深山小灰蝶【下】

 跡継ぎ問題は、主君にとっても常々気掛かりな事だったのだろう。

 口では如何に憎まれ口を叩こうが、主君は己が世継ぎと定めた右大将を重んじているし、右大将の御子こそを次の世継ぎにと望んでおられるのだろうとは、於梶も朧に覚っている。


 主君が珍しくも言い淀んだーと少なくとも右大将御内室は受け取ったのだろうーのに、御内室は更に熱心に言い募った。


「故に、私は江戸へ戻る訳には参りませぬ!旦那様の若君が無事御誕生される迄……いいえ、少なくとも、御部屋が御子を授かる迄、私が邪魔してはならぬのです。……わ、私、妻ですもの。旦那様の御為ならば……」


 大きな黒目がちの瞳を綺羅綺羅と一層美しく輝かせるのに、於梶はついつい見惚れ。

 だが主君も同様に嫁の貌に魅入っているらしいのに、むっとしながらも穏やかに、口を出した。


「御内室様の心掛けの何と麗しいこと!右大将様の御寵愛が未だ薄れず甚だしいのも当然の事かと拝察致しまする」

「……む?」

「ですが。おなごにはおなごの信義と情けがありますように、殿御には殿御の、名分と意地がございましょう。……右大将様が如何にお考えか、先ずはお確かめの上でないと、何やらややこしい因果となっては、折角の御内室の志も無為となってしまうかもしれませぬ」

「……ふん。於梶は賢いのう」


 主君の口調に思わず於梶は素早く主君を顧みたが、主君の表情態度には皮肉や不機嫌の影などは無く。

 困惑も露わに於梶と主君を見比べている御内室へ、優しい宥めるような笑顔を向けた。


「そなたが徳川家と秀忠の事を第一と考え案じてくれているのは分かるが、於梶の申す通り、秀忠にも信条なり、考えなり、己の身に関わる算段はあろう。先ずは江戸へ文を遣り、今少し上方に滞在して良いかどうか、伺いを立ててみよ。そなたが申す通り、そなたは秀忠の妻じゃ。先ずは秀忠の意に従わねば為らぬ」

「……はい」

「秀忠が良しと言えば、儂に否やは無い。好きなだけ滞在すれば良いぞ。……儂も楽しい」

「はい。有り難う存じます、御父上」

「何、心配するな。儂からも文を遣わそう。そなたの気持ちが通じるように、な。何、秀忠だとて事を分けて説明すれば、納得するであろう。……頑固な奴だが、決して頑迷ではない故な」

「はい!」


 主君の常に無い甘やかしと慈しみの籠もった言葉と笑みを過たず見て取って、御内室は心から嬉しそうな笑顔となった。


 義理の間柄でありながら随分と心が通じ合っているようだ、と於梶は少々面白くなく感じたものの、それこそ所詮側室の一人に過ぎない身では何ら故障を申し立てたり、あるいは嫌味や皮肉を匂わせるというのすら僭越であったから、訳知りで理解ある風の笑みと態度を維持し続けるしかなかった。


「……まだ身体が本調子ではないのだろう。心を大らかにしてな、何も心配せずゆっくり休め。……秀忠のことは儂が考える」

「はい!お願い致します!」


 改めて頭を下げた江戸右大将の妻に、主君は鷹揚にそのままそのままと言いながら、於梶の介添えに縋りながら立ち上がりーといっても、これはどちらかというと主君の諧謔のようなもので、足腰が弱っている訳ではないー、於梶も会釈してから廊下で控えていた侍女等を引き連れて本殿へ戻った。


 元通り、蝉時雨の音に包まれた座所に二人で落ち着いてからようやく主君は少々鬱陶しげな嘆息を吐いた。


「上様」

「仕方あるまいの。文でも書くか」

 やれやれおなごというものは、などと言いつつ、主君が妙に嬉しげなーあるいは浮かれているのを抑えているようなー感じがして、於梶はますます面白くない気分に陥っていた。


 *


 政務に追われてなかなか主君が約束の文を書けていない間に、於梶はさっさと江城奥に住まっている阿茶局への文を書き、江戸への早馬の便に持たせた。

 無論、主君の文の方が重要視され、より早い飛脚が遣われるだろうが、あるいは於梶の文の方が先に着くかもしれない。

 江戸右大将の養育にも当たっていた阿茶局ならば、同じく右大将の養育係兼乳母であった大姥局と図って、於梶には幾分きな臭いと言おうか、歓迎できない事態を回避すべく動いてくれるのではないかと期待していた。


 幾つか宴が開かれたり、あるいは招かれたりといった風に、右大将御内室も少しずつ上方での暮らしに馴染んで行きつつあるような日々が続き。


 とある日、主君との話に出た京極家の北の方が正式の養子縁組叶った挨拶の為、主君との会見を願い出て来た。

 姉妹仲良く現れたお二人を相変わらず主君は機嫌良く傍近く呼び寄せた。


 どうやら江戸から急ぎの使いが寄越されたらしいのは於梶も把握していたものの、果たして江戸右大将が何と寄越してきたか迄は予測が付かない。

 於梶自身は江戸右大将とは親しく口をきいたこともないし、その人柄も北の方との間柄も心得ない。

 とはいえ、行きがかり上興味は津々状態であるから、またも同席出来たのは有り難かった。

 阿茶局に文を書いた手前、状況は把握しておかねばと思ってもいる。

 茶の用意をして客人と主君それぞれの前に置いてから、常の定位置ー主君の斜め背後の席だーに座して大団扇を手にした。


 右大将北の方は姉君との再会が余程嬉しいのだろう、ずっと幼い童女のような笑顔と共に時折姉君に切なげな縋るような眼差しを向けられる。

 確かに長の離別の後、しかも上方と江戸に別れ、二度と再会叶わぬかもしれぬと迄覚悟しておられたのだろう御内室のお気持ちは、於梶にも理解出来た。


 少女のような愛らしさ可憐さが際立つ妹君に比べ、姉君、京極家の北の方はというと、すらりと姿の良い賢しげな細面の美人だ。

 どちらも美女、と言えるであろうが、とにかく随分と印象が異なる姉妹であった。


 だが主君の好みではない、などと於梶は幾分意地の悪い評を、この名門大名の奥方に下していた。

 主君が愛想良く応対しているのも気にせず、於梶は心を込めて団扇を扇ぎ続ける。


 京極家の北の方は征夷大将軍にご挨拶をといいながら、此度養女に迎えた姪の姫君を魚に、京極家の安土、だけでなく更なる権勢拡張をあわよくば狙おうというのが訪問の目的らしかった。

 要は姫君の化粧料加増の要求だ。


 挨拶や知り人の近況報告という名の噂話もそこそこに、まっすぐ本題に突っ込んできたものの主君はせっかちな口上を軽く遮りいなし、女達の扱いも手慣れたものであるから、結局、京極家の北の方は曖昧な煽てと愛想で追い返されてしまった。

 舅と姉に挟まれて、双方に対して申し訳なさそうな貌をしつつ姉を宥めながら付き添っていった御内室は少々気の毒ではあったが、鮮やかな手際だ、などと於梶も思った程だ。


 とはいえ、於梶は主君と二人残された後で、そっと囁きかけるような声で言ってみる。

「何故にあのような仕打ち。……江戸からお返事ございましたでしょうに」

「うむ。まあ、な」

「断るなら断るで早くお伝えされた方が良いのでは。あれでは蛇の生殺しにございます」

「あー分かっておる、がのぅ」

「……おなごの恨みは深うございまするよ」

「……ま、儂も人の親、ということじゃ」


 一体江戸右大将は何と言って寄越したのだろう、などと繰り返しの思いを浮かばせながら、於梶は主君に仇っぽく微笑みかけた。

「羨ましいこと。私も早く人の親になりたいものです」

「うむ。まあ、その内に、な」


 照れくさげに目を逸らす仕草も於梶には可笑しくも愛しくも感じられる。

 時折、このひとはとても初心で純な顔を見せてくれる、と於梶は思っていた。


 世間では食わせ者だの、律儀ぶって天下を掠め取った狸などと言われていようと、於梶にとっては戦乱の世を生き抜いてきた尊敬出来る主君であり、大事な頼れる男だ。


「しかし。浅井の三姉妹は似ておらぬのう」

 のんびりと主君が呟いた言葉に於梶は思わず頷きそうになってから、止めた。

 於梶は京極家の北の方と江戸右大将の方の方しか見ていない。

 肝心の大坂の御方ー凄艶な美女、などという噂は於梶も聞いているーが実際どのようなおひとであるのか、知りもしないのに迂闊に肯定も否定も出来る訳がなかった。


「贔屓目かもしれんが。儂は、うちの嫁御が一番気に入っておる」

「それは良うございました」

 僅かに皮肉も込めて返してやると、勘の良い主君は目を見開いたが於梶の悋気については何も言わなかった。

 代わりに

「於梶、そなたなるべく心掛けて嫁御の側にいてやってくれぬか」

 ごく丁寧な、だがはっきり明確でもある命令を下す。


「何かあってからでは遅い故。……秀忠めは昔からあのおなごの事となると、少々、箍が外れる」

「……はい」

 主君が何を考えてーあるいは案じてーいるのか理解出来ないものの、於梶は従順に頷いた。

 愛妾とはいえ、彼女はあくまでも主君に仕える臣の一人に過ぎない。


 頼んだぞ、と優しく言われるのには微笑み返して、於梶は風を主君の汗ばんだ背中に送った。


 主君の意に従って、御内室の客殿を訪れたのは数日後の事。

 予定が入ってない日と確認しての訪問であったのだが、特に伺いも案内も請わずにーというのも主君の命故に、などと思い込んでいた訳だがー客人の座所へ入り込んだのを後悔した。


「いらせられませ、於梶殿。……斯様な姿で申し訳ありませぬ」

 だが右大将御内室は於梶の無礼を気にした風もなく、於梶を見上げてにこりと笑った。


「いえ。こちらこそ申し訳ありませぬ。事前にご都合を伺うべきでしたのに」

「いえ。お気になさらないで」


 御内室は頭を振ろうとしたが、しっかりと侍女等に濡れた髪を捕らえられていた為身動き出来ず、一層幼げな貌で首を竦める。


「少々お忙しい日が続きましたものね。御内室様にはご迷惑をお掛けして」

「あら。とんでもない。私のような者で御役に立てますならば、何時でも使って下さいませ。それに私も、色々な方々にお会いして、お話が伺えるのはとても楽しゅうございます」

「左様ですか」


 健気な言葉を並べているが、湯を使った後であるのに御内室の肌が透き通るような白さなのが気に掛かり、於梶は快く許されたのに甘えて傍へと寄った。

 侍女に合図して、自身櫛を手にして御内室の髪を梳く。


「ま。忝のうございます」

「いえいえ。私、上様より、御方様のこと、一任されております。それに一度、親しくお話してみたいと思っておりました」

「……」

 ぽっと御内室の肌が桃色に上気するのを見て取り、於梶は苦笑した。

 これ程分かりやすい女人は滅多にいないだろう。


(確かにとても愛らしい方だ。……上様が、いえ殿御が惹かれるのも当然の事)


 帷子一枚に小袖を肩に羽織っただけの姿である為、普段の華やかさ、少女のような軽やかさよりも、匂うような艶が先ず目に付く、そんな気がした。

 手に取った漆黒の髪も、玉虫色の艶を帯びて何ともなまめかしい。


「……御方様はお美しゅうございますね。右大将様が一途に御寵愛されるのも分かる気が致します」

「そのような」

 ついつい於梶は恨めしさを抑え切れずに言ってしまったが、御内室は於梶の言葉に込められた妬心や嫉みには気付かなかったようで、何やら哀しげな目をして俯いてしまった。


「……御方様?」

「私は於梶殿が羨ましい。私は……最早、何の役にも立てぬ、用済みの身、ですもの」

「……」


 驚きはしたが、韜晦は慣れたもので、於梶は御内室の髪を梳く手は止めなかった。

 長く量も多いーそしてどうやら癖が付きやすいー髪は、始末のし甲斐があるのだ。


「何を仰せです。御方様は徳川家世嗣の御正室。子宝にも恵まれ、夫君にも大切にされ、何一つ欠ける所のない御方ではありませぬか。……それに比べ、私など側室に過ぎぬ、御子にも恵まれぬ幸薄いおなごに過ぎません」

「……私だとて、結局若君を授かること叶いませんでした。御家中の、いいえ、それよりも御父上と旦那様の期待を裏切り、御心に背いたのです。このような不義不忠がございましょうか。それなのに」


 御内室は深く重い溜息を吐いて、涙を一粒、零した。


「私は罪深い。秀忠様のお側にいてはならぬ身だというのに……今も苦しくて……辛いのです。斯様に醜い心を持っていては、旦那様にも、姫にもお目もじ叶いませぬ。いっそ、このまま仏門に入るべきなのかも」

「御方様」


 今度こそ驚いて、というより大いに脅かされて於梶は手を止めた。

 もしも御内室が衝動に任せて軽はずみな振る舞いをすれば、於梶もお咎めを免れない。

 ー喩えお気に入りの側室だろうが、主君は己の務めを怠った者に容赦はしないだろう。


「お止め下さいまし。左様な事、お考えになってもいけません。それこそ、上様や、右大将様にとって障りとなりましょう」

「……でも……私……」

「それよりも。どうやら上様の元へ右大将様から文が参ったようでございますよ。御方様も受け取っておられるのでは?」

「……」


 重く湿った空気をー御内室の気持ちをー変えようとして振った話題に御内室は言葉では答えなかったが視線を文箱に向けたのに、やはり御内室の手許にも届いているのだ、と於梶は察して微笑んだ。

 上手く江戸の局等が働いてくれていると良いのだがと思いつつ、さり気なく穏やかに続ける。


「右大将様も姫君も、御方様のお戻りを待ち侘びておいででしょう。御方様もあまり細かい事はお気になさらず、気候が良い内に江戸へ戻られた方がお身体にも宜しゅうございますよ」

「……」

「御方様は何といっても御正室なのですもの。御正室は御夫君のお側にいらっしゃらねば。……右大将様もそのように仰せなのでは?」

「さあ」

 於梶はさり気なく探りを入れた心算であったが、御内室はごく素直に幾分素っ気なく頭を振った。


「未だ読んでおりませぬ。……いいえ、秀忠様は……文など滅多に書いては下さいませんもの」

「?ですが、届いたのでしょう?」

「たぶん、姫が某の書を読むようになったとか、字を書けるようになったとか、そのようなご報告ではないかと思います。……いつもそう、なのですもの」


 何故か御内室が拗ねたようにー意固地にー文箱から目を逸らすのに、逆に於梶は興味を覚えた。

 元々何事に対しても好奇心旺盛で、その聡明さや才気を主君に見出され愛でられている女なのだ。


「まあ。では私が拝見致しても宜しゅうございますか?右大将様はなかなかな御手蹟だと、上様が以前褒めておられましたもの。後学の為に、是非に!」

「……ええ。どうぞ」


 鬱々とした気分が晴れぬのだろう、御内室が物憂げに許可してくれるのを良いことに、於梶はいそいそと櫛を置き、遠慮無く文箱を引き寄せ、綺麗に畳まれた状態で安置されていた文を開いた。


(まあ。達筆だこと)


 意外にも延び延び悠々といったー話に聞いている右大将の性格とは反するようなー手蹟に、先ずは於梶は目を見張った。

 とはいえ、白い紙にビッシリと黒々とした墨で連ねられた文字は、読みやすいように考え抜かれて配置されたような、一種、隙の無さというようなものを感じさせられる。


 手蹟の字面やその配分の美しさ、妙に感心した後、於梶は文の内容を真面目に読み始め。

 赤面しつつ慌てて文を膝の上に下ろした。


「御方様。この文」

「姫が何をしたと仰せなのでしょう。読んで下さいませんか」

「え。で、ですが」

「お願い致します。……私、何だか疲れてしまって」


 髪を洗うとすぐ眠くなってしまうのです、などと言って御内室が目を瞑ってしまうのに、於梶は数瞬逡巡したものの、結局御内室に従った。

 場合によってはもっと気拙い命令を主君から受けたこともある。


「……姫達が恙なく落ち着くべき先に落ち着いたと、父上よりお知らせ頂き安堵した。が、何故、そなた様より報せが無いのか、心許なく又不審を覚えてもいる」

「え」

 御内室が小さく声を上げ、身を起こしたのを横目で眺めながら、於梶は淡々を続けた。


「そなた様が江戸を発ってから、片時なりともそなた様のことを思わぬ事は無い。何を見てもそなた様を思い出し、務めにも身が入らず困惑の極みにある。殊に、夜は、えっと……その……」

 かなり明瞭に親密かつ個人的な間柄と経験を記した語が延々と続くのを見て取って、於梶は読むのを止めた。


 御内室の様子を窺ってみると、御内室も白い肌を良い色に染め、身を硬直させてしまっている。

 おそらく御内室にとっては余程予想外の文及びその内容だったのだろう。


「続きは……どうか御自身でお読み下さいませ」

「……」

 於梶が文を差し出すと御内室は身の強張りを解いただけでなく、素早く於梶の手から文を奪い取った。

 熱心に読み耽った後で、そっと夫君からの文を胸に抱き寄せる。


「……御方様」

「秀忠様……私も……早くお会いしたい」

 小さく、おそらく独り言のつもりでーあるいは意識せずー零した言葉に、於梶は我が意を得たりと素早く応じる。


「ええ!承知致しました!すぐにも手配致しましょう!お任せ下さいませ、御方様!」


 御内室が未だぼんやりと、おそらく御夫君からの文によって引き起こされた感慨と慕情の念に浸っている間にと、断言し、御内室が曖昧に頷いたー首を傾げたのかもしれないーのを良い事に、表向きは恭しい礼を取って、颯爽と退室した。


 その後は、疾風怒濤の如く。

 無論、主君の許しを第一に得はしたが、どうやら江戸右大将から奥方を戻すよう主君自身も催促を受けていたらしく、快く認めてくれただけでなく後押しもしてくれた為、江戸右大将御内室の江戸下向の支度及び段取りはとんとん拍子に進み、季節が変わる前に無事、伏見から送り出す事が出来た。


 御内室が、出立する直前迄戸惑いと迷いを見せ、訴えるように主君へと視線を送っていたのは知っていたが、主君共々、於梶も正々堂々と見て見ぬ振りをした。

 御内室が江戸へ下ると連絡済みにも関わらず、江戸からの文は日々増殖し、主君の机上に積み上げられるばかりなのを、於梶も我が目で直接確認している。


「嫁御は可愛いが……秀忠の奴がなぁ」

「はい」

「ったく。何時まで経っても妻に甘えおって。致し方のない奴」


 ぼやきながら、視界から消える迄御内室一行を見送っていた主君も、あるいは御内室が帰られてしまって寂しく感じているのかもしれない、と於梶は思ったが何も言わなかった。

 主君の手に手を重ねるだけで、己の思いは充分伝わった筈だ。


 既に秋の気配を感じる良く晴れ渡った空を見上げ、ふと江戸右大将から御内室に宛てられた文の一節を思い出す。


(『喩え離れていても、私の魂は蝶となってそなたの元へ通うだろう』、か。……上様のご子息らしくないような、らしいような)


 側室に上がる前、熱心に寄越された文やら口説かれた言葉など思い出して、於梶は幸福な心地で微笑んだ。


 情も言葉も、蝶のように軽やかに美しくー儚い。

 だからこそ、その瞬間こそがとても大切で、人は容易く強く心を動かされるのだろう。


 未だ於梶が幸福で無邪気でもあった頃に、予兆のように浮かんだ思いであった。

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