鶺鴒【下】
「妹が何処にいるか御存知ですか?」
ひんやりとしたーだがこれこそ玲瓏と表現すべきなのだろうと秀康は思ったー声で問われるのに、秀康は我に返り、慌てて応える。
「いえ。ですが……その先の樫の木に鳥が巣をかけておりました故、そちらかもしれませぬ」
「……そう」
「三の姫は、小鳥のような姫ですね」
愛想というより不器用ながら妹姫を褒めたつもりだったのだが、茶々姫はきっとした様子で彼を振り返り、厳しく彼を睨み付けて来た。
「……無礼を申すつもりは……」
「軽々しい御言葉は遠慮して下さいませ。妹は、確かに一度嫁したとはいえ、まだ先のある身。……ご配慮願いまする」
「はい」
秀康が養子となる前に三の姫が佐治家に嫁ぎ、一年も経たぬ内に呼び戻され離縁させられたとは秀康も人に聞いて知っていた。
その為、一の姫がひどく三の姫の身上については神経質になっているのだとも、察している。
長姉として妹姫達を気遣い、心砕いているのだろうと思うと、秀康は茶々姫が痛々しくてならなかった。
だが、明日戦場へと出て行く秀康にしてみれば、ほんの一言で良いから、己の為への言葉が欲しい。
「あの……姫」
「……」
茶々姫が不審気に眉を顰めたものの、足を止めてくれたのに感謝しつつ、秀康は懸命に言葉を押し出した。
「それがしは、明日、九州に向けて出立致します。義父上の御役に立ち、必ずや御家の名に相応しき戦功を立ててみせます」
「左様ですか」
興味なさ気に姫は相槌を打ち、またも踵を返しそうになる。
「あ、あのっ姫の御為にもっ必ずや大将首を挙げてみせます故!」
「……お止めなさいませ」
茶々姫は、先程より一段と冷えた声音で彼に答えた。
「己が人を殺す理由を、私に押し付けないで下さい。迷惑です」
「……」
「失礼致します」
茫然と立ち尽くす秀康を置いて、茶々姫は気拙そうな侍女を連れ早足に行ってしまった。
九州での初陣を果たし帰城した秀康はそれでも茶々姫に僅かなりとも笑顔、あるいはせめて目線だけでも与えられないかと未だ期待していたが、京極家の若い当主と二の姫との婚儀が決まり城中が賑やかに湧くばかりで、一の姫どころかお転婆な三の姫の姿すら目にする事はなかった。
無論、養父は秀康を褒め、労ってくれたものの、他にも手柄を立てた者達は大勢いたし、養父が目を掛けている甥達や養い子は他にいるのだと思い知らされただけだった。
そして秀康の養家での地位あるいは価値を徹底的に下げたのは、秀康が惹かれていた姫君自身であった。
茶々姫は、関白となっていた養父の側室となってしまっただけでなく、養父の子を身籠もり、男児を産み落としたのだ。
捨丸と名付けられた赤子はすぐに太閤の世嗣と定められ、世継ぎ候補として集められていた養子達はそれぞれ処分された。
秀康もその一人で、これは父が関東を支配し抑えている関係故だったのだろう、下総の結城家の養子にと早々に決まる。
あるいは、これは実父家康の慎重な配慮だったのかもしれないが、当時の秀康はそこ迄推察することは出来なかった。
既に慣れ親しんだ豊家、更には豊家の人々と離れる事をひたすら寂しく辛く感じるだけでーしかも初恋の姫から遠く離れた地で別の女人と夫婦にならねばならないという己の定めを呪わしく感じた。
とはいえ、姫を奪った養父を恨んだ事はない。
関白の世継ぎを抱いた姫ー世継ぎをもうけた功により賜った城にちなみ、淀の御方と呼ばれるようになっていたーは、いよいよ輝き眩しいばかりであったし、その輝きと誉れを与えたのが養父なのだと思えば、寧ろ姫の為に良かったのだと思った。
元々己は随分と茶々姫より年下だとの引け目があった。
(結局、縁が無かったという事なのだ。……姫とも、殿下とも)
東へ東へと向かう途上に思ったのは、そんな諦めに近い言葉、であった。
*
結城家に入った後、地理的関係もあったのだろう、以前よりも実家の父や弟達と会う機会が増えた。
当初はおそらくぎこちない態度しか取れなかっただろうが、それにも関わらず、異母弟達は素直に秀康のことを兄と呼び、父も息子として扱ってくれたのに、妙に感動してしまったのを覚えている。
豊家で手厚く扱われ重んじられていたのは確かであったが、肉親はー血の繋がりはー別物なのだと強く思った。
捨丸君改め鶴松君が僅か三歳で亡くなったと聞いても秀康の心が揺らぐ事は無かった。
己が呼び戻される事など最早無いとは当然分かっていた。
そもそも己に対する未練が僅かでも養父に残っていれば、別の家に遣られることは無かっただろう。
結局養父も又、血の繋がった我が子、更には甥達を選んだだけの話だ、と秀康は結論を出していた。
血こそが確かで、信ずるに足る絆なのだ。
徳川家に戻る事が叶わなかった秀康ではあったが、江城に赴けばあくまでも城主の息子、家族として歓待されたから、不満は無かった。
徳川家の結束は固く揺るがない、と思ったのは、再び淀の御方が関白職を甥に譲り太閤となっていた元養父の子を産み、その結果、豊家の内で血で血を洗う世継ぎ争いが起きた際だった。
甥を死に追いやり、今後生き延びるかどうかも不明の幼児を後継者として定めた遠いひとを、秀康はかつてない程冷徹な眼差しで静観した。
かのひとに比べれば、実の父親は確かに秀康に対しては不当な扱いをしたのかもしれないが、それでも一端家から出した秀康を公にはあくまでも外の者として扱い、世嗣である弟の立場を守った事で、世嗣の弟だけでなく他の弟達や秀康自身、そして家中で争いが起きた場合は当然主体となるであろう家臣達、その家族など多くの命を守り救ったのだ、と思った。
父が在る限り、徳川家は巌の如く、如何なる風雪にも耐えて存続し続けるだろう。
そして父が盾になっているその陰で自分達も生かされているのだ。
京や大坂での華やかで豪奢な城や人々を忘れ、関東での鄙びた、だが堅実で地に着いた暮らしに馴染んだ頃。
太閤が病を発しただけでなく危篤に陥ったとの報せを受け、流石に秀康は動揺した。
正確には、短い間ではあっても親子の縁を結んだ相手なのだから、臨終の場には立ち会うべきではないか、と思ったのだが。
「上洛したいか?」
舅に問われ、咄嗟に答える事が出来なかった。
己の望みであるのかどうかは、彼にも分からなかったのだ。
「徳川殿より、そちが望むなら上洛させて欲しいとの便りがあった」
「父上が」
「うむ」
文を手渡され、何故に己に直接くれなかったのだろうという疑問を覚えたのを舅は鋭く察したらしい。
「徳川殿は儂と其の方の間柄に気遣い示して下されたのだ。実家の親がしゃしゃり出てはならぬ、などと儂には仰せであられた。……そちが、我が結城家の者として気兼ねなく過ごせるようにとの有り難い親心ぞ」
穏やかに諭されるのに納得し、秀康は父の文をその場で読んだ。
同じく舅や結城家に対して隠し事などしないとの証立ての心算だった。
「……義父上のお許しを頂ければ、上方において徳川の力となって欲しいとありまする」
「無論、異存はない。そちを息子として頂いた上は、我等は姻戚であるだけでなく大事な親戚と思うておる」
「忝のうございます!」
父と舅兼養父の己への思い遣りと気遣いを有り難く感じながら、二人の父親の思いに応える為に、自分自身が働き役に立ちたいと強く願った。
結城の父は快く秀康の訴えを聞き入れてくれ、秀康は手勢を率いて先ずは江戸に入り、それから徳川軍と合流し、京へ向けて上った。
太閤の死には間に合わなかったが最早それはどうでも良かった。
途中で行き逢った弟に護衛を付けて江戸へ立たせた後、一人上方に残って政敵等と対峙している父を支援する為に、秀康は馳せ参じた。
太閤の死後間もなく、父を暗殺しようとする不逞の輩が現れ、又父を貶め引き摺り落とそうと画策する連中も居ると聞きー更には父自らの口から、歓迎と労いの言葉、更には感謝の言葉も与えられてー秀康は俄然張り切った。
父を守る武将の一人に加わる事を許されて、何よりも喜びを次に誇りを感じ、続く日々をー会津へ、関ヶ原へと続く緊迫した月日をー充実して過ごした。
過ぎ去ってみれば熱に浮かされたような、あっという間の騒乱、大乱であったのだろう。
ある種我に返った、というより冷水を浴びせられたような心地を覚えたのは関ヶ原において父が石田三成率いるー総大将は毛利輝元であるー軍を打ち破り、国政を預かるべき者が誰なのか、天下に明らかにした戦の翌年。
大坂城に年賀の挨拶にと赴いた際だった。
見かけは秀康の記憶に在る通り、豪華華麗な城廓とその内に住まう人々である筈なのに、何故か朽ち果てた、饐えた臭いを漂わせているような印象を受け、秀康は戸惑う。
拝謁を賜った城主である幼君もその生母もあくまでも若く輝くように美しい筈なのに、精気も覇気も乏しく、人形のように無機質だった。
「お久し振りですこと。秀康殿」
「は」
「随分とご立派な……武将になられましたこと」
艶やかに華やかな笑顔を向けられはしたが、かつてのように美しいと感じることも時めくモノもないのに、秀康はただ戸惑い困惑するだけた。
対面する迄は、微妙な期待とある種意趣返しの気持ちすらあったというのに、目前に居る女人は、余りにも秀康がかつて恋し、夢見た姫君とは異なる存在と化していた。
(……これが、月日が流れるということなのか)
結局、物思いや恋心などというものはあくまであやふやで不確かで空しいものなのだ、などと穿った結論を得て秀康は早々に大坂から退去し、父の元へ徳川家へと戻った。
最早完全に豊家への未練も縁も絶たれていた。
この世も人の命もあるいは空しく意味の無いものなのかもしれない、などと思いかけた秀康であったが。
父や弟達と共に江城へ一端引き上げた際に、彼の厭世的な心地は軽く払拭された。
入城した翌日に弟に会いに行った秀康は、誉れ高く謹厳な徳川家の世嗣である弟が妻とべったりくっついている場面に行き逢ったのだ。
端的に言えば、兄である秀康は咎めなく弟が居る場所迄通されたのだが、そこは弟の妻の居間で、弟はといえば長らく離れ離れになっていた妻と未だ夫婦としての情の確認が不十分と思っていたのかもしれず、妻を膝の上に乗せて抱いており、秀康も顔見知りの弟の妻も又ぴったりと弟に抱き着いていた。
秀康に気付いても二人共離れようとしない。
「……邪魔をしたか」
「いえ。左様な事は。兄上にもゆっくりお休み頂けたでしょうか」
「うむ」
少女の頃と変わらず大きな瞳を瞬かせながら興味深げに秀康を見詰めている弟の妻、つまりは浅井の三の姫にも、秀康は挨拶をした。
「小督殿。息災そうで何よりだ」
「まぁ。於義丸殿でございますね!驚きましたわ。まるで大人の殿方のよう」
「……それがしはとっくに成人しておるし、大人なのだが」
「あら」
弟の妻は、夫にしがみついたまま、ころころと楽しそうにー羽柴家に居た頃と変わらずー無邪気に笑った。
「申し訳ありません、義兄上様。でも申し上げておきますけれど、私の方が義兄上様より一つ年上なのですよ」
「……」
「それに、どうしても元服の折りの印象が強くて」
「それがしは小督殿が彼方此方の木に登っては姉上方に叱られていた印象の方が強いのだが」
「ま!嫌ですわ、左様な事、私致しておりませんもの」
ぷぅぅと頬を膨らませてみせるのも、あの頃と全く変わらないと思い、次の瞬間には秀康は吹き出した。
「まぁ!ひどい!旦那様、旦那様の兄上様は随分と意地が悪うございますわ!何とか仰って下さいませ!」
「……兄上は正直なだけだ」
「!ひどい!旦那様の意地悪!ようやく戻って来て下さったかと思ったら、もう私を苛めるのですか!」
仲良く言い合うーだが未だ離れないー弟夫婦を横目で鑑賞しながら、秀康の笑いも又止まらなかった。
何があろうと徳川家は変わらないし、徳川家の者達は変えないのだ、と改めて思う。
(変わらぬ想いも、確かに存在する)
そうしたこの世への、人生への信頼も無事復活した。
*
(そうだ。俺は……決して父上を……秀忠を恨んでなどおらぬ)
寧ろ感謝の念すら抱いているのかもしれない、などと考えながら、秀康は父や弟達と共に今回の江戸訪問の目的を果たした。
更に、己の嫡男と将軍家の三の姫との間に縁組みを取り纏め、大満足の旅であった。
領国へ近付くにつれて、山の色は濃く、空は高くなっていく。
今では秀康にとって、何処よりも美しく大切に感じる故郷であった。
城も名も、新しく造った彼自身の居場所だ。
何れ国主となる息子が将軍家の女婿となれば、松平家はまさしく譜代筆頭、名実共に将軍家に次ぐ権門となり、この国をより強く豊かにしてくれるだろう。
(これで良い。これで良いのだ)
漸く此処まで来た。
松平の名乗りも許され、完全に徳川家一門として返り咲くことが叶った。
後は将軍家の実兄として、将軍家を支えていくのが、己の役割であり、また誉れとなる。
(我等は変わらぬ)
微かに揺蕩う苦々しさは切り捨てて、喜びと誓いのみを確かめた。
高く遠い場所で鳥の声が響き、消えていく。
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