連城の璧
完の最初の記憶は、とても美しい、花のように微笑むひとの姿、だ。
何を言っているのかは分からないが、その笑顔と同じく柔らかい響きの声音が耳を擽る。
たぶん、幼い、赤子の頃にあやしてくれた声なのだろう。
頬に触れる感触、切なくなる甘い懐かしい匂いは、だがとても遠く。
二度と届かないと、彼女は知っている。
*
完は幼い彼女には少々大きいかもしれない鞠を両手で抱えて走っていた。
手鞠は、完の母が作ってくれたもので、色とりどりの綺麗な糸で複雑かつ優雅な模様が縫い取りされている。
その美しさもさることながら、母が一生懸命夜なべ迄して作ってくれたと知っているから、鞠は完の一番のお気に入り、大事な大事な宝物だった。
(御祖母様や伯父様に見せてあげるんだ)
そんな、幼い完にとっては切実かつ懸命な思いで彼女は動いていた。
幼くはあっても、母と自分を守ってくれるのは、「豊家」と呼ばれる御家の頭領である伯父と、伯父を何かと支援している祖母なのだろうと判断していた。
より複雑な事情や人間関係が渦巻き暗雲となって己の上に影を落として来ようとは、幼い完が気付く筈などない。
(伯父様だ!)
すらりと背が高く若い男の後姿を発見して、完は迷わず飛び付いて行った。
伯父が普段庭に居ることはなく、最近では何やら妙な匂いのする「酒」と呼ばれている飲み物を浴びるように飲んでいるばかり、というのは考え及ばなかった。
「……これは。何処の姫かな」
知らない人の声だ、と判断して、完は慌てて男から離れた。
弾みで鞠を落としてしまい、大事な宝物が地面に落ちるだけでなく転々と転がって行ってしまうのに、完は泣き声を上げる。
「完の、完の宝物~っ」
「待て待て」
男が穏やかに宥め。
更に素早く鞠を追いかけて拾い上げ、丁寧に土を払う。
恨めしげに見上げていた完の許へ戻ってくると、その場に膝を付いて鞠を完の両手に持たせてくれた。
「大丈夫。とても綺麗だ。汚れてないよ」
「うん!有り難う!」
嬉しくて見知らぬ男への警戒心など忘れ笑顔で礼を言った完に、男は物柔らかに微笑み返した。
更にそっと、注意深く掌を完の頭に当てて、大切そうに撫でてくれる。
ふいに奇妙に切ないような、哀しいような心地を覚え、完は思わず問うていた。
「もしかして父上様?完の父上様なの?」
伯父は父の兄と聞いている。
父は遠い空の向こうへ行ってしまったと聞かされていたが、完はこっそり密かに、いつか父は完の所に戻って来て、完と母を守ってくれる筈だと信じていた。
幼く、だからこそ一途で真摯な完の願い及び望みを、男は軽く頭を振って簡単に否定してしまった。
「違う。でも」
がっくりと肩を落とし俯いた完の頭を暖かい手が又も撫でてくれた。
「姫と姫の母上さえ良ければ、姫の父上になりたいと思っている」
「ほんとっっ?!」
嬉しくて慌てて見上げ、意気込んで確認した完に、男はとても綺麗で優しい笑みをくれた。
「伯父様。伯父様に教えてあげないと!」
伯父はー頭がハッキリしている時はーとても完を可愛がってくれている。
完に新しい父親が出来ると知れば、きっと喜んでくれる筈だなどと思ったのだが。
「姫の伯父上は今眠っているから」
やんわりと止められて、完はすぐに諦めた。
眠っているということは、「酔っ払っている」という事だ。
「それに。危ないからね。……もう二度と、伯父上に近付いてはいけないし、此処に来てはいけないよ」
「え。でも」
思いも掛けない事を言われ、完は目を丸くして男を見上げたが、男は又も完の頭を撫でただけで、完の知りたい答えをくれなかった。
「伯父様は……」
「いいね。約束して。二度と此処に来てはいけない」
「……」
「約束してくれるなら。きっと必ず、私が姫の父上になるよ」
「本当?!」
完にとって何より優先させるべき望みを提示され、完はすぐに飛び付いた。
他の小さな子達には、ちゃんと父親がいると完は知っていたし、どうやら父親がいない子というのは自分だけなのではないかと、不安を感じ始めていた頃だった。
「ああ。必ず」
「じゃ、約束する!もう、来ない」
完がきっぱりと断言すると、男は僅かに漂わせていた緊迫感を和らげ元の優しい笑みへと戻った。
心揺さぶられ、惹き付けられる笑顔だった。
「良い子だね。……さ、そろそろ母上の所に戻った方が良いよ。とても心配しているだろうから」
「うん。そうする」
鞠を確りと抱き直してから、完は駆け出した。
だが庭を出る前に振り返って、確認する。
「約束よ。絶対、よね?」
「ああ、絶対だ」
大いに満足して、完は伯父の邸を後にした。
通りに出たところで、完を追いかけてきておそらく探し回っていた侍女に捕まり、母の許へ連れ帰られる。
男が言っていた通り、母は酷く心配し、心乱していたようで、泣きながら二度と勝手に出て行かないでくれと訴えられ、完も泣きながら誓った。
そんなこんなで男のこと、更に男と交わした約束を母に話すのを忘れてしまったが。
翌日から、周囲、どころか聚楽第と呼ばれている町全体に騒々しい殺伐とした空気が充ち。
普段はおっとりとして常に完の傍にいてくれる母迄も何やら頬を引き攣らせて慌てたように何処かへ出掛けてしまう日々が続いた。
一体何が起きたのだろうと不安を覚えながらも待つしか出来なかった完はやがて母と共に邸を出て、祖母の元に身を寄せた。
良くは分からなかったが、どうやら母と完は、邸から追い出されたらしかった。
(どうして伯父様は助けてくれなかったのかな。……完のこと、可愛いって言ってくれたのに)
哀しくなって、だが伯父の名を出すと母や祖母が泣き出す様子が怖ろしく、何も言えなかったし問う事も出来なかった。
その内、更に母と完は祖母から離れ、今度は母の姉である伯母の邸へ移動した。
時折、母が伯母と争っている声が聞こえたが、大体母が声を荒げる事など今迄無かったから、完の不安と怖れは日々強まり高まる一方で。
そしてある朝。
目覚めると、忽然と母の姿は傍らから消えてしまったのだった。
それでも枕元に安置されていた鞠を手に取り、完は母を求めて、邸中を探したが、何処にも母は居らず、何日も泣いて過ごしたが母は完の元へ来てくれなかった。
誰も何も教えてくれなかったが、どうやら母は二度と戻って来ないとー父と同じく空の向こうへ行ってしまったのだとー覚って、完は母を恨めしく思ったが、幼く小さな完には当然何も出来ず、その後は伯母の庇護を受けて暮らした。
伯母は堂々とした美しい女人であったが、母とは全く異なる人で、幼い完に対しては優しかったものの、決して怒らせてはならない、という気がした。
母が相手ならば、大人しく従わなかっただろうが、つまらなくて退屈なお稽古毎や手習いなどに真面目に従事したのも、最早伯母しか頼る相手が無いと完が承知していたからだ。
時折、伯父の邸で会った名も知らぬ男ー父になってくれるといった人ーの面影が脳裏に過ぎったが、しかし母がいなくなってしまった以上、父親などいらないと、完は意固地に決めていた。
父が欲しかった理由の一つに、母がいつも寂しげかつ哀しげだったというのがー母を守って安心させて欲しかったというのがー、あったのだ。
暫く経ってから、姉弟として親しむように、等と伯母に言われていた「若君」から、母の失踪の理由を聞かされた。
「叔母上は徳川家に嫁いでしまったんだ。叔母上は……もう戻って来ないんだ」
おそらく「若君」自身も寂しく辛かったのだろう。きつく鋭い言葉で告げられた真実に、完の心は傷付いたが、しかし既に涙に暮れる事は無かった。
幾ら泣いても母は戻ってこないと分かっていた。
(母上様は、父上様のことも伯父様のことも御祖母様のことも、伯母上様のことも若君も……完、のことも、忘れちゃったのかな)
哀しく切ない想いは募るばかり。
だが完は最早涙は零さず、現実を受け入れ、日々の務めに励んだ。
何としてでも養い親となってくれている伯母の気に入るように振る舞い、今度こそ見捨てられないようにしなければならなかった。
そうして、完が十二歳となった初夏。
縁談も調い翌年には嫁ぐ事となったと伯母に申し渡されたのと同時に、間もなく東から「若君」の許婚が嫁いで来ると聞いた。
「若君の……というと、徳川の」
つまりは異父妹だと分かっていたが、完は口にしなかった。
伯母にとって不快な話題であると、鋭く勘付いていたから、なのだが。
「ええ、お千ですよ。そなたの妹の。何と目出度い事でしょう!」
思いも掛けぬ伯母の反応ー心から嬉しげに、満面の笑顔にすらなっているーに驚きながら、完は穏やかに受け止め、流した。
「左様でしたか。ではますます御家は目出度く繁栄致しますね。お祝い申し上げまする」
「ええ、ほんに、嬉しい事です。これでそなたが九条家の政所になれば、豊家と若君は御安泰」
謳うように続ける伯母に丁寧にお辞儀をしてから、完は退出し己の部屋に戻った。
(妹)
確か今年七歳だと聞いていた。
まだほんの子供で、嫁ぐとはいっても形ばかりの婚儀となるのだろう。
そしておそらく、伯母自身の思惑はどうあれ、豊家家中の者達にとっては、妹は人質としての意味合いが強い存在に違いない。
(でも七歳になる迄、父上様や母上様と一緒に過ごせたのだもの。……幸せだわ)
完自身は父の顔すら知らないし、母と別れたのは、僅か四歳の時だった。
別に羨ましい訳ではないがと片付けて、完は日常に戻った。
嫁入り先が決まった以上、そして公家、しかも摂関家に嫁入る以上、これからは一層気を引き締め、花嫁修業に努めなければならない。
決して豊家の名を貶めてはならないのだ。
名しか知らない、しかも半分しか血の繋がっていない妹の事を案じている場合ではなかった。
そう、思っていたのだが。
実際に大坂に、城の中にやってきて共に暮らし始めた幼い姫を見ると、何やら切なく胸が締め付けられるような気がした。
朧となりつつある記憶ではあったが、確かに妹の顔には懐かしく慕わしい母の面影があったのだ。
「仲良くしましょうね。私達、本当の姉妹なのだもの」
そう言ってやると、妹は不思議そうな顔をしながらも素直に頷いた。
「それなら、母上様とお初に会って下されば良かったのに」
そして妹が何の気無しに呟いた言葉に、完は驚き、思いの外強く妹を凝視してしまったらしい。
妹が戸惑いと不安を見せるのに、慌てて笑顔を取り繕った。
「母上様とお初って?」
穏やかに問うとこれにもごく素直に千姫は応じた。
「お初は一番下の妹で、まだややこなんだけれど、京極家の子になるの。母上様は、お千とお初が心配だからって伏見までついてきて下さったのよ。姉上様が伏見に来て下されば、皆でご一緒出来たのに」
「……」
完はそっと千姫の頭を撫で、心安んじて過ごすようにと再度繰り返してから、己の部屋へ戻った。
ゆっくり考えてみたい事があったのだ。
(もしや……あれは、母上様だったのか?)
妹が嫁入ってくるより以前、客人が来たからと完は伯母に呼ばれ、琴を弾いた。
客人というひとは、高貴な人なのかーもしや嫁ぎ先のひとなのか、などとその時の完は思ったー御簾の向こうに座し、微かに高雅な香が聞こえて来ただけで、その姿は当然確認出来ず、又、己が公家に相応しい姫であると証立てねばという気持ちが先立って、琴の演奏に専念するばかりであった。
だが微かに、御簾の向こうから感じ取った気配は。
(私に会いに来てくれた)
そう直感したものの、信じられない思いで完は何度も記憶を改め、検証し続けた。
同時に何故、伯母は母と直接対面させてくれなかったのだろうと恨めしく感じる。
(母上様。母上様は私を覚えていて下さるのね?私のこと、忘れてはいなかったのね?)
涙は零さずー何しろ、彼女の身の回りには常に侍女等が控えているー、完はそっと己の胸に手を当てて、柔らかく優しいーそれでいて哀しいー思い出に浸った。
いや、漸く、哀しく切ない一方であった母との思い出が、元々の温みと暖かさを取り戻した、そんな気がした。
*
伯母の事前の宣告通り。
妹が大坂入りした翌年に、完は大坂を離れた。
明らかな政略結婚であったが、八歳年上の九条家の若君は穏やかに涼やかな目をした優しいひとで、出逢った当初から完は慕わしさを覚え、己でも戸惑う程に急速に、夫となったひとを愛するようになった。
夫もまた、完の一途な気持ちを汲み取ってくれたようで、完を包み込み慈しんだ。
穏やかに静かで幸福な日々が続き。
夫との間に子宝にも恵まれ、完が幼い頃の哀しみや不安、不満など忘れ去った頃に、大坂城が幕府によって攻められー更には落城して伯母や従弟が自害する、という怖ろしい悲劇が起きたのだった。
今や謀反人となってしまった豊家の猶子である完及び完が産んだ子等を守ろうと、夫及びその一族が奔走してくれるのを申し訳なく有り難く感じながら、同時に完は諦めていた。
妹の千姫はその血筋故に命を助けられたが髪を下ろす事も許されずに無理矢理江戸へ送られ、更には従弟が他の女に産ませた幼い子等ー市井に隠されていたというーが捕らえられ、処刑されたと聞いた。
明らかに幕府はー母が嫁いだ徳川将軍家はー豊臣に繋がる者達を容赦する気など無いのだ。
一日一日を大切にしようと思い決め、夫や子等と過ごす時を何よりも感謝し愛おしく感じながら、日々を暮らしていたが。
ある日、夫に来客を告げられ、しかも非常に秘密めかした訪問に不審を覚えながらも、九条家当主の政所として差配をするだけでなく、自ら酒器を掲げて客の前に出た。
丁寧に礼を取った後、客の顔をちらと眺めてみて、思わず息を呑む。
「姫。随分と大きく、いや失礼、美しくなられたな。それに、母上に、とても良く似ている。……私を覚えておられるだろうか」
穏やかに静かな声ーその声も涼やかな眼差しも、何処か夫に似ているのだとふいに覚って、完は頬を染めたーに、容易く記憶は鮮やかに生き生きと甦る。
鞠を拾ってくれ、彼女の頭を優しく撫でてくれた暖かい手。
優しい微笑みや、穏やかに見守ってくれた瞳、など。
「……はい」
「時を随分と過ごしてしまったが。あの際の約束を果たしに参った。是非に、私の娘になって欲しい」
改めて言われた言葉に、完はじんわりと目の奥が熱くなってくるのを感じた。
「でも……母上様が」
幼い頃の口調で言ってしまってから、慌てて口許に手を当てた。
だが男は微かな声と共に笑って、完の懸念に応じてくる。
「無論、母上は喜ぶに決まっている。……漸く娘を取り戻す事叶うのだからな」
「……」
思わず目を見開いて、幼い頃に邂逅しただけのーだが慕わしさや恋しさを失った事のないー相手を見詰めたが。
男は、焦ったように僅かに身じろぎした夫へと視線を移した後だった。
「九条殿。ご案じ召されるな。貴公の大事な政所を江戸へ奪い去る気などない。左様な非道を致せば、御台に口を聞いてもらえなくなる」
「……は」
「ただ、政所は、我が徳川家の姫として扱いたい。更に政所の産んだ若君等は、徳川家一門に迎える所存」
「それは……しかし、倅達は」
「摂関家の事情は承知している。だが若君達は九条家、二条家の跡取りであるだけでなく、我が徳川家の、いや、この将軍家の孫であると思って頂きたい」
(将軍家)
ようやく完は相手の正体を悟り、同時に、かつての出逢いの意味も覚った。
(では……あの時の約束、は)
当然、完の物問いた気な凝視には気付いていたのだろう、夫が納得して頷いたのを確認してから、将軍の視線は完へ戻って来た。
「ずっと姫の事が気掛かりであった。そなたの母上が何も言わず、いや言えずにそなたの身を案じていると、承知しながら何も手を打たなかった私を責めてくれ。母上には罪はない」
「……」
「だが姫が幸せに暮らしていたのは、知っていた。……もしも、姫が不幸であったならば、事情がどうあれ、直ぐさま連れ戻しに参ったであろう。それだけは信じて欲しい」
「……はい」
久し振りに母を思う、母の為の涙が溢れた。
「有り難う、ございまする。父上様」
全てが報われ償われたとーあるいは元々、己は何も失っていなかったのだと、完は理解したのだった。
*
母と直接対面することはその後も無かった。
だが母の記憶が失われたり、薄れる事は二度とない。
花のように微笑む母の姿。
優しく包み込み、愛してくれる腕を完はちゃんと知っている。
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