやはり、徳川の御家には不相応なおなごと皆、思っているのでしょうね」
「御方様、又そのような事を」
気安く縁に出ている女主人を案じて、なのだろう、正就も幼い頃から良く知る侍女が有り難い事に何処からともなく現れて、正就の窮地を救ってくれた。
「御方様は徳川家御世嗣であられる若殿の御正室。無闇矢鱈と、例え家中の者であろうとも、気安くご尊顔を拝したり、疎かな口をきいたりしてはならぬと、皆承知しているのです。でなければ、ご奉公など為りませぬ故」
「……まぁ。厳しいのね」
これも素直で開けっ広げな口調でありーおそらく黒目がちの大きな瞳を無邪気に丸くしたりしているのだろう、などと正就は想像した。
「でも御父上も……旦那様もとてもお優しくて穏やかな方なのに」
「大殿も若殿も、誠、公平無私な御方です」
侍女がきっぱりとこれは脅かす口調で牽制する。
「誰であろうが、家中の御法度に反し、宗家の命に服さぬ者は処罰されるでしょう。例外はございませぬ」
「……」
侍女の意図通りに御正室は大人しく黙り、その後は淑やかに几帳の陰に戻られた。
御正室が正就に対して心を開いて何かと声を掛けたりしてくれるのは有り難かったが、しかし侍女が暗に諫め正就に対しては警告を発したように、正就如き軽輩が、御正室の側近くに寄るなど、少なくとも徳川家中においては許される事ではない。
自戒の念を改めて己に言い聞かせつつも。
主より直々にーしかも常より厳重かつ丁寧にー下された命というだけでなく、正就自身、己の務めに微妙な喜びと楽しみを見出した為か、思いの外、主不在の月日は飛ぶように過ぎ去った。
侍女達の監視の目は一層厳しくはあったが、懲りるということを知らない、あるいは因習や人の思惑に囚われないーただ単に素直な性状のままに、周囲の者達の懸念に気付いていないだけなのかもしれないがー御正室が、正就が花を届ける度に顔を見せたり、声を掛けてくれる、そんな機会を心待ちにしているだけで、それこそ時間は飛ぶように駆け去ったような気がした。
徳川家世嗣の君が、本来の役目の為ー御本人も父君同様、朝廷より高い官位を授かり、また太閤の臣下として出仕する義務を負っているー伏見に戻るとの報せが江戸よりもたらされ、若殿を主と仰ぐ小さな邸は活気に湧いた。
一人、正就のみが、何となしに気が抜けるような、後ろめたいような心地に包まれ、本来覚える筈の喜びや、再び直接主に近しく仕えるのだという意欲がなかなか湧いてこないのに戸惑っていた。
(……それがしは若殿の仰せに従い、御命を果たしてきた筈だ。……別段、若殿の御不興を買う事などしておらぬ。疚しい所など、無い)
そんな風に己に言い聞かせながら、報せを受けてからの数日を過ごした。
邸中がー普段はひっそりと静まり返っているような奥向きですらー慌ただしく落ち着かない様子な上、唐突に大殿が立ち寄られたりなどして、一層、邸で働く者達は奮い立った。
いよいよ近日ー明後日にでもー主が到着すると、大殿から直々に告げられたのだ。
おそらく大殿は継嗣の留守中、その住まいに変わりがないかどうかさり気なく確かめに来られたのだろうし、若殿にお仕えする者達には些細な瑕瑾さえ許されない、という状況だった。
正就にとってもそれは同様で、何やらひどく上機嫌な大殿を常以上の気配りと礼節を以て門迄見送ったのだが。
「おお、正就、近々、我が徳川にとって更なる吉報がもたらされようぞ」
含み笑いと共に、大殿が謎めかして正就にこっそりと耳打ちしてくるのに、戸惑いと不安を隠せず首を傾げるだけだった。
そんな正就の反応に又大殿は興を覚えたらしく、一層楽しげに呵々と笑って近習等を引き連れ、大殿は去っていった。
(はて。……あるいは若殿のご昇進が決まったのであろうか)
それならばそれで、衣装なりあるいは挨拶回り用の礼物なり、色々と準備が必要となる。
まだ嫁いで来たばかりの御正室の御指図は、当時は邸中の者は誰も期待していなかった。
正就は、取り敢えず一端は己の内に在る非常に曖昧で理解不可能な困惑ーとしか彼は考えていなかった。ーを宥め胸の内深くに収めた。
幼い頃より乳兄弟として若君の傍近くに仕えるだけでなく、年上の同輩先輩等に鍛え上げられて来た身であり、また姉妹などもいなかったから、疎い、というよりも完全に理解の外の範疇である思いやら感情がありーそうした己の不足にも全く気付いていなかったのだ、とは後々に知った事だ。
又若年ながらの経験で、忙しく立ち働くことこそ、詰まらぬ迷いや惑いを抹消するのに役立つ、とも信じていた。
そういう訳で、正就は仲間達と同様、主が伏見屋敷に無事戻ったその日迄、無心に懸命に務めに勤しんだ。
更に言えば、一行が予定より早く到着した当日は、言葉を交わす暇すら惜しい程に忙しかった。
しかも到着早々に主が御正室の元に渡られたと聞いて、正就自身は挨拶に行きそびれた。
久方振りの主及び御正室の語らいなどを邪魔してはならないと思った為だ。
ー少なくとも己ではそう信じていた。
「甚三郎殿」
だが珍しく意気消沈といった様子で休み処に現れた年上の同僚に、正就も彼らしくなく浮ついた声を上げてしまった。
本来ならば、年は差程離れていないが、格段に仕事熱心で有能な利勝や忠世辺りには、私的な場であっても軽々しい声など掛け難い空気があったのだが。
「……」
「……随分とお疲れのようですね。急ぎの旅、ご苦労でござった」
「別に」
むっつりと利勝は応じ、だが正就の直ぐ傍らにどかりと腰を据えた。
どうやら何か言いたいことがあるかーただ単に愚痴りたいのかー、そういった際には、おそらく幼い頃から世話を受けている年少者等を気安い相手と思っているのだろう、利勝も忠世等も、正就や忠俊辺りを標的にする事が多い。
「……宜しかったら、今宵は飲みまするか」
「いや。そのような真似は出来ぬ。……若殿に申し訳ない」
「?はい」
年下の主は、まだ少年といっても良い年頃であるせいか、酒は未だ余り嗜まない。
慣れていないというだけでなく、おそらく主本人はあまり好んでもいないだろうという気が何となく正就はしていたが、無論定かではない。
「今宵は若殿も、御方様と再会なされてゆっくりお過ごしでしょう。お咎めなど」
「いや、それは」
常に職務熱心一直線といった感のある利勝は、珍しくも動揺というより狼狽を露わにしたが、すぐに面を伏せてしまった。
「甚三郎殿」
「うむ。やはりそれがしは疲れておるようだ。最早無理が利かぬ年なのやもしれぬ」
「ご冗談を」
確かこの同僚は御正室と同い年である筈だと、思い出してしまって、正就は理由も分からず頬が熱くなってくるのを感じ、これも面を伏せた。
御家及び主への忠勤甚だしいだけでなく、非常に厳しく頑なな道徳観の持ち主であると、その指導を受けて来た身であるから正就は重々承知している相手なのだ。
主の留守中に正就が御正室に直接御声を掛けられた、などと知ったら、雷を落とすだけでなく、何らかの罰を与えようとするに違いない。
正就や忠俊ー更には若殿ーが、子犬のように戯れる幼児であった頃から、決して変わる事のない年長者達の一貫した教育方針ーと称するものーが健在だと正就等は今でも時折ー嫌でもー思い知らされるのだ。
「江戸の話など、皆、伺いたく待っておりました。今宵は、」
「いや。大殿の元へご報告に参らねばならぬ。本多様や大久保様ともお約束がある」
「左様ですか」
正就とは目を合わせようとはしなかったものの、利勝が非常に雄弁で重々しい溜息を長く吐いたのに、正就は単純かつ素直に同情の念を抱いた。
正就自身も喧しく口煩くー何よりも一層厳しいー年寄り連中は苦手だ。
実際に疲労感を漂わせながら身を引き摺るようにして退出していく年上の同僚を見送りつつ、己は余り出世しなくても良いかもしれない、などと思った。
上へ出ればー利勝のように主だけでなく大殿に迄見込まれ、更に御家の功臣等に目を掛けられていてはー気も身も休まる暇はないだろう。
正就自身は、主の傍で主の為に働く事さえ叶えば満足であったから、利勝のように能力で、あるいは忠世のようにその出自と権門で、引き立てられ、御家の次代を担うべし、などと寄って集って扱かれるというのは勘弁願いたかった。
(それがしは、若殿と、御方様のお側に居られれば)
だがごく自然に思ってしまった言葉を改めて自覚して、正就は一人赤面する、と共に微妙に落ち込んだ。
今頃、彼の高貴な女人はその美しい一途な眼差しを主に向けているだろうとは簡単に想像が付く。
そして今宵は、主も御正室も、正就が運んだ花など一顧だにしないどころか、その存在自体、忘れ去って過ごされるのだろう。
今宵は女の許へでも行こうか、などと珍しくも蓮っ葉で幾分投げ遣りな考えを得て、正就も又務めの場を後にした。
上方の暮らしにも慣れ、幾ら田舎武士ーなどと京人が言っているのを聞いた事があるーではあっても、正就や同年代の同輩等、若い近侍等は色里を知っているし、中には馴染みの女を持っている者もいる。
正就もそんな連中の内の一人で、又、侍にしては優しげな風貌と穏やかで人と争うのを好まない気質は国許でも上方においても、概ね女達には好意的に受け入れられていた。
だが、酒を飲み、実際に共寝という段になって正就は結局衣を整え、帰り支度に取り掛かった。
「主様、最早、お帰りか?」
驚いたように目を丸くする女の表情に、嫌でも今一人、こんな場所このような刻に想起するのはあまりにも無礼で畏れ多いひとの貌が重なり、一気に酒精も醒めた。
「帰る」
「……でも、久し振りなのに」
以前は如何にも京女らしく色白で嫋やか、国許にはこのような女など居ない、などと思っていた相手が、何故か今夜はひどく野暮ったいだけでなく、粗野に見える。
女が馴れ馴れしく腕に手を掛けて来るのからも、素っ気なく逃れた。
商売と心得ているのだろう、深追いはせずに解放されたのを有り難く、いっそ清々したなどと迄考えて、正就は良く晴れた夜空を見上げる。
彼の人の瞳のように綺羅綺羅と輝きながらも時折正就に向かって気紛れに瞬く星々に微妙に胸が疼き、時めくのを感じた。
(今頃御方様は若殿と共に過ごしておられる。……きっとお喜びであろう)
嬉しそうな笑顔が自然、正就の脳裏には浮かび上がる。
奇妙な満足感を覚えつつ、正就は邸への帰途へ着いた。
後々、子孫らにも語り継ぐ程の地揺れが、しかも上方で発生したのは、その翌日未明の事だった。
正就は、御家どころか世の危急時に過たず、主の許へ駆け付ける事が出来た。
先日に続いて遊里へ出掛けようとしたものの、どうにも忘れがたい面影が終始瞼の裏にちらつき、結局邸に留まっていたのだ。
もしもこの大事に邸に詰めていないような羽目に陥っていれば、己は二度と主にも、更には御家や同僚等にも顔向け出来なかっただろう。
切腹しても間に合わない程の恥辱と悔恨に塗れたに違いない、などと思いながら、地揺れの後、怯えきっている御正室を宥めながらも、普段と変わらず落ち着き払って油断無く邸や周辺の様子を窺っているー少なくとも傍からはそのように拝察されるー主の姿を遠目で眺めつつ、他の者達と共に一先ず崩れた塀やら壊れた器物などの片付けに終始した。
己が徳川家中の者として変わらず働けるのも、これ全て御正室のお陰だ、などと正就は強く思った。
その面影だけで、己が邪で堕落した悪の道へ踏みだしそうになったのを止め、正道へ戻してくれたのだ。
(御方様は、勢至菩薩様の化身やもしれぬ。……だから、それがしがお慕い申し上げても全く問題は無いのだ)
正就はそんな風に結論付け、それ迄明確でなかった己の想い、心向きや情動の正当性を確認しー大いに安堵した。
自分でも理由さえ定かでない罪悪感や後ろめたい感覚など、持たなくても良いのだと分かって嬉しくさえある。
(これから一層心して、若殿と御方様にお仕えせねば)
同時にそんな決意もごく簡単に固まり。
その後も誠心誠意、主とその御正室に誠心誠意、正真正銘の忠義の心を遺憾なく発揮したのだった。
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