空蝉
信吉が木下家の姫を娶ったのは、天正十八年、信吉がー武田家筋の生母及び後見人の意向により既に元服済みで、武田家の名跡を継いでいたー僅か八歳の時の事だ。
祝言は単なる退屈で面白く無い儀式との記憶しかなく、ただ母や後見人の見性院、その他武田家の旧臣達が非常に喜び、涙を流さんばかりだったのが、強く印象に残っている。
後から考えれば僅か数え八歳の子供が元服していたり婚姻したからといって、家を継ぐべき次代の子が授かるという保証になる筈も無かったのに、滅んだ国、滅んだ家に属していた人々にとって、信吉は新たな希望の星、のような存在であったのだろう。
肝心の信吉は、四歳年上の異母兄も又豊家縁の姫と結縁したと聞き、安堵する、というより心強く感じた程度だ。
あまり身体が丈夫でない、そして同母の兄弟がいない信吉は年が近い兄達を羨ましく、憧れに近い感情も抱いていた。
同母で年子の兄達は、上の兄は既に徳川家世嗣と見なされていたし、下の兄は元服前ではあるが、信吉自身と同様に、だが東条松平家の跡目を継いでいる身で、家中や譜代の家臣等の間でも人気が高い。
信吉は姓だけは松平となっていたものの変わらず武田家の者とー少なくとも武田家旧臣等にはー思われていたし、生きている兄弟の内で最年長の異母兄は、完全に他家に養子にやられた儘だった。
皆の考えや態度は当然の事なのだろうと思いつつ、時折、信吉は己も又、父の子としての自分自身及び役割の方を皆が重視してくれれば良いのに、と思ったりした。
勿論、無い物強請りに過ぎないとは、諦めていたが。
だが兄の妻ー一緒に住んだ事も無かったので正確には許婚と表現すべきかーと兄は間もなく離縁しただけでなく、病を得て亡くなり、信吉は悔やみを言うべきなのか些か迷ったが、兄は淡々と世嗣としての務めを果たしているようだった。
信吉自身もその頃生母を亡くしており、寧ろ自身への慰めと労りを必要としていたものの、更に一層、後見人や武田家旧臣等に囲まれる状況となり、兄達との交流も減ってしまった。
尤も、信吉はあくまでも徳川家康の息子であるという自覚を年々強くしつつあったのだが。
数年後、兄が又も豊家の養女ー当時、時の権力者及び天下人は太閤と呼ばれていたーと再縁したと聞いた時は驚いたが、それも又、父の政略なのだろうと、賢しらに後見人が解説してくれた為、充分以上に納得もした。
信吉の妻は、太閤の正妻である北政所の甥の娘だが、既に寵愛も権勢も、太閤の跡継ぎの生母に移っていると聞く。
兄の新しい妻は、その太閤の跡継ぎの生母の実妹に当たる姫だ。
「流石徳川殿。危機も好機に変えてしまわれる」
後見人が感嘆すること頻り、という風に口にした言葉を、信吉は自分なりに後で考え納得もした。
更に徳川家の為にー一部は武田家の為にもー安堵する。
(つまり父上は兄上を次代の当主とするべく布石を打たれたのだ。……これで豊家との関係も、家中も落ち着くに違いない)
見性院あるいは武田家旧臣だけでなく他の者達が妙な野心を抱く前に、その芽を摘むのも目的の一つだったのだろう。
家中の争いを未然に防ぐ事で、父が信吉等、子達を守ってくれているのだと信吉は思い、有り難くも感じた。
そして信吉が漸く十五になって、あるいはそろそろ名のみの妻とも本当の夫婦の契りを結ぶ準備をと周囲が張り切っていた頃合いに、兄が妻と一の姫を伴って江戸へ下って来た。
兄の上洛中は屡々そうするように江戸に来ていた信吉は、殆どすぐーおそらく、一族の長老である祖母の次にー兄嫁と姪を紹介された。
「江、弟の七郎信吉だ。信吉は、甲斐武田家の名跡を継いでいるのだぞ」
兄が僅かに自慢げな響きを滲ませて己を紹介してくれたのに、信吉は面映ゆさで頬を染めたが、それで良かったのかもしれない。
礼を取る為に俯いていた兄嫁が上げたその花のような貌を見て、赤面してしまったのもおそらく誤魔化せたろう。
「江にございまする。あの……どうか、私のことは姉と思って遠慮無く、何であろうとお申し付けを」
「……はい」
仲良くして下さいませ、と更に可憐な笑顔を向けられるのにどぎまぎしつつ、信吉は「はい、姉上」と素直に応じ、何やらむっつりと塞ぎ込んでいる兄と兄が膝の上に抱いている赤子へ目を向けた。
感じやすい年頃の信吉には、兄嫁は余りに眩しく輝いている存在に見えてその貌や姿を見続けるのすら気恥ずかしかったのだ。
「可愛い姫ですね、兄上。義姉上に瞳など良く似ております」
「ああ、そうであろう。それに賢くて物分かりの良い優しい姫なのだ」
兄の主張をこれ又信吉は素直に受け止め頷いた。
だがふと、己の迂闊さ加減に気付いて肩を落とす。
「如何した」
すぐに目敏く気遣いも甚だしい兄に問われるのに、一瞬躊躇ったものの、信吉は隠す気も無く答える。
「妻も連れて参れば良かったと今思い付きました。……義姉上や千姫に紹介すべきでしたのに」
「まぁ。奥方がおられるのですか」
驚いたらしく目を丸くする兄嫁に、一層気恥ずかしい感は増しながらも信吉は頷き、続けた。
「はい。木下勝俊殿の姫、なのですが」
だが舅の名を口にしてから、果たして良かったのだろうかと不安になった。
単純に豊家の縁なのだからと思っての事だったのだが、あるいは豊家の中で、北政所派と淀の御方派という形に別れて派閥争いなどがあったとしたら、紹介どころではないのかもしれないと思い付いたのだ。
だが、すぐに兄嫁は一層笑顔を輝かせ、信吉の取り越し苦労を霧散させてくれた。
「まぁ!そうだったのですか?それは、是非にお会いしとうございます。北政所様にも、姫のご様子を報告致さねばなりませんもの。きっと、遠い地に嫁いで来られた姫のこと、案じておられましょうから」
「……はい」
同じ事が兄嫁についても言えるのではないか、と思ってしまって、信吉はつい兄の顔色を窺ったが、大人達の感情や思いを推測するのに慣れてー長けてーいる筈の信吉にも、いつも兄の考えは読み取れない。
流石に父が跡取りと認め、養育している兄、なのだ。
「では次の機会には是非に」
「はい。楽しみにしておりまする」
短い会見は和やかに終わり、信吉は兄嫁にも又兄の娘にも好印象を抱いた。
夫婦仲が良さそうなのも嬉しく、望ましい。
色々とつまらぬー下らないー噂を言い立てる者もいると知っていたが、既に信吉も噂程当てにならぬモノはない、などと達観している。
(今は徳川一門にとって大切な時。我等は他家のように詰まらぬ諍いの果てに殺し合うような事があってはならない)
父による教えだけでなく、一端滅び、再興の道と希望を己に見出している武田家の者達の述懐が、信吉に大きな影響を与えていたし。
父や後見人の期待に応えたいという想いを養わせていた。
(徳川家が団結して、力を得、国政においても父上が大きな力を得られれば……武田家の者達をもっと多く迎え入れ救う事も叶う筈だ。先ずは徳川家の為に、父上や兄上の為に尽くさねば)
佐倉に戻ってから、妻にも兄嫁を本当の姉と思い従うようにと言い聞かせて、少々良い気分になる。
普段は、己が言い聞かせられ、教え諭される一方であったから、偶には異なる立場に立つのも目新しい。
本当は弟が欲しかったがー実際異母弟がいることはいるのだが、兄達程には親しくないし、顔も殆ど見たことが無い。
(それに……私も姫と契りを交わせば、兄上のように子が出来るであろうし)
そんな風に考え、信吉はぎこちなく妻を抱き寄せた。
未だ少々幼い所は残っているがそれ故に素直な姫は、「私も早く義姉上にお会いしとうございます」などと言って姫の方からも身を寄せてくる。
若く幼い、名のみの夫婦であっても祝言を挙げてからそれなりに歳月が経過していたから、既に互いに親しみも、互いが特別な存在であるという自覚も充分持っていたのである。
以後、信吉は江城に留守居として詰める際は、妻も伴う事にした。
妻を独り寂しく城に残す気にはなれなかったし、出来るだけ一族の女人達ー兄嫁だけでなく祖母や、父の側室達、場合によっては姉達をも含むーと親しんで欲しかったのだ。
生まれは兄達と同じく三河であったが、既に関東の地に慣れ親しんでいる。
兄達と異なり、徳川差配地から出た事が無い信吉は、上方の事情などの情報は得ていても今ひとつ実感は湧かず、太閤の死もその後の騒ぎも、無論一門として力を尽くしてはいたものの、まさか徳川家程の大身が貶められ、陥れられるような事がある筈がないと信じていた。
他の大名諸候等が集い、父が総大将として会津討伐を行うと聞いた際も単純に誇らしく感じたし、引き続き江城留守居を命じられた際も、特に危機感無く引き受けた。
懸念は湯治に出掛け、そのまま夫である兄の指図で尼寺に留められている義姉の身であったが、兄には警備が万全である事、義姉には療養が必要であるとの説明を受け、特に疑問は感じなかった。
信吉が兄の意図に疑惑を抱いたのは、上方で石田治部少輔が乱を起こしたという急報、更にはその乱自体が徳川家以外の五奉行三大老が与するものであり、豊家の若君迄もが容認しているらしいとの、真偽は明らかではないものの、只ならぬ情報が通常とは逆経由でーつまりは先ず父や兄が居る小山へもたらされた後、江戸の彼の許へー届いた際だった。
(……もしや、兄上は斯様な事態を案じて、事前に義姉上の身柄をお隠しになられたのか)
動揺を示さぬよう細心の注意を払って、引き続き城及び国境の警備に努め、補給線を確保するよう家臣等に命じてから、信吉は日々の務めに埋没した。
今は留守居役、つまりは城主代行でもある己が普段通りの姿を見せていれば、下の者達も安心してー少なくとも暫くは怯まずにーそれぞれのやるべき事に専念出来る筈だ。
己の懸念を露わにしたのは夜、妻の元へ戻った際で、妻もどうやら実家か父親から便りがあったらしく青ざめた貌で彼を迎えただけでなく震えながら縋り付いて来た。
「大丈夫だ、心配せずとも良い。伏見城は太閤殿下が築かれた城。容易く落ちたりはしない」
「はい」
妻の父親はー信吉には理解し難い、一風変わった気紛れな文人肌のひとであるがー有り難い事に徳川家に味方し、徳川家の譜代の臣等と共に伏見城に居るらしい。
震えている柔らかく頼りない身体を抱き締めながら、信吉は己は運が良かった、と思った。
同時に、今兄が感じているであろう辛さ遣り切れなさを思い、堪らなくなってくる。
自分を頼りとしている女の親族を敵とし戦わねばならないのは、場合によっては親兄弟と争うより辛いことなのかもしれない。
女本人が何も言えず泣きながら苦しんでいるのを傍で見ていなければならないのはひどく居たたまれない心地となるであろうし、もし女との間に子がいれば、と迄想像して、信吉はそれ以上考えられなくなった。
「江戸も戦場となるのでしょうか。籠城の御支度を?」
「いや。まだそこ迄は必要あるまい。それに御味方の軍は上杉への抑えを残して、西へ返すそうだ。一端、父上は江戸に戻られると文にはあった」
「左様でございまするか」
妻が安堵したらしく溜息を吐き、頬を信吉の胸に当ててくるのに、彼も妻の髪をそっと撫でた。
「……義姉上、お可哀想。きっと……気を揉まれる事でしょう」
「ああ」
細かい事情などは信吉にも分かっていない為、短く応じ、その夜は慰め合うように身を寄せ合って過ごした。
信吉にとってもー無論妻にとってもーこのように大規模な戦に、自分自身、自分の親族や家が巻き込まれるなど初めてだ。
(いや。巻き込まれたのではない、な。……父上が戦を起こしたのだ)
だがそれも徳川家や徳川家に仕える者達を守る為、致し方のない避けられなかった戦なのだと信吉は己に言い聞かせ続けた。
各地で戦ーあるいは戦とは言えない小競り合いーが起きている中、江戸城は不安と焦燥が渦巻いてはいても、あくまでも平和で穏やかな場所だった。
あるいはぎりぎり迄、父が出立せずに城中に構えていたから、かもしれないが、家臣等の中にはやきもきする者も多い中、傍近くに寄る事が出来る信吉には、父も又珍しく鬼気迫る表情を隠しもせず文机に向かっていたから、おそらく戦に関わる内密の書や文を綴っていたのだろう、と推測し、何も出来ぬ自分を申し訳無く思ったりした。
父は漸く長月初めに江戸を出立したが、その月の半ばには関ヶ原の地で石田三成が率いる反徳川勢力というべき連合軍と対峙し、その日一日ー正確には半日ーで、勝利したと報せる早馬が到着した際には、それこそ城中及び国中が喜びに湧き、数日は浮かれ騒ぐ者も多かった。
それ程に家中の者、領内の者、つまりは直接徳川家に属し仕える人々が感じていた恐怖と不安は強かったのだろう。
だが信吉が配下の者達の馬鹿騒ぎを許したのは一両日の事で、それ以降は奉公に対して不忠であったとして厳しく罰した。
無論、皆、数人が厳しく叩かれ晒された事で我に返り、常の平静を取り戻したが、信吉と同様心は軽かったのだろう。
(これで父上を攻めようなどと思う慮外者は最早おるまい。父上はこれ迄以上に強い権勢を集め、揺るぎない地位を築かれるのだ)
信吉はそう信じて疑わなかった。
父は徳川家や一族郎党皆を率いて、より良き世を造ってくれるのだし、己もその手伝いをするのだと。
*
妻や武田家の旧臣等を率いて新たな領国へ入国し、信吉は大いに安堵した。
以前より禄高は倍近くに増えているし、開墾すれば更に豊かな地となると、信吉だけでなく家臣等も見ている。
この分ならば、更に母方の実家である旧穴山家の家臣達の内、離散してしまった者達を呼び寄せ、養う事も可能だろう。
漸く亡き母に、そして江戸に留まっている後見人の今迄の苦労に報いる事が出来ると思うと嬉しかった。
更に遠い場所へ来てしまったと思っているのだろう、少し哀しげな妻にも言い聞かせる。
「我等も新しい気持ちで生きて行こう。もう義父上と義母上の事は気に病むな」
「……殿」
「私もそろそろ親となりたい。兄上と義姉上のように、我等も子を作ろう。私も兄上のように、姫が何人か欲しい。男児は姫達の後で構わぬ」
江戸で何度か相手をした愛らしい姪達を思い出して頬を緩めていると、妻が軽く彼の手を抓ってきた。
「これ」
「だって。旦那様ったら、千姫達のことを可愛がり過ぎですわ!」
「そなただとて可愛がっていたではないか」
「私は良いのです。叔母ですもの」
「私だって叔父だ」
何時の間にか、妻とは仲良く言い合ったり笑い合ったり出来る様になっていた。
あるいは傍から見れば、自分達も江戸の兄夫婦のように睦まじい鴛鴦夫婦のように見えるかもしれない、と思うと面映ゆくも誇らしい。
「ずっと……傍に置いて下さいませ」
妻がそっと訴えてくるのを信吉は可能な限り優しくと心掛けながら抱き寄せた。
信吉にも決して、妻との誓いを破る心算は微塵も無かった。
病の床に就いていた際、信吉の気掛かりは、既に武田家の旧臣達のことではなく、一人残していかねばならない妻の事だけだったが、泣いている妻を眺めながら、己の望みが叶わなくて良かった、とつくづく思った。
まだ若く美しい妻は、己との間に子が無い方が新たな縁を得やすいだろう。
父に任せておけば、妻にも更には妻の実家にも良いように必ず計らってくれるだろうと信吉は己に言い聞かせ続けー父はその年に武家の頭領である征夷大将軍の宣下を受けていた。最早、武家の中に、いや日の本において、父に逆らう者などいる筈がないと信吉は確信しているー、既に充分苦しんでいる妻を心配させたり、困らせてはいけないと思った。
想い続けた。
「……旦那様」
泣きながら呼び掛けてくるのにも、笑みを返したつもりだが、失敗したのかもしれない。
(私の生は……まさしく仮初めのものだったのかもしれぬ。結局、父上の為に、兄上の為にも何も出来なかった。徳川の世はこれからだというのに)
そんな風にも思いながら、妻が必死といった感で縋り付いて来る手に、安堵と幸福感を覚える。
「そなたと、一緒になれて幸せだった」
漸く音に出来た声は、自分のものと思えぬ位擦れた弱々しいものであったが、妻はきちんと聞き取ってくれたらしい。
涙を吹き飛ばさんばかりに激しく何度も頷いてみせる妻に、彼は一層幸せな心地となった。
(そなたも幸せと感じてくれたなら、嬉しいのだが)
だが続く言葉を口にする力は最早彼には無かった。
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