五位鷺【上】

 於督が二人目の夫に嫁いだのは三十歳の時。

 文禄三年のことで、無論、己で望んだ婚でも、選んだ相手でもなかった。

 当時の武家の女、しかも於督のような家柄の女にとっては当然の事だった。

 

 相手も再縁で、一つ年上の相手というのは気が楽ではあったが、ー父だけでなく他の誰にも言えなかったがー最初に嫁いだ夫と婚家を攻めた張本人の差配というのは全く気に入らなかった。


 戦国の世の常と、同じく戦国の武将として多くの人々を殺めてきた父の娘として生まれた於督は、理屈では既に天下人と万人に認められている太閤の命に従うのが理と分かっていたものの、夫との間に授かった二人の娘の命に懸けて、心から服する訳にはいかないと決めていたのである。


 父にも家臣等にも一切、不機嫌な貌など見せはしなかったが、祝いを述べに現れた異母弟には、少々横柄な態度を取ってしまったかもしれない。

 とはいえ、常に礼儀正しく基本誰に対しても淡々と接している弟は、於督の八つ当たりなど何処吹く風という感に澄ましている。


「お元気そうで何よりです。長旅でお疲れかと案じておりました」

 さり気ないーだが確かに嫌味も含まれているだろうー気遣いが含まれた言葉に、於督は渋々と頷き、弟に応じた。


「目出度い目出度いと、他の者達と同じように決まり切った事を言わないでくれるかしら、秀忠殿。貴男は何と言っても、徳川家の世嗣なのですからね。それらしく振る舞ってもらわないと、私達一門皆の恥となってしまいます」

「お教え痛み入ります」

「あら。相変わらず、素直だこと」


 侍女が置いて行った茶を美味しく啜って、於督は少しだけ気を良くした。

 於督等姉達には敢えて口答えしない弟というのは、こういう時役に立つ。

 父や頑固な譜代家臣連中相手では、一つ言えば十や二十返ってくるのだから、これ又腹が立つ話だった。


「ですが姉上の為には良いお話です。……無論、姉上がお気に召すかどうかは別義でしょうが」

「ええ」

「もしも姉上の身を太閤殿下が、などという事になりましたらと私は案じておりました。我等の姉上が、幾ら殿下がお相手とはいえ側室になられるなど、流石に憚られます故」

「当然です!左様な事、死んでも承伏するものか!」


 つい感情的になった於督に、弟の秀忠はこほんと小さく咳払いをした。


「姉上。ご発言にはご注意を」

「……分かっています」

 伏見城下の徳川邸であっても、本城でない以上、自室あるいは寝間であっても、常に人の耳、人の目に留意しなければならない、とは於督も徳川家一門の女として承知していた。


「それにしても。最早三十路の女など、父上も殿下も捨て置いて下されば良いものを。余計なお節介焼きじゃ」

「……」

「縁談下さるならば、世嗣であるそなたを優先して下されば良いものを。そうであろう、秀忠殿」

 忌ま忌ましさが急遽募って、於督は唇をひん曲げた。


「そなたも随分と鰥生活が長い。そろそろ継室を迎えねばならぬぞ。違いまするか、秀忠殿」

「姉上。どうか私のことは御懸念無く」

 弟は嫌味な程穏やかに静かに応じてくる。


「私の事は父上が当主としてお決めになられる事にございますれば」

「ま!本当に行儀の良い弟君だこと!」


 だが随分と年下相手ー何と言っても弟は今年十六歳になったばかりだーに、本気で怒ったり口論をするなど馬鹿馬鹿しいし大人気ないと思い直し、於督は気持ちを落ち着かせ、普段通り、大名家の姫君らしい微かにあるかなきかの笑みを口許だけに浮かべた貌を作った。


「もう良いわ。挨拶は受けました」

「はい。……ではご機嫌宜しゅう」


 丁寧な礼をゆっくりとして去っていった弟の後姿を見送ってから、於督はふんと小さく鼻を鳴らした。

 既に、先程迄の勢いは無くしている。


(ま、仕方ないのだわ。……徳川家の女は、代々何人もの夫を持つものだ、なんて、父上も御祖母様も仰せだもの。私もつまりは、徳川の女だということ)


 覚悟さえ決めてしまえばどうという事は無い。

 前の夫も、父が決めたというだけで政略結婚、しかも戦を避ける為の人身御供のようなものだった。

 それでも夫婦として添えばそれなりに、於督は亡き夫のことを好きになっていたし、子を産んでからは尚更だった。


(ああ、でも此度は子は望めぬかもしれぬ。年が近くとも女の方が早く年を取る。私は最早三十なのだもの)


 正妻として大切に扱われても、それは敬して遠ざけられるといった類の待遇となるだろう。

 そんな風に冷静に決めつけ、それならばそれで大事な姫の養育に専念すれば良いかと思った。

 二人産んだ姫は既に、一人を幼くして歿し、今一人しか残っていない。


 於督の腹が据わったと、侍女かあるいは弟が父に報告したのかもしれない。

 その後、速やかに祝言の日取りが決まり、しかも早々に於督の身は相手の邸へ送り込まれた。


 確かに互いに再縁同志なのだから、今更仰々しく振る舞うあるいは勿体ぶる必要などない訳だ。


 於督の冷静な観察によると、花婿も又淡々と、主君によって決められた縁談を受け、薹の立った花嫁を迎え入れたようだった。

 ならば互いに過剰に期待する事も失望する事もないだろうと結論付け、於督も二度目の夫を受け入れた。

 特に問題点は無いというあくまでも己自身の理性的判断に従ったのだ。


 父や、父を微妙に意識しているらしき天下人の意向や企みに唯々諾々と従った訳ではない。


 嫁入ったといっても同じ伏見城下の邸間での移動だ。

 幾分己の居所は、城に比べればこぢんまりとしたかもしれないが、返って目が届いて良いと思った。


 とはいえ、彼女が嫁いだ池田家も、実家に比べて石高は少ないかもしれないが、歴とした大名家なのだから、己が家事をする必要も隙もないのだろう、そんな風に思って気儘に過ごしていたのだが。


「……昼間、姫は退屈ではござらぬか」

 数日後の夜。

 そこそこ互いに慣れてきたと感じる夫がぼそりと呟いた言葉に、うとうとしかけていた於督は目を瞬かせ、夫に向き直った。


「安気に過ごしております」

「……うむ」

 今ひとつ歯切れが悪いと感じ、於督は夫の顔を注視しようとしたが、既に灯りは落とされている為、相手の表情は見て取れなかった。

 ただ気配から、夫が戸惑っているか、何か話をしたがっているらしいと推測を巡らせる。


「何かございましたか?……私、何か、不調法を?」

「あ。いや。左様な事はない」

「ならば……宜しいのですけれど」


 むーなどと唸っているのが少し可笑しくなってきて、於督は男をからかいたくなった。

 前夫も普段は真面目な顔をしていたが、於督と二人で居る時は良く笑う明るく楽しいひとだったのだ。


「それとも……旦那様……もはや、私のように薹の立った年増女の相手など嫌になりました?」

「……う……」

「……哀しゅうございます。……確かに私は若くはありませんけれど……もはや、身も心も、旦那様にお捧げ致しましたのに」

「……」


 ふいに何やら殺気が走ったような、とにかく空気が緊迫したのを感じ、流石にやり過ぎたかと思い、於督は身を引きながら謝ろうとしたが。


「あっ」

 逆に強い力で引き寄せられ抱き締められる。


「痛い!」

「あ、す、済まぬ、姫、つい」


 慌てた風に言われるだけでなく力が緩められるのに、於督は息を吐き、夫の腕の中で身を寛がせた。

 どうやら相手は怒っている訳ではないらしいから、逃げる事はないと、自分では冷静に判断しているつもりだ。


「如何されました?……私、何かいけない事を申し上げましたか?」

「い、いや。そうでは……た、ただ、その……」

「はい?」

 恐る恐るという風に男の手が頬に当てられるのを感じ、闇の中で於督は頬を染めた。

 すぐに小娘のような反応をした己に苛立つ。


(私としたことが。……この御方だとて、私の事など、主君に強引に押し付けられた、押し掛け女房としか思っておられぬだろうに)


「その……ひ、姫が……思わぬことを言ってくれた故、つい、その……」


(?私が何を言ったというのだろう。……はっきりしない御方だ)


 戦場ではなかなかに勇猛な武将だと父が褒めていたが、父らしく於督をはめようとして言っていたのかもしれないと思い、於督は少し落ち込んだ。

 別に勇猛な男だから妻となった訳ではないのだが、又も父に騙されたかと思うと、口惜しいだけでなく寂しくもなってくる。


 自分の父親が何を考えているのか、幾つになっても理解出来ないでいるのは、娘として非常に情けなく感じるのだ。


「姫」

 呼び掛けて己に触れてきた男に反射的に抱き着いてしまったのはそうした、あくまでも個人的理由の為で、他意があった訳ではない。


 翌日、少々朝寝坊してしまった於督は、侍女達に身支度を任せながら自然、手を己の腹部に当てた。


(まだ……身籠もる事が出来るだろうか)

 微かな思いー希望の兆しのようなモノーが初めて芽生えた。


(あの御方は……随分とお元気だ。あの調子なら、御子の一人や二人)


 だがすぐに於督は余りにも自分に都合良い考えは捨てた。

 おそらく昨夜は夫は酒が入っていたか、あるいは単に女を抱きたい衝動を覚えていただけなのだろう。


(そう。誰でも良かったのだわ。偶々、私が側にいただけで。……今は祝言を挙げたばかりだから、他のおなごの所に行けなくて、それで……だから、何れ私の所には来なくなる)


 あくまでも理性的に己にそう言い聞かせ、この問題は片付いた、と於督は思った。

 これ以上考える必要のない、考えたくもない事だった。


 以降、於督は現在の暮らしに順応し楽しむと決めーまた於督の周囲の、つまりは婚家の人々も少しずつ於督の存在に慣れ、互いに親しみを朧気に感じ始めた頃。


 普段より早く城から戻って来た夫に意外の感を覚え、何か起きたのか探ろうと挨拶に行った於督は、夫の貌を見て驚いた。

 普段、如何にも武人らしく厳つい顔立ちではあるものの穏やかな泰然とした風を保っている筈の男は青ざめ、今にも倒れそうな弱々しいものになっていたのだ。


 一先ず夫の世話は小姓等に任せ、於督は侍女に白湯を持ってくるよう命じ、夫が着替え終わるのを待った。

 運ばれて来た白湯を身を投げ出すように腰を下ろした夫に差し出す。


「……何も聞かぬのか?」

「私から聞かずとも、貴男様からお話下さるでしょう」


 穏やかに言い返すと、夫は少し驚いたらしく目を見開いたものの僅かに頷いた。

 於督が戦国の武家の女らしく、それなりに辛酸を舐めてきたと思い出したのだろう。


「関白殿下が……高野山に護送された」

「……」


 もっと異なる個人的な問題ー例えば、突然太閤の気が変わって離縁でも申し渡されたのかーと推測していた為、於督は一瞬気が抜けた感を覚えたが、しかしすぐにこれは夫にとって確かに非常に深刻な大問題だと覚った。


 夫は太閤を主君として崇めているらしいが、その妹は関白の元に嫁いでいる。

 場合によっては、関白派と見なされる立場だ。


「聚楽第は封鎖される」

「……御懸念は無用でございます」

 躊躇いは覚えたものの、普段は豪快勇壮といった感が強い如何にも武将らしい男が、しゅんと萎れた様子なのを憐れに感じ、於督はそっと男の膝の上に手を置いた。


「……姫」

「私は良くは存じ上げませぬが……太閤殿下は罪なき者を責めるような御方ではないのでしょう?とにかく今は冷静になって……御心をお鎮め下さい。申し開きを要求されたとしても後ろ暗い所などないと一歩も引いてはなりませぬ」

「うむ。そうだな」


 そのまま於督も夫も、家中の者達も日常に戻ったが、於督の本心は当然異なる。

 だが己の考えや行動について、夫に話したり事前に了解を取るなどという気持ちは全く持っていない。


 翌日、僅かな供回りの者を連れて婚家の邸を出ると、彼女は真っ直ぐ徳川邸に向かった。

 正門に到着し案内を請うてから、そういえば父は今国許だと思い出し、対面相手を世嗣である弟に変更する。


「これは姉上。お久し振りですね。……相変わらずお元気そうで何よりです」

 弟は相変わらず丁寧ではあるものの微妙な挨拶をしてきたが、今は普段のように相手をしてやる気になれず、於督は一気に詰め寄り、弟が逃げられないように迫った。


「姉上。私達は姉弟ですので、幾ら私の事を好いて頂いても、」

「真面目な貌で阿呆な事言わないでよ!この唐変木!いいから、さっさと登城する支度をなさい!今すぐ!登城してサル太閤に謁見するのよ!」

「……また乱暴な」


 於督が襟元を掴もうとしたのから、弟は小癪にも素早く逃れた。


「いいこと!秀忠!もしも輝政様や輝政様の妹君の髪の毛一筋でもあのサルが傷付けたら、私は絶対に許さないわよ!ええ、今度こそ、許さないわ!父上が何と仰せであろうと開戦よ!サル軍団の屍の山を築くのよ!」

「……姉上には軍事指揮権は一切ございませんが」

「貴男にはあるでしょうが!いい事!ちゃんと言いましたからね!後で聞いていないなんて逃げ口上、効かないんだから!」

「……」


 弟はこういった際の常で冷ややかではあるが落ち着き払った目を向けてきた。

 自然、於督の昂奮も醒めてくるのだが、今回ばかりは絶対に退く気はなく、目に力を込めて弟を睨み付けた。


 暫しの沈黙の後で、弟は微かな溜息を吐く。


「……今は何も出来ませんし。しない方が得策かと」

「何故?!」

「豊家との間に縁談が持ち上がっています」

「え?」


 唐突な話題転換について行けず、於督は瞬きを繰り返したが、弟は淡々と全く調子を変えずに続けてくる。


「此方から何も言上しなければ、殿下も少々お考えになるでしょう。……我が徳川家と更なる縁を結ぼうとしているこの時に、姉上を通して我等が一門と繋がった池田家に害を及ぼせば、如何なる事態になるか、と」

「……」

「ですから御懸念は無用と存じます。寧ろ、義兄上が無分別な振る舞いを為さらぬよう、注意すべきかと」

「……分かったわよ!でも、私の考えは伝えましたからね」


 既に殆ど説得されてしまっているのが己でも悔しくて、於督はしつこく念押しした。


「もしも貴男の考え通りにならず、輝政様と妹君に何かあったら……私は決して黙っていないわ」

「ええ。姉上の御気性は承知しておりますから」


 さらりと言い返されてむっとしたものの、いざという時は頼りになると分かっている弟の保証が得られたのに安堵して、於督は素直に婚家への帰途に着いた。

 大人しく池田家当主の北の方として室内に収まってから、弟の言葉を思い出す。


(そういえば縁談って。……誰の?)


 適当な組み合わせが思い付かず首を捻っている内に夫が戻ってくる刻限となったのでさっぱりと忘れた。

 今は弟が言っていた通り、夫の様子に注意して、夫に些かなりとも危害が及ばないよう、妻として務めねばならない。


 夫は何も言わなかったが徐々に憔悴していくのが見て取れた為煩く話をする気にはなれず、於督は侍女だけでなく下女や下男に命じて、その日以降は真剣な情報収集に当たらせた。

 そのお陰で、ほぼ正確に世情及び関白に対する沙汰についても把握した。


 とうとう関白が切腹を命じられただけでなく、その妻妾さらには幼い子達迄もが斬首という沙汰が下りたのも粗即日、知った。

 夫の妹は、事なきを得、池田家に戻される事となった、とも。


「旦那様。一先ず若御前様にはこの方へお寄り頂いては如何でしょうか」

 夫の緊張が緩んだと見た時に申し出た於督に、夫は感謝するように頷き実際謝意を述べてきたが、即座に於督の案を却下した。


「いや。既に国許へ送るよう手配した。……置いてはおけぬ」

「……左様ですか」


 於督はおそらくこの時、夫の心の内に微妙な変化が生じたのではないかという気がする。

 決して太閤の死によっての変心ではなく、夫はこの時にもはや今現在の主君には付いていけない、決して相容れない所があると覚ってしまったのだろう。

 とはいえ、全て後から推測した話だ。


 あるいは当時は、夫本人ですら己の心の動きを意識していなかったのかもしれない。


「でもご無事で良うございました。……御家にも障り無く」

「ああ」

 短く応え、夫はふいに重い視線を於督に向けて来た。


「そなたも随分心を砕いてくれたのだな」

「あ。い、いえ、そんな。……私など何の御役にも立てませぬもの」

「左様な事はない。妹の事、池田家の事を気に掛け、中納言殿にも修繕してくれたのであろう」


 それがしは良い妻を得た、と言われて、於督は素早くー慌ててー貌を背けた。

 たぶん、今己は随分みっともなく赤面してしまっているだろうし、夫にこれ以上優しい言葉を掛けられたら泣き出してしまいそうだった。


「姫。いや……督」

「はい、旦那様」

「その……」


 夫が己の名を初めて呼んだという事実に、於督は何も考えられなくなってきた。

 ほぼ反射で返事はしたものの、続く夫の言葉は耳に入らない。

 あるいは、夫も何やらもごもごと口籠もっているようではあったが。


 だが夫婦として過ごすのに言葉など不要だとは、夫も於督も充分以上に知っていた。

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