白露【上】
大坂城攻めは、忠高にとって無論初陣であった。
五年前に歿した父が先の大戦ではー天下分け目の地ではなく、居城に敵方を引きつけー大いに味方の勝利に貢献したとして、家中の士気は高い。
此度も忠高及び京極家こそが、将軍家への忠義と忠誠を証立て、他の大名家を抑えて一番手柄を立てるべきと、敢えて声高に主張するのは、先の北の方ー忠高の父の正妻ーが敵の首魁と見なされている淀の方の実妹だからなのだろうとは、忠高も承知していた。
つまり家臣達は未だ、所詮脇腹の子に過ぎない忠高よりも、亡き主君の正妻及びその正妻の尽力により将軍家より賜った大事な「姫君」の立場を気遣い、守ろうとしている訳だ。
義母と亡き父が仲の良い夫婦であっただけでなく、血の繋がった従兄妹同士であり、更には未だ存命中の伯母ー父の姉であり、かつて自身も太閤の側室であったというーの存在も大きいのかもしれない。
つまり忠高は、名のみの君主ー少なくとも強い女達に首根っこを押さえられた情けない国主ーという訳だった。
霜月に口火を開いた城攻めは、しかしその年の内に講和が取り付けられ、戦自体で京極勢はー他家の者達もー目覚ましい戦功を挙げる事は出来ずに集結した。
とはいえ、名誉なことに、豊臣側と将軍家の間の講和は、忠高の陣において為された。
それで充分、義母だけでなく家中の者達は満足したらしく、特に義母などは講和が成ったは姉と義弟の間を取り持った己の手柄と思っているらしい満足顔で領国へと戻っていった。
忠高自身は幕府及び将軍家より承った工事奉行の職分を淡々とーだが容赦なく効率良くーこなす事に集中する。
戦だけでなく機会があれば将軍家の為に役立つ存在であることを示していくのが、将軍家とは姻戚関係を結んではいても所詮外様大名に過ぎない忠高のような者には必要不可欠な処世術だ。
……将軍家、更には隠然たる武家の支配者である大御所も、己の身内であろうが幕府の方針に逆らう者は容赦なく処断する男達だとは、今回の戦でもまざまざとー嫌でもー感じさせられた。
結局忠高と工事に当たった臣達は、慶長十九年の除夜及び慶長二十年の正月も大坂で迎えたが、忠高自身は特に感慨はなかった。
臣達と異なり、忠高は国許へ戻っても、会いたい相手など居ない。
おそらく義母は、口では労ってくれるだろうが「姫君」との母娘水入らずの時を邪魔されて内心では面白くなく感じるだろうし、「姫君」だって彼との再会を待ち望んでいたりする筈もない。
ー名のみの妻とは、実際に近く顔を合わせた事など数える程しか、しかも姫が本当に稚い幼児の頃しか、無い、のだ。
忠高と「姫君」を無理矢理娶せた義母はそろそろ跡継ぎを得る為に年頃の「姫君」を忠高に近付けようという気持ちにもなっているようではあったが、それ以前に血の繋がった姪でもある娘大事な思いが強い。
更には忠高自身、義母の意の儘になる事ー寧ろ、義母に逆らえない己ーが、昨今では耐え難く感じる。
流石に晦日と正月は工事も休みで、忠高は屋敷を独りで抜け出して、未だ活気があり賑やかな大坂の町を彷徨いた。
特に目的があった訳ではなく、また誰も知らぬ繁華な街で遊びたかったという訳でもない。
単純に知り人に会いたくなくてーそれでいて人恋しいような心地があり、誰も居ない場所で過ごすというのも面白くなく感じたからだ。
人混みの中で揉まれるような状態を享受していたのも、そうした無気力あるいは消極的な個人的楽しみの為だったのだが。
「こ奴、不埒な真似を致すな!」
妙に高く細い声が近くで聞こえたと思ったら、背後から袖を引かれた。
面倒と感じつつも振り向くと、総髪を束髪にした小柄な少年が、もう一人別の男の腕を掴んだ状態で、彼を引き留めていたらしい。
少年は小柄な身の丈に合った短目の剣をしっかり二本腰に差している。
服装は差程ではないが、剣の象嵌などは見事なものだと忠高は瞬時に見て取り、それなりに裕福な、あるいは身分高い家の子なのだろうと見当を付けた。
「何だ」
「この者がそちら様の懐のものを掏摸盗ったのです。確かめられよ」
「……」
忠高は愛らしい顔立ちに似合わずきりりとした表情を浮かべている少年と、これは明らかに後ろめたい所があるのだろう落ち着き無く目線を泳がせながら隙を狙って逃げようとしているのが明らかな小男を見比べた。
「……別に構わぬ。盗られて困るような物は持ち合わせておらぬ」
「へ!それみろ!この小生意気なガキが!巫山戯やがって」
「あ」
少年は忠高の反応に驚いたのだろう、大きな瞳を丸くして茫然とするのに、逆に調子付いた男は素早く少年の細い手を振り払い、更には少年の小さな身体を突き飛ばした。
忠高の方へと押しやったのは、それでも刀を差している少年及び忠高を警戒しての事だったのだろう。
実際忠高がか細い身体を抱き留めて支えている間に、素早く掏摸らしき男はその場から跡形もなく逃げ去ってしまった。
「そんな!逃げてしまったではないですか!」
少年はーいや、少女だと忠高はしっかりと触れてしまったその感触から覚っていたー可愛らしい膨れっ面をして訴えてくる。
「構わぬと申したであろう。それよりそなたの方こそ。このような所で何をしている」
「え」
すぐにきょとんとした貌になる。
随分と表情がくるくると変わるおなごだ、などと思いつつ、忠高は変わらず突き放した口調で告げた。
「正月からおなごの身でそのような出で立ちで町中に居る、ということは家出でもしてきたのだろう。今頃親御達がきっと心配しているに違いない。さっさと家へ帰れ」
「……」
一層大きな瞳が、それこそ零れそうな位見開かれるのを少し感心して彼は眺めたが、相手が黙ったのに納得したのだろうと受け止め、さっさと背を向ける。
一人で居るのも嫌だが、だからといって誰かと話していたいという心境でもないのだ。
「ちょ、ちょっと待って!」
何故か少女が追いかけて来ただけでなく、腕に捕まってくるのをむっと無言で睨むだけの忠高に、少女は少し焦っているような早口で言葉を継いでくる。
「わ、私は家出などしておりませぬ!知り人の様子を見に来たのです!」
「……」
「本当です!……お屋敷に行ってみたけど、いらっしゃらなくて……だから、仕方なく今度は京へ行こうかと思って。京には父が居るのです」
「そうか。ではさっさと向かった方が良いぞ。ぐずぐずしているとすぐに暗くなる」
「あ、あの……でも……」
適当に応じる忠高の袖をますます強く掴んで縋ってくる少女に、忠高は嫌な予感を覚えた。
少女は懸命で一途なー随分と図々しく思い込みの激しい、と彼は心中で苦々しく付け加えたー瞳を返してくる。
「ですから……馬を……借りようと思っていたので……」
「……」
「こんな事なら大坂へ廻らず真っ直ぐ京へ赴くべきだった、のですけれど……でも……やはり先ずは……お伺いを立てるべきと思って大坂へ参ったのです。それなのに、お留守でいらっしゃるから」
「……」
「ほ、本当です!ちゃんと最初から京迄の路銀は用意していたのです!でも……だって貴男様だって、きっと不愉快でございましょう?すぐ近く迄参っておりますのに、御自分を無視して、私が勝手に親元へ赴いたら、それはあまりに無礼と感じられるのではないですか?」
随分と言葉を省略しながら良く喋る少女だ、というのが忠高の感想だ。
正直、少女が何を言っているのか理解出来ていないが、何やら信義の問題を口にしているらしいとだけは分かった。
だから、態と言ってやる。
「別に。私ならば何とも思わぬな。そなたが勝手に親元へ行ってもそれはそなたと親御の問題だ」
「!そ、そんな筈、ございません!」
少女は強く言い返すだけでなく、彼の腕を掴んでいる手に力を込めた。
「絶対に不快に思われる筈ですわ!もっと良く考えて下さいませ!仮にも夫婦なのですよ?!妻が勝手に家を出て、親元へ戻ろうとしているのに夫に挨拶一つしないなんて、駄目でしょう?!」
忠高は立ち止まり、少女の手を丁寧に己の腕から外した。
変わらず己を見上げてくる少女に、きっぱりと告げる。
「私はそなたが何をしようが一切気にならぬな」
「そんな……」
「第一、前提が間違っている。そなたと私は赤の他人だ。そなたの話は辻褄が合わぬ」
「で、ですから!もしもの話をしておりますのに!」
「そのような事。どうでも良い」
再び彼は少年の形をした少女をその場に置いて立ち去った。
少なくとも自身ではそのつもりで暫く心静かに歩いていたのだが。
「でもやっぱり違いますわ!」
何時の間にかーどうやら走って追いかけて来たらしく頬を上気させるだけでなく荒く息を吐きながらー少女が隣を歩いていた。
又もしっかりと彼の袖を掴んでいる。
「……」
「第一、私のような年端のいかぬ小娘が一人で町中を歩いているのは憐れと、先程貴男様も思われたのでしょう?ですから私に、その、お小言めいたことを仰せになられた」
「別に」
「ご迷惑はお掛け致しません」
一体、何処に根拠あるいは自信があるのか、少女はきっぱりと言い切った。
「馬を借りる路銀をお貸し下さい。それとも私を信用出来ぬと仰せならば、どうか私と一緒に来て下さいませ。父の元に着けば、存分に御礼は致します」
「……」
「この時期に、貴男様も町中を一人で歩いていらっしゃる。ということは幾分お暇があるということなのでしょう?ならば、貴男様のお時間とお力を私にお売り下さい。貴男様の言い値で買います!」
後から考えてみれば、少女の言葉に頷く理由など皆無であった。
だがこの時の忠高は、微妙な屁理屈を巧みに押し付けようとする少女の度胸の良さ、あるいは強かさに少し感心していた。
時節柄ー何と言っても正月だー周囲の人々は皆何処か忙しそうで幸せそうかつ和やかなのが、妙に侘びしくも寂しくも感じていて、更には自分一人だけが暇を持て余した半端者であるような気分を味わうと共に、退屈でもあった。
ーただ単に、少々捻くれた近江人気質を刺激されただけだったのかもしれないが。
とにかく少女に対して興味を抱いたのは確かだ。
ついでに京に行けばそれなりに景色も変わって気持ちも華やぐかもしれない、という誘惑も感じた。
何れにせよ、工事が再開される迄、充分時間は持て余しているしー家人達や臣達と暫く離れているのも良いかもしれないという気紛れを起こしてもいた。
「……京だな」
「ええ!」
嬉しそうに瞳を輝かせる少女から素早く目を逸らせた。
「先程の言葉、覚えておけよ。……そなたの保護者から嫌という程ふんだくってやるからな」
「ふん……だくる?……何ですか?それ」
不思議そうに呟くのは置いて早足で歩き出す。
「あ、待って」
「早くせよ。今日中に京迄送り届けた方が良いのであろう?」
無論、この小生意気な小娘にも、言葉通り、充分に思い知らせてやるつもりだった。
*
掏摸に盗られたのは、巾着や財布などではなく書きかけのー宛名しか未だ書いていなかったー文だけで、忠高が慎重に隠しから金子を取り出すと少女は又も目を丸くして、これは本心から感心していたようだったが、彼は一切気に掛けず、これも近江人らしく値切り倒して馬を借りた。
日が暮れる迄には京の内に入るつもりで特に何も用意せずに出立する。
少女は暫く大人しく彼に掴まっていたがー馬は二頭借りたものの、少女の身は軽かったので、一頭は替え馬にして、一方に同乗しているのだー、慣れてくると聞きもしないのにぺらぺらとお喋りを始めた。
このように幼くてもやはり女は女ということなのだろうと、忠高は片付けて殆ど右から左へと聞き流す。
ー少なくとも己ではそうしていたつもりだ。
「私、養女なのです。幼い頃に今の家にもらわれてきて……だから実の親の顔は知りません」
「でも母上、つまり養母はとても良くしてくれました。返って私が済まなく感じる程に……あの、つまり私には血の繋がらない兄が居るのです。兄は、私の養家の本当の子なのです。それなのに……母は幼い私の面倒ばかり見てくれて……兄のことは殆ど構わなかったので……今も兄と母は少し余所余所しいのではないかと、思います。少なくとも母は、兄に遠慮しているようなのです。それで、余計に申し訳なくて。だって私がもらわれて来なければ……兄と母は親子としてもっと仲良く心安く過ごしていたと思うのです。私が兄から母を奪ってしまったようなものでしょう?」
「私は……幼い頃に、養家の跡継ぎと娶せられました。その為に引き取られたのです。……いえ、別にそれに不満はないのですけれど。夫とは、幼い頃に顔を合わせた筈なのですけど、覚えていません。祝言の事はぼんやり覚えていますが……その後、夫は私に会いに来てくれたことはありませんし。年も……離れていますから、たぶん、夫には他に思う女人がいるのだと思います。当然ですよね?だって、私は随分と年下でまだ子も産めませんし……自分で言うのも何ですけれど、女らしい所など全くないのです。幼い頃から外で遊んでばかりいて、下働きの子を相手に棒きれを振り回しておりましたし……こっそり剣を習ったりして、いつも母に叱られていたのです」
「それでも私も、今年十四になりました。もはや童だからといって安穏と流されてばかりはいられませぬ。夫……や、兄に迷惑を掛けてばかりもいられません。夫が私を望んでいないのは明らかですし、兄、にとっても私は居ない方が良いと思います。私が居なければ、母も兄と仲良く出来るでしょうし。あ、あと私も……このまま本当に人妻になるよりも……実家に戻って、剣の修行をしたいのです!」
「剣の修行?」
余りに意外な言葉につい、ここで忠高は聞き返したが、途端、少女は嬉しそうに踊るような早口へと変わる。
「ええ、そうです!父は、いえ、生家では、有名な剣豪を剣術指南役として召し抱えているのです!私の弟達も弟子入りして剣を習っているそうですから、私も是非に習いたいのです!」
「おなごが剣など習って如何するのだ?」
「あら。そりゃ、武家では相手にされないでしょうけれど、おなごでも道を究めれば……町方で道場を開けばそれなりにやっていけると思うのです。寧ろ、町方ではおなごの方が商いはやり易い、と聞いていますもの。お師匠様は、あ、いえ、私が師事したいと思っておられる御方はとても高名な方ですし、それに流派も有名どころですから。免許皆伝を頂ければ、道場を開けます!そうすれば、産みの父母にも、養母にも安心してもらえますし、何より、夫、も兄も、好きなことが出来ますし、好きな女人と一緒になれます。私も好きな事で生きていけるのですから、皆幸せになれます!素晴らしいでしょう?」
少女の理屈は変わらず基本が崩れていると忠高は思ったが、口に出しては何も言わなかった。
続く他愛のない、だが耳に心地良い声音と響きに我知らず聞き惚れつつ、彼はふと己の妻であり義妹である将軍家の姫の事を考えていた。
有り得ない事だが、この娘と妻とは境遇が非常に似ている。
年齢も確か似たようなものであった筈だし、養女で養家の跡取りの妻となったというのも同じだ。
(だが姫は……女らしくて大人しい、控えめなおなごだというし。このようなお転婆とは違うな)
そんな風に己に言い聞かせ安堵する。
義母はいつも姫の事を、血筋に相応しい嫋やかな姫君で花道やら香道、茶道などをみっちり仕込んであると自慢しているのだ。
実際姫が幼い頃に会いに行った際にはひどく人見知りされてー思いっきり泣かれて、結局早々に忠高は逃げ出した記憶がある。正確には己の妻に関しては、泣き声と祝言の時に上から眺めた白い綿帽子位しか覚えていない。
馬の背に揺られている状態でも平気で喋り続けている少女の夫には大いに同情した。
こんなに跳ねっ返りで常識外れな考えを覚えるだけでなく実行に移してしまう少女を妻にしていれば、とてもではないが身が持たないだろうし。
第一、この少女はー明白には口にしないがー夫と離縁する心算で実家の父の元へ直談判しに行くのだろう。
夫の側から考えれば、全く立場のない、踏んだり蹴ったりの状態だ。
少女本人が言う通り、まさしく人妻には相応しくないおなごであるが、しかしだからといって立場上ー夫の存念が如何なるものであれー素直に離縁に応じるかどうか、大いに疑問だった。
夫としては面目を潰されるだけでなく、夫として男としての誇りを傷付けられ許し難い女と感じる事だろう。
(……上手く離縁出来れば良いが)
そんな風に考えたのは、あくまでも無邪気で人懐っこい、それでいて賢しく少々小生意気な少女の望みが叶えば良い、というただそれだけの心算によるものである筈だった。
忠高は無意識の内に、己の腰から外れそうになった少女の手を掴んで元の位置に戻してやりながら、一度己も妻と会ってみるべきかもしれないと思った。
*
忠高の目論見では日暮れ前に無理矢理にでも京へ入る筈であった。
実際生意気な少女への戒めと懲らしめの為に、馬を思いっきり走らせるつもりで替え馬迄用意したのに、少女が矢鱈と喋り続けるせいでーと忠高は片付けたー少女が舌を噛んだりしないようにと手心を加えねばならず。
自然馬速は、忠高が予定していたよりもずっと緩いものとなり、結果、空が茜色に染まる刻限には未だ人里など見えない野中という状況に陥ってしまった。
「……全く。おなごの口というものは。この世で最も無駄で無用な物だ」
ぼそりと呟いた言葉を少女は聞き取れなかったらしい。
「何?何ですか?」と妙に嬉しそうに問い返してくるのに、忠高はそれでも舌打ちを堪え、無言を通した。
別に少女を思い遣った訳ではなく、己の誇りにかけてこんな幼く世間知らずな相手に振り回され苛立っているなどとは認めたくなかったのだ。
「別に。どうやら野宿せねばならぬようだ」
「ま。野宿?!」
途端、又も今度は感極まると表現するのが相応しい程に少女の声が跳ね上がるのに忠高は薄闇の中で眉を顰めた。
どうやら相手は思いっきりー心からー喜んでいるらしい。
「まあ、どうしましょう!私、枕を持って来ませんでした!枕が無いと眠れませんのに!」
「……」
「そういえばそうですよね、父上にお会い出来るのだとそればかり思って……枕の事迄全く考えておりませんでした。迂闊でしたわ!」
それにどうせ父上にお会いしたら、眠るどころではありませんものと少女が嬉しそうに微笑むのを横目で眺めた後、忠高は今や真の闇と化しつつある周囲を見廻し、溜息を抑えた。
(枕よりこの時節で凍え死にせぬかどうかという問題があるのだが)
少女の無知は仕方のない事だが、己の愚かさ、無分別は許し難い。
(無理矢理黙らせてでも馬を走らせるべきであった)
いっそ夜道をこのまま進んだ方がマシかもしれないと考え、今のうちにと馬を替えた。
「あら。まだ走るのですか?」と少女は暢気に訊いて来たが素直に彼に従う。
何故か知らないが、この少女は今や忠高に対して全幅の信頼を寄せているらしかった。
特に促さなくともきゅっと細い小さな手を彼の腰に廻して来るのに、己でも不可解な、何とも表現し難い感覚を覚える。
(馬鹿馬鹿しい。ほんの子供ではないか。それに……)
既に人妻だという。
無論少女の話を信じれば、だが、嘘を吐くような娘には見えないし思えなかった。
しかし暫く京の方向へと馬を走らせた後、忠高は己の無謀を覚っていた。
元々月の無い闇夜、幸い雲は晴れ星が出てはいるが、余りにも視界は覚束無い。
無理に走らせて馬を怪我させたり、あるいは道に迷いでもしたら一層悲惨な事となるかもしれない。
(しかしこの寒さでは)
一年の内、最も凍える季節だ。
幸い雪など降ってはいないし、ここ数日好天が続いていたから地面も乾いているがそれでも氷の如く冷たいだろうとは、戦場に出ていた彼は容易に推測が付く。
忠高は一応、一国の君主ではあるが幼い頃はそれこそ野山で駆け回っていたし野宿も数え切れない程していた。遊びの狩りではなく、生活の為に獣や魚を捕まえたりもしていたから、一日位、この時節であっても戸外で過ごしても平気だが、連れはそういう訳にはいかないだろう。
一応防寒着の類は身につけているようだが、如何にも育ちの良い、しかも贅沢に大切に扱われていたらしき娘だ。
冬の夜を、喩え一夜であろうと、夜着すらない、風や冷気を防ぐものなど何一つ無い場所でやり過ごす事など不可能だろう。
真剣にー深刻にー思い悩んでいた忠高に、既に耳慣れた感のある少女の細い声が届いた。
「あ。人が」
「何?」
慌てて手綱を引いて馬達を止めさせる。
「何処だ?」
「あそこ。松明のような物を持って……歩いていました」
少女が指差した方向を眇めてみたが見て取れなかった。
だがあるいはと考えついて、忠高は慎重に馬を並足で歩かせながら、少女が示した場所へと向かわせる。
残念ながら人影は見つけられなかったが、おそらく村人の作業場らしき小屋を発見した。
見かけは見窄らしいし、勿論厩なども無いが寒気を防げるだけマシだ。
「よし。今宵は此処に泊まろう」
「え。でも……」
勝手に消えかけていた炉端の火を起こし、馬達も屋内の土間へと入れた忠高に、少女は戸口で立ち止まった状態で異を唱えてくる。
「先程見かけた者の家なのではないでしょうか?……勝手に入ってしまっては……」
「家ではない。あの者は自分の家へ帰っていったのだろう。使っていない物を一時拝借する位構わぬさ」
「でも、」
良いから入れ。そなたのような者、外でこれ以上過ごしていては風邪を引くどころか命迄危うくなるぞ」
「そのような事!」
ぷんと勢い良く少女はむくれたが、素直に入って来た。
やはり身が凍えつつあったのだろう。
勢いが戻った炉端に擦り寄って来て、炎に白い小さな手を翳す。
「……何か無いか捜してくる。そなたはこのまま大人しくしておれ」
一応念を押してから、忠高は手近な場所に置いてあった手桶を手にして外へ出た。
水桶に未だ水は少し残っていたが念の為、補充しておきたかった。
思った通り差程遠くない場所に井戸を見つけ、水を汲んでから戻る。
既に周囲は暗く、口に入れる物を捜すのは不可能だろうと見切りは付けていた。
一食くらい抜くのは仕方ないだろうと考えていたのだが。
「あ。お帰りなさいませ」
どうやらちゃっかりと手足や顔を濯いだらしい。
艶々とした白い肌が夜目にも鮮やかな少女はぺこりと彼に向かってお辞儀をし、濯ぎの水と手拭いも差しだしてきた。
無言で受け取り手早く浄めた忠高に、更に何処から見つけ出したのか小皿に載せた握り飯を渡す。
「……これは?」
「私の糧食にございます。今朝、宿で幾つか作ってもらったのです。あと、お店で買ったお団子がありますけど……でもお団子の方が保ちそうですから、明日の朝に頂こうかと。炙れば大丈夫ですよね?」
「……そうだな」
更に囲炉裏に鉄鍋が掛けられているだけでなく其処から良い匂いが漂ってくるのに気付いて瞠目するのに、少女は慌てた風に、幾分言い訳がましく付け加えた。
「あ、あの。拝借したのは鍋と水だけです!私、糧食として味噌玉も持っておりましたから……申し訳ありません。このような事になるのならば、漬け物も持ってくるのでした。以前父が文で、握り飯と味噌玉さえあれば数日は何とかなると書いていらしたから……漬け物に迄思い至らなかったのです」
「……そうか」
ごめんなさい、と何故か小さく謝ってくる少女を、忠高は随分と見直した思いで眺めていた。
どうやら完全に世間知らずで考えナシの無鉄砲という訳ではないらしい。
腹がくちくなると疲れているのだろう、少女は炎の前でうつらうつらと船をこぎ出した。
忠高は再び狭い屋内を、こんどは屋根裏迄隈無く探索して、夜着代わりになりそうなものを引っ張り出して来て戻った。
揺れている小さな身体を包み込んで、火の側の、だが飛び火する危険性は無い程には離れた場所に横たえる。
「……有り難うございます」
「少々臭うかもしれぬが、我慢せよ。ま、この時期ならば虫は居らぬ筈だ」
「……はい」
素直に頷いて、目を閉じる少女はとても弱々しく小さく見えた。
日中の弾けるような元気良さ、賑やかさ、小生意気さが嘘のようだ。
「貴男様にお会い出来て……まことに好運でございました。貴男様にお会い出来なければ、私は……今頃如何様になっていた事か」
「知り人の屋敷に留まれば良かったではないか」
「……そういう訳には参りません。お留守中に図々しく上がり込むなど……ますます嫌われてしまいますもの」
哀しそうに呟く少女の貌は一層、消え失せそうに儚い。
「喩えお留守でなかったとしても……馬だけお借りするつもりだったのです。ご迷惑をお掛けできませんから。でもそうすると……私一人では……今頃……」
ぷるっと身を震わせるのを見咎めて、思わずー意識せずー忠高は少女の肩に夜着越しに触れた。
「寒いのか?」
「あ……少し。で、でも平気、ですから」
意地っ張りだけはとことん無くならないらしいと少し可笑しくなって忠高は唇を歪めつつ、己も身を縮めるようにして少女と同じ夜着の中に潜り込んだ。
「あ、あの?」
「仕方あるまい。夜着は一つしかない。……それとも私は風邪を引けば良いと思っているのか?」
「い、いえ、違います!あの、どうぞ」
態と皮肉っぽく言ってやると娘は慌てたように彼の為に場所を空けた。
どうやらその幼さにも関わらず生意気にもーと忠高は又も簡単に片付けていたー羞じらっているらしいと気付いて、彼は有無を言わせず少女の細い身体を抱き寄せ、更には夜着をしっかりと纏う。
「あのっ」
「妙な事は考えずとも良い。……私はおなごには興味がない。そなたを送り届けてやろうなどと気紛れを起こしたのも、ついでに京で若衆でも買おうかと思った故だ」
「え」
腕の中で少女が身を固くするのを感じたが、無視して良い匂いのする少し冷ややかな髪に顔を埋めた。
「良いから休め。明日は……早く、出立する。さっさとそなたを送り届けて、私は遊びに行きたい。残りの松の内は、茶屋で上げ膳据え膳、のんびり寝て暮らすさ」
「……はい」
もぞもぞと居心地悪げに動いているのは気にせずに暖かくて触り心地の良い身体を抱き締めて彼も目を閉じる。
幼い頃、夜毎抱いて寝ていたむくむくとした子犬の事がふいに鮮明に思い出された。
あの頃は本当に心安らかにー思い悩んだり怖れたり己を嫌悪したりということなくー今日に満足し、明日を楽しみに過ごしていた。
無論、このような意味を持たぬ懐古に耽るのは、単なる感傷あるいは贅沢で、日々を生き抜くには何の役にも立たないと承知しているが。
(今この時だけ)
明日には又別れ、二度と会う事のない者相手ならば、己の弱さを預ける事も許す事が出来る。
そうして忠高はその夜久し振りにーおそらく京極家に引き取られて以来初めてー朝迄完全に熟睡したのだった。
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