筒井筒【上】
慶安三年。
従弟であり義弟であった徳川三代将軍が病の床に伏していると風の噂に聞いた。
己には既に関わり無い遠い場所、遠い人々の話と思いつつ、彼はそれでも自ずと筆を取っていた。
*
幼い頃、記憶も定かでない頃から、仙千代と従妹達は互いを知っていた。
父親同士が異母兄弟であり、定期的に江戸へ赴く際には父は仙千代を伴う事が多かったから、自然仙千代は江城にも城の叔父叔母、従妹達とも顔を合わせ遊んだりした。
とはいえ、上の姫達は女の子の遊びばかりしたがる子達でいささか仙千代には物足りない存在であったが、三の姫が産まれ、更には三の姫が巧みに素早く這い這いなどし始めた頃に、この従妹は違う、などと思った。
いつものように優しくて綺麗な叔母がくれた菓子を大切にちびりちびりとー今から考えれば非常に男らしくなくー食していたら、二、三口で己の分を食べ終えたらしい三の姫がまさしく忍びの如く忍び寄って来て、仙千代の菓子を横からかっ攫って行ったのだ。
「お勝!駄目でしょ、そんな事しちゃめっ!」
三の姫より下の赤子ー長丸という名の男児らしいとしかその頃は意識していなかったーを抱いて夢中であやしていた叔母の代わりに、幼くとも責任感の強い如何にも総領姫らしい一の姫が強く誡めるのに、三の姫はこれ又素早く仙千代の背後に逃げ込んだ。
「お勝!仙千代様に謝らなきゃ駄目!早く、お菓子も返して!」
「や!」
後から考えれば三の姫は母親の気を引きたかったに違いない。
だが暢気な叔母はというと、固まっている子等の方を不思議そうに眺め、だが仲良く遊んでいるなどと判断したらしくまさしく慈母の如き微笑みを浮かべるだけで、赤子から離れようとはしなかった。
三の姫は上の姫達に比べて幾分表情に乏しいのだが、その際は頑固に唇を引き結び更に仙千代の袖を菓子毎握りしめてきた。
「あ」
「お勝!もう、この子ってば!ごめんなさい、仙千代様」
目敏い姉がすかさず仙千代に詫びてくるだけでなく、妹に駆け寄って小さな身体で幼い妹の身体を抱き上げようとする。
当然、三の姫は抗い、一層強く仙千代にしがみついた。
「うーっや!」
「お勝ってば!」
「これ、どうしたそのように声を荒げて」
穏やかに平板な声に顔を上げると何時の間にか叔父と、叔父に案内された形で叔父の兄である父、それから別の叔父が部屋に入って来た。
叔父は瞬時に状況を見て取ったらしくちらと叔母に一瞥をくれてからーそれが如何なる意味なのか、傍で見ている仙千代には分からなかったが、叔母が慌てたように抱いていた赤子を乳母に戻した事から考えると、おそらく咎めるか諫めるものであったらしいー幼子の癖に力強い三の姫を抱き上げた。
「や~っっ」
「お勝は仙千代がお気に入りなのだな。やれやれ。その年でおなごの方から迫るとは、少々早過ぎるぞ」
最初は抗いむずがるかと思った三の姫を叔父は巧みにあやして笑わせると、少し拗ねた顔付きになっている一の姫の頭をそっと撫でた。
従妹達に触れながら。
「仙千代、大丈夫か。済まなかったな。幼い姫のする事故、許してやってくれぬか」
これ又穏やかに、それでいて大人に対するように真面目に聞いてくるのに、仙千代は慌てて頷いた。
「はい。姫は、元気ですばしっこくて凄いと思います。わ、私は男児ですから」
叔母が心配そうに己を見ている視線に気付いて、仙千代は吃りつつ、頬が火照ってくるのを懸命に抑えようとした。
「き、衣が汚れようが、大した事はございません。何れ、私も武士に、いえ武将になる身です」
「そうか。……これは立派な心掛け。流石兄上の御嫡男ですな」
叔父が父へ話を振る形で褒めてくれるのが嬉しくて一層顔が熱くなってきた。
叔母の眼差しも一層柔らかく優しいものになるだけでなく真っ直ぐ笑顔を与えられるのを認め、胸の鼓動も激しくなってくる。
あの頃は父にも病の徴候など全く無く、仙千代は側室腹の子とはいえ歴とした嫡男として認められており、仙千代の日々には些かなりとも曇りなど無かった。ー実際、他の弟妹達も皆正妻の子ではなかった。
後に将軍職を継いだ叔父の家、更には従妹弟達と己とは立場も境遇も違うと、そしてその差は長じるにつれて拡がるばかりだと気付いたのはもっと後の事だ。
従妹達との交流は続いたが、それには父の思惑もあったらしい。
父自身は既に徳川宗家の家督を継ぐ事は諦めていたのだろう。
兄と叔父の違いについてー叔父の方が官位も一族内での席次も高く、それこそ当主である祖父に次ぐ場所を常に占めているー幼い頃から朧に覚っていたが、強く意識したのは、叔父の一の姫が上方へ嫁いだ頃だったろう。
幾分多感な時期に差し掛かっていた仙千代は、その年も父に従って江戸へ下った。
叔母が一の姫に付き従って上洛していたのは残念というよりも寂しく感じたが、父の意向に従い、父の望みを叶えたいという思いも仙千代の心中に既に生まれ、育っている。
父はー女児しかいない叔父に、仙千代かもしくは弟達の何れかを養子として迎えさせ、己の代わりに己の子に徳川宗家を継がせたかったのだ。
仙千代は確かに嫡男として認められていたが、叔父が仙千代を気に入って可愛がっていると見てーだが仙千代にしてみれば、叔父の『特別扱い』はあくまでも父の嫡男であるが故のものでしかないのではないか、という気もした。その証拠に仙千代の弟妹達の話なども良くして、会いたそうな貌をしている、と仙千代は感じたー、仙千代を最有力候補と見なし、江戸へも相変わらず伴ったのだろう。
辿り着いた江城には、しかし四人いた筈の従妹達は、三の姫の勝姫しか残っておらず、あれ程華やかで賑やかだった奥殿も何やら寂しく侘びしい場所になってしまったような気がした。
無論、奥の主である叔母が留守であるせい、もあるのだろう。
広い庭で侍女等に見守られながらであるが一人で遊んでいた三の姫に歩み寄る。
仙千代を見つけて少し不思議そうな顔をする三の姫に、仙千代は愛想良く笑いかけた。
「久し振り、三の姫。……私のこと、覚えていないか?」
「……」
切れ長の一重の瞳や顔立ちは叔父にそっくりだが、首を傾げる仕草は叔母と同じだ。
「越前の仙千代だ。元気そうで何より」
「仙千代様」
姫の瞳が理解を示して瞬くのに仙千代は少し嬉しくなって強く頷いた。
幼い姫は無論、赤子の頃の事など記憶にないだろうが、仙千代は己の袖を強く掴んだ、それでも小さな紅葉のような手を、その感触も覚えている。
「一の姫はお嫁に行ったんだね。四の姫は何処?」
「……ややこは母上様が連れて行った」
ぽつんと姫は答えて、俯いてしまった。
覗き込んで見ると既に目に涙を一杯溜めている。
「ややこと姉上様と母上様、行っちゃった。長丸もいないの……お勝だけ、置いて行かれた、の」
ふぇ、などと弱々しい声を上げる姫に、仙千代はおろおろしながらもだが下の弟妹達も居ることから素早く慰め気を引き立たせようとする態勢に入る。
「大丈夫、すぐ戻って来るよ。叔母上は一の姫に付き添って行かれただけだもの。一の姫の婚儀が終わったら、すぐ江戸に下られる」
「でも……でも、ずっといないんだものっっお勝、一人なんだものっっ父上様が良い子で待っていようねって仰るんだものっっ」
「姫、」
「お、お勝、泣かない、もんっっ!」
強く宣言してから、姫がぎゅっと目を瞑りそれでいてポロリと涙の粒を零すのに、仙千代は幼い従妹の艶やかな髪に触れそっと撫でた。
「じゃ、私と遊ぼう。そうだ、石蹴りをしよう。随分遠く迄飛ばせるようになったんだ。見せてやる」
「……うん」
差し出された小さな手を取ると、三の姫は微かに笑んで、仲良しの鯉がいるという池へ連れて行ってくれた。
てっきり叔母が戻る迄江戸に滞在するかと思っていたのに、父には最初からそのような心積もりは無かったらしく、早々にー鷹狩りなど楽しんだ後でー国許への帰路についた。
無論国主として大切な秋は国許で過ごしたいと考えていたのだろうが、夏場は快適な国許を出、冬場を雪に閉ざされ憂鬱な国許にいるなど、仙千代には不可解に感じられた。
既に雪やら凍った池などを喜ぶ年齢でもない。
「右大将にも困ったものだ。相変わらず、側室一人抱える気にならぬ、とは」
国許への道中の宿で、酒を飲みながらのー傍で仙千代は膳を摂りながらのー言葉の内容と異なり上機嫌な父の口調と声音が印象に残った。
「小督殿は確かに美しいおなごだが……あのおなごはどう考えても女腹だ。江戸へ戻って子を身籠もったとしても、又姫であろう。右大将も世継ぎの事にあれ程無頓着ではな」
返って小督殿の方が気の毒だ、と言ったのは、確かに叔父や叔母への好意もあったろうが、仙千代には同時に父の野心が透けて見えたような気がした。
そして翌年。
父の予想ー期待ーに反して、叔母が初めての男児を出産したとの報せを受けて、父は大いに失望したらしい。
他にも色々と理由はあったらしいが、その年江戸へ赴く事は無く、父は祝いの品と文を使者に託して送った。
仙千代も姫への文をこっそりと使者に渡した。
文と言っても他愛のないものだし、まだ幼い姫からの文も期待していなかったが姫にはどうしても先の冬に拾った子熊ー大きくなってしまった為、泣く泣く山へ帰したーの話をしたかったのだ。
周囲の侍女達は怖がるばかりだったし、弟妹達も身の安全の為と称して大人達が近寄らせなかった。
とても可愛くて仙千代に懐いていたというのに、父や大人の家臣達がもう少し大きくなったら熊肉にしよう、などと言っていたのを聞いて、手放す決心をした。
誰も己の気持ちを理解してくれないと哀しく辛く感じていたが、三の姫ならば何となく分かってくれるような気がしたし、誰かに伝えるだけでも楽になるような気がしていた。
そして短い北国の夏、更に短い秋は足早に過ぎ去り、長く足並みの遅い冬がやって来て、今あの子熊はどうしているだろうかと相変わらず鬱々と落ち込んでいた仙千代の許に、三の姫からの返書が届いた。
文字よりも絵が多い、愉快でなかなかに難解なものだったが、それでも仙千代らしき大将と小姓の格好をしているらしき三の姫が子熊を真ん中に手を繋いでいる絵を見て、仙千代は随分と明るい心持ちになれたし、同時に姫に会いたいと強く願った。
翌年の慶長九年に、将軍宣下を受ける為上洛する叔父の行列に父も加わったが、残念ながら仙千代は随行しなかった。
父が新たな考えを持ち策を講じていたのだと仙千代が知ったのは、父が帰国し次第、仙千代を呼び出し、仙千代と勝姫の婚約が正式に整ったと告げた段だ。
仙千代は既に十一歳になっており、元服も間近ということで確かに家臣や母などは縁談についても口にするようになっていた。が、一方将軍家の三の姫はというと、未だ六歳で、正直仙千代には早過ぎるような気がし、実際そう口にも出したが。
「早くなどない。一の姫は七歳、二の姫は三歳で嫁に行ったのだ。……手を拱いていては他家に取られる」
「……」
「それとも、三の姫は気に入らぬか?そなたがどうしても嫌だというならば」
「いえ、そういう訳では」
「ならば愚図愚図言うな。そなたはこの越前宰相の嫡男なのだ。……今少し男らしゅうなれぬのか」
僅かに零れた父の不満を鋭く痛く感じて、仙千代は思わず身を縮めた。
それが一層父には気に喰わなかったらしい。
「虎之助に、とも考えたが、相手が将軍家の姫ともなればやはり嫡男でなければならぬ。良いな、そなたは将軍家の姫を娶り、将軍家の婿となるのだ。それだけでなく、大御所様の孫であり、何れこの越前の国主となる身。父が守ってきた勲しをそなたも引き継いでいかねばならぬ」
「……はい」
「それに」
一端父が言葉を切ったのに、何事かと思わず顔を上げた仙千代と目が合うと、父はこれまた珍しく咳払いなどして、言葉をーだが明らかに先程口にしようとしたのとは異なる言葉をー継いだ。
「そなたは何れ、もっと高い地位や身分を与えられる事になるやもしれぬ。故に精進せよ」
「はい」
部屋に戻り、使いから渡された姫の文を開きつつ、仙千代は不吉な予感を覚えた。
それが何なのかその当時は分からなかったが。
後から思い返せば、既に父の病は進んでいて、父にもその自覚があったに違いない。
だが仙千代個人にしてみれば、父の無念も焦りも未だ理解出来ぬものであり。
それでも、ただ単純に、自身既に好意も抱いている姫との将来を喜ぶ気にはなれなかったのは確かだ。
*
父が病を得て亡くなった年に、仙千代は元服して叔父将軍から偏諱を受け名を忠直と改めると同時に家督を相続し、齢十三歳にして越前七十五万石の国主となった。
その後国主として江戸へ参勤することはあっても、最早叔母や将軍家の姫と直接対面する事は当然許されなかった。
それでもーもどかしい御簾越しではあっても、許婚でもある三の姫は幼い頃と変わらず忠直に心を寄せてくれたし、それだけでなく文の遣り取りは直接会えぬ分一層頻繁になった。
実際に三の姫が越前へ輿入れしてきたのは、慶長十六年の事。
叔父将軍は愛娘の婚姻を、おそらく相手が徳川一門であり甥でもある忠直だからこそ、渋り未だ気が進まない素振りも珍しくあからさまにしたが、忠直はともかく家臣達は承知せず、将軍家の姫の輿入れをー主に大御所である祖父に対して願い状という形でー要求し続けた結果、だ。
忠直が十七になり、つまりは叔父自身が叔母と祝言を挙げた年頃になったというのも、常に感情よりも論理や法度、道理を優先する叔父には無視出来ない状況であったらしい。
とはいえ、三の姫は数え十二歳の、まさしく咲き初めた花ーあるいは蕾の花ーという頃合いで、忠直は先ずは形ばかりの祝言を挙げ、国としての体面や家臣等の心の安寧を保つべきだと考えていた。
姫が到着したとの報せを受けたものの、旅の疲れもあるだろうからとそのまま休ませ、忠直は通常通り、国主としての日課をこなし続けた。
年少であることから、父のようにーそして父が忠直に望んだようにー威厳を以て政務や家臣等に臨むという訳にはいかなかったが、真摯に真面目に勤め上げればいつかは皆に認められる筈だと信じていたしーそのように叔父将軍にも家督を継ぐ際に諭されていた。
忠直だけでなく忠直の弟を江戸へ呼び寄せて何くれと無く面倒を見てくれる叔父は、篤実で真面目な人柄で、一部の譜代等には「真面目だけが取り柄」などと言われているとは、自身も国主となってから知った、というよりも気付いた。
更には表向き隠居と言いつつ、祖父の家康が隠然とどころか明白に実権を握り振るっているのだとも。
今更ながらに亡き父の意図ー父が徳川宗家の地位を諦めてはおらず、己の代では無理でも忠直の代に取り戻そうと画していたのだーを覚った。
(でも、もう無理だ。病弱な竹千代君だけだったならばいざ知らず、弟の国松君は才気煥発で容姿も端麗、将軍家の子息に相応しい少年だと聞いている。……幾ら三の姫を私が娶ったとしても、私には無理だ)
そして、それで良かったのだとも思っている。
(七十五万石だって多過ぎる)
早く弟達が成人して重荷を分かち合う事が出来れば良いのに、などと願っているとは誰にも言えないしー父を裏切る行為であるような気がした。
忠直としては、父のお膳立て通り、将軍家の姫を娶り、越前松平家の名と権勢を高めるよう努めるしかない。
そういう訳で、祝言を挙げる直前迄、忠直は書状や勘定書を眺めながら、今では日常的になっている困惑と悩みに耽っていた。
幼い姫にとっても、祝言など負担で退屈なものだろうと思い込んでいたから、特に何の感慨も無く、白無垢を身につけて大人しく俯いている姫には殆ど目も向けないままに儀式を終え、更に新床へ追いやられても普段通りー姫は当然別室で休むだろう、と思い込んでいてー床に寝転がる。
(明日……ゆっくり姫と顔を合わせて……話が出来れば……)
緊張はしていたらしくすぐに眠気を感じてうとうとしていたが。
頬の辺りを擽るように触れてくるモノを先ずは感じ、それから軽く頬の肉を摘まれた。
「痛っ」
「あ、ごめんなさい」
それ程慌てる風もなくー寧ろのんびりとした口調のー少女の声が聞こえたのに、忠直は重たい瞼を無理矢理開けた。
真っ直ぐ興味深げに忠直を覗き込んでいた少女と目が合う。
誰何する迄も無く幼顔の面影は充分に見て取れて、慌てて忠直は身を起こし、乱れてもいない襟元を正した。
「姫、如何した。このような……」
幼い頃と同じように不思議そうに小首を傾げた少女ー既に幼くなどはなく、淑やかで年齢に似合わぬ落ち着きと和やかさに包まれているーに、忠直の方は逆に不安を覚えた。
「何か不都合でも起きたのか?よもや賊に襲われたのではあるまいな?!」
基本、家臣達だけでなく領民達も将軍家の姫を歓迎するだけでなく大いに期待している。
だが逆に、外部の者や松平家あるいは徳川に遺恨を持つ者達には面白くない此度の婚姻だろう、とは叔父将軍にも事前に警告を受けていた。
ー主に叔父が言いたかったのは、だから自覚して姫を守れ、との事だったのだろうが。
「賊?賊が侵入したのですか?」
だが姫は逆にー何故か瞳を輝かせつつー聞き返して来た。
「まあ、凄い!ではこれから、大立ち回りの大捕物が始まるのですねっ」
「……いや……それは……」
曖昧に忠直が頭を振ったのに、「まあ」と小さく呟いて姫は肩を落とした。
どうやら落胆したらしいと気付いて、何となく忠直は姫の肩に手を置き、撫でる。
「済まぬ。……そうだな、今度、賊が入れるようにしてみよう。だが本丸まで引き入れる訳にはいかぬぞ。そのような事許したら、江戸の叔父上にお叱りを受けてしまう」
「……そうですね。残念ですけれど、父上様は真面目で心配性だから、私がいる場所に賊が入ったなどと知れたら、すぐ江戸に戻るようにと言われてしまいます」
「……そうか」
何となく俯いた忠直に、ふいに柔らかくー懐かしいー重みが寄り掛かってくる。
「姫」
「ようやく私、参りました。ずっと……この時を……待っていたのです」
もう決してお側を離れませんと嬉しそうに呟く三の姫に忠直は戸惑い躊躇いながらも、縋り付いて来る小さな身体をそっと緩く抱いた。
翌朝忠直が目覚めた時には既に姫の姿は無かった。
奇妙に心許なく寂しい気がしたものの常の習慣に従って床から出て、着替えやら朝の鍛錬などを済ませてから朝餉の席に着くと侍女等に立ち混じって、姫がーこれは侍女達も気遣って、なのだろうーしゃもじが入った器を大切そうに運んで来たのに目を丸くする。
「姫?何をしているのだ?」
「お早うございます、旦那様♪」
可愛らしくにこりと微笑まれてつい黙ってしまった忠直の前に姫は膝を着き、幾分おろおろとしている侍女達は無視して、櫃を己の傍に引き寄せると椀に飯を大盛りに盛る。
「……」
「さ、沢山召し上がって下さいませ。私も今朝は漬け物を甕から出したのです」
明日は私が漬け物を切ってみせます、などときっとして侍女の一人を睨んだりしているのは、おそらくその者に止められたのだろうと、忠直は正しく推測した。
ここは主である己が何とかしなければーというのは侍女達及び下女達の視線を受けてひしひしとー感じた為、忠直は敢えて厳しく貌を引き締めた。
「お勝。そなたは下女や端下女ではないのだ。そのような振る舞い、この越前七十五万石の国主の妻には相応しくない」
「……でも」
姫が穏やかな感のある一重の瞳を軽く見開くのに、何となく気まずくなって忠直は咳払いをする。
「祝言を挙げた以上、そなたは私の妻だ。故に、自覚を持って、我が松平家の正妻として振る舞わねばならぬ。最早気儘自儘な将軍家の姫ではないのだ」
「……はい」
しゅんと萎れてみせたものの、未練がましげに姫はしゃもじを弄っている。
「お勝」
「だって……折角花嫁修業もして参りましたのに。私、お米を磨ぐ事だって出来るのですよ?ちゃんと練習しましたもの。それなのに、皆私を信じてくれぬのです。……失敗など致しません」
「……」
「そりゃ……一人でご飯を炊くのは……まだちょっと自信がありませんけれど。でも母上様は私と同じ年頃に、お魚を捌いたりなさったのですって。私も海老ならば殻を剥けますわ。あと豆の筋取りもしたことがございます!ですから、今度是非に、」
「お勝!」
侍女達が失笑しているのを見咎め、つい声を荒げてしまった忠直だったが、すぐに後悔した。
彼の幼い花嫁は唇を噛み締めながら俯いてしまっている。
声を上げたりはしないが、彼女が涙を堪えているのだとは彼には分かった。
ー彼女の素振りや表情は、幼い頃と全く変わっていないのだ。
「……そなたの心意気は尊いが、しかし身分を弁えねばならぬ。それにそなたがやりたがっている事は他の者の仕事なのだ。上に立つ者が己の身勝手を理由に下の者の邪魔をしてはならぬであろう」
叔父上だってそのように仰せになる筈だと付け加えると、頑固だが素直な性格でもある姫は頷いて、「申し訳ありませんでした」と小さく呟いた。
後は何となく無言で朝の膳を採り始めたが。
「あの……でも旦那様?」
「ああ、何だ?」
「もし、おややが出来たら、おややの世話は私にさせて下さいませ。私、産着を縫う練習もしたのです」
「……そうか」
やはり妻とした姫はまだまだ幼過ぎて、己との夫婦生活もままごとの延長なのかもしれないと思ったものの。
(姫は、変わらない)
新婚第一日目の朝から、頑固で一途な三の姫は、忠直の気持ちを明るく軽やかに、上向きにしてくれたのだった。
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