蟷螂の君

 唯一人の同母兄が妻を、しかも太閤の養女を娶る事となったと聞いて、忠吉はひたすら喜ばしく目出度い事と先ずは祝賀の文を送った。


 同じ母を持ち、幼い頃は共に育った年子の兄弟、というだけでなく、忠吉は純粋に兄を好いていた。


 幼い頃は気性が激しく、頑固な童子ではあったが、弟である忠吉ーその頃は福松丸などという少々気恥ずかしくも目出度い名で呼ばれていたが、兄は単に彼を福、と呼んだ。兄は長丸と言ったが、当初は長松丸と名付けられる筈だったとも聞いているーや、彼等兄弟に仕える幼い小姓等には優しかった。

 兄の攻撃対象は、己より目上の者達ー口喧しく子等を叱りつける癖に、大人達の目を盗んで勤めを怠っていたり、無意味に居丈高に振る舞う者達ーで、一体如何様にして思い付いたのだろう、と長じてからも忠吉が不思議に懐かしく思い出すような、周到で効果的な悪戯を、子分手下である忠吉等を率いてしてのけたものだった。


 だから忠吉は兄こそ大将の器であると信じていたし、豊家へ養子にやられた次兄の代わりに兄が世嗣としての傅育を受けるようになったのも当然と受け止めた。

 兄と引き離された形となったのは寂しかったが、忠吉自身も徳川宗家を支える領国の国主となるべくその頃より別途教育され、鍛えられーつまりは母の許を離れたのは兄と同じ頃合いだった。


 重みは違えども、同じ境遇、同じ責務を負っているとの連帯感と共感を忠吉は兄に対して覚えていたし、兄も又己に対してだけは、世嗣として振る舞うようになった後も心を開いてくれていた、と思う。


 そんな兄が豊家の姫を迎えれば、朝廷や大名諸候等の間だけでなく家中に置ける立場は一層盤石となるであろうし、無事、家督を継ぐ事も叶うだろう。

 そんな風に彼は単純に考えていた。


 慶事の為、忠吉は直ぐさま伏見へ向かった。

 些か急な縁組みであるだけでなく、祝言の日も近いのは、先頃京で起きた政変ー正確には太閤による、継嗣である筈の甥及びその一族の粛正ーのせいだとは、流石に忠吉も承知している。


 世情を宥める為、豊家と徳川の結託を再度周知させる意味合いがあるのだろう。


 それでも兄の為には望ましい、相応しき慶事だと信じて、忠吉は先ずは父の邸を訪れた。

 父から、祝言の付き添いについての打診もあったのだ。


「態々すまなかったな、忠吉」

「いえ」

「だが秀忠も其の方が傍に居るのが一番心強いであろう故」


 穏やかに慈愛溢れる父の言葉に、忠吉は容易く感動した。

 彼にとって、常々父は厳しく偉大ではあるが、この世で最も敬愛する武将であり主君であり、偶さか、父としての愛情を示されればそれで充分だ。

 元々ー四男という立場上ー多くを望んではいない。


「次は忠吉様の番ですな」

 父の側近にからかわれるのに、忠吉は大いに閉口しつつ概ね上首尾と安堵して父の邸を辞した。

 子である以上、父の邸に留まるのも可能だが、やはり今回の旅路の目的である兄に会いたかったし、可能ならば親しく積もる話などしたかった。


 父の邸と隣接した、だが父の邸よりは小振りな勝手知ったる兄の邸へと急いで移動した。

 無駄や贅を嫌う兄らしく、見かけは質素であるが塵一つ無く浄められている状態であるのには、些か遠慮を覚えさせられながらも、逸る心のままに忠吉は顔見知りの兄の臣等に案内され、兄の書院へと入った。


「兄上」

「久しいな。忠吉。……元気そうで何より」

 特に驚きも喜びも示すことなく、兄が普段通り落ち着き払った無表情を向けて来たのに、忠吉は思わず苦笑した。


 家臣等の中には、年に似合わず冷静沈着な兄を頼もしい、継嗣に相応しいなどと心を寄せる者達がいる反面、何を考えているのか分からぬ『能面冠者』などと怖れ敬遠している者達も居る。

 だがそれも兄が他の兄弟とは一線を画した立場、器量の持ち主だからだと忠吉は改めて思った。


「そなたが伏見に参るなど……」

 生母の面影を色濃く受け継いだ面差しは、忠吉にとって無条件で慕わしいものだが、じっと感情の籠もらぬ注視を当てられると何も後ろめたい事など無い筈なのに、落ち着かない心持ちになってくる。


「よもや、私の婚儀の為に態々参ったのか」

「無論にございます。父上より要請がございました故、急いで参りました」

「……」


 是非を判別し難い微かな溜息を兄は吐いてから、それでも忠吉を労うだけでなく、好きなだけ邸に滞在するようにとの許可を与えてくれた。

 だがやはり婚儀の準備、だけでなく城での務めが忙しいらしく、会見の時間は早々に終わってしまった。


 手持ち無沙汰となった忠吉は、彼にとっては不慣れな伏見の町を見物に出掛ける事にした。

 勿論、供回りの者など連れて行く気は無く、近侍等、護衛の者達の隙を突いて抜け出すのも何時もの事だ。

 ーとはいえ、最低限、生命を守る為の影の護衛だけは振り切る事が叶わないとは、渋々ながらも理解している。


 それでも国許とは異なりー彼は現在、駿河四万石の領主だー肩の力を抜いた状態、国主でも徳川家の御曹司でもなく、ただの十六歳の少年として、町中を歩けるなど非常に貴重な体験だ。


(流石太閤殿下のお膝元。新しい城下であるのに随分と賑わっているものだ)


 これならば境や大坂にも負けぬ人の多さ、店や家の多さ、規模なのかもしれない、などと忠吉は思ったが、無論、境などに赴いた事が無い忠吉には確言出来ない。


 おそらく大陸での戦が無事落着し、多くの将兵が国に戻ってきている為、更には領国での厳しい締め付けを嫌った周辺の民が流入しているのかもしれない。

 父や兄が以前憂えていた事なども瞬時深刻に考えはしたが、忠吉はすぐに彼にとっては目新しく珍しい、小さな出店のような店舗に置かれた商品や、突飛な衣を纏ったり髪型をしている通行人などに見取れた。


 行き交う者は皆、生き生きとして忙しそうだ。

 長閑な田舎育ちーと忠吉は己の事を思っているーには、随分せかせかと忙しない歩き方であるような気がしたが、それでも民が元気良く活気に満ちている様は見ていて心地良いものだ。


(殿下は未だ人心を失ってはおられない、らしい)


 少なくとも皆、面に恐怖や不安を出してはいない。

 あるいは関白の悪い噂は真実で、太閤の仕置きを良しとする者が多くいるという事なのか。


 少々、ぼんやりと己の考えにのみ夢中になっていたかもしれない。

 ふいに眼前に現れた華々しい一行に気が付くのが遅れた。

 一瞬遅れて影の護衛が忠吉の腕を引いて退かせたものの、供回りの者達に誰何されるだけでなく、物見高く輿から顔を出した貴人にも見咎められた。


「もしや、徳川殿のご子息では?」

 のんびりと問いながら、忠吉より年少らしい少年ーだが忠吉が思わず目を見張った程に、豪奢な衣を身につけ、貴族の公達顔負けの高雅な香を漂わせているーは、身軽に輿から飛び降りた。

 従者等が慌てて「中納言様」などと呼び掛けるのに、忠吉も漸く相手が誰なのか、見当を付ける。


 素早く忠吉はその場に礼を取り、丁寧に挨拶をした。

 忠吉より二歳年下の筈だが、位階は上、更に言えば、領国の禄高も大差がある相手だ。


「筑前中納言殿」

「面を上げられよ。このような市井では仰々しい礼など無用です」


 さ、行きましょう、などと気安く腕に手を掛けられるのを振り払う訳にも行かない。

 忠吉は戸惑いながらも、今は小早川姓を名乗っているが、本来は豊家で関白の次に重要視されていた後継者候補ー更に言えば、今も北政所一派は、この少年を後押ししており、養家に対して便宜を大いに図っているらしいー年若い貴公子に従った。


 誘われるが儘に、小早川家の伏見邸へ入りー兄の元へは影の者を通して連絡が行っただろうが、忠吉としては微妙に兄に申し訳ないような、粗相をしでかしたような気がしていたー、かといって邸の主も忠吉も、未だ十代の若者同士であるから酒を飲んで騒ぐという訳にはいかず、だが忠吉だけでなく筑前中納言もどうやら根は明るく気の良い少年であるらしく、程無く二人は打ち解けて、気儘に互いが興味を持っている趣味やら書、武芸の話などしている間に日は完全に傾いた。


 勧められるがままに、夕餉の膳を共にする事となり、更に話題は一層具体的な事柄ー城の話や、城で出会う人々、それから互いの周囲の人々に関する噂話や心象等ーへ、移っていく。


「そういえば、忠吉殿の兄君は近々祝言を挙げられるのですよね」

 自然に為された、忠吉の此度の上洛理由への言及に、忠吉は素直に頷いた。


 別段隠すような事ではないし、忠吉にとってはただただ誉れ高く、何より兄が誇らしい、そうした気持ちが強かったのだ。


「そういえば、義姉上となられる御方は、豊家の養女であられる御方とか。秀秋殿は何か御存知ですか?」

 既に諱で呼び合おう、などと了解し合っている。

 そうした互いに心をある程度許しあっているのだという気安さも有り、幾分迂闊かもしれないが、忠吉は生来の人懐こさを発揮して尋ねてみた。


 実際、兄嫁となるひとが如何なる女人なのか、兄の婚姻が決まって以来ずっと気になってならなかったのだ。

 ーそれ迄も様々な、だが曖昧過ぎる噂話は朧に耳に入っているが、噂というものが如何に頼りにならず、真実とは程遠いとも、若年ながら忠吉は承知していた。


 人の印象というものも完全に当てにはならないかもしれないが、しかし直接対面し言葉を交わした者の話ならば、ある程度の信は置ける筈、と思っている。


「それは……無論、姫は、私が幼い頃より、よく北政所様の許へも出入りしておられたから」

 秀秋が僅かに逡巡を見せながらも応じた言葉に、忠吉はこれ又素直に飛び付いた。


「如何なる御方でしょう?いえ、豊家の姫ともなれば、嫋やかで誉れ高き姫でしょうが。……以前は、岐阜宰相殿の北の方であられた、とか」

 少々、どころか大いに気になっていた点だった。


 実は今年十七歳の兄ですら初婚ではないのだが、兄の場合は、あくまでも豊家との関係を保つ為の約として、未だ元服したばかりの頃にこれ又幼い姫と縁を結んだだけで、実際に夫婦になった訳ではない。

 家臣等が大きな声では言わないが、第一に不満不平として表していたのが、相手の姫君が既に二度も別の男に嫁している、という点だった。


 だがこれも、実際的な父辺りに言わせれば、引く手あまたの権勢と容貌の姫、という事だ。

 疑っている訳ではないが、流石に単純に信じる事も出来ずにいた忠吉だった。


「……まあ、確かに、見目は良い方でしょう。何と言っても血筋が血筋な姫ですから」

「……」

「ですが」


 秀秋が、何か言いかけてすぐに続く言葉を呑み込んでお愛想程度に置かれていた盃を手にして唇を湿すのに、忠吉は不安を覚えた。

 幼い頃から知る相手であるというのに、言葉を濁す、その意味あるいは原因があるのだ、と理解したのだ。


「……淀の御方も非常に美しい女人であると聞き及んでおります。姉君のように美しい御方なのでしょう?」

「いや、あの姉妹はあまり似ていません」

 きっぱりと断じられるのに思わず目を丸くした忠吉に、秀秋は宥めるような笑みを浮かべた。


「いえ。美しくない訳ではありませぬ。だが……何というか、あの姫は」

「はい」

「例えるならば、雌蟷螂のような姫君だと私は思います」

「……」


 年下の少年の口から突然、だがあるいは如何にもその年齢に相応しい、子供らしい例えが出て来たのに、忠吉は瞠目した。

 目を瞬かせながら当惑している内に、秀秋は幾分頬を上気させながら今迄とは段違いな熱意を以て続ける。


「あの姫の最初の夫は、佐治一成という者だったそうですが。姫が嫁入った際は小さくとも一国一城の主であったにも関わらず、姫と離縁した際には国を失い、城を逐われ、今では縁者の情けに縋る一従者に成り下がっているとか。二度目の夫の秀勝殿は御存知の通り、大陸の戦に出征され、戦場で華々しく討ち死にならばいざ知らず、病を得て亡くなったのです。誠に運が悪く、不幸な星の下に追いやられた、そのようにしか私には思えません」

「……」

「御存知でしょう?蟷螂の雌は、交尾した雄を生きたまま喰らう、そういったおぞましい生き物です。……幾ら美しかろうが、不吉極まりない」


 頑なな表情を固定させた儘、苦々しく吐き捨てるように付け加えた少年の言葉を、忠吉は何度か頭の中で反芻した。

 それから、しかし如何にも徳川家の御曹司らしく、慎重に応じる。


「ですが。姫には何の罪咎もない事ではないか、と」

「罪ではなく。不吉なのですよ。存在自体がね。……雌蟷螂が雌蟷螂であるのは、別に罪ではありません。ただそのように生まれついた、というだけですから」

「……」


 その後の会話は流石に弾まず、また夕餉の膳も無事空いた為、忠吉は差し障りないだろう挨拶を並べて、小早川邸を辞去した。


 既に遅い刻限であったし、少し一人で考え、頭を整理すべきだと感じた為、忠吉はその夜、兄とは会わなかった。

 心地良い褥の中で悶々と思い悩みながらその夜は過ごし。

 やはり兄に話すべきだと忠吉は決断した。


(兄上は何もご存じないに違いない。いや、それどころか、御家の為になる縁談と、快く受け入れておられるのだ。御家にも父上にも忠義を誓っておられる御方だから)


 兄は世嗣と決まって以来、ただひたすら生真面目に一刻に、己の務めを果たそうと弛まぬ努力を重ね、今現在に至っている。

 兄はあくまでも世嗣として、御家の略、権門に有利な縁談相手としか思っていないのだろう。

 豊家は、少なくとも内心では父や徳川家を煙たい存在と思っているであろう太閤は、災いの種子として、あるいは厄介払いとして、不吉な凶運を負った女人を押し付けて来たのだろうに。


(兄上は余りに御自分のことを考えなさ過ぎるのだ。もう少し御自分の身を大事になされなければ……母上が悲しむ)


 母は命尽き果てるその時迄、期せずして世嗣としての重荷を背負わねばならなくなった兄の事を案じていた。

 母の為にも、同じ母を持つ弟として、また一番年の近い兄弟として兄を守らねば、との一念が完璧に固まっている。


「兄上!」

 どうやら朝の稽古をしていたらしい、庭に出ていた兄の元へと駆け寄った。


「忠吉。良く眠れたか?斯様に早く起きずとも良かったのに。そなたも損な性分だな」

 穏やかな微笑と共に兄は言い、手にしていた弓を傍に控えていた近習に渡した。


 線の細い印象のある兄だがそれは母親似の容貌のせいで、国主代行としての些か荒っぽい務めを果たしてきた証が兄の肌身には刻まれている。

 兄自身も忠吉等と同じく、徳川家の男児であり、父及び譜代の家臣等によって、武将としてあるいは君主としての力量と技能を要求され試され続けているのだ。


「朝餉は摂ったのか?私はこの後城へ赴かねばならぬが」

「さ、左様ですか」


 暗に邪魔をしないようにと釘を刺されているのだろうか、と不安になったが、兄の機嫌を窺い難い眼差しに、これは近しい兄弟だからそれと分かる己への懸念を読み取って、忠吉は身の強張りを解いた。

 己が緊張を露わにしているだけでなく、切羽詰まったような表情を浮かべていたとは、気付かない。


「実は。此度の、お相手の姫について、尋常でない話を聞き及びました。正直、このままこの縁談、整えて良いものかどうか、疑問なのです。兄上の御為になるとは、この忠吉、全く思えませぬ」

「……」

 忠吉の訴えを兄は生真面目に受け止めたようだった。

 僅かに首を傾けるのは兄が真剣に検討しているからだろうとは、忠吉には分かった。


「既に決まった話だ。覆す事など叶わぬ」

「いいえ!あ、あのような不吉なるおなごを迎えられて、兄上の身に何かあっては如何するのです?!兄上から言い出しにくいのならば、私から父上にお願い致しまする!」

「……」

「どうかご再考願います!このまま、流されてはなりませぬ!兄上の御生涯に関わる事でございます!」


 兄の秀忠は、普段と変わらぬ無表情であったが、忠吉は己が昂奮し過ぎたと覚って口を噤んだ。

 兄は感情に任せた無分別な言動を好まないのだ。


 兄に嫌われるかもしれないと思うと訴えを続ける事は出来ず、かといって兄の行く末を思えばこのまま引き下がる事も出来ず、忠吉は進退窮まった状態で、押し黙ったままその場で身を固くしていたが。


「……浅井の姉妹は男を容易く誑かす、怖ろしいおなごだとでも聞いたか」

「え」

「特に三の姫は父母や国を滅ぼした世を恨み、夜な夜な男の生き血を啜り、弱らせる怖ろしい性を持つ、とでも?」

「あ、兄上?!そのような流言迄ある姫なのですか?!」


 仰天して又も声を荒げてしまった忠吉に、今度はあからさまに兄は目線で制してきた。

 周辺で仕える者達の耳を憚ったのだと理解して、忠吉は気を鎮めようと努めたが、これ以上黙ってはいられなかった。


「御存知なのでしたら……どうか、お止め下さい。いくら御家の為とはいえ、兄上が御自分を犠牲にされて迄受けるべき縁談ではありませぬ」

「豊家との縁談、断れる訳があるまい」

「で、ですが!強制ではないと聞きました!殿下は寧ろ、成らずとも当然と思っておられたとか。今、断っても致し方ない事と理解して頂けるであろうと」

「……そのように金吾殿が仰せか」


 はっきりと言い当てられ、忠吉は仕方なく素直に頷いた。

 情報源を明らかにするのは、何となしに告げ口をするようで嫌だったが、しかし確かな、根拠のある話だと兄に分かって貰う為には仕様がない。


「他に、金吾殿は何と」

「……姫は、雌蟷螂だと。……雌蟷螂が雌蟷螂である事に罪はないが……お、おぞましい生物だと」

「成る程」


 特に心動かされた様子もなく、兄が軽く頷くだけなのに、忠吉は兄が己の言葉を、あるいは知己となった少年を信じておらぬのだと感じ、一層の焦りを覚えて言い募る。


「秀秋殿は率直で思い遣り深い方です!最初は躊躇っておいでですが、知己となった私の為に、殿下の内意に背いて迄、家中の恥にも敢えて口を開いて下さったのですよ?!」

「……左様か」

「兄上!後で無かった事には出来ぬのです!一端、縁を結ばれたら、養家の手前、遠ざけるのも難しゅうございます!一生、禍々しいおなごに縛られるおつもりですか?!兄上まで岐阜宰相のような浮き目に遭われたら、この忠吉は泉下の母上に申し訳が立ちませぬ!」

「忠吉」


 衣を整え、従者が差し出した水で手を浄めた後、兄は徐に忠吉に向き直った。

 真正面から真っ直ぐに面を合わせられるのに忠吉は少々どぎまぎしてしまったが、兄は特に気付いた風も気にした風もなく、忠吉の肩に軽く手を掛ける。


「兄上」

「率直で心優しいのはそなただ。余りそのように気に病むな」

「兄上!ですが、秀秋殿は姫の事も幼い頃より御存知だとか。全て真実なのです!不吉なおなごなのです!兄上に災いしか齎さぬのですよ!」

「分かった分かった」


 更にぽんぽんと肩を叩かれるのに、流石に抑え切れず忠吉は幼い頃のように頬を膨らませた。

 兄がくすりと小さく笑って頬を突くのに、慌てて表情を整えつつも面を下げる。


「……金吾殿は確かに豊家に連なる御方だが」

「……」

「しかし、今は、毛利の一門でもある。……親しくなるのは構わぬが、相手の素性や背景は、努々忘れてはならぬぞ」


 兄の言葉は数瞬遅れて、忠吉の中に完全に浸透した。


「で、では……豊家と徳川の離間を謀った、と?」

 震える声で小さく呟いた言葉に兄は応えず。

 瞠目しながら兄を見上げる弟に、秀忠は穏やかに、だがきっぱりと宣告した。


「か弱い女人を貶めるような言は今後一切許さぬぞ。私の妻となるひとだ。つまり、そなたにとっても義姉となるのだからな」

「……はい」


 兄が既に心を完全に決めているとだけはーその理由も動機も理解出来なかったがー覚って、忠吉は最早何も言えなくなってしまった。


 *


 冬場は戦で受けた古傷が痛む。


 だが「叔父上様~」などと呼び掛けつつ抱き着いて来る無邪気で愛らしい姪姫達を抱き上げる際は痛みになど構っていられないと忠吉は思っていたし、実際、団子状で襲いかかってくる姫達を嬉々として受け止めた。


 彼自身には未だ子が無い。


「まあまあ、お千、お勝、いけませんよ。行儀良くしないと」

 後から末姫を抱いた乳母を伴って追いかけてきた義姉が慌てて諫めてくるのに、忠吉は笑顔で応じた。ついでに乳母から四の姫も抱き取る。


「良いのですよ、義姉上。このように私の事を忘れずにいてくれて、嬉しい限りです」

「でも」

「まことに愛らしい姫達だ。兄上は果報者であられる」


 義姉の後には過たず兄も付いてきていたから、心中では苦笑しつつ兄に対して言う。

 未だに兄は、麗しい妻を一人で他の男ー例えそれが親兄弟であっても、だーに会わせようとはしないのだ。

 忠吉は、単純に如何にも慎重で謹厳な兄らしい、と片付けていた。


「姫達の行き先が皆、決まっているのが残念です。私も一人、貰い受けたかった」

「愚かな事を申すな。そなたは若いのだ。これから己の子を嫌という程作れば良い」

「さ。それは如何なものでしょうか」


 己の命の長さ、後どれ程猶予があるのか、神ならぬ身である忠吉には分からなかったが、しかし年々身が弱っていくのだけは感じている。

 更に言えば、子を作るといった事も、己には無理であろう、とも。


(あるいは、災いは、愚かなこの身に降り掛かってくれたのかもしれぬ)


 並んで腰掛け時折見つめ合ったりしている、未だ新婚のように仲睦まじい兄夫婦を眺め、そんな風に思ったりもした。


 兄が妻子をこよなく愛し慈しんでいるだけでなく、義姉となった豊家の姫が養家よりも兄と婚家を選び、一途に心と誠を捧げてくれているとは、傍で見ているだけの忠吉にもそれと知れる。

 色々と口さがない、愚かな事を言う者も居るには居たが、この夏、病で身罷ってしまった兄の子ーこれは忠吉など兄らしくないと感じ戸惑いはしたが、先の戦の折りであれば、確かに兄も色々と鬱屈があったろうから致し方ないのだろうと思い、又義姉もそのように寛容に考えてくれたのだろうーを猶子として可愛がっていたのも、兄への愛情、更に徳川家への誠心故だろう。

 一時期義姉は、猶子を失った哀しみの為に暫し床に就いていたとも聞いているし、その為、一層兄は妻への想いを深めたのだろう、と幼い頃から兄を知る忠吉は納得していた。


 それに、実際、義姉は兄が心を尽くし大切にするのも理解出来る型の人柄、つまりは、忠吉や忠吉の妻、家中にもこまめに時節の折々には衣やら反物やら心尽くしの品を贈って寄越したり、近況伺いの文も欠かさない、律儀な女人だった。

 同じく律儀過ぎる兄とは似合いの女人、とも言える。


 義姉の心根や言動は、世が太閤という稀代の専制君主を失い見事に移り変わる以前からのもので、決して養家の凋落が理由では無い。

 その証拠に、兄の妻は、兄だけでなく家中でも既にー未だ男児を上げていないにも関わらずーその人柄を愛し慕う者達に、非常に重んじられ、大切にされている。


「もうすぐお千も輿入れなのですね。……寂しくなりますな」

「ええ」

 途端に不機嫌にむっつりと塞ぎ込んだ兄の様子をちらと義姉が気掛かりそうに窺うのも少し可笑しかった。


「お初は何時頃京極家に?」

「お千の上坂時に共に、と話は付いております」

「左様ですか。……それはますます遺憾な」


 一層兄がふて腐れて、娘達を取り戻し膝の上に乗せるのに、最早忠吉は苦笑を抑え切れなかった。


「兄上。致し方ないではありませぬか。兄上もご了承の上でしょうに」

「……分かっている」


 低く応じたものの、兄は艶やかな一の姫の髪に頬を当て、四の姫の幼い小さな身を抱き締めた。

 三の姫も又、兄に良く似た無表情ながら、ぴったりと兄の膝に頭を押し当てている。

 父親の気持ちを察して姫達も湿っぽい気分になってしまったらしい。


「もう、旦那様ったら!弟君の前で恥ずかしい振る舞いはお止しになって」

「何処が恥ずかしいというのだ。私は私の可愛い姫達と心の交流をしているだけだ」

「ま。……本当に姫達には甘いのだから」


 義姉はそれこそ、姫達と変わらぬ素直さ無邪気さで紅い唇を尖らせて、だがそんな表情のまま、忠吉の目線にも気付いたようだった。

 頬を染めながら素早く笑顔を取り繕い、穏やかに話し掛けてくる。


「どうかゆっくりしていって下さいね。旦那様もずっと、忠吉殿の事を気に掛けておられたのです。湯も草津より運ばせましたわ。遠慮無く何でもお申し付け下さいませ」

「お気遣い有り難う存じます」


 兄夫婦はやはり己の身を案じていたのだと改めて覚り、忠吉は申し訳なく思ったが同時にとても嬉しかった。

 周囲の者達ー家内の事情を理解していない外様連中達だけでなく、譜代の者達や家臣等迄ーが何を言おうと、彼にとって父の後を継ぎ、更に明確に言えば己の主となるべきは、目の前に居る兄唯一人だ。


(兄上には是非に、将軍職を継いで頂かなくては、ならぬ)


 年が明ければ、父家康は武門の頭領というべき征夷大将軍の宣旨を受ける段取りが既に整っている。

 世はー特に、大坂及び大坂に未だ纏ろう者達はー騒然としているが、忠吉等徳川一門及び徳川に与する者達にとっては当然の成り行きであり沙汰であった。


 更に、父には一層進んだ展望と政略があると、忠吉等兄弟は既に知らされていた。


 忠吉と、更に言えば遅れて江戸に到着する予定の異母兄は、父より内意を受けている。

 表立って反意は示さないが、内心では父の決定である徳川家による将軍職継承を義でないとして面白くなく思っているであろうーと父も兄弟達も、兄の性格からそのように推測しているー兄を何としてでも説得し、承伏させねばならない。

 父の征夷大将軍就任とほぼ同時に、兄には、次期将軍となるべき後継者ー右大将ーとして、任官を受けさせる、というのが父の計画であり、その後には兄の一の姫の大坂入りが控えている。


 それが世の為、徳川家、家中の為というだけでなく、兄や兄の妻子の安堵の為だと訴える心算だ。

 未だ、兄が一心に寵愛している義姉に男児がいないのは、この場合、格好の交渉材料となる。


 兄が己の妻の為ならばー己の妻を傍に置く為ならばー何をするにも躊躇わないし、常の堅固な道義心すらねじ伏せるとは、父及び兄弟等共通の認識であり、又立証済みの事実だった。

 既に父はさり気なく、だが勘の鋭い兄ならば当然それと覚る程の圧力を掛けていると聞く。

 異母兄だけでなく忠吉も又今回は父を支援し、加担する立場だ。


 己も随分と『徳川』の人間らしくなって来た、などと思いながら、それでも兄への思いは変わらないと忠吉は改めて確認する。


(この命ある限り。……俺は兄上を守る。兄上に、従う)


 徳川の世は、未だ黎明に差し掛かったばかり。

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