鶺鴒【上】
秀康が江城に到着したのは、異母弟の忠吉とほぼ同刻であった。
無論事前に示し合わせての上だ。
基本的には慶事である。
去る五月に秀康の異母弟であり父の世嗣である秀忠が徳川二代征夷大将軍の宣旨を受けた祝賀に、父家康の久し振りの江戸下向に合わせて、兄弟達も江城を訪れたのだ。
更にこれは一族の間で内々に、ではあるが、秀忠の三の姫と秀康の嫡子仙千代の婚約が決まった為でもある。
仙千代は数え十一歳、勝姫は更に幼いが、顔合わせの意味があった。
ー幼い許婚達の対面には秀忠だけでなく、寧ろ秀忠の妻の意向が強く働いている。
わざわざ弟は、妻の為に父に文を出したらしい。
如何にも子煩悩で年上妻を大切にしている、律儀な弟らしき振る舞いであった。
家中の古株連中の中には、弟のそんな性格や言動を軟弱と決めつける者も多かったが、秀康はそのように思っていなかったし、寧ろ父に世嗣としての評価と価値を見いだされているのは、弟のそんな頑なに道義と情理を最適な均衡を以て保とうとする揺るがぬ姿勢だと理解している。
己や他の弟達には無い特質、強靱さだ。
そしてこの年の前年、秀忠と妻の間に嫡子となるべき男児が結婚十年目にしてようやく誕生した。
周囲の者皆ー秀康自身や父、弟等一族皆を含めー世嗣である弟の妻は女腹で男児は産めない、などと信じ込んでいた中、側室を置かずに粘り続けた弟の道義がまさしく天意を得た感がした。
父も秀康等も何れ三代目将軍職を継ぐであろう目出度く尊い男児の成長ぶりを見ようと勇んでやって来た次第、だ。
物見遊山やら湯治やらを兼ねてゆっくり東海道を下ってくる父親より当然早く秀康と弟は入城し、今宵のように兄弟水入らずで酒を酌み交わすような機会も得たのだった。
「これで徳川宗家も安泰ですな、上様」
「まこと。一時はどうなる事かと思いましたが」
秀康も忠吉も、何時の間にか秀忠に対しては改まった言葉遣いをするようになっていた。
確かに元々、徳川家世嗣と見なされ養育されていた秀忠は、兄弟の誰よりも官位は高かったのだが。
だが幼い頃より礼儀正しく儒学者張りに律儀な秀忠には、兄に迄敬語、更に同母のたった一歳違いの弟にも敬称を使われるというのは、居心地の悪い、落ち着かないものらしく、「上様」と呼ばれる度に微妙に身じろぎしたりする。
それを気付かぬフリで気持ちを引き立たせ、道中に起きた滑稽な出来事や国許の珍しい話を披露するのが、兄弟としての秀康等の思い遣りだ。
「お邪魔致します」
柔らかな声と共にその声の主と同じく甘やかなーそれでいて何処か捕らえ所のないー香が先触れとして漂った。
「おやおや。これは御台所様お手ずからのお運びか」
「御台様、御気色麗しく、恐悦至極に存じます」
途端、秀忠が無表情を保ちながら意識の半ば以上を己の妻に向けるのが分かって、こっそり秀康は今一人の弟と目交ぜする。
既に兄弟達の間では、徳川宗家を継ぐ三男が、政略結婚の相手である筈の妻を一途に思い慕っているのは明白な事実だった。
二人の馴れ初めは明らかではないが、どうやら祝言が初対面ではないらしいとも、父がさり気なく仄めかした事がある。
だが秀忠が何か発声するより早く、その妻は明るい少女のような声を上げて笑った。
「嫌ですわ、於義丸殿らしくない仰り様ですこと。左中将様もどうかお寛ぎ遊ばして。以前は私のことを姉と呼んで下さいましたのに、最早かつてのように親しんでは下さらぬのですか?」
「おいおい小督殿、この年で於義丸は止めて下され」
「義姉上、義姉上こそ私の事は名で呼ばずに『左中将』ですか?これはつれない仕打ちですな」
ついつい弟共々気安い軽口を利いてしまうのは、秀康にとって秀忠の妻は豊家にいた頃からの知り人でもあるからで、又弟の忠吉はもともと気さくで人懐こい性格であるから、兄嫁とも馬が合うのだろう。
和気藹々とした空気の中、ふと弟の妻の動作が僅かにぎこちないと気付いて、流石に義父や義兄弟等が勢揃いするのは緊張するのだろうか、などと秀康は思っただけだが。
「おや。義姉上、もしかしてお目出度ではないですか?」
妙な所に目敏い下の弟があっさり言い当てるのに、秀忠の妻は頬を染め困ったように夫の方を見た。
妻の無言の要請に従って、秀忠は妻に替わって弟に応じた。
「まだ三月にもならぬが、子がいるそうだ。不思議ではないか」
「兄上、いや上様、何も不思議はございますまい」
くすくすと笑って忠吉は杯を秀忠に向かって掲げて見せた。
「男と女が居れば、子も出来ましょう。これぞ自然の摂理というものでは?」
「確かに。忠吉の申す通りだな。ということは来年にはまた将軍家に御子が増えるということか。これは大御所様もお喜びになるだろう」
からからと陽性の兄弟が笑い合うのに、秀忠は黙り込む。
あるいは秀康等がからかっているという事自体にも生真面目な弟は気付いていないのかもしれない。
無表情を保った状態で秀忠はまだ恥ずかしそうに頬を染めて傍に控えている妻に声を掛けた。
「ここはもう良い故、下がっておれ。早めに休むのだぞ」
「そうそう。上様の仰せの通り。御身大切に為されませ、義姉上」
「丈夫なややこを産んで頂かなくてはな、小督殿。もっとしっかり精を付けられよ」
如何にも愛妻家の弟らしく、妻の身を気遣うと共に不安も覚えているのだろう秀忠が言った上に、これは完全に冷やかしとして、秀康等兄弟が覆い被せるように加えた言葉に、秀忠の妻は一瞬頬を膨らませたものの、すぐに澄ました表情を取り繕って丁寧なお辞儀をしてみせた。
が、退室する寸前にさり気なく振り返ってーおそらく秀忠が気付いていないと思ったのだろうがー主に秀康に対して舌を出して見せた。
秀忠は驚いたようだが、秀康と忠吉は顔を見合わせた後に声を上げて笑い出す。
「はははっっ小督殿は相変わらずだ」
「元気で良いですな。武家のおなごはあれ位でなくては」
幾分身を固くしている秀忠の傍で、兄弟二人、秀忠の妻の事で盛り上がる。
暫く後、酒も進んで会話も彼方此方へと彷徨い、一端その場が心地良い沈黙に包まれた頃合いとなってから、秀忠がぎこちなく切り出してきた。
ーおそらく妻が退室した際からずっと気になっていたのだろう。
「兄上は……豊家に居られた頃、随分と江と親しくしておられたのでしょうか?」
弟の珍しい稚気を愛おしく感じながら、秀康は鷹揚に応じた。
「親しく、という程ではないが。小督殿は幼い頃よりあの通り、元気の良い捷い御方だった故、姫君然と控えてはおられなんだからなぁ。童達で集って遊び回る時なども先頭を切って駆けておられた」
「……」
無表情を維持しているつもりだろうが、弟の頬辺りが微かに赤らむのを眺め、秀康も忠吉もついつい盃が進む。
幼い頃よりー正確には世嗣と定められてからー物堅く厳しく身を律するように生きてきた弟がようやく人がましい幸福を味わっているのを邪魔する気など全く無い。
「ほう、それは目に浮かぶようでございまするな。義姉上ならばきっと幼い頃も愛らしき姫であられたでしょう」
「於茶々殿は少女の頃より臈長けた、何とも雅やかで威風辺りを払うような御方であった。お初殿は、これもすらりと涼やかな御方で、浅井の三姉妹が通りかかると、若い小姓共など気もそぞろであったな。何しろ、名高い姫君達であられた故」
「ほう。ですが、聚楽第などでは他にも名家の華が競っておられたのでしょうに」
「それはそれ。御愛妾方などは表には出てこられぬからな。浅井の姫君方はまだお若く、身分も軽くあられた。望めば手に入る、近場の華と見えたのだろうよ」
「成る程」
普段から無口な秀忠が何やら考え込む様子なのを放置して、秀康と忠吉の会話は酒と共に滑らかに弾む。
「何にせよ、あの頃はまさか、かの小さき姫君が我が義妹になるなどと思ってはおらなんだ」
「それは上様の御言葉にございましょう。まことこれこそ縁というものでございましょうなぁ」
秀康の軽口を受けて同母の兄弟という気安さ親密さがあるのだろう、忠吉がからかうような面白がっているような眼差しを秀忠に向けるのに、秀忠もさり気なさを装って睨み付けている。
羨ましく感じないと言えば嘘になるが、秀康としては弟達が仲が良いのは見ていて気持ちが良いというより安堵出来る状況だった。
「兎にも角にも、目出度い。一層の将軍家及び徳川一門の繁栄を願い、計ろうではないか」
秀康は簡単に取り纏め、表層的な弟達の絡み合いを収めた。
再び他愛のない、酒席の馬鹿話法螺話の類へと会話は陥ってくのは、最早下り酒による酔いと同じく如何ともし難い。
兎に角久し振りに楽しく愉快な宵だった。
性格は異なるが酒に弱いという共通点があるらしい異母弟が二人とも寝所に引き取ってからも、秀康は暫し一人手酌で愉しんだ。
二度も他家へ入り、昨年ようやく本来の松平姓の名乗りを許された秀康である。
天下人である父徳川家康の次男ーそして生きている男児の内での長子ーであっても、江城はあくまでも人の城、あるいは主筋の家柄の城。幾分、うら寂しいような侘びしいような、遠慮な空気も当然と心得ていた。
父と家督を継いだ弟が、常に己を気遣い、重く扱ってくれるのが慰めであり支えともなっている。
今回も前々から父や弟から打診があった、己の息子と将軍家の三の姫の婚約了承の正式の回答を携えてきた。
徳川一門で越前福井松平家こそ、今現在大御所、将軍家に次ぐ重く権威高き家門となろうとしているのは明らかだ。
だが。
(於義丸殿、か)
突然、しかも随分と久し振りに耳にした元服前の己の名が、簡単に様々な追憶を呼び起こし、彼を捉えていた。
何も知らず無邪気でいられた子供時代ー父親の顔は知らなかったが、偉大なる領主であり武将であると単純に誇りに思い崇敬していられた頃ーから、一転して複雑で鬱屈していると同時に絢爛豪華な黄金の夢に囲まれた少年時代。
当時の強烈な感情は薄れているものの、未だ思い出は鮮明だ。
ゆっくりと彼の内の時の歯車は、『その頃』へと逆回転していく。
*
於義丸が初めて上洛したのは、天正十二年。
父と、羽柴筑前守の間で起きた戦ー本来は、羽柴秀吉とその本来の主筋であった織田氏との間の諍いであった筈だったーの講和の条件、和平の証として、筑前守の養子として送られたのだった。
当時、於義丸は十一歳。
幼くはあるが、既に、家の事情や父の思惑が理解出来ない年齢ではなかった。
寧ろ旅立ちの際、家臣や共をする小姓等も側にいるというのに頑是無く泣き続ける母を宥めるのが大変だった、などという記憶が残っている。
少なくとも於義丸には悲壮感は無く、寧ろ父の為、国の為に漸く己が役に立つのだと嬉しかったような気がする。
父とは数える程しか会った事が無かったし、父子らしい親密な会話を交わす機会となると皆無であった。
色々詰まらぬ事を言う者はー母を含めー多かったが、父は当時、常に忙しいだけでなく、時に脅かされ緊張状態が続いていたのだろう。
少なくとも長じてからは、そのように父の冷淡、というより無関心な態度を理解出来るようになった。
だが当時は、父に愛されぬのは己に不足が多い為でーその不足を養子という名の質になる事で補えるのだと勇んでもいたのだった。
己の存在及び『価値』が以前よりも大きく重くなった事が誇らしく、また何もかもが煌びやかで華やかな印象の京大坂の景色は、彼にとって物珍しく心躍るものだった。
大坂城に到着した途端、自ら出迎えに出ていた羽柴筑前守ー養父ーに手を取られ、忙しなく騒々しく城や城下を案内されたり、大名諸候等だけでなく城中の女達に紹介され。
目まぐるしくも賑やかに日々はあっという間に過ぎ去った。
己の待遇について全く期待などしていなかったのも返って良かったのかもしれない。
養父の心からの歓待、それにより養父に仕える者達の於義丸への恭しく傅く態度は、於義丸を有頂天にさせた。
元服の際、養父と実父からそれぞれ偏諱を受けたのにも、供回りの中には面白くなさ気な者が居たとは気付いていたが、於義丸、改め秀康にとっては、一層の喜びと誉れ、であった。
そして、成人の儀の祝いの席で、彼は彼女達と出逢った。
ー心の内迄、真っ正直に晒してしまえば、『彼女』を一目見ただけで心奪われた。
養父の、というより養父の正室の直ぐ傍に座すその女人は、まだ少女という年頃ではあったのだが、既に辺りを祓うような威厳と輝かしい美貌の持ち主だった。
織田信長公の姪姫と養父に紹介された姫は、自らは浅井の一の姫と名乗った。
亡国の主であった、母の兄であった織田信長公に攻め滅ぼされ自害した父を誇りに思っているのだろうと秀康には分かったし、又それ故に姫への好感もより高まったのかもしれない。
だが茶々という名の、彼よりもずっと年上の少女ー既に娘とも言うべき年頃だったろうーは、彼に一顧だに与えず、そのまま視線を宙に漂わせた。
一体何を見ているのだろうと不思議に思ったものの、初対面の相手に問える訳もなく、続いてその妹姫達に紹介された。
二の姫はほっそりしているが姉姫と同じくすらりと背が高く美しい姫で、興味深そうに秀康を眺めたものの、すぐに何か他のものに気を取られて同じくそっぽを向く。
どうやら部屋の隅に控えている若い男を注視しているようだ。
残った三の姫は幼い印象の強いちんまりと小柄な少女だが、これは不思議そうにまじまじと秀康を見詰めてくる。
「徳川様のご子息が何故羽柴様のご子息なの?」
筑前守と並んで傍に控えていた北の方に質問するのに、筑前守が横から応じる。
「儂の養子になったのだからな、儂の息子であろうが」
「そうじゃなくて。羽柴様にはもう沢山御子がおられるのに、どうして又他所から御養子をもらうの?そんなの、可笑しいわ」
「色々と大人の事情があるんじゃ!やれやれ。小督は子供だ」
「子供じゃないもん!」
「ほれほれ、その言い草。……これでは夫に愛想を尽かされて出戻ってくるのも致し方ないのぅ」
「ち、違うもんっっ与九郎様は小督のこと、好きだって仰ってたもの!」
「ほ~ぉ?ならば何故、そなたは今此処にいるのかのぅ?」
「い、意地悪!もう、大嫌いなんだから!」
「何じゃ、父上様に対してその口の利き方は」
「そんなの羽柴様が勝手に仰ってることでしょう?!私は承知してないもの!」
「ふふん。そなたがどう思おうが、最早そなたは儂とおねの娘になったのじゃ。観念するのじゃな」
ぷぅぅと思いっきり頬を膨らませる少女の頭を北の方の背後から手を伸ばした扇の先でつんつんと突きながら、筑前守が心から楽しそうにからからと笑うのを傍で北の方が優しく穏やかに窘める。
秀康の目にはとても和やかで仲良さそうな家族の図、に見えた。
この場にいた人々が、そのように単純な言葉で表現出来る様な関係ではないと知ったのはもっと後の事だった。
(……この姫も筑前守様、いや義父上の養女なのか)
ということは己とは義兄妹になるのだと思い、ごく素直に秀康はその事実を受け入れた。
他にも、筑前守が養子としてあるいは単に養い子として育てている子達は大勢いる。
元服した秀康が女人達が住まう奥殿を訪れる機会というものは滅多に無く、あるとしても養母、つまりは筑前守の北の方の元がせいぜいで、浅井の三人の姫君達に会う機会は無かった。
それでも時折、城内では誰もが未だ子供と見なしている三の姫が馬場に現れたり、彼方此方の庭の木に登ったりしているのを見かけ、更に妹姫を諫める為に姉姫達が奮闘しているのを目撃したとしても、それはあくまでも遠目からでしか無く、未だ未だ内気で初心だった秀康が茶々姫に声を掛けたり目を合わせる事など出来なかった。
偶さか、機会という程でなく『遭遇』出来たのは十四の時。
九州攻めに秀康も加わる為に出立する前日の事だった。
いつも通り奥殿から脱走した妹姫を捜していたらしい、ますます美しく輝く日輪のように堂々と威風辺りを祓うひとが、侍女一人だけを連れて庭に出たのを、秀康は剣の稽古を終えて部屋に戻ろうとしていた際に見かけた。
一瞬身嗜みの悪さを気にしたものの、これを逃せばあるいは今生では二度と会えないかもしれないという気持ちが先立って、秀康は後を追う。
「姫。妹君をお捜しですか」
茶々姫が心配そうに周囲を見廻しているのを脅かさぬよう声を掛けてから近付いた。
「……」
茶々姫が不思議そうに秀康の顔を眺めてくるのに自然頭に血が上ってきて何も考えられなくなる。
付き従っていた侍女がこっそりと「秀康様ですよ」と姫に囁きかけたのも意識に入らなかった。
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