千の鳥
鳥達が、東の空へと羽ばたいて行く。
愚かな人間達の営みなど関係ない、自然の摂理だと分かっていながら、彼はそれを前兆と感じずにはいられなかった。
既に、彼の為に戦ってくれた多くの者達が命を落としたと聞いている。
落城自体も、時間の問題、場合によっては今晩にでも落ちるのだろう。
(余の世界も終わるのだ)
未だ実感無く、だが思いの儘にならぬ事があるのだと思い知らされた屈辱感、口惜しさ悔しさを感じながら、この世を去る。
漸く得た人がましい、懸命な心持ちというものが、これだったのだと、彼は単純に思った。
*
彼が妻と祝言を挙げたのは齢十一歳の時だったが、現実に女を知ったのはその数年後の事だった。
無論相手は妻ではない。
妻は彼より四歳年下でーつまりは実質的な婚は未だ未だ先という状態だった。
格段それを苦としていた訳では無かったのだが、それでも急遽身近に寄せられた女の気配に影響を受けたのかもしれない、などと柔らかい女の肌に顔を埋めながら思った。
幾つになっても若くーというよりも年齢不詳な感が強くー美しく、権高でもある母は、侍女等を相手にするなと彼を叱ったが、彼に言わせれば、『城』、というより彼が過ごす事を許されている範囲内には、女は侍女しか居ない。
もう一人で寝るなど真っ平だと思い、彼はその時々の気紛れ、気分に合わせて、己に仕える侍女の何れかを床に引き入れた。
誰かが傍に居れば、決して拭い去る事など出来ないが、夜一人でいると声を上げて走り出したくなるような孤独感と焦燥が幾分弱まるし、凡そ他者に動転した姿を見せるなど有り得なかったから、身の内の狂おしさを抑えられた、のだ。
夜になると聞こえてくる、怖ろしく醜い声にも耳を傾けずに済む。
侍女達が次々と彼の子を身籠もったのも気にしなかった、というより気にならなかった。
己には関係ない事と捉えていたし、母が処理するだろうと分かっていた。
ー母は何時だって、そう、なのだ。
「これでは江戸の御台に顔向け出来ぬ」
呼び寄せられ、散々小言を言われた後で、ぼそりとーおそらく独り言としてー呟かれた言葉にこそ、彼の胸は轟き、大きく揺さぶられた。
幼い頃からただひたすらに思うー未だ恋い慕っているーひとの面影が甦る。
(叔母上)
妻の嫁入りの際、妻の母親である叔母は幼い妻に付き添ってきて上洛し、祝言より前には彼の母の許を訪れた。
彼の母と妻の母は実の姉妹でーつまりは彼と妻は従兄妹同士なのだがーとても仲が良い。
少なくとも彼は、母が己の姉妹以外には心からの笑顔も涙も見せはしない、と知っていた。
「だが……これも致し方がない。さぞや将軍家は口惜しがるであろうよ。徳川なぞに豊家を乗っ取られてなるものか」
母が何時もの拘りを口にするのに、おかしなモノだと思いながら、彼は従順に頷いた。
この母には常に同意を示しておくことが必要なのだ。
「将軍家には又も姫が産まれたそうで」
「止めよ!穢らわしい!」
母の気持ちを変えたくて、明るく喜ばしいと思い振ってみた話題を、だが激しく母は拒んだ。
「……叔母上は」
「まこと憐れな妹じゃ!これ以上、将軍家の許に置いておれば、小督は何れ殺される。早く……早く何とかしてやらねばならぬというに」
「……」
「それなのに!誰も彼も役立たずじゃ!江戸への使いを満足に果たせもしない!」
「……使い、とは?」
少し驚いて問うた彼に、母は不服気な憤懣の儘に教えてくれた。普段、彼には江戸の事を聞かせまいとする母には珍しい。
余程腹に据えかねているのだろう。
「御台に直接会って、我が意を伝えるべく何人か江戸へ遣ったのだが。何れも御台に会えずすごすごと帰って来やった。情けない!城の奥には、民部もおるというのに、大事な手蔓も活かせず泣き言ばかり言い遣る連中じゃ」
「……」
彼は将軍家が母を訪れた際ー本来は豊家の当主である彼を訪れたのだろうが、彼はそこ迄意識していなかったー同席した事がある。
その際も、この母は将軍家への敵意と怒りを隠そうとはしなかったから、当然、将軍家は大坂及び西方から来る者への警戒心を怠ってはいないものと考えられた。
つまり母が送った使者ーあるいは忍び達ーは、悉く将軍家によって阻まれ、追い返されたのだろう。
(将軍家も又、母上に隔意を抱いておられる)
そんな判断を下し、その原因はと考えを巡らせようとしたが、彼の思考は停止した。
というよりも。
いとも簡単にその「原因」に思い至ってしまったからだ。
(叔母上)
叔母が将軍家の七人目の子を出産した、ということは、つまり将軍家は叔母に対して、彼が侍女等にしていたのと同じ事をした、という証だ。
身の内が燃え上がるような感覚を覚え、何よりも戸惑いを深めて、彼は母の許を早々に退散して、己の座所へと戻った。
少なくとも己が住まう殿舎では、口煩く喧しく文句を言ったり、あるいは他者への恨み言を繰り返し、無関係なーと感じているー彼に怨嗟の念をぶつけてくる者は居ない。
(……叔母上は将軍家の御台所、つまりは正妻なのだ。……致し方ない事、なのだ。余が将軍家の行いに、故障申し付ける訳にはいかぬ)
母は未だ叔母の保護者でいる心算で、物事を考え手を尽くそうとしている。
何より叔母の身を案じて、政略の犠牲になり続けている叔母の身柄を救い出したいというのが、母の悲願なのだ。
その為、彼の妻となったーというより従妹のー姫を何よりも大切にし、我が子以上に愛おしんでいる、と彼は皮肉っぽく考えた。
だが彼はすぐに幼い名ばかりの妻の事は忘れ、遠い東の鄙びた地で難儀しているであろう、慕わしいひとを想った。
優しく彼を抱いてくれた腕、甘い良い匂いのする肌の滑らかさなど、今でもまざまざと思い浮かぶ気がする。
(叔母上。何故、叔母上は徳川になど嫁がれたのか)
甥である彼だけでなく娘の完姫ー今は九条家の政所となっている、彼にとってはまさしく共に育った実の姉とも思う姫だーさえ、置いていってしまったひとを、当時は酷く恨めしく感じ、だからこそ余計に恋慕の念は募ったものだった。
(叔母上は余や完より、徳川を選ばれたのか。将軍家に産まされた子等を大切と思うておられるのか?)
幼い頃の、見捨てられたような寂しさと哀しみも甦り、彼は暫し一人で涙を零した。
*
ゆったりと温い水のように城中の時は揺蕩い流れている。
彼が漸く己の個人的嘆きに見切りを付け、母の為、更には憐れな叔母と、叔母を思って気が気でないだろう妻の為にと、献策を以て母を再訪したのは、十日程後の事だった。
母もまた悶々と悩みながら憤るといった日々であったに違いない。
不機嫌な様子ではあったものの、彼に対しては優しい穏やかな素振りで近付くよう命じた。
母の愛情は時に重く負担に感じるもののー何といっても幼くして亡くなった兄と先立たれた夫の分迄も己に注がれていると正しく彼は理解していたー、己を真実想い守ってくれるのは母だけだと承知している為、彼は未だに母に逆らう等考えた事も無かった。
「母上。少し、余も考えたのですが」
「ええ。何でしょう」
茶を手ずから点ててくれたのに丁寧に礼を返しながら、彼はだが思い付いた事を早く母に報せたくて、少々忙しなく言葉を継いだ。
「叔母上をお救いする件。いっそ、何処ぞで不遇を託っている浪人者を幾たりか選び、金を与えて服させれば如何でしょう」
「……」
母は薄い眉を品良く顰め、その素性と身分に相応しき逡巡を見せた。
「左様な賤しき者共、信用ならぬのではないか?」
「賤しき者故、金で動きましょう。存分に与えてやれば、裏切りはしますまい」
「……成る程」
素直に感心したように頷く母に、彼は穏やかに頷き返した。
「それに、地下に生きる者達ならば、策謀やら詐騙には、母上や余などより、ずんと慣れておりましょうし、長けてもおりまする。母上や、我等が大事な臣共が直接手を染めるより、首尾良く働くかと」
「おお、おお。確かに、若君の仰せの通りじゃ」
仕える者達、下の者達には誇り高く堂々たる主としての貌しか見せない母だが、時折、息子の彼には、異なる表情を垣間見せてくれる事がある。
無邪気な少女のように笑いながら手を叩く母に、彼はほのぼのとした心地を覚えながら茶を飲み干し、戻した。
「母上がご承知ならば、早速、修理に命じて、相応しき者を選ばせ、命を下しましょう。母上はゆるりと吉報お待ち下されば宜しいかと」
「ええ、左様ですね。ほんに、これで肩の荷が下りました」
嬉しそうに母が付け加えたのに、彼もほっと安堵し、言葉通りに臣に処置を命じた後は詰まらぬ庶事など忘れた。
彼にもそれなりに思うことや、やらねばならぬ事はあったのだ。
更にゆるゆると時は過ぎていき。
身籠もった内何人かの侍女は流産、もしくは死産であったと聞いたが、彼は特に注意を払わなかった。
何れ豊家の跡継ぎは、正妻である将軍家の姫にこそ産んで貰わねばならないと、彼も承知している。
そうでなければ豊家は存続し得ないであろうしー場合によっては、豊家取り潰しの要因となるかもしれなかった。
だがそこまで分かっていながら、彼は侍女を寝所に入れるのを止めなかったし、伽をさせた者が身籠もれば早々に母に伝えて己の身辺からは退かせた。
身籠もった女などには興味が無かった。
ついでに言えば、跡継ぎとならないであろう無用の子もどうでも良い。
彼がひたすら待ち遠しく望み続けたのは、従妹の姫の成長でーそして見守る内に、四歳年下の姫は異父姉に似たところもあるし、顔立ちなどもよく見れば、叔母の面影がある、と感じるようになってきた。
要は情が湧いてきた、ということだろう。
冷ややかに冴えた彼の目は、妻の千姫は叔母より寧ろ彼自身の母に良く似ていると判断していたし、その性根も叔母とは似ても似つかぬ、更にはその見かけからは想像もつかぬ程肝の据わった少女だと察していたが、それもあるいは豊家の嫁には相応しい気質なのだろうと、大らかに認めた。
漸く千姫が数え十六歳となり、鬢削の儀式を彼が自ら務めたのは、彼の心中の期待と願望の表れだった。
彼も又二十歳となり、既に成人男児といっても良い筈なのに、未だ彼の身は城の奥に囲われ、国主であり城主である筈の彼の代わりに、臣下達が何事も定め、計っていく。
それでも前年の大御所ーつまりは徳川家の隠居といいつつ、現在の統治者、千姫の祖父である老爺ーとの対面は、己の意思を通したが、以降も城での彼の暮らしや境遇は、幼い頃と全く変わらない。
ー彼を守り、高い場所に置いて傅こうという周囲の者達の心は、あくまでも善意、及び豊家と彼への忠誠の念から来ているものと分かっているだけに、彼も異を唱える事は出来なかった。
母が、千姫と褥を共にする事には未だ強く反意を示しただけでなく、実際千姫の寝所を母の傍に移してしまった為、これも一先ず退かねばならなかった。
それに母が言うように、既に女に慣れた彼の目には、千姫は精神的にはいざ知らず、随分とほっそり痩せていて子を身籠もるのは未だ難しいように見えた。
幾らでも替えがきく侍女等とは異なり、千姫はこの世に一人しかない彼の正妻だ。
僅かに時を急いだせいで、その身を損なったり、子を得る機会を失するような結果となっては、今迄待った甲斐も何もあったものではない。
そのように自身を納得させ、彼はそれ迄と変わらぬ暮らしを続けた。
相変わらず子が出来たり流れたり、稀に無事産まれたりしたが、子を身籠もった者はすぐさま城から出されたから、一体誰の子が無事生きていて育っているのか、などという事は彼は全く把握していなかった。
彼が気に掛けなくとも臣が確りと金を与えたり邸を与えたりと充分世話を受けている。
寧ろ己があれこれ気を配る方が、下の者達の邪魔になるだろう。
(早くお千を抱きたいが)
柔らかく温かい、だが顔も名も良く覚えていない女の身に縋りながら、そんな風に思い、切ない溜息を吐いた。
何時の間にか、あれ程に忘れられず慕わしく恋しいばかりであったひとの面影は薄れ、代わりに、すらりと姿が良く涼やかな佇まいの麗人となった従妹の姫が、彼の心の奥底にあるその場所を占めている。
同じ城内に暮らしていながら触れる事も出来ぬのはもどかしいが、だが相手が何よりも大切な妻である事を考えれば、自重するのも当然だった。
少なくとも夜々の伽の相手には出来ない。
(お千も……少しは余の事を、好いていてくれれば良いが……分からぬ、な)
幼い頃から愛らしいが確りとした気性の少女だった千姫は長ずるに連れて、年齢より落ち着き払った感のあるー場合によっては母よりも悠然と優雅かつ誇り高いー女人になってしまったような気がする。
身分は高いが己では何も為し得ない、豊家の当主といいつつ既に将軍家に推されて何の力も持たない男には勿体無い女人ではないか、という気がした。
あるいはこの後、彼の内で妻の実家に対する意地と対抗心が高まり強くなってしまったのも、城内で主戦派などと言われる、豊家の誇りを守る為には徳川との戦も厭わず、などと唱える者達を重用するようになったのも、こうした妻への想い故、だったのかもしれない。
そして彼の、らしくもない僅かな対抗心や意地は、家臣等に伝わった際には比較に為らぬ強大な憎悪と闘争心を引き起こし。
とうとう慶長十九年、将軍家、というより大御所からの奇妙な言いかがりにも似た審問を切っ掛けに爆発した。
ー少なくともそれまで、細波一つ立たない淵の中に棲んでいたような彼には、そのように感じられた。
徳川家と幕府への怨恨甚だしい亡国の者達、更には乱世を望み、戦により立身出世を計ろうとする野心の者達などが続々と集まり城の中に入り込んだとは、最早抜き差しならぬ状況、開戦し、己が総大将を務めねばならぬのだと、側近の大野修理に報されて初めて知った。
だが、集まった者達の中には、彼がある程度見知ったりあるいは父及び豊臣の臣下と見なして親しんでいた者達の姿は一つも見られないと気付いて、愕然とする。
(何故だ。何故だ。皆、亡き太閤殿下に忠義な臣達、余を後継と認め、盛り立てようと誓った者達ではなかったのか)
戦評定へと変わった場で、彼が味方と思い信じていた者達は悉く、幕府と将軍家及び大御所の指図に従い、江戸あるいは国許で留守居を務めていたり、さもなければ寄せ手の軍に加わっていると知らされた。
彼は随分と驚いてー茫然としていた筈なのだが、臣等は覚らず、戦の段取りや戦術と称する愚かし気な企てを口々に語る。
新参者達は彼に己を覚えさせようと声高に大袈裟に策を献じているし、旧臣等も又新参者に負けじと張り合ってこれ又随分と極端かつ過激な方向へ走っているとは、彼の方でも気付かなかった。
突然、まるで異世界かー悪夢のように変貌してしまった『城』と城に巣喰う者達に囲まれ、己は退引ならぬ場へ追い込まれようとしているのだと、感じた。
柔らかく優しいーだが如何にも無感動で平穏な日々は、完全に終わって二度と帰らない。
(母上)
何時の間にか通い慣れた母の殿舎に来ていた彼を、母は珍しく昂奮し紅潮した頬をして出迎えた。
「捲土重来じゃ!良いな、秀頼殿。決して退いてはなりませぬぞ。成り上がりの徳川に、目にもの見せてやるのじゃ」
「……は」
「何としてでも徳川を討ち滅ぼし、小督と子等を取り戻さねばならぬ!浅井の血筋を何としてでも守らねばならぬのだ!」
母の言葉に、彼は何時も通り頷くしかなかった。
母に、世界が変わってしまった事を訴え、己が今感じている恐怖と困惑を宥めて欲しかったが、常に別の場所に生きている母、失ったモノのみ追い求め夢見ている母には、現実は見えていないし、彼の気持ちなど分からないと覚ったのだ。
(お千は)
縋れるのは、あとは妻の千姫だけだったが、今や千姫は妻でなく「人質」としての役割が重くなってしまっている身だ。
己が傍にいけば、臣下等の心を騒がせ、あるいは妙な考えを覚えさせるかもしれないと、堪えた。
ーただ単に、結局、千姫の実家と事を構える事になったのを彼女に申し訳なく感じー彼女に責められたくない、という逃げだったのかもしれない。
同じく千姫の身を案じた母は早々に千姫の身を保護し、彼はそのまま側近等に取り囲まれて、戦へと進んでいき。
まさしく泥沼に嵌った。
少なくとも彼の心的印象ではそうとしか言い様がない、予想外、想定外の出来事の連続だった。
あれよあれよという間に敗戦の色は濃くなり、それだけでなく、彼及び彼の周囲の者皆にとって拠り所であり絶対的信頼を寄せていた『城』への攻撃が始まったのだ。
空恐ろしい砲撃が続き、中には天守に達した砲弾もあったという。
母や妻、大勢の侍女等と一緒に避難していた彼は知らなかったが、多くの者が命を落としたという。
そんな、想像してみれば地獄絵に等しい筈の光景も全て彼には隠されたまま、城全体が講和へと傾き、彼の徹底抗戦の主張も空しく、母や側近等が派遣した叔母達がさっさと敵である筈の徳川と話を纏めてしまった。
ふて腐れ、世を拗ねたー周囲の者皆に裏切られ、謀られたー気分で酒色に耽っていた彼は、城内に入り込んできた徳川の家来達の影すら感じたくなかったし、結局大言壮語を吐くばかりで役立たずであった牢人達も、更には主である彼の意を無視した家臣等も見たくなかった。
不機嫌かつ怒りっぽい主となった彼に仕える者達は怯えた貌をするようになったし、それがますます彼の癇を刺激したが、彼も己が何をしたいのか、何をすべきか分からなかったのだ。
生まれた時から城や周囲の者に守られ、大切にされ、ただひたすら傅かれてー謂わば甘やかされてーきた彼は、己の意のままにならぬ事態となったり、己の言う事を聞かぬ者がいるというのもー理屈では分かっていたがー実感として理解出来なかった。
以前のように侍女を寝間に侍らす気にもならず。
結果、毎夜彼は悪夢と黄泉ーあるいは地獄ーから聞こえてくる『声』に魘され、悩まされ続けた。
年が明け、今や白々しく寒々しいとしか言い様が無い年賀の行事が終わってからも一人酒を飲み続けていた彼の許に、久し振りに妻の千姫が顔を出した。
彼だとて千姫が、先の戦で敵味方に分かれてしまった実家と婚家、その事情に遠慮し、寧ろ彼の気持ちを思い遣って遠離っていたのだと理解していたが、戦時中より一層合わせる顔がない感が強まっていた彼は、冷たく応じるだけだった。
「余の許へなど来たら母上に叱られるぞ。何しろ、母上は浅井の血を引く姫であるそなたが何よりも大事なのだからな」
「……秀頼様」
「余は一体、何なのであろうな。関白となることも出来ず、かといって武将でもない。所詮、百姓の子は百姓と、母上も皆も思っておるのだろうよ」
笑いながら手酌で新たに見たそうとした盃をほっそりと優雅に白い手が止めた。
「もうお止め下さいませ。お身体に毒となりまする」
「……」
「秀頼様は、この大坂、摂津、河内、和泉国の国主であられます。それだけでなく、亡き太閤殿下の跡取りの君。何れ必ず関白となられる尊いお方です。将来の為にも御身大切に致さねばなりませぬ」
「ふん。白々しいの。……余が関白になどなれるものか。朝廷が許しても、将軍家が許さぬ」
「……そんな」
「ああ。そういえば、将軍家はそなたの父御であったな」
皮肉に付け加えた言葉が正しく効果的に妻を傷付けて、白い顔が一層青白くなるのをせせら笑ってから、彼は部屋の隅にびくびくとした様子で控えていた侍女に千姫を退出させるよう命じた。
何度か千姫は彼の方を振り返ったような気配がしたが、彼は完全に無視して、酒を飲み続けた。
酒を飲めば、ある程度、夢を見ることなく睡眠を摂る事が出来る。
だが二度と、悪夢から逃れ、避ける事は叶わなかった。
明けて早々、講和条件の解釈違いーと徳川方は主張したーが原因で、再び城の内外の空気は殺伐としたモノへと変じ、再び臨戦態勢に入るのも、壕を埋められた城の者達が悲愴で破滅的な空気と思いに囚われていくのも、彼はただ冷ややかな皮肉と諦観と共に見守るだけだった。
城中を包み込む絶望はやがて容易く燃え上がる炎となるだろう。
己の悪夢が現実になるのだと彼は思い、何故か不思議と安堵した。
*
何時頃城は落ちるのだろうと、茜色の空を見上げていた彼は、背後から漂ってきた聞き慣れた香の匂い、気配に気を引き締めた。
こうなってはもう二度と、彼女が己の事など思い遣ったりー憐れんだりーしないよう傷付けて、喜んで父母の元へ去るように計らうのが、彼が夫として出来る唯一のー最後のー事だ。
「何しに来た。さっさと出て行け。……徳川の間者共とこそこそ会っていた事など、とうにお見通しだぞ」
「……」
「敵の女が我が城に何時までも居座っているのを見るのは不快じゃ。早々に立ち去るが良い。東の愚かな年寄り共は泣いて喜ぶであろうよ」
余も清々すると付け加えた所で、背後から必死といった感で柔らかいーのだと初めて知ったー身体が飛び付いてくるのに、身を硬直させる。
「秀頼様。そのような事、仰せにならないで。お千は秀頼様の妻です。秀頼様が……幾ら私をお厭いになり、退けられようが……ほ、他の女人をお召しになろうが、御子を、授けられようが、秀頼様の妻は私だけです!」
「……」
驚きというより意外の感を覚え、身の膠着は解けた。
何処か浮世離れした感のある、そして母に守られ囲まれて育った千には、己の女遍歴など知る筈がないと高をくくっていたのだ。
だがどうやら、何時の間にか千姫は全て察知していたらしい。
首だけ捻って背に抱き着いている、既に少女とはいえない妻を見下ろす。
「お千。そなた」
「良いのです。私は……秀頼様の御心が私に無い事は承知しております。でも、でも妻ですもの!決して離れは致しませぬ」
「……」
「この城から出るつもりなど、ありませぬ。義母上と秀頼様のお側におります。ずっと……最後迄」
「愚かな事を申すな!」
彼は冷静に慎重に、だが粗暴を装って千姫の華奢な身を突き飛ばした。
どうやら物陰に潜んでいたらしい影が素早く現れて、千姫を抱き留める。
「離せ!私は城を出たりしない!」
「姫様」
「丁度良い。さっさと連れて行け。……早く行かねば、その細首、ねじ切ってやるぞ」
冷ややかに惨く宣告したつもりだった。
だが忍びらしき者に目を向けると、相手は憎悪も無論侮蔑なども見せず、穏やかな哀しみさえ込めて視線を返してくる。
(このような)
「さ。姫様。参りましょう。……これ以上、御夫君を苦しめてはなりませぬ」
「……っ……で、でもっ」
「この上は、どうか御母堂様と御夫君の命乞いが叶う可能性にお賭け下さい。私のような賤しき者には分かりませぬが、大御所様と上様にも、情けはおありでしょう」
千姫が夫の己よりも徳川家の草などの言葉に耳を傾け説得されるのは少々不快ではあったが、彼は逍遙とその不快も哀しみも受け入れた。
無力な己は最後迄、役立たずな無能者のままで終わる訳だ。
(だがそれでも……お千の手を離した事だけは、余が決め、為した事だ)
彼の名を呼ぶ泣き声が遠くなっていくのを何時までも耳を澄ませて追いながら、彼はそう己に言い聞かせ続けた。
ーでなければ、彼も又泣き出して……側に居て欲しいと叫んでしまいそうだ。
「お千。そなたは生きてくれ。……さすれば、余の生にも意味があったと思える」
彼が呟いた言葉は、再び始まった轟音の中に消えた。
*
彼を捕らえ、守り続けた城が崩れ落ちた様を彼が目にする事は無かった。
血のように赤い落日も。
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