白露【下】

 目覚めた時、何やら心地良いと感じただけですぐに記憶は甦らなかった。

 好もしいと思う腕の中のモノをただ一層己の方へと近付け身を寄せる。

 微かに擽ったい吐息が耳朶に触れ、吐息と共に熱っぽく悩ましい囁きが耳の内へと零たれた。

「兄上様……」


 己を兄と呼ぶ者ー女ーなど今はこの世には存在しない筈、と朧に考え、それから瞬時に彼は覚醒し、完全に理性を取り戻した。

 醒めた瞳で触れ合わんばかりの近さにある少女の貌ー壁板の隙間から洩れる朝日を受けて輝いているーを眺める。


(成る程。そういうことか)


 昨日忠高が聞いてもいないのにぺらぺらと教えてくれた少女の身の上話を思い返せば簡単に思い当たる。

 義母の為、兄の為、夫の為、などと言っていたが、結局この娘の気持ち自体が、物心付く前に娶せられた夫ではなく、血の繋がらない兄に向いているという事なのだろう。

 おそらくそれで離縁したがっているだけでなく養家から離れ、実家に戻りたがっているに違いない。


「兄上様、お許し下さい……兄上様……」

 ううと小さく呻いて固く閉じた眦から零れた涙を拭ってやってから、彼は素早く身を起こした。


 顔を洗い、小屋周辺の見廻りなどし、更についでに食べられそうな野草を引っこ抜いて戻って来ると、既に身支度を調え、昨夜と同じように味噌汁擬きを作って娘は待っていた。

 彼を認めて、ほっと安堵したような貌をする。


「お早うございます!」

「……ああ」

「あ、あの……このお団子……どのように致せば良いでしょうか?」


 包みを差し出してくるのを受け取ってから忠高は中身を確かめると鍋の木蓋を取り、中へ串毎突っ込んだ。


「まあ」

「これで団子汁だな」

 そうして、一応、和やかな朝餉へと続いた。


「で。京の何処へ行けば良いのだ?」

 馬に再び跨がる迄、互いにこれから先の話などはせずにいたが、いざ出立となるとそういう訳にもいかず、忠高の方からそう問い糾した。


 娘は息を呑むような音を立てたが、すぐに素直に応じる。

「二条城へ。お願い致します」

「分かった」


 どうやら娘の父親というのは将軍家に仕える旗本衆か、場合によっては幕閣の一人なのだろう、と忠高は察したが、己の推測をそれ以上進めようとはしなかった。

 どうせ無事送り届けさえすれば二度と会う事も関わる事もない相手だ。

 己ではどうにも出来ない事を考えたり思ったりしても、己が辛いばかりだとはとうの昔に覚っている。


 昨日と異なり今日は朝から娘の口数が少ないと思い付いたのは、ちらほらと人家も見受けられるようになってからだ。

 しかし己の方から喋るように等と促すのも可笑しい気がして、忠高はむっつりと問うだけにした。


「寒いのか?……今少し、速度を緩めた方が良い、か?」

「あ……いえ。大丈夫、です」

 話し辛い程馬の足が速い訳ではないと確認は出来たものの、その後も沈黙が続くのに、彼はいよいよ奇妙なー追い詰められたようなー心持ちになった。


「その。昨日の約束、忘れておらぬだろうな。私は貰う物は貰う主義だ。……確かにそなたの糧食は有り難かったが、それと礼物は別だぞ」

「はい。分かっております」


 少女が背後で頷くのは、ぴったりと身を寄せられているからそれと確り分かる。

 だがそんな仕草や、又少女の手が彼の腰帯を掴み直したりするのに、奇妙に動揺を覚え、そして何よりもそんな常ならぬ己自身に忠高は戸惑い、困惑した。


 京へと、更に二条城へ続く道なりへと入りーその堂々たる外塀も城館も、視界に入って来る。


「……あれが二条城だ。もうすぐ、着く」

「……はい」


 少女が一層強く縋り付いて来るのを感じて、忠高は思わず己の腰に回された少女の手に己の手を重ねた。

 一瞬びくりと彼女は身を震わせたが、少女が更に己の背中に頬を押し当てて来たのを感じて、ますます忠高は落ち着かない気分にー正確には、奇妙な衝動を自覚し、不安になった。

 怖ろしくすら、ある。


(私は……何を考えている?)


 迷う余地は無い。

 門前に到着し、自然馬から降りて、ぎこちなく少女の身を降ろそうとした際に、元々色白の肌がすっかり青ざめているだけでなく黒目がちの瞳にも涙が堪っているのを見て取り、己では理由の確とはしない罪悪感に駆られる。


 己が正しいことをしているとー少女に依頼された通り、彼女を無事送り届けたのだと分かっていたが、何かが間違っているような気がしてならなかった。


 門番は彼を見てー大坂で工事奉行として務めるだけでなく将軍家の女婿として何度か二条城へ謁見を賜る為に訪れたと見知っているのだろう、ピシリと鋭角なお辞儀さえして礼儀正しく門内へと誰何もせずに通してくれた。

 俯いてしまっている少女には、玄関口へ案内してから声を掛ける。


「で。誰を呼べば良い?」

「……土井大炊頭様を」

 変わらず俯いたままの少女の代わりに、用向きを聞きに現れた者へ取り次ぎを頼む。

 これも顔見知りである、将軍家の用人は困ったような貌をして彼を見た。


「ですが……お約束もなく大炊頭様へは……」

「頼みます。土井様は必ずお聞き入れ下さる筈」

 少女がふいに顔を上げ、昨日最初に出会った際のようにきりっと凛々しくすらある表情と声音で断言した。


「娘が父に会いに来たとお伝え願います。あと、これを」


 腰に差していた脇差しを手渡すのを渋々と受けて、用人は音を立てぬ摺り足で奥へと戻って行った。

 この少女が真面目で篤実な現将軍以上の堅物ーそして将軍家における側近中の側近、幕閣達の中では未だ席次は低いが最も将軍の信頼を得ており隠然たる力を持つ者ーと見なされている土井大炊頭の娘というのは、正直忠高にとって意外ではあったが、今はそんな驚きや好奇心を暢気に追求していられる心境ではない。


「ではな。私はこれで」

「え。で、でも」

 ふいに耐えられなくなって衝動的に逃げの言葉を口にした忠高に、少女は縋り付いて来た。

 既に慣れた感のあるその手の感触に、忠高は一層焦って素早く振り放す。


「……」

「後日、礼物はそなたの父親に貰い受けに参る。……私はこれでも忙しいのだ。松の内から、堅苦しい御年寄り役の顔など見たくない」

「……でも……」

「言ったろう。私は、その、これから役者遊びをしに行くつもりだ。折角京へ来たのだからな。おなごの顔を見るより、綺麗どころの役者としっぽりゆっくり酒を飲む方が良い」

「……」

「では。達者で暮らせ」


 小さな手の柔らかさだけでなく、訴えかけてくる瞳や縋り付いて来る表情をひしひしと感じー更には昨夜及び今朝方腕の中に在ったその身自体の形や手触りなどもまざまざと思い出しつつー彼は素早く背を向けて、そのまま、まさしく脱兎の如く逃げ出した。


 少女が何か呼び掛けるのは完全に無視して、馬寄に向かおうとしていた者を止め、自分の馬を取り戻して飛び乗った。


「京極様?」

「良い。私は戻る。……今は上様に御目見得叶う様な形ではない。改めて御挨拶に伺う」

「は」

 少し慌てたように声を掛けてきた者は流石に無視出来ずに適当に応じてから、馬の腹を思い切り蹴った。


 *


 元々将軍家の女婿として年賀の挨拶には伺候すべきと承知していたから、その日、彼は大阪ではなくまっすぐ二条城城下の京極屋敷へ入った。

 屋敷の者達は前触れ無く現れた主に驚きはしたが、時期柄予測もしていたのだろう、特に不都合は無く彼を迎え入れ、忠高は元々の己の待遇ー若狭小浜九万二千石の国主に相応しく、広々とした清潔な湯殿で身を浄め、贅沢な衣を身につけ、正月らしい豪華な膳を前にするーを享受した。


(大炊頭の娘、か……)


 しかし喉を潤す為に酒を一口含んだだけで、凡そ丸一日共に過ごした少女の事を考える。

 というよりも、まるで何年も一緒に暮らしたような気さえする少女の顔、仕草や声音が脳裏に浮かび巡り続ける、そんな幻想に完全に囚われ、離れられない。


 生意気にも一人前らしく刀を差していた少年形の姿は、今思い返してみればとても愛らしくて凛々しく、美しくすらあった、と思うし。

 乗馬も巧みで、一切物怖じせずに明るく可愛らしい声で話し続けた度胸も大したものだ。

 そもそも、育ちが良いおなごだろうに、見ず知らずの彼の為に掏摸を捕まえたという心意気も並ではない。

 ーそれでいて、無邪気に笑い声を上げたり、寒いとしがみついてきたり、あるいは健気に濯ぎや食の用意をしたりと、常に懸命に努める様は、その容姿よりもずっと愛らしくー可憐だと思った。


 今朝方、彼が味噌汁もどきに団子を入れて更に団子汁擬きに変えた際には、目を丸くして驚いた後、弾けるように明るい笑顔をなったの迄、目下の漆塗りの上質な椀の中の上品な薄味のすまし汁を見て思い出す。


(誠に離縁して、養家と……夫の元から、大炊頭の許へ戻るのか。もし……もしも本当に無事戻れるのならば)


 昨夜抱き締めー朝方まで腕の中に抱えていた柔らかく心地良い感触を思い出す。

 途端、これ迄感じた事が無い程の強い渇望と熱をー欲求に身を灼かれるのをー感じた。


(妻として迎える事は叶わぬ。叶わぬが。側室としてならば)


「馬鹿な!そのような事!」

 思わず声を大にして叫んでしまってから、それ迄主である彼の様子を怪訝そうに窺っていたー更には彼の叫び声にぎょっとしたように顔色を変えているー侍女達に気付き、忠高は面を伏せ、後は黙々と素早く膳を空ける事に集中した。

 実際空腹は充分過ぎる程覚えている。


(そのような事、出来る筈がない。第一、上様が……決してお許しにはなられぬだろうし、という事は大炊頭だって承伏はせぬ。……将軍家の姫を妻としている以上、側室など。……かといって姫と離縁すれば、それはそれで将軍家の怒りを買う。あの娘を妻とする事など、出来ぬ)

(第一。あの娘は剣の修行をするのだと言っていた。人妻には向かぬ、などと言っていたし……それに……)


 あの娘は義兄を想っているのだ、と思い出してしまって、彼の箸は完全に止まった。


 膳を下げさせるだけでなく人払いも済ませてから、行儀悪くその場に寝転がった。


「……名さえも聞いておらぬ、ではないか」

 己の愚かさ加減を思い知り、忠高はただ嗤うしか、無かった。


 翌日、年賀の挨拶の為に二条城を再訪した折は、既に忠高は国主としての貌、在るべき姿を完璧に取り戻しー少なくとも装っていた。


 父の代から将軍家には並々ならぬ忠誠を誓うだけでなく功績も重ねている京極家の当主、しかも将軍家四の姫の婿である。

 特に待たされる事も無くーそもそも態々名を問われる事すら無い。一度彼の貌を見た者は大抵彼の事を見覚えるらしいー忠高は、将軍家の内々の謁見の間へ通された。

 すれ違う、あるいは彼が通り過ぎる迄座して控える侍女達や小姓等、あるいは将軍家の近習等もっと身分の高い者達も等しく、隙無く整え、京極家独特の美的感覚で選んだ衣装や姿に見惚れるのは何時もの事で、彼はこれも意識する迄も無く慣れきっている。


 だが今回は彼女の父親の姿ーあるいは偶さかに彼女の姿等ーが無いかとの、邪な願いも心中には抱いており、更にはそれらは見事に裏切られた為、幾分意気消沈した状態で主君の前へと罷り出た。

 出来れば、駄目で元々との思いで、大炊頭の存念を確かめたいとー彼女の気持ちを知りたいとー思っていたのだ。


「新しき良き年をお迎えになられ、まことに悦ばしく目出度く祝賀申し上げまする」

 滑らかに挨拶の言葉は口から滑り出る。

 相手が天下の将軍であろうと、名のみの妻の父親だろうと、特に気圧される事など有り得ない。


「若狭守」

 ひんやりとした印象の声音も何時もの事と片付け気に掛けなかった。

 ー実際の所、大御所と異なり殆ど感情を窺わせぬ対応をする将軍の表情や態度を探るなど無駄な事だと、忠高自身はとうの昔に思い切っている。


「大坂では良く務めていると聞いている。引き続き手数であるが、頼むぞ」

「は。無論にございまする」


 将軍は口数が多い方ではないし、忠高も又無駄口は好まない。

 つまりお互い天気の話やら人の噂話などして時を稼ぐような型の男ではなく、早々に会話は途切れ、沈黙がその場を支配するのは、これ又何時もの事だったのだが。


 こほんと微かな咳払いの後、将軍が珍しく逡巡らしきものを漂わせつつ口を開いた。


「最近……変わりはないか」

「変わりでございますか?」

 常に無い主君の下問に幾分緊張、というよりも警戒しつつ、忠高は素早く考えを巡らせた。


「私は出陣の御命を頂いて以来国許を離れております。……特別な報せは受けてはおりませぬ、が」

「……む。そうであろう、な」

「義母が何か、畏れ多くも上様へ申し上げたのでしょうか。……義母も決して悪気はないのですが……何分、姫や御台所様については常に懸念致しております故……上様にはどうか肉親の情による老婆心とお心得頂き、ご寛恕願いまする」

「いや。常高院殿の事ではない」


 何かと物言いを付けたがる気の強いーそれでいて何処か抜けていて憎めない、と時折忠高自身は感じるー義母が、又も余計な陳情やら訴えやらを将軍家に対して押し付けたのだろうかと思ったのだが、将軍はあっさりと否定してくれた。


 何を考えているのか全く読めないーあるいは何を見ようとしているのかも窺えないー眼差しが真っ直ぐ己のみに注がれるのを感じて、忠高は自然、表情を引き締めた。


「姫のこと。其の方は何も承知しておらぬのか」

「姫のこと、と申されますと?」

 訳が分からずというよりも事態を見極める為、慎重に言葉を返す忠高に、将軍は微かな嘆息を吐いた。


「実はお初が……江戸に赴きたいと訴えてきた」

「……」


 忠高は一層熱心に将軍の貌を見詰めた。

 難しくはあるが、今は将軍もどちらかというと己の意志を察して欲しいと願っているらしいのは充分判る。

 将軍にしてみれば、幼い頃に手放したとはいえ可愛い娘の頼み、しかも自分達の傍近くに娘を置く事が叶うのは望外の喜びに違いない。

 ー決して忠高や京極家の為にならぬ事ではないと冷静に判断を下し、忠高は静かに頷いた。


「姫が望まれるならば、私に否やはございませぬ。姫の望みの儘にお取り計らい頂けるよう、私からもお願い致しまする」

「……そうか」


 今度は将軍が明らかに気を緩めるかのような息を吐いたのを見て取り、忠高も己の応対が正しかったのだと安堵する。

 舅は少し、忠高に対して申し訳ないとでも思ったのか、更に珍しくも言い訳めいた言葉を継いだ。


「京極家は御台や私にとっては格別の家。我等が姫の婚家としても真に申し分のない家門と心得ている。我等は何らかの意図や懸念を以て、姫を江戸へ置きたいなどとは望んでおらぬ。望んではおらぬが……しかし其の方の申す通り、大切なのは姫の気持ちだと、親としては思っている」

「ええ、無論にございます」

「幼い頃に手放した故……私も御台も、もし姫が暫しの間でも江戸で暮らすようになれば、嬉しく有り難くも思う。無論、お初は既に其の方の妻。我が家の娘だ、などと言い立てる気は無い。だが……親の情としては、望む時に顔を見る事叶うだけでも、有り難いのだ」

「は」

 忠高は舅を安堵させるようにゆっくりと大きく頷いた。


「全て承知しておりまする。私も義母も、姫の望みを叶える事が出来るのならば、委細異論はございませぬ。……あるいは義母も、江戸屋敷に住まう事になるやもしれませぬが」

「……うむ。そうかもしれぬ、な」

「ただ江戸へ姫の身を移すのは……世情が今少し安定してからの方が良いのではないか、とは愚考致しまするが」

「ああ、無論だ!姫を危うい目に遭わせる訳にはいかぬ!」


 いきなり将軍の口調が強い、激しくすらあるものへと変わったのに、忠高は一瞬驚きを現してしまったらしい。

 将軍は又も、何故か後ろめたそうな気色を露わにした。


「……上様?」

「あ。いや。……やはり其の方には申しておかねばなるまい」

「は」

 何か起きたのだろうかと少し不安になってきた忠高に、将軍は重々しく告げた。


「実は。お初が私を訪ねてきた、のだ」

「……」

「余りにも迂闊で無謀な真似をすると、しかも其の方の許しも無く京迄出てきたと言うので叱りはしたのだが……」

「……は」

「済まぬな。私の方から厳しく言い聞かせておいた故、其の方からは余り強く叱らないで欲しい。あれは……随分と京極家の事も、其の方の事も案じているようだ」

「……そうで、ございまするか」


 妙に頭に靄が掛かったような状態となって、忠高は己の常の思考力が働かない、と思った。

 だが同時に、そんな筈がない、などと頑固で常に物事や人々一般から身を退いて斜めに世を眺めている己が、明確に忠高の中に生まれた迷いー望みーを否定する。


「うむ。とにかく姫を呼ぼう。其の方から、姫に許しを与えてやってくれ。さすれば姫も心より安堵するであろう」

 随分と懸念していた故、と他の姫君方や若君方に対しても子煩悩な面を身内の間では躊躇いなく見せる主君は呟く。


 又言葉では夫である忠高の許しを請う形で忠高の顔を立ててはいるが、忠高が娘に対して無碍な態度を取らないか己の目で確認しないと気が済まないのだろう。

 そう穿った推測をしながらも、忠高はぼんやりと半ば無意識で頷いた。


 元々将軍の方でも、忠高が愛想を並べ立てたり無理矢理話題を探して機嫌を取り結ぼうとする男ではないと承知している。

 忠高がただ黙りを決め込んでいても不審は抱かなかったらしく、将軍も又泰然と娘が現れる迄待った。


 そういう訳で、案内の者に従って将軍家の四の姫が現れた際には、さやさやと雅やかな衣擦れの音さえも充分聞き取れた。


「お初、こちらへ」

 将軍が嬉しそうに優しく声を掛けるのに、姫君ー忠高自身の義妹であり妻でもある将軍家の四の姫ーは素直に頷いて室内を進んできた。

 僅かに頭を下げた彼には目を向けずーあるいは単に同席者か客人としか思っていなかったのだろうー四の姫は父将軍の指し示した場所で立ち止まり、礼儀正しく跪いて礼を取る。


「お初。そなたの夫が年賀の挨拶に参ったのだ。そなたが江戸に下る事も快く許してくれたぞ。そなたから改めて礼と詫びを申し上げよ」

「……はい、父上様」


 その声だけで充分だった。

 忠高は己の身が震えるのを感じたが、動揺を示すのを己に許したのは一瞬の事で、次の瞬間には常の冷静さ及び判断力と対処能力を取り戻していた。


「……申し訳ありませぬ。私、旦那様を差し置いて、非常に無礼な振る舞いを致しました」

 僅かに怯えた震えを伴っているが、やはり彼女はきっぱりと潔く、凛々しくすら感じる清々しい声で言ってくるのに、意識せず忠高の口許には笑みが浮かぶ。


「気にする必要はない。姫が私や義母、京極家に対して充分配慮を働かせているとは、承知している。夫として姫の望みを叶えるのは全く吝かではない」

「……」


 姫の、いや、少女の瞳が一昼夜の間に見知った以上に大きく丸く変じるのに、彼の笑みは深まった。


「だが約定は約定。姫には、私の力と暇を捧げた、その代価をきっちりと支払ってもらおうぞ」

 少女が頬を染め瞳を潤ませるのを確認してから、忠高は舅に対しては取り澄ました貌のまま、丁寧に会釈をしてみせた。


 *


「……本当に宜しいのですか」

 弱々しく聞いてくる少女に、忠高は軽く肩を竦めて見せた。


「構わぬ。但し。義母上はそなたが説得するのだな。私は関わりたくない」

「……そんなぁ」

 可愛らしく頬を膨らませて唇を尖らせるのを内心微笑ましく感じながら忠高は素知らぬ振りをした。

 一先ず姫の宿舎として与えられた殿舎に彼もちゃっかりと入り込んでいる。


「……絶対絶対母上様は駄目だって仰るわ。おなごは刃物なんて触っちゃいけない、なんて古臭い事、仰るのよ。お茶やお花しか習わせてくれなかったし。世の中には女武者だって沢山居るのに!」

「ま、好きにせよ。そなたがやりたいことをやるのだから、古臭い母親の考え位、己で改めるべきだろう」

「……」


 少女は恨めしげに彼を睨み続けていたが、彼が知らぬ顔を続け、ついでに態とらしく役者絵などを眺め出すと慌てたように彼の手から絵を奪い取る。


「これ。何をする」

「だ、だって……」

 これもきつい口調で咎めると、途端気弱そうに眉尻を下げた。


「そなたは望み通り江戸へ下って好きな剣の修行をするのだろう。私だって好きな役者を好きなだけ贔屓にするぞ。うむ、やはり流石、京だな、役者等も演目も粒揃い故、当分飽きる事もないだろう」

「……そんな……」

「返せ」


 素早く絵を取り戻したが、これ以上可愛い妻を苛める気にはなれず、丁寧に絵は畳んで懐にしまった。

 それをしつこく少女が睨み付けているのに気が付いて、ついつい一層口許が弛んでしまう。


「やっぱり江戸へ行くの、止めようかな」

「何を言う。上様も御台様も楽しみにされているのだ。今更止めるなどと、孝養心にもとる振る舞いではないか」

「だって!」


 とうとう元々率直過ぎる姫は我慢が効かなくなったらしい。

 素早く抱き着いて来て、更にぴっとりと身を寄せてくる。


「兄上様は……私が居なくなったら又、若衆の許へ通われるのでしょ?そんなの……」

「何を言う。そなた、私にも好きなようにせよ、と申しておっただろうに」

「それは!そうですけれど、でもでもっっ」

 嫌なんだもの、と小さく呟く少女の髪を一瞬、撫でてから、忠高は素早く手を離した。


「兄上様、」

「……」


 夫相手に何故兄などと呼び掛けるのだろうと思ったが、あるいはこの年の離れた妻は夫としてよりも兄としての己を必要としているのかもしれない。

 未だ未だ幼いーやっと十四になったばかりの少女なのだと考えるだけでなく、忠高は自身に強く誡めた。


「新陰流の免許皆伝についてはさておき。一度江戸へ赴いて母君や弟妹等と顔を合わせても良いであろう」

「……」

「私への借りを返すのはその後で良い。どうせ夫婦の縁は切りたくても切れぬのだ。どれだけ時が経とうが同じ事、故」

「……そんな事仰って」

 姫は忠高の袖をしっかりと握り締めながらぷいっと顔を背ける。


「私が居なければ、若衆遊びを為さるおつもりなんでしょ。わ、若衆の許へ通いたいと思っておられるから、私を追い出したいのでは?」

「馬鹿馬鹿しい」


 忠高は鼻で笑ってやりつつ、素早く断固として少女の細い身体を引き寄せた。

 柔らかい身体をー残念ながら互いの衣越しではあるがー近しく感じるのがとても気に入っているし、可能な限り抱き締めていたいと願っている。


 何れ少女の望み通り遠くへ手放さねばならないという現実が、彼を随分と素直にさせていたのだ。

 だがそうした彼の傷心やら欲求も、当の相手にはやはり相変わらず伝わっていない。


「そなたが国許に居ようが居まいが、私はそうしたい時に若衆も役者も召すぞ」

「兄上様!」

「申したであろう。私はおなごには興味がない、とな」

「……私、にも?」

 膨れるかと期待していたのが哀しげに瞳を曇らせて湿った声で少女が訴えてくるのに、忠高の方でも簡単に折れた。


「そなたは別だ」

「……」

「そなたの事は気に入っている。何れ、そうだな、もう少し胸やら尻が出て来たら、存分に契ってやろう。今のそなたでは若衆と大差ない故、面白味がない」

「何ですか、それはっっ」


 今度は思いっきり頬を膨らませて小さな拳を振り上げてくる少女から、素早く彼は身を翻して逃げ出した。


「待て~っっ」などと可愛く叫んで追いかけてくるのに、驚いたような貌をする通りすがりの者達ーちなみに彼等は未だ舅である将軍及びその父親である大御所の、京における政庁であり居城である二条城内に滞在しているーには、忠高は丁寧な会釈と魅惑的な笑みを振り巻きつつも、等距離を保って逃げ続ける。


「いざ、尋常に勝負、勝負!」

「はははははっ!そなたが見事、免許皆伝を得たら勝負してやろう!但し、私だとて剣の腕はそれなりに立つぞ」

「もうっっ!兄上様の意地悪!」


 今後はこんな風に素直に笑って、好きな相手と好きな事を言い合って、生きて行きたいと思った。


 漸く己自身から逃げるのを止めた頃の話。


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