白龍珠

(今日はどんなことが待っているのかしら)


 幼い頃から、目覚めて直ぐ珠はそんな風に思う。

 三歳迄過ごしたという、産みの両親及び江戸の記憶は珠には無い。


 珠が知るのは、緑深く水清き加賀国。

 北陸の海の色は、険しいが、それでも豊かな実りをもたらしてくれるのだから、厳しい顔をした慈父の如きものなのだろうと思っていた。


 顔を知らぬ父親もそういう人であれば良いなどと思っているが、実家より付き従っていた侍女等によると、父という人はとても珠を可愛がってくれていたらしい。


(私がいなくて寂しい思いをしていらっしゃるのかしら)


 海を眺める度に思う事を思って、だが侍女等に促され身支度を調えてから日々の日課へと移っていく。

 加賀藩主の正妻とはいえ、まだ年若く未熟な珠には、学ばねばならぬ事が多くあるのだ、というのが侍女や家人等の言い分だった。


(つまらないの。いつになったら大人になれるのかな)


 好きでない縫い物や茶や花の類、更に香など、珠にはどうでも良いと感じられる稽古事の羅列だ。

 唯一、琴だけは幼い頃から好きだが、しかし下手の横好きというもので、とてもではないが師匠のように上手くなれそうにはないと、とうに見切っていた。


 読み書きは習ったものの、女は小難しい書など読むものではないと皆が言い、草紙の類は手にしたこともなかった。

 城内の己以外の者は皆忙しくー楽しげにー立ち働いているように見えるのが、珠は時折どうしようもなく羨ましく嫉ましくなってくる。


 そういう訳で、お付きの侍女等の目を掠めて、己の居間を抜け出し、『探検』に出掛けるのが、珠がある程度大きくなってからの日課となっていた。


 物心付く前から住まっている城とはいえ、背も低くちっぽけな珠の身体に比べて忌々しい程に大きく立派な城だ。

 迷わぬように少しずつしか進む事は出来ないし、もう二度と己の座所へ戻れず、泣きながら見知らぬ家中の者に助けを求める、などというみっともない真似はしたくなかった。


 少なくとも将軍家の姫らしくない振る舞いだと、散々侍女達に叱られたのだ。


 前田家中の人々は優しいが、実家であるという将軍家から付けられた侍女達はひどく怖ろしく容赦がない、ように珠は感じていた。

 だからきっと『将軍家』というのはひどく怖い所に違いないなどと思っている。


(でも父上様と母上様は違うわ。いつもお優しい文を下さるもの)


 中庭を見下ろせる窪みを見つけて素早く他者に見付からぬよう入り込んでから、珠は深く息を吐き身を寛がせた。

 涼やかな風が心地良く、目に見える景色もとても美しい。


 他の地は知らない珠であったが、この国こそ最も美しい場所に違いないと信じていた。


(だって海があって、山も見えて。空もあんなに高いのだもの。江戸では山は見えないって皆が言ってたわ。山がない所なんて、私は嫌)


「でも富士の御山は見てみたい、かなぁ」

「へぇ。富士を見たいのか」


 ふいに近くから聞こえた声に、珠は驚いて腰掛けていた桟から落ちそうになった。

 それを素早く支えてくれたのは、どうやら先程の声の主らしい。

 確りとした日に焼けた手から、上等ではあるが何やら擦り切れ汚れた袖を眺め、それから相手の顔へと視線を移し、珠はほっと頬を綻ばせつつ微笑んだ。


「何だ。利光様だったのね。驚いて損しちゃった♪」

「おいおい、お珠。夫に対して何と無礼な口をきくのだ」


 戯けたような明るい笑顔とからかう口調と共に、既に背が高く殆ど大人のように見える少年は、珠の細腰を捕らえて降ろしてくれた。


「あら。まだ本当の夫婦じゃないって皆、言ってたわ。ということは、まだ利光様は私の旦那様じゃないって事なんでしょ?」

「お珠」

「ヘンなの。だって……私、全然覚えてないけれど、祝言挙げたんでしょう、私達。それなのにどうして夫婦じゃないのかなぁ?」


 五歳年上の少年が一瞬見せた躊躇いには気付かず、珠は相手よりもずっと小さな己の手を少年の手の中に滑り込ませた。

 三歳の時に金沢に嫁いで来て以来、珠は夫である利光と一緒に育ってきた。

 仲良くするようにと大人達に言い聞かせられていたし、いつも明るく優しい、そして時に突飛な思いも掛けない行動をする利光が、珠は幼い頃からずっと好きだった。


 おそらく、江戸にいるという両親や兄弟達は、あるいはこういったものに違いないと、珠は思っていた。

 要は『家族』なのだから、これからもこれ迄同様、楽しく仲良く過ごせれば良い、というのが珠の考えであり。

 またそれがおそらく、江戸にいる両親の意に叶うのだろうと、朧に考えている。


「仕方ないさ。お珠がなかなか大人にならないせいだ」

「私、子供じゃないもんっっ」

「……そうだけど、でも大人になってない。……妻には出来ない」

「何よぅっっ利光様の意地悪!」


 遠慮無く文句を言ったものの、常と異なる「夫」の冷ややかとも突き放しているようにも感じる口調に珠は戸惑った。

 何かー年若いながらも国主であるー少年を怒らせるような事をしてしまっただろうかと懸命に記憶を辿る。


(えっと……昨夜、お魚残したの、ばれちゃったとか?……でも、骨が嫌なんだもん。塩辛いのも嫌い。その代わり、青菜は一杯食べたし!叱られる訳、ないわ。……そうすると……一昨日、こっそり馬を見に行ったからかな。でも、利光様が居ない時は駄目だって言われてたから乗るのはちゃんと我慢したもの!鬣を撫でてあげて、野苺を一粒あげただけもんっっ私、何も悪いことなんかしてない)


 こっそり少年の、己よりずっと高い位置にある顔色を窺ってみると、丁度此方を振り向いた少年と目が合った。

 途端、常と変わらぬ闊達な明るい笑顔になるのに、珠も安堵して笑みを返す。


 この国で頼る事が出来る相手はこの少年しかないとは、幼い頃から承知しているのだ。


 そっと手を握ってみると、利光が少し照れたように頬を染め、前方に向き直ってしまったのに、珠は完全に身を寛がせた。

 どうやら、機嫌を直してくれたらしいと判断したのだ。


「何処へ行きたい?少しだけなら、付き合ってやる」

「うんっっあのね、私、田圃を見に行きたいの!そろそろ田植えの時期でしょう?」

「……珠は百姓が好きなんだな」

「うんっっ大好き!」


 顔を覚えていない父は、花造りを趣味としているひとで、時折珠にも花の種を送ってくれる。

 珠は強請って手に入れた、城内の小さな畑でそれらを育て、記憶にない故郷と故郷にいる懐かしい人々を思う縁としていた。


 百姓仕事とは少々意味合いが異なるかもしれないが、しかし何かを植え育てるのはとても素晴らしい事だと感じている。


「私も百姓のお家に生まれたら良かったのにって時々思うの。もしも父上様が将軍様でなかったら」


 だが言いかけた言葉を珠は口にすることなく呑み込んだ。

 言っても仕方のない事であり、また真に望んでいる訳でもないからだ。


「お珠が百姓の娘なら……俺はお珠をかっ攫ってきて、妾にするぞ」

 利光が軽口で返して来たのに感謝しながら、珠は膨れっ面をしてみせた。


 利光が居ると、普段は決して為し得ない城外への外出も簡単に実現出来る。

 とはいえ、城主であり国主である利光を守る為、付かず離れずといった感で護衛の侍達が後を追ってくるのが少々気になりはしたが、これは幼い頃からの習慣であるから、珠も慣れていてすぐに忘れた。


「妾なんて嫌だものっっ絶対、そんなのならないんだから!」

「……なんだ。お珠は俺の女になりたくないのか?」

「そんなの知らない!……私は私なんだから」


 最近、時折利光が珠には良く分からない言葉を口にしたり話をするようになっていてーそれが珠には不愉快、というよりも不安だった。

 あるいは利光は、珠のことが以前程好きでなくなってきた、あるいは可愛いとは思わなくなって来ていて、時折苛めたり仲間外れにしたい衝動に駆られているのでは、などと勘ぐってしまっている。


(どうせ私と一緒にいるより、お小姓の皆と一緒にいる方が楽しいんだわ。……私がまだ小さいから、一緒にいたくないんだ)


 自分よりずっと早く少年が成長してしまったのが口惜しくー哀しく寂しくもなるのはこういった際だった。


「……俺はお珠が何だろうと、構わないんだがな」

「私は、お百姓になった利光様なんて嫌だわ。似合わないもの」


 つんと仕返しとばかりに顎を上向けて言い返してやったが、別に憎まれ口ではなく、珠の本心だった。

 珠は、国主らしく武将らしく馬を駆っていたり、あるいは弓や剣の稽古をしている勇ましく逞しい利光を気に入っていたし、とても男らしくて格好良い、などと思っていた。


「そうか。俺には百姓は似合わない、か」

「うん。だから、利光様は今の儘が良いわ。でも私は、お百姓が駄目なら、行商人になりたいなぁ。色々な所に行けるなんて素敵!日の本中を旅するのよ!」


 それからふいにもっと素晴らしい事を思い付いて、珠は目を輝かせた。


「そうだ!私、女忍びになろうかしら!すっごく楽しそう!色々な御城に忍び込むのよ!凄いでしょう?!」

「……そう、だな」


 前方の田圃がまさしく田植えの最中で、色鮮やかな新緑の苗が植えられているのを見て取り、珠は他愛のない夢の話など一気に忘れ、歓声を上げながら走り出した。


 無論、後から慌てたように利光とその家来達が追っては来たが、例年のことで農作業に携わっていた民百姓等は特に驚きもしない。

 利光が作業を続けるように身振りで示すのに簡単なお辞儀だけで済ませ、だがとても明るく懐こい笑顔を珠にも向けてくるのに、珠は嬉しくなり、声を上げて笑った。


 夫である利光が民に慕われている国主であるとこのような際に知るのはとても誇らしく、喜ばしい事だったのだ。


(私、幸せだわ)


 そんな風に思い、珠は己自身にも大いに満足した。

 城に戻ってから侍女達に見付かり大目玉を食らう事になっても、それは又別の話だった。


 *


 その日も普段通り、珠は部屋を抜け出して、城の中をこっそりと彷徨いていた。

 少なくとも身体が小さな珠の姿は、身形さえ気遣えば目に付き難い。


(やっぱり私、忍びに向いているんだわ♪)

 そんな風に満悦しながら、珠は物陰を渡り歩くようにして、城奥から表へと移動しつつあった。


 あるいはこの刻限には利光が乗馬の稽古をしているのではないか、と思ったのだ。

 利光が居る際に馬場に居合わせれば、強請り倒して珠も馬に乗せてもらえる。

 珠は馬乗りが好きであったし、母からの文で母や祖母も又少女の頃に馬乗りを習ったと知っていたから、余計に己ももっと正式に習いたい、などと望んでいた。


(馬に乗って駆け続ければ、母上様や父上様に会えるのかな)

 そんな風に思ったりもする。


 江戸の方角は知っているし、江戸の城は金沢の城よりも更に大きいらしいから、きっと遠くからも見て取れるだろう。


(あと富士の御山も見たいものね)


 浮き浮きと普段通りの上機嫌であった珠であったが。

 ふいに通り過ぎようとした炊事場から、己の名と夫の名が聞こえたような気がして足を止め、ごく自然に人目に付かない物陰に身を隠していた。


「そいつは本当かい?……でもいいのかねぇ。珠姫様は将軍家のお姫様じゃないか。それなのに」

「仕方ないだろ。まだまだ珠姫様はあの通り、可愛らしいけれど大人にはなっておられない姫様なんだからねぇ。……それに比べてお殿様はもう十七。お父君に似て、利光様は年齢以上に立派な御体格だし、そりゃ、もう、おなごなしって訳にはいかないよ」

「でもさぁ。江戸に知られたら……とんでもない事になるんじゃないのかねぇ」

「だから。珠姫様付きの女中連中には知られないようにって。ご城代様達が四苦八苦してるよ」

「なぁるほど。それであんなに皆さん、カリカリしてるんだねぇ」


 話の内容や言葉の意味が良く分からず、珠は薄闇の中で首を捻っていたが、次に聞こえて来た会話に、思わず息を呑んだ。


「御部屋様が決まれば、次は御子様だねぇ。目出度い事だよ。利光様、いやお殿様はもう立派な男なんだからね。なるべく早く跡継ぎを作って頂かないと」

「え。でも跡継ぎは珠姫様に産んで頂かないといけないんじゃないのかい?」

「だから。珠姫様じゃ無理だろう?……御子が出来れば珠姫様の御養子にするって、皆さん相談していたよ。ま、色々抜け道はあるって事さね」


 それ以上、下働きーなのだろうとは話し方等からそれと分かるーのお喋りは耳に入らないだけでなく、又この場に居たくないと感じて慌てて駆け出した。

 今迄とは異なり、身を隠しながらなどという気は廻さずに全速力で城の中を走る。


 己が何処へ向かっているのか、何をしようとしているのか分からなかったが。

 気付いた時には珠は天守に上っていて、遙かに見渡せる北陸の海とー山々に閉ざされて見通す事など叶わない、故郷へと続く空を見詰めていた。


(帰りたい)


 江戸など覚えてはいない。

 だが江戸へ戻れば、父も母も暖かく出迎えて己を抱き締めてくれる筈だと、珠は強く思った。


 顔を知らない弟や妹もいる。

 まさしく血を分けた同胞だ。


 偽物の『夫』とは違う。


「……父上様……っ……母上、様ぁ……」


 珠は己一人しか存在しない場所で、江戸から付き従って来た侍女等にも、いや元々実家に仕える者達だからこそ、聞かせる訳にはいかない慟哭を暫し洩らす事を己に許した。


 突発的な涙の発作が治まり、更に顔が回復したと確信出来る迄待ってから、珠は大人しく己の部屋へ戻った。

 既に彼女は己の気持ちを切り替えている。


(つまり、私が子供だからいけないのだわ。……早く大人になれば良いのよ)


 結論も出ていた。


 今は夫の利光が御部屋ーつまりは側室のことなのだと流石に珠も覚っている。先日の利光の言葉も、あるいは珠に打ち明けようとして、だったのかもしれないーを持ち、子を作ったとしても、それは珠自身が子供だから仕方ないのだろう。


 だが珠がなるべく早く大人になれば、利光が他の女との間に子を作る必要はなくなる訳で、つまりは、前田家が将軍家の怒りを買う事もー利光が他の女に優しくして、己を仲間外れにする事もー無くなる筈だと珠は考えた。


 江戸の将軍は珠にとっては優しい父親だが、前田家のような外様大名にとって将軍と幕府は常に油断のならない怖ろしい存在なのだと朧に珠も感じている。


(きっと遊んでいちゃ、いけなかったんだ。もっと真面目にお稽古して、学問も、お針の修行もして……早く大人になろう。そうすれば、利光様だって、私のこと、本当の妻として認めてくれる)


 そういう訳でその翌日から、珠は部屋を抜け出すのを止めた。

 侍女達は驚き、最初は珠の身体の具合が悪いのではないかと疑い騒いだ後、珠がやる気満々で稽古などに従事し出したのに、何も言いはしなかったものの、随分とあからさまに薄気味悪そうな顔をした。

 見ている珠としては面白くはあったが、しかし珠は珍しく今回は大真面目かつ真剣であったから、余所事に気を取られていてはならないと思い返し、稽古事や手習いに集中した。


 そうして数日間は瞬く間に過ぎ去り。

 珠が花を手にして、花器の何処に突き刺そうか、などと真剣に悩んでいる時に、慌ただしい気配がしたかと思うと、乳母でもある侍女が珍しくも動転した様子で現れた。


「……如何した。そのように騒々しく、はしたないではないか、乳母や」

 いつも言われ続けている小言を得々として返してやったが、乳母はそれどころではないようで、珠の生意気な憎まれ口を叱らなかった。


「姫様。殿のお渡りにございまする」

「……」


 珠は乳母の引き攣っている貌を見遣り、又もこの乳母は前田家中の者といざこざを起こしたのだろうかと、眉を顰めた。

 以前にも利光に注意を受けた事があったのだ。


「いい加減そなたも、将軍家の者という考えを改めよ。以前にもお叱りを受けたであろうに」

「ち、違います、姫様。そうではなく。殿は……姫様に御用がある、そうで」


 乳母の言葉に珠も又驚いた。

 今迄、利光が己に用があるなどと言って来た事など無かった。


 大抵、珠は部屋を抜け出した際に利光と会っていたし、また、能見物やら花見やらと呼び出される事はあっても訪問を受ける事は無かったのだ。


 だが珠は今現在己は修行中の身であることを思い出し。

 口許だけでなく気持ちも確りと引き締め、厳しく乳母に言い渡した。


「私には用はない。それに殿には会いたくない故、帰って頂きなさい」

「ひ、姫?!」

「私は忙しいのだ。……この花を何とかしないと」


 実際それで侍女の事も時ならぬ訪問者の事も忘れ、珠は目前にでんと挑戦的に構えている花器及び花との格闘に戻ったのだが。

 先程よりも更に一層の騒々しさと、何やら殺気立った感のある気配と共に迫力ある押し付けがましい足音が近付いて来たのに、むっとしながら振り返った。


「……利光様」

 何やら仁王像のように大股開きで部屋の真ん中に立っている夫を見出し、珠は僅かに眉を寄せた。

 何やら不機嫌であるような気がしたが、理由が分からずー寧ろ、己の修行の邪魔をされた不快感の方が勝って、珠は唇を尖らせつつ、文句を言った。


「私、今、お花の稽古中ですのにっ……修行の邪魔をしないで下さいませ!」

「……修行?」

「はい。大人の女になる為の修行です!見事全てやり抜く迄は、利光様とはお会い致しませぬ!」


 仁王様のような気配は解いたものの、利光は何故か眉を下げ、少々情けないーだがとても愛らしいと珠が思うー貌になった。


「お珠……何故だ。何故、そのような事を言う。もう、俺には会いたくないのか?」

「はい。会いたくありません」


 きっぱり強く言い切り、珠は花の茎を持ち直した。

 だがすぐに背後から奪われてしまう。


「もうっっ!邪魔しないで下さいませ!私、忙しいと申し上げましたのに!」

「花などどうでも良い!こちらを向かぬか、お珠!」


 明確な命令と感じ取り、珠は渋々、身体の向きを変えて夫であり国主である、図体は既に一人前の男である少年に向き直った。

 指先を揃え、礼儀正しく礼を取る。


「何か御指図があるのでしょうか。ならば早々にお願い致しまする」

「お珠、」

「珠は未だ未熟なる身」


 珠はふいに己を口惜しくも不甲斐なくも感じて唇を強く噛み締めた。


「御用の向きを承った後、早々に修行に戻りとうございます!」

「……」


 利光が肩を落とすだけでなく重く深い溜息を吐くのに、苛々しながらも何処か身体の具合が悪いのかと心配になってきた珠であったが。

 利光がふいに目前に膝を付くだけでなく、珠の身を抱き竦めたのに、珠は目を丸くした。


「ひ、姫様?!殿!お止め下さいまし、姫様は未だ、」

「煩い!其の方は出て行け!邪魔をするな!」


 悲鳴のような制止の声を上げた乳母を怒鳴り付け、退かせてから利光は一層珠を引き寄せた。

 ふと珠は、利光様の肌は草の匂いがする、などと思い、更には随分と逞しく確りとした身体付きなのに、胸の鼓動は早く乱れている、と感じる。


「珠。……頼むから、そのように……俺を避けないで、くれ。俺が、嫌いなのか?」

「……」

「珠」


 驚いて未だ目を丸くしている内に、驚く程間近で利光が眉根を寄せ苦しげに息を吐くのを認め。

 珠はふいに己の頬が火照ってくるのを覚えて、一層戸惑った。


「何処へも行くな。……俺を、置いて、いかないでくれ」

 弱々しく、涙さえ混じっているかのような湿った呟きに、胸の奥がきゅんと締め付けられるのを感じて困惑しながらも、利光が泣きそうになっているのは放っておけず、珠は手を伸ばしてそっと利光の後頭を撫でてみた。


 途端。

「珠っっっっ」

 がばりといった擬音さえ立てて、利光は珠に文字通り、飛び付いて来た。


 *


 珠が初めて女の徴を得たのは、それから凡そ一年後の事で。

 実家から付き従って来た侍女達は、珠の為に慣例通り赤飯を炊いてくれたものの、又も思い出したような繰り言及び恨み言を性懲りもなく吐き続けた為、珠は適当に理由を付けてその場を離れた。


 昨年から珠の身は、利光の座所に近い御殿に移されており、以前よりも城下の光景や田畑などが眺め渡せる、開けた高台に在った。


「お珠」

 ふいに現れただけでなくべったりと抱き着いて来るー少々暑苦しい感はあるー柄の大きい男の頭をペシリと叩いて、珠は夫の腕を解かせた。


「……お珠」

 切なげに訴えるような声を出す夫に、既に半ば以上憤懣は収めながらも珠はつんと顎を逸らせてみせる。


「そう、怒るな。別に良いではないか。少々、順序が後先変わっただけで、結果は変わらぬ。……これからは子が出来るかもしれぬのだから、一層励まねば」

「旦那様は鬼のように惨い非道な真似を私に為されたのだと皆申しております」


 冷たく言ってやると、流石に反省しているのか恥じる所もあるのか、利光は眉を下げ口もへの字に曲げた。

 既に、珠は愛しくて堪らないと感じる夫の表情及び仕草だ。


「だが……我慢ならなかったのだ。俺はずっと……お珠が好きで好きで堪らなかった故」

「……」

「子などどうでも良いのだ。俺は……お珠が、そなただけが、欲しい。そなたに冷たくされたら、生きてはいけぬ」

「……もう。調子良いんだから」


 一応仕置きの為にと夫の頬を軽く抓ってやってから、珠は自ら夫の逞しい長身に抱き着いた。


 身も心も蕩けそうな接吻をじっくりと交わした後。

 珠は冷たく理性的に夫に言い渡した。


「ところで数日は褥を別にしなければならないそうです」

「え~っっっ?!」

「そんな貌しても駄目ですからね!……私は構いませんから、我慢出来ぬならば他のおなごを召して下さい」

「お珠!何故、そなたはそのように冷たいのだ?!俺をもう愛しておらぬのか?!俺の事を嫌いになったのか?!」


 一層暑苦しく鬱陶しく訴えてくる夫に冷ややかな笑みを返しながら、珠はこの上ない、まるで浄土のようだと思う眼下の風景に見惚れ、己はとてつもなく幸せだと思った。


 より、空に近い場所で。

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