筒井筒【下】

 関ヶ原の大戦から既に十五年。

 幼かった忠直には、甲冑姿の父は誰よりも勇猛で気高い戦神のようにすら見えたものだ。


「旦那様……」

 あの頃の忠直と同じように、目を丸くしているー既に幼いとは言えないかもしれないー妻の目には己はどのように映っているのか、非常に気になっていたが、そのような事を口にするのは、父が望んだ姿ではないだろうと思って訊かなかった。


 お勝は瞳を数度瞬かせてから、ぎこちなく笑顔を浮かべる。

 彼女なりに武将の、そして国主の妻らしく振る舞おうと健気に努めているのだろう。


「ご武運、お祈り申し上げております」

「ああ」

「……絶対に、絶対にご無事にお戻り下さいませ」


 確約出来ない事を強請られるのに応えようがなく、忠直は何時も通り、妻の柔らかな頬を撫でるだけで済ませた。

 その名の通り勝ち気な妻は忠直を見送る迄決して涙は見せなかったが、一人になればずっと泣き詰めなのだろう。


 大坂への出陣は昨年冬と併せて二度目だ。

 見覚えのある道程を進み、無事他の幕府軍と合流してからも、忠直の気鬱は晴れなかった。


 妻は一言も大坂での戦については口にしようとしないが、これから忠直等幕府軍が本格的に攻めようとしている城の城主の正妻は、妻の一番上の姉だ。

 攻め手の総大将は、妻の祖父と父親である事も、忠直を悩ませ迷わせていた。


(まことに……攻める、のか?)


 冬の戦では、寧ろ幕府側は講和に持ち込む事こそを目的としている、というのは戦が始まる前からある程度透けて見えていた。

 大御所や将軍は元々ー決して善人とか温和な気性という訳ではないがー理に合わない事を嫌う人々だ。

 また将軍家としての体面や権威にも敏感で、更には太閤の頃のように力のみでの支配でなく、儒学を基本にした秩序ある世を造ろうとしている。

 そんな徳川家にとって、身内同士で血で血を洗うような争い、それだけでなく太閤の寡婦と遺児の命迄取るのは過剰だとの判断を下していたに違いない。


 元々、幕府ーというより祖父と叔父ーの目的は、あくまでも大坂城を無力化し、淀の方と秀頼君に無駄な抵抗を諦めさせ、一大名として生きる道を選ばせる、その一事だというのが、忠直等徳川譜代大名や旗本達、はては外様大名等の共通認識だった。


 だが和議に従い、城割、二の丸迄の堀だけでなく家屋敷の埋め立てーこれは講和の条件に反すると豊臣方は抗議した、らしいーが終わっても、浪人衆など無頼な輩は大坂城に留まり続け、本来城の主である筈の淀の方や秀頼君も豊家移封の命に反して城から出る事なく、幕府にしてみれば、破格の恩情を示して見せたにも関わらず、返す手でその頬を張られたが如く感じた、無礼不躾、何よりも『不服従』だったのだろう。


 大御所も将軍も、根本的に幕府に逆らう者を許容する気は無い、のだ。


(お勝やお千殿、それに……叔母上の気持ちを考えれば、あまりに惨い成り行きだ)


 表向き対立している間柄ではあるが、実は女系では豊臣家と徳川家は密接に繋がっていた。

 豊家に嫁いだ将軍家の一の姫や、忠直の妻は、豊臣秀頼の従妹達でもあるのだから。


(叔母上も……いや、叔母上だけでなく、淀の御方も、秀頼君も)


 だが忠直の感傷などとは関係なく、続々と全国から、それこそ幕府にご奉公と忠義の様を見せつけようという意気込みも荒く、大名諸侯が内揃った。


 幼い頃から何かと気遣ってくれ可愛がってくれた祖父、叔父であったが、幕舎の中心上座に収まっている姿は、忠直には近付き難く気後れを感じさせられる、まさに「大御所」と「将軍」でしか無い。


 他国の領主達と同様、神妙に戦評定に耳を傾けた後、叔父の元に呼び出された。

 戦の殺伐としたー殺気立ったー気配に呑まれ萎縮しつつも将軍の幕舎を訪れた忠直に、だが叔父はあくまでも叔父としての貌を見せる。


「顔色が少し悪い。無理な旅をしたのではないか」

「いえ……」

「そなたに何かあれば、お勝が悲しむ」

 普段通り平板な口調だが、妻の名を呼ぶ際には優しい慈しみの情が感じられるのに、忠直は大きく息を吐き、次の瞬間にはだから己は駄目なのだと強く自己を嫌悪した。


「如何した?忠直」

「いえ。わ、私は……」

 吃音の癖が出たのを懸命に抑える。


「わ、私は……父上の御名に恥じぬ、働きをしてみせまする!け、決して、父上や、松平家、徳川家に相応でない振る舞いは、致しませぬ」

「ああ、分かっておる。そなたも、越前衆の働きも疑ってはおらぬ」


 叔父は気分を害した風もなく穏やかに受け流した。


「だが一人の父親としては……婿には何よりも、娘のことを考えて欲しいと願っている。夫を慕い、頼りにしている娘の為に、婿には己の身を何よりも気遣って、大切にせよと言いたい」

「……」

「だが娘婿は、それに大事な甥達、弟達も、皆若い。名を挙げようと逸るのを年長者の老婆心で叱る訳にもいかぬ。……今後ますます戦で手柄を立てる機会などないであろうし、な」

「はい」

「だが無謀と剛胆は異なる」

 ふいに凛と響く声で言われ、動かぬ眼差しで睥睨されるのに、忠直は自然頭を垂れた。


 *


 圧倒的な戦力による城攻めは終わってみればあっけないものであった。

 凡そ二日間、豊臣方ーというよりも今の世から外れてしまった浪人方、あるいは関ヶ原の捲土重来を狙っていた者達ーはまさしく死に物狂いの獅子奮迅の働きであったし、それを攻めねばならない幕府方も必死であった。


 忠直等越前衆が手柄を立てる事が出来たのは、結果から見て、であって、乱戦の最中はただただ無我夢中。己と味方の命を守る事こそを先ず第一としていたような気もする。


 茫然自失といった状態であった忠直は、深夜、陥落した大坂城が紅蓮の炎に包まれるのを無言で眺めー父の代から彼に仕える臣達も又同様に、不吉な迄に妖しい紅を見上げていたー、この二日の間、完全に忘れてしまっていた妻の事を思った。


(お千殿は……お勝は……)


 妻の姉もあの炎の中に居るのかと思うと、居たたまれない、どころか手柄を立てたなどと他国の者達に羨ましげに囃し立てられ言われているのを考えると、義姉を死に追いやったのが己自身であるかのような気さえしてくる。

 だから、将軍家の一の姫が無事保護されたと聞いた時は安堵したし、救い出された娘と父親、祖父との間で感情の軋轢があったというのも、致し方のない事と受け止める。

 忠直にしてみれば、余程夫婦仲が悪く憎み合っているような間柄でなければ、例え相手が父親であっても夫を殺された娘がすぐに父親の胸に飛び込んでいく、という訳にはいかないだろうと思ったのだ。

 少なくとも彼の妻は、そういう女だ。


 論功行賞などは直ぐに明らかにされず、忠直等はー少なくとも忠直自身はー最早戦などうんざりという心地で国許への帰途についた。


 山間の隘路を抜け、越前へと入ると、血と泥、生きる為の醜くおぞましい鬩ぎ合い、足の引っ張り合いなど嘘のように長閑で、清らかな故郷の山野が拡がる。


(二度とあのような光景は見たくない)

 忠直は切実にそう願ったが、家臣等は故郷に戻った事を声高に喜び、あるいは世紀の大戦で越前衆こそが大坂城一番乗りを果たしたのだ、などと自慢げに出迎えの者達に触れ回っている。


 やがて居城へと到着すると、大手門まで出迎えに出ていたらしい妻が素早く駆け寄って来た。


「旦那様!」

 人目など全く意に介さない妻をいつもは忠直が諫める側であったが、今回は素直に華奢な身体を抱き竦めた。

 妻は未だ何処か頼りない身体付きではあったが、より嫋やかに優しく彼を包み込んでくれた。

 妻の香、しなやかな髪の手触り、常に身に纏う柔らかい空気により、漸く己が安全な場所へ至ったのだという実感が湧いてくる。


「よくぞご無事で……真に良うございました!貴男様さえご無事ならば、私は……」

 涙を堪える為だろう、一端妻は言葉を切り、だがすぐに笑顔で見上げて来た。

 相変わらず健気で一途な妻への愛おしさがふいに高まり、抑え切れなくなるのを感じる。


「お勝」

「さ。祝い膳をご用意致しましたし、湯殿の支度も調っておりまする。旦那様の……旦那様の宜しいように」

「ああ」


 あるいはこの頃が、忠直にとって人生の頂点、最も幸せなー不安や怖れを感じずにいられる時期であったのかもしれない。


 *


 彼は筆を置いた。

 既に風化していたと思っていた記憶、疵だった。


 長い歳月がー決定的な亀裂の時から三十年近くー経過した筈なのに、あの頃の妻の貌ばかりが目に浮かぶ。

 我ながら余りに身勝手なー恥知らずな心根だ。


 彼女をそして子達を手放した、いや、捨てたのは己の方だった。

 それだけは忘れてはいけない。


 書きかけの文を灯明に翳し、燃え尽きる迄見守る。

 老いて鈍くなった指先に炎が届いたが、彼は気にしなかった。


 *


 切っ掛けは何だったのか。

 やはり世間で言われている通り、大坂の戦での論功行賞への不服、であったのかもしれない。

 少なくとも忠直の家臣達ー勇猛果敢な父に従っていた、父を主君としてあるべき理想としていた者達ーにとって、不服であるだけでなく侮辱でもあったのだろう。

 忠直も又、亡き父、亡き父の望みに従う為に、将軍家の沙汰に異を唱えねばならなかった。


 大坂城に一番乗りした彼等には、もっと多大な報酬が相応だ、と。


 無論、将軍は認めないだろうと忠直には分かっていた。

 叔父は穏やかな、気遣いに充ちた文ー忠直の妻や、忠直自身が息災かといったーをくれたが、将軍家としての回答は皆無だ。

 いっそ叱りつけてくれれば良いのに、と思ったが、同時に叔父はそこ迄己を大切に思ってもいないし期待もしていないのだと思った。

 寧ろ江戸に置いている忠直の弟を可愛がって目を掛けているという詰まらない報告も耳に入ってきた。


 大坂の戦の後、功を為した筈なのに己の周囲が騒がしく喧しくなる一方、不満憤懣が充ち殺気すら感じる、負の方向への変化に忠直自身は戸惑い、傷付いていた。

 ー少々頑固であったり口煩くはあっても、皆父の代からの大切な家臣であり、己を大切にし守ってくれる者達だと信じていたから余計に辛く感じたのだろう。

 国と将軍家ー正確には幕府ーとの間に溝が出来、隔たりが生まれ、拡がりつつあるのを敏感に感じながらも何も出来ない己こそが、苦しい。


「旦那様、お疲れなのですわ」

 それでも妻が優しく寄り添ってくれるのが、有り難くはあるが情けなかった。


「十三のお年の頃からずっと国主としてお務めですもの。少しお休みになられて……湯治にでも参られては如何でしょう?」

「私は病ではない!」

「ええ、無論です。お疲れな、だけです。だから……少しだけ」


 徐々に涙を堪えている妻の貌を見るのも耐え難くなった。

 妻を守って幸せにしてやるべき己こそが、妻を泣かせ、耐えさせているのだという事実が辛く重かったのだ。


 長きに渡って徳川家と武家の世を支配していた祖父が亡くなり、事態は更に悪化した。

 少なくとも父の代から仕えて来た家臣等にとっては、最後の望みが潰えたという心境だったのだろう、あからさまにーとはいえ、忠直が聞いているとは気付かなかったのかもしれないがー「泉下の宰相様に顔向け出来ぬ」とか「情けなや。本来ならば徳川宗家を継ぐべきお家柄が」などと揃って嘆くのに、一層忠直の気鬱及び妻への遠慮も深まった。


 流石に将軍家の妻及び妻に付き従って来た侍女や従者達への憚りは忘れないようだったが、家中の中だけ、あるいは忠直の近習などに対しては身内の甘えもあるのだろう、己と共に育ったような若い者達が、「其の方等が頼りないせいで」などと攻められているのにも、居たたまれない心境で。


 その頃、妻は子を立て続けにーしかも最初は跡継ぎとなる男児を大坂での戦が終結し元和と元号を改めた年に、その後続く二人はそれこそ愛らしく珠のように美しい姫達だったーを出産し、妻も忠直もささやかな幸せを感じていたが。

 優しく己を慕ってくれる妻がいて、その妻が己の子を産んでー欠けた所のない幸せを享受している筈なのに、徐々に歪みが大きくなっていった、そんな感覚であったかもしれない。


「それにしても、男児をご出産とは。……御家の為に良かったのかどうか。いっそ皆姫様であれば面倒は無かろうに」

「殿の御子とはいえ、母君は将軍家の姫。……よもやとは思うが……何れ若君を理由にこの越前を召し上げ天領などに……越後少将の事、他人事などと暢気に構えてはおられぬぞ」

「しっ殿のお耳に入ったら如何する!殿は……素直な御方である故、御方様の事も上様の事も信じておられるのだ」


 頑固な老臣達の、それなりに自分達では声を潜めた囁き声を聞いたのは覚えている。

 絶対に本気ではなかったと今でも己では断言出来る。

 寧ろあの時はまさしく意識が朦朧とした状態でありー太刀を手にしたのも鞘から白刃を抜いたのも無意識だった。

 決して自刃しようとした訳ではない。


「!旦那様っっ何をなさっているのですっっ」

「いけません、御方様、危のうございますっっ」

 女達が騒ぐ声が聞こえ、次に目覚めたー己の頭の中に掛かっていた靄のようなものが完全に晴れたー時には、彼は床の中に寝かされていた。


「旦那様、お目覚めですか」

 ひっそりと湿った声で訊いて来たのが妻だと気付いて、更にはそっと額に少し冷たく感じる掌を当てられるのに自然目を閉じる。


「……お願いです。湯治へ、参りましょう。私もお供します。私も……少し疲れました」

「ああ……そうしよう」

 ふと将軍家から己には何も言ってこない分、妻へは色々と指示やら戒めなど下っているのかもしれないと思った。

 何も言わず寄り添ってくれる妻の為にも、己が何とか気概を取り戻し、何時までも頑固に過去にしがみついている家臣達を何とかしなければならない、とも。


 その後、妻の勧め通り、忠直は妻と幼い我が子達を連れて政務から離れ、ゆったりと山間の湯治場で過ごした。

 何やら家臣達がこそこそと、幾分主君である己に対して忌避するような目付き、素振りをした事などには気付かなかった。


 妙な雑音さえ聞こえてこなければ、忠直の癇が立つ事もなく、心穏やかにかつ幸せな心地を取り戻す。


「旦那様は真面目過ぎるのですわ」

 妻が優しく、だが少し拗ねた貌をして言うのに、苦笑しつつ纏わり付いてくる子達をあやす。

 中でも初子はーしかも愛しい妻との間に出来た男児だー愛おしくて堪らず、なるべく抱いていたいと思い、妻や乳母を呆れさせつつも実行していた。


「勿論、私は……旦那様のそういう所も……お慕いしておりますけれど。でも……それでは旦那様御自身がお辛いのではないかと、時折心配になります」

「……そうか」

「私の父も、外では真面目で堅物一辺倒、と思われているようですけれど」

 妻の勝は、そっと薄手の単衣を彼の肩に掛け、それから優しく擦ってくれる。


「側仕え達の目を盗んで、奥にいる私達子等や母上の許へ渡って来られました。私達の前ではすましておられたけど、本当はいつも母上に甘えていらして」

「……」

「貴男様にも……もう少し私を頼って欲しい、などと思ってしまいます」

 いえ、私が至らないのが良くないのですけれど、と少し哀しげに付け加えた妻の手に手を重ねた。


 心の平安と身の健やかさを何とか取り戻して居城へ戻った忠直は、何人かの家臣達が隠居を申し出、彼が戻るより前に認められて退いた事を知った。

 それだけでなく、奥ー妻や子の周辺ーの侍女達も入れ替わったらしく見知った顔がいなくなっている。

 江戸から従って来た者で妻も随分頼りにしていた侍女も一人姿を消していると気付いてー何より妻が何も言わないのに不審を覚えてー問うてみたことがある。


「あの……たしか、水木とかいう、江戸より参っていた者の姿が見えぬが如何した」

「ああ、あの者でしたら」

 妻は変わらず穏やかに笑みながら、湯治場でのように気儘に過ごせずに不機嫌になって愚図っている幼い姫を抱いてあやしている。

「良い縁談があったそうです。良く仕えてくれましたから……手当を充分に与えて下がらせました」

「そうか」


 疑う事もなく、忠直は妻の言葉を受け入れた。

 いつも彼の為を思い、彼を気遣い続けてくれている妻が、偽りを言ったり己を謀る筈がないと信じていた。


 やがて、恒例の江戸参勤への旅立ちの日が近付き。

 勝は彼の身体を心配し、すぐに戻してもらえるよう父親に文を書くといって聞かなかったが、随分と叔父将軍は融通を利かせてくれていると感じていたので、笑って妻の過保護さを断った。


 妻子には悪いが、厳しい冬の間を国許でなく江戸で過ごせるのは有り難いし、久し振りに叔父と顔を合わせ、更には年下の従弟達ー次代の将軍家を担う者達ーとの親睦を深めたいと思っていた。


 叔父の病弱だった嫡男は、亡き父が期待したように夭逝したりしなかったし、既に世嗣として認められ、帝王学を授けられている。

 やがて公家かあるいは大名家より妻を迎え、更に世を継ぐ子を設けるだろう。


 既に自分では父の望みを叶える事は出来ないと分かり切っていた。

 将軍家どころか、あるいは越前の国主の座も危ういかもしれないという不安もここ数年は感じた所だったが、妻や子達のおかげで気持ちは少し上向いた。


 己が常に些細な事を気にしてくよくよと思い悩み、更にはそうした性格、性根に一層落ち込み、沈んで覇気を無くしていくというのが気の病の素だとは何となく気付いてもいたのだ。

 大坂での戦以降、妻や家臣達にも心配を掛ける一方であったと、鮮やかな秋の彩り豊かな色合いに見惚れつつ、反省もした。


 足止めを食わされたのは領国を出る前、最後の宿舎であった。

 隠居した旧臣等が訪ねて来て、懐かしくも感じた忠直は特に何も考えずに謁見を許した。

 だが。


「江戸へ行かれてはなりませぬ、殿」

 いきなり厳しくー誰かに聞かれる事を怖れるようにー声を潜め秘密めかして言ってくるのに、忠直は最初は笑うだけだった。


「殿!既に江戸には殿の不行跡が伝わっておりまする!このまま江戸へ入られれば、直ぐさま取り囲まれ、怖れながら殿は捕らえられ、御身の自由どころかお命迄も危うくなりましょう」

「……其の方は一体何を申しておるのだ」


 相手の言葉の意味も真意も理解出来ず、素直に問い返した忠直に老臣は思い詰め血走った目を向け、更に脅してくる。


「殿が、勝姫様の侍女をお手討ちになされたこと、既に江戸は承知しております!何度も勝姫様の許へは御下問があった模様。更には殿が何度か乱心なされ、お諫めする我等をお打ちになられた事なども、全て上様のお耳迄達しておりまする」

「……」

「このまま行かれてはなりませぬ!それでなくとも、上様は……御兄上であられた亡き殿の御血筋を疎んじておられましょう。理由さえあれば、越前の国もお取り上げになられ、殿も越後少将のように」


 以前にも同じ言葉を聞いたと思った途端、かっと頭に上る。

 気が付いた時には太刀を抜いており、眼前には青ざめ怯えきった老臣が頭を抱えて身を縮めていた。

 己を背後から近習等が確りとー随分と慣れたー手付きで抑えているのにも気付く。


 ーこのような事が以前にもあった、とも。


「……戻る!」

 一言叫んで、彼は太刀を放り出し、それを慌てて拾いにいった近習等から逃げるように踵を返した。

 その足で、居城へと馬を駆る。

 行列は遅れて忠直の後を追う形となったが、どうでも良かった。


(私は一体、何をしたのだ)


 その日から、彼は完全に恐怖と不安の虜囚となり。

 誰もー何よりも自分自身をー信じる事が出来なくなった。


 *


 最後に妻に対面したのは妻が江戸に発つ直前で、既に江戸から迎えに来た護衛達に取り囲まれ、更には将軍家の姫に相応しい美々しい衣を身につけた姿、であった。

 共に過ごした間、まるで下々の民草の女房のように振る舞いたがる妻は、幾ら注意しても国主の妻としても相応しからぬ地味、というより何よりも動きやすさを重視した、飾り気のない小袖姿だったのだが。


「皆、下がりゃ」

 冷たく静かに将軍家の従者達に命じる声も、何処か叔父の不動さ冷徹さを思い起こさせる。


「私は殿とお話がある」

「姫、しかし、姫から片時も離れてはならぬとの御命が」

「下がれ。私は将軍家の三の姫であるぞ。私に命を下せるは、我が父上と母上のみじゃ!其の方等如きの指図は受けぬ!」


 言葉や声音だけでなく僅かな顔の動かし方、その感情を一切窺わせぬ無感動な眼差しに、彼等もまさしく将軍の面影を見出したのだろう、躊躇いつつも素直に礼を取り、そそくさと部屋を出て行った。


 しかしそれ迄傲岸不遜、人を人と思わぬような目をしていた将軍家の息女は、忠直と二人きりとなると彼が見知っていた、愛しい妻の貌になる。

 二度と騙される訳にはいかぬ、と忠直は何度も己に言い聞かせた。


 ー忠直の乱心、不省を知りながら、彼には何一つ言わず、彼が犯した罪も隠蔽し続けた女、なのだ。


「旦那様」

 優しい呼び掛けに胸の奥まで揺さぶられたのも気付かぬ振りをして、江戸への参勤を取り止めて以来ずっとそうしていたように亡き父の位牌を見詰め続ける。


「……旦那様は……私が傍に居らぬ方が、宜しいのですね。私は……旦那様のお望みならば、大人しく去ります。その方が、父も事を荒立てぬでしょうし」

 ですが、と勝の手が、哀願するように己の袖に触れるのも素早く振り払った。

 彼女に触れられては、弱い己は何もかも忘れて、恥知らずにも彼女に縋り付いてしまう。

 だからこそずっと、顔を合わせぬ様にしてきた。


「旦那様……私は……旦那様のことをお慕い申し上げております。今でも私の気持ちは変わりませぬ。私は幼い頃からずっと……」

 姫は明らかに傷付いたようだが、それでも言葉を続けた。

 その名の通り、今でもしっかりとした己を持つー忠直には過ぎた女人なのだ。


「貴男が、好き、です。ずっと貴男と一緒にいたい。貴男が、例え私を忘れてしまっても私は、好き」


 同じ言葉を以前言われたのだとふいに忠直は思い出した。

 忠直が血塗れの太刀を握りしめていた時か、あるいは、泣いている彼女の頬を叩いた時か、か弱い身体を蹴飛ばした時か。

 何れにせよ、大切な妻を苦しめ、傷付けた時、罪を犯した時だ。


「でも私は……私がいては、貴男様は、辛いのですね。私がいるせいで、貴男様は……御自分を責めることを止められずにいる」

 誰よりも忠直を理解している妻の言葉に、忠直は心中で深く頷いた。

 同時に例えようもない哀しみをー彼女の為にー感じる。


「どうか貴男様は……私の事はお忘れ下さい。貴男様さえご無事ならば……私は……」


 一向に彼女の方を見ようとしない、反応も一切示さない忠直に漸く諦めてくれたのか、微かな衣擦れの音を立て、おそらく淑やかに頭を下げていたりするのだろう。

 強く何事か訴えかけるような切実な沈黙が続いた後。

 妻は今度は彼女らしくなく足音を態と立てるようにして戸口へと駆けて行き、更には板戸も乱暴に引き開けた。


「参るぞ」

 おそらく廊下で待っていたのだろう、臣下達に告げる声を聞いたのが、本当に最後となった。


 彼女が去っていくのをー彼が引き籠もっている書院から表へと抜け、迎えの豪勢な輿に乗せられてゆるゆると城から出て、長く物々しい行列を組んで城下へ更には国外へと向かって行くのをーひしひしと感じながら、忠直は動かなかった。


 妻も子も、出来るだけ遠くへと、去って行って欲しかった。

 ー罪深く愚かで、何よりも弱く臆病で卑怯な己から。


 *


(そうだ。二度と関わってはいけない)


 息子、娘達は無事に幸せにー平穏に暮らしていると聞いている。

 三の姫も、本来の彼女の性格通り、快活に生き生きと下らぬ者達の束縛など受けずに生きているのだろう。


(私は……思い出だけで生きていける)


 幼い、何も分からずただ幸福で輝いていた日々へと再び戻って行く。

 従妹の姫の小さな手の感触、初めて文をもらった時の喜び、手を繋ぐだけで過ごした新床の夜。

 彼女と暮らした日々の追憶に、未だに縋って心の支えとして細々と生き続けているー生き残っている現在なのだ。


『貴男が、好き、です。ずっと貴男と一緒にいたい。貴男が、例え私を忘れてしまっても私は、好き』

 彼女の声は未だ鮮明にー甘く優しく、響く。


(私こそ。何時だって、そなたが好きだったのだ、お勝)


 忘れる事など決して、無い。


 結局妻であった女の望みは何一つ叶えてやる事すら出来ぬ男なのだ、と彼は己を嘲笑った。

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