菊花【下】

 口さがないー悪意と害意に充ちたー言葉が囁かれていると気付いても、和子には為す術がなかった。

 少なくとも民部卿やその他、江戸から共に来てくれた者達が傍に控え、彼女がー心も体もー傷付かぬよう守っていてくれると分かっているから大丈夫だ、と胸の内で繰り返す。


(私などより、御子を亡くされた主上の方がお辛いのだもの。主上の御心を思えば、私など)


 入内してもうすぐ丸三年。

 漸く内裏での生活にも慣れてきたし、己の棲まう場所という気持ちも生まれてきた。


(父上は本気だろうか)


 あれ以降、具体的な指示を下す報せはない。

 だが和子は、民部卿が既に退出準備を整えつつあると気付いてー知っていた。

 一報があればすぐさま、和子の身は京都所司代に委ねられ、二条城へ運ばれるだろう。


 そして父と兄の上洛を待つ段取りなのだ。


(主上とは、縁がなかったと思わねばならぬのだろう)


 何度か繰り返した考えを又も心中に浮かばせる。

 どうにもそれだけが納得が行かない。

 和子にとって理不尽で、無情と感じられる父の命であった。


(だって……母上ならば、このような事、仰せになられぬ筈)


 江戸を発つ前夜、母と二人きりで遅くまで語り合った。

 多くは母からの話、初めて耳にするような母の過去、昔語りであった。


 和子にとって、いや他の兄姉達にとっても、母はいつも無邪気で美しく愛らしくも甘いひとであったから、一層母の告白ーといっても良いであろう物語ーは驚きを通り越した衝撃、それ迄の認識や考えを改めさせられるようなものだった。


(母上は……縁を大切にせよと仰る筈。そしてそんな母上を、父上は誰よりも大切にしておられるのに……何故、)


 父への不満が涌き起こりそうになって、慌てて和子はそれらを封じ込める。

 彼女にとって父は絶対的な存在であり、反抗したり異を唱えるのも有ってはならぬ事だ。


 第一、母にも幼い頃より父の為、御家の為に尽くすのが生きる道だと言い聞かされて育って来ている。


(父上のご判断ならば正しい。父上が御家の為に、それから私の為にと考えて下さったのだもの)

 哀しみを覚えながらも、和子は自身を説得し続ける。


(主上は良い御方だけれど……京は、宮中は父上の仰せの通り、怖ろしい。此度も、かように怖ろしい噂が蔓延して……賀茂宮がお亡くなりになった事だけでも哀しく怖ろしい事なのに……私が賀茂宮に毒を盛った、などと)


 忙しく立ち働きながらも常に江戸から来た者が誰か一人は必ず己の傍に居ると改めて気付いて、灯された灯りの下、和子は目の前に拡げた絵巻物に視線を落とした。

 ふいにもっと怖ろしく苦い可能性にも気付いてしまったのだ。


(もしや……主上も聞き及んでおられるのだろうか。……そして私を疑っておられる?)

 そう思っただけで、じわりと両目が熱く弛んでくる。


 所謂深窓育ち、年齢より奥手かもしれないが、和子だとて、己が名のみの后であるとは承知していた。

 そういうこともあるかもしれない、と母には主上と禁中から追放されたという典侍の話と共に聞かされていたから、特に不満も不審も無かった。

 ただ愛しい女君を失った主上の心の傷が癒え、和子を女御として受け入れてもらえる迄待つしかないと考えて、実際待ち続けてきた今日、なのだ。


 本当の女御、主上の后となる日の為にと、宮中での行事や仕来りについて学び、和歌や書、香道など女御らしい教養だけでなく、これは不要なのかもしれないが武家の妻としての嗜みも身につけようと努めてきた。

 まだまだ未熟な身であるとの自覚がある為、主上が夜己を訪れないのも当然と受け止めていたのだ。


(でも……もう……嫌われて、しまった?)


 視界が滲み、字だけでなく絵も何が何やら分からなくなってきてしまった。

 それでも侍女等を心配させたくなくて、和子はそっと絵巻物を片付け、今現在の彼女のお守りー心を落ち着かせる拠り所としているー父からの文に頼ろうとしたが。


 ふいにざわめく慌ただしい気配が近付いて来て、江戸の者ではない女官が現れた。


「何事でしょう」

 和子を庇うように、これは江戸生まれの侍女が問う。


「主上のお渡りにございます。女御様には御支度を」

 女官の答えに、これは驚き過ぎて和子の涙は止まった。


 思わず周囲を見廻すと、侍女等は先程迄とは比べ物にならぬ猛然といった動きで部屋を整えている。

 和子の周囲も又素早く几帳で囲われ、防御が為された。


「……い、いらせられませ」

 威風辺りを払うーだが威厳よりも風雅で華やかな姿を直接目にするのも畏れ多くて、和子は頭を下げた姿勢を保つ。

 未だ和子にとって、現在の己の境遇は何処か御伽噺めいたー夢の中の世界のようだ。


 暖かく穏やかな場所ではあったが、あくまでも武張った質実剛健を旨とする城及び人々しか知らなかった和子には、内裏は絵巻物の世界に等しく、そして主上こそが初めてまともに目にした京人であり雅男だった。

 父や兄と同じ位、いや全く別の意味で優れた、ある種「美しい」男など初めてだったのだ。


(ど、どうしよう。このような刻限にいらっしゃるなんて。どのようにおもてなしすれば良いのだろうか)

 おろおろしつつも、だが几帳に囲われていて主上からは己の姿が見えないというのに安堵もしている。


 礼は良い、などと許されるのにほっと顔を上げながら、こっそり和子は主上の姿を透き見した。

 皇子を失った苦悩が主上の尊顔に影を作り、貴公子然とした姿に憂愁を添えている。


 うっとりとその姿に見惚れるのに夢中で和子は主上の言葉にも曖昧に短く応じるだけだった。


「では女御も承知のことか」

 普段と変わらず穏やかに問われるのに、さて何のことだろうかと素早く傍に控える民部卿を見遣る。

 民部卿が落ち着き払って頷くのに、安堵して和子も又主上の言葉を肯定した。

 といっても単に短く小さく「はい」と呟くのが精々だ。


「……そう、か」

「……あ、あの」

 主上の顔が一瞬、ひどく暗く歪んだような気がして、思わず和子は声を上げた。

 だが続ける事が出来ずに口を閉ざすと、主上は珍しくも少々苛立ちさえ現した素早さで問い返してくる。


「何だ、女御。はっきり申すが良い」

「……か、賀茂宮様のこと……」


 悔やみの言葉だけでも、己が主上の大切な御子の死を悼んでいると、主上の苦しみ哀しみを辛く思っていると伝えたかったが、言葉が出てこずに詰まらせる。

 暫し黙ったまま、俯いているとふいに周囲の空気が動いた。


「……」

「賀茂宮が何だ。如何した」


 几帳が取り払われ、すぐ目の前、手を伸ばせば触れられる程近くに主上の顔が迫っている。

 少し離れた場所で侍女達が中腰となって、だが主上相手に無礼は働けぬと判断して動けずにいるのが視界の隅にちらと入った。

 和子は恐る恐る、黒曜石のようだ、などと最初に遭った時に思った主上の瞳を見上げ、それから胸に刺すような痛みを覚えて俯いた。


(やっぱり。怒って、おられる。私を……憎んでおられる)

 唇を噛み締めても唇だけでなく身全体が震え出すのを感じた。


「女御。黙っていては分からぬ」

「……も、申し訳、ありませぬ」


 ふいに腕を掴まれたと感じ、次には身の均衡が崩れ和子の身体は前のめりに倒れた。

 だが床には触れず、暖かく固い何かに触れ、顔を上げた途端、主上と触れ合わんばかりの近さで目が合うのに悲鳴を呑み込む。


「主上!どうか、お待ち下さいませ!将軍家の御意向は、」

「黙れ!女御は朕の后だ!さっさと女房共は下がらぬか!」


 猛々しく厳しい命令が下されるのに和子は呆然と主上の強張り鋭くなっている顔付きを眺め。

 侍女等が彼女を置き去りにして行ってしまったと気付いたのは、主上の膝の上に乗せられて抱き抱えられている、そんな態勢になってからだった。


「お、主上……」

「嫌か?」

 先程の怒声と同じひとのものとは思えない弱々しく擦れた声に問われるのに、胸が大きく轟く。

 だが何を問われているのか分からず戸惑いながら、主上を見上げる事しか出来ない。


「和子。いや、お和」

 初めて遭った時、新しい名を与えられていた事も忘れて、江戸でのように名乗った、その名で呼び直される。

 目を丸くしてー何しろ、女官達にはきつい目付きで睨まれるだけでなく注意を受けたし、主上にも眉を顰められたー和は、ついでに口も開けていたかもしれない。


 ふいに主上がくすりと小さく笑って、それから主上の唇が己の唇に触れるのを感じた。

 更に開いた唇を吸われ、呆然と混乱している内に、和の身も心も奪われた。


 *


 水無月。


 将軍家親子の上洛に、落ち着き無い不安な心持ちになりながら、彼は早々の謁見を許した。

 内心恐々とするものがあったものの、特に何事も無く恙なく現将軍の将軍職返上と次代将軍への宣旨の内示について、事前の合意の通り速やかに滞りなく済まされる。

 清涼殿に戻り休む間もなく女官により将軍家親子が女御御殿に入ったと耳打ちされる迄は、あるいは女御の説得により将軍家と幕府は考えを改めてくれたのか、などと楽観的な考えを抱きそうになっていた所だった。

 装束を大慌てで改めて、彼も又女御御殿へと急ぐ。


 だが距離及び身分的に優位な立場に立っているにも関わらずー後宮にあたる女御御殿には流石に将軍家であろうと一定の手続きが入殿には必要となるし、何事も内裏においては伝統的に時間を掛けて処理するものなのだー、彼が女御の殿舎に到着した際、既に将軍家親子はその場に居た。


 帝である彼の姿を認めても、清涼殿や宴の時のように恭しく挨拶するでもなく、ぎりぎりそれと認識出来るかどうか位の目礼のみする将軍家親子に、彼はその無礼を咎め怒るべきと思いつつも、何も言えない所か微かな愛想笑いさえ返す。

 女御の部屋に通されたのはほぼ同時で、岳父に当たる将軍と次期将軍となる義兄ーとはいえ、彼よりずっと年下だーに先を譲ったのは間違いであったかもしれない。


「父上様!竹兄様!」

 彼が未だ聞いたことがない、軽やかで綺麗なだけでなく歓喜に溢れた叫びを上げ、恥ずかしがり屋で内気な筈の女御が義父と義兄に飛び付く、という極めて不愉快な場面を指を咥えて眺めているだけ、などという情けない境遇に追いやられたのだ。


「お会いしとうございましたっっ全然会いに来て下さらないんだもの。もうお和のことなどお忘れになってしまったのかと思いました」

「まさか」

 笑いを含んだ優しい声に、彼は心底驚き、彼にとっては常に警戒心と気構えを忘れられない者達がその場に居る事を忘れて、まじまじと目前の信じられない光景を眺め続ける。


「この父が大事な可愛いお和のことを忘れる筈があるまい。そなたが江戸を離れてより四六時中そなたのことを考えていたのだぞ」

「本当?本当?父上様、じゃ、母上様より私の方が、好き?」

「……お和。少しは大人になったかと思っていたのだが。……これでは忠長の言う通りだな」

 小さな身体を支え艶やかな髪を撫でている父親と、ひたすらに父親にじゃれて甘えている娘のすぐ傍で、これは少し斜に構えた冷ややかな口調で兄が言う。


「入内しようが天竺に嫁に行こうが、そなたの甘えたお転婆振りは直らぬ、と言っていたぞ」

「ま、ひどい!国兄様がそんなことを?」

 女御は今度は年の近い兄の腕の中に飛び込む。


「相変わらず国兄様は御口が悪いのね。でも竹兄様は違うでしょ?お和を庇って下さったでしょう?」

「……微妙な所だな。今の振る舞いを見ては否定するのは難しい」

「意地悪!」


 人目を憚らず仲の良い親子、兄妹の姿に、彼はふと己の身に照らし合わせ、侘びしいような寂しいような、心許ない心地に陥った。

 母方の伯父は確かに、彼を皇子としてではなく甥として扱い、あるいは他の天皇家の子達では知る事が出来なかった肉親の情愛を与えてくれたとは思うものの、流石に元服し帝位を継いでからは臣下でもある伯父に甘える訳にはいかなかった。それに伯父は、彼が帝位を継いで数年でこの世を去った。

 直に触れ合うような肉親は、今の彼にはいない、のだ。


 ぼんやりと大人しく傍観しているだけのつもりだったが、それでも羨ましく嫉ましいような煩い気配を彼は発してしまっていたらしい。

 妹の頭を撫でていた兄がちらと普段通り、年齢に似合わぬ落ち着き払った眼差しを向けてきたのに、娘の手を握っていた父親は一気に冷めた貌でーこれは幾分嫌みっぽくわざとらしくー彼の頭の天辺から足元迄眺めた。

 慕っている父や兄の挙動には敏感になるらしい女御も、彼を見て少し怯えたように可愛い唇を震わせる。


「……女御。久方の対面を邪魔して済まぬ」

「主上」

「女御、久し振りにそなたが入れてくれた茶が飲みたい」


 彼の后が何か言いかけるのをさり気なく素早く将軍が遮った。

 素直な女御は瞳を輝かせて嬉しそうに頷き、後は彼の方を見もせずに下がって行ってしまう。

 江戸から来た徳川家に忠実な女房が付き従っていったから、あるいはこのまま女御を遠ざけておくつもりかもしれない。


 自然睨むように強く視線を当てても、岳父である年長の男は動じた風を装う謙虚さもなく、ふんと不遜に鼻を鳴らしてみせた。


「……上様」

「右大将。私より話をする」


 さっさと将軍は座の上下など無視して座所ではない、円座のみ置かれた場所に腰を下ろす。

 右大将も澄ました顔で端然と座すのに、帝である筈の彼もーだが今は舅としての岳父に婿として説得するつもりでいるー幾分ぎこちなく座った。板間に座ることなど、彼の場合滅多に無いのだ。


「主上、挨拶は抜きにさせて頂く」

「あ、ああ」

 清涼殿の慇懃で滑らかな口調、礼儀正しく涼やかな態度が嘘のように、権高で厳めしい貌と姿勢を向けられた。

 その目付きも、心なしか上から目線であるような気がする。


「既に主上もお聞き及びであり納得されておられるでしょう。此度は女御に、暇を出して頂くこととなりました。この三年、我が娘を預かって頂いた事について感謝致しております」

「……あ、預かって、など。朕は、いや、女御は」

 己の后だと言おうとしたが、それより早く舅は彼の言葉を遮った。


「下々においてであっても、嫁して三年子無きは去る、などと申す。元々、身分も隔たりある身。また我が娘に京の水は合わぬ。潔く退出致すこと、将軍家だけでなく幕府においても承伏させた故、主上におかれては御懸念無用」

「しかし」

「私からの条件は御存知であろう。今後、生まれる御子を、女御の養子として扱って頂ければそれで良い。将軍家としては、畏れ多くも帝の外戚という名分さえ頂ければ不満はござらぬ」

「……だが、女御は」

「女御は大切な我が娘。しばし私の手許に置く。帝が儲君を設けられれば、他家へ嫁に出すか、あるいは婿を取る所存。女御の行く末は将軍家が保証致す。これも主上の配慮は無用に願いたい」

「……」


 完全に取り付く島のない舅の口上に、焦りながらも彼は言葉を挟めず、反論も困難に感じた。

 しかし何もせず黙って引き下がる訳にはいかない。

 彼は気圧されがちな己を叱咤し、先程から頑と動かない舅の目線を受け止め、その重さに耐えた。


「女御は朕の后である。后を、理由もなく退出させる訳には、いかぬ」


 大御所存命中は「親の七光り」だの「真面目だけが取り柄」などと言われることも多かったし、この男は武家の中では随分と理性的で穏やかな人柄であった筈だった。

 そう己に言い聞かせていても、微妙に膝に震えが走るのを覚え、彼は非常に不愉快かつ不面目、というよりも屈辱感を感じた。

 将軍家と今上帝という間柄、女御の父と夫という立場を越えて、男として立ちはだかる壁のような存在として、あまりに明らかな違いを見せつけられた、そんな気もする。


 実際目の前に端然と座す男は、娘を守る為、取り戻す為ならば、あるいは帝である己をも害する覚悟であるのかもしれない。


(だが女御を渡す訳にはいかぬ!それだけは出来ぬのだ)

 改めてはっきりと決意を心中で繰り返す。


「理由なら大いにある。主上にも既に御存知の筈」

 だが将軍は容赦なく、厳格かつ冷静に追求し続けた。


「我が娘を罪人呼ばわりし貶めようとする恥知らずな連中の許には置いてはおけぬ!本日今すぐ、女御は将軍家が引き取る!」

「将軍、それは」

「問答無用」


 将軍は鋭い言葉と眼差しで彼を真っ直ぐ刺し貫いた後、悠然と頭を巡らせた。


「……」

「阿茶。支度は終わったか」

 声を出せずにいた彼を無視して、将軍は近付いて来た女房に声を掛けた。

 それから、先程迄の冷厳さが嘘のように優しく和らいだ笑みを浮かべる。


「お和。もう良いぞ。話はついた。こちらへ参るが良い」

「……父上、様」

 女御の震えているーこんな時にも何よりも愛らしく愛おしいと感じるー声に、彼の身も震えた。

 爽やかで甘い、だが若々しい香が漂い、衣擦れの音と共に女御が彼を通り越して父兄の許へ駆け寄ったのだ、と彼は苦々しく覚る。


(やはり朕などより、将軍家が、父母の元が良い、のであろう。それは当然だ。人の子ならば、当然のこと、と……思わねば……)


 だが諦めきれぬという我が迫り上がってくるのに、彼は顔を上げ、将軍家というより其処にいる筈の女御を捜す。

 女御はやはりー彼の不吉かつ忌々しい予測通りー父親に寄り添うように縋っていたが、円らな愛くるしい瞳を見開いて彼を見詰めていた。

 目が合うと、潤みながら綺羅綺羅と輝く、その花弁のような唇よりも雄弁な眼差しで訴えかけてくる。


「将軍。頼む。頼む、故、女御の退出だけは、思いとどまってくれ。将軍の望み通り、いや指図に従って官位も必要な者全てに与えよう。不埒な噂を流した者は、何としてでも探し出して、将軍の満足がいくよう処罰を与える。二度と、誰にも下らぬ騒ぎは起こさせぬ。そ、そのように必ずや朝廷は朕が抑えてみせる。女御には決して不快な思いはさせぬ」

「何を今更」

 将軍は優しく娘の髪を撫でながら、冷たく、というよりも他人事のように突き放した。


「大事な姫をこれ以上京などに置けませぬ。国許では皆、姫の帰りを待ち侘びておりまする。第一、主上だとて、女御入内の際に、神祖に懸けて東国育ちの醜女の許には通わない、と誓われたそうではないですか。……そしてその誓いをこの三年の間、守り通して来られた」

「そ、それは」


 己の悔し紛れの暴言や寝所の事情迄もが関東に筒抜けになっていると明かされてばつの悪い思いをするだけでなく、女御が小さく息を呑んで、大きな瞳をますます大きく見開いて揺らしたのを見て取り、彼は焦った。


「ち、違う!女御のことを申したのではない!あ、あれは、単に、その、女御を迎える前に気が塞いでおった故、つい愚痴っただけのこと!女御は決して醜女などではない!」

「……関東の芋娘、所詮武家出の牝猿か牝猪、などとも仰せになられたとか」

「違う!だからお和のことではない!」


 女御の名ーというよりも生来の名ーを口にしてしまってから、慌てて口を閉ざす。

 将軍家だけでなく兄の右大将迄もが刺すような注視を己に向けて来たのを感じ、ますます居たたまれない感は極まった。


「朕は……女御を……可憐な、愛らしい女人だと思っている。決して、決して女御を悪く思ったことなど、一度も、無い」

 だが后にだけは誤解されたくなくて、吃りつつも決死の思いで訴えた。


 暫しの間、非常に嫌な沈黙が続いたが。


「あ、あの……父上様?」

 まさしく可憐で無邪気な女御の声が、その場の緊張あるいは停滞を破った。


「ん。何だ、お和」

 変わらず甘く優しい父親の顔を女御に向ける将軍に、女御はこれまた愛らしく微笑みかけた。


「父上様の御心は、私、とても有り難く、嬉しく思っております」

「うむ」

 ますます将軍は蕩けるような眼差しとなる。


「あの……ですが」

 ちらと女御は燃え尽きた状態で呆然としている彼に一瞬目を向けてから、父親に目一杯の笑顔を向けた。

「今は私、退出出来ませぬ。身体に障ります故」

 笑顔で危うい事を口にする女御に、無論彼だけでなく将軍、そして右大将も色をなした。


「身体?!如何したのだ?!お和、もしや毒でも……」

 将軍家はそれこそ殺意の籠もった目で彼を睨み付けてくるし。

「……所司代を呼びましょう」

 右大将は静かに、底光りのする目と女人のように色白で整っているだけに一層冴え冴えと冷たい貌を清涼殿の方角へと向けた。


「いえ、あの、そうではありません」

 周囲の動揺などものともせずーというより端から気付いていないらしくー女御はぽっと愛らしく頬を染めて、もじもじと身を捩りながら俯いた。


「お和?」

「如何した?」

 父兄の呼び掛けに、今度は床にのの字を書き出した。


「あ、あの……私……おややが……出来ましたので……今は大事にしなくてはならぬ、と」

「やや……ややとは何だ?」

 ぼんやりと呟く将軍家の代わりに兄の右大将が珍しく早口で妹を詰問しだす。


「本当か?そのような話、我等聞いておらぬぞ」

「はい、あの……私も……気付いていなかったのです。でも、先日……民部卿が……そうではないかと……でも……でも、私……恥ずかし、い」

 一層消え入りそうな声で応じるのを見かねたのか、件の民部卿が膝を進めて前に出た。


「そうなのです。昨日御医師を呼んで確認致しました。既に三月か、四月に入っているかもしれぬ、とのことで」

「……」

 流石に驚いたのか、右大将は黙り込む。

 交替して今度は将軍家が、これは娘よりも攻めやすいのだろう、女房に向かって言い募る。


「どういうことだ!い、一体何処の何奴が私の娘に不埒な真似をした?!隠し立ては致すなよ!そのような命知らずな無礼者、望み通りこの私が簀巻きにして、いや、細々に切り刻んで魚の餌にしてくれる!」

「……上様。どうかお気を鎮めて下さいませ」

「阿茶!巫山戯るな!わ、私の大事な姫を、よくも、よくも傷物にっっっ」


 内裏内ということで将軍家の男達が帯刀していないのを、この時程有り難いと感じた事は無かった。

 だが、将軍が両手で宙を揉み絞るーおそらく想像上の憎い仇の首を締め上げているーのを見て取って、彼は内心非常にびくびくと怯えながら、だがそれでも己の務めー夫としての権利、そして男としての義務ーと思い、口を出す。


「将軍。女御は朕の后だ」

「主上は黙っておられよ」

「い、いや、だから、その、女御は朕の、」

「煩い!」


 大音声で、しかも身近で怒鳴り付けられて、頭がわんわんと鳴るのを感じながら、彼は両手で耳を押さえた。


「父上、落ち着いて」

 有り難くも右大将が将軍家を宥め、それによって女御が父親の元をさり気なく離れて彼の方へと身を寄せて来る。


「大丈夫ですか?主上。……申し訳ありません、父上様ったら」

 女御は困ったような貌をして、だが一層可愛くバチバチと目を瞬かせているのだからこれまた質が悪い。


「本当はすごく怒りん坊なの。でもすぐ元に戻るから。お気になさらないで下さいませ」

「あ、ああ」


 それでも小さくて白いだけでなく柔らかくて優しい女御の手が、彼の手に重ねられ、優しく撫でてくれるのに、彼も落ち着きを取り戻した。

 それだけでなく、愛しい后ーと言うには彼の目にも未だ幼く稚く、少女にしか見えないーが変わらず傍に居て、彼の許に留まってくれるつもりであると知って、心強いと同時に心温まる何とも言えぬ心地良さを感じた。


「お和」

 どうやら将軍と右大将も事情を察したらしい。


 微妙かつ種々様々な感情が複雑に絡み合いながら蜷局を巻いているといった状態で、彼を睨んでくるのに、彼は堪えきれず溜息を吐いた。

 が、ここで逃げる訳にはいかないとは、やんごとなきー世間からずれまくったー生まれ育ちの彼でも理解している。

 彼は女御の手をそっと離し、その場で姿勢を正し、だが非常にぎこちなく拝礼した。


「……」

「将軍、いや、義父上、義兄上。難しい、かもしれぬが、どうか朕を信じて欲しい」

 将軍家の男達と将軍家に忠誠を誓う侍女達の沈黙を非常に重く厳しく感じながら、だが彼は傍らのか弱く儚いーだが何よりも大切なー存在に大いに勇気を得つつ、一層低く頭を下げる。


「将軍家にとって、いや何よりも義父上等にとって大切な姫とは、重々承知している。それに、朕の身上では……女御は女人として全き幸せを得られぬかもしれぬ、が……だが、どうか……朕に女御の身を委ねて欲しい。いや、私に、姫を下され。何があろうが必ず、私が、守る。お和を危険な目に遭わせたりはしない」

「……」

「わ、私は、お和が、好き、だ。お和を失う事は出来ぬ」


 漸く言い切った言葉に、だが彼が説得しようと努めていた者達は全く無反応だった。

 唯一人、隣でちんまりと控えていた女御が彼の腕の中に無理矢理入り込んでくる。


「こ、これ、女御、このような人前で」

「政仁様!私も、大好き!」

 后がぴっとりと隙間無く身体をくっつけるように縋り付いて来るのに、それ迄の緊張感は呆気なく溶け、彼は他愛なくみっともなくも我を忘れた。いや腑抜けと化した。

 可愛い愛しい少女のようなーまだまだ本当に少女であるー妻をただ抱き締める。


 *


 重陽の日。

 二人で菊の花を摘んだ後、随分と腹も目立って大きくなってきた女御に強請られて、彼は女御と手を繋いだまま、女御のお気に入りの池迄歩いた。


 水面がざわついているのを見て、やれやれ、などと内心で溜息を吐きながら、だが彼は穏やかに女御の次なる行動を見守った。

 女御は袖の中に隠し持っていたらしい一塊の麩を取り出すと、それを千切っては池へと放り投げる。

 麩が水面へ落ちる前に、良く太った身の大きな鯉達が飛び上がり、餌を競い奪い合うのに、女御は童女のように満面の笑顔となりながら、一層張り切って餌を撒く。


「女御、いい加減にせよ。身体に障るぞ」

「あん、だって、まだこのように、沢山ありますもの」

 女御の足元の覚束無さを気遣って注意しつつ実際に彼女の腕を取るという実力行使に出た彼に、女御は愛らしくも不満げに頬を膨らませて可愛い唇を尖らせる。


 抱き締めたい、などという衝動は堪え、彼は辛抱強く幼い后を諭した。


「転んでは腹の子だけでなく女御の身も危ういかもしれぬ。よくよく注意せよと、国許の母君も仰せであろう?」

 非常に効果的であると知った義母及び義母が与えたらしき戒めについて言及すると、女御は一層ぷぅぅと頬を膨らませたものの、餌を投げるのは止めた。


「でも……御池の鯉がお腹を空かせてしまいます」

 可愛い文句を言ってくるのに、彼も容易く折れる。


「大丈夫だ。朕が代わりにやろう」

 実際、有無を言わせず女御の手から半分位の大きさになっていた麩を取り上げて、そのまま、投げた。


「主上!」

「良いではないか。何と言っても内裏の鯉なのだ」

 頬を赤くして怒っている女御の頭を撫で、それだけでは勿論足りずに頬にもそっと手の平を当てる。


「分かち合うことを覚えねばならぬ」

「もう!また誤魔化してる!」

 なかなか鋭い、だが何よりも暖かく甘い東風のような少女を腕の中へと抱き寄せて、彼は恍惚と目を閉じる。


「主上」

「今宵は共に菊酒を飲もう」

 耳元で囁きかけ、ついでに唇で触れると、幼い妻はそれでも女らしい羞じらいに頬だけでなく喉元辺り迄紅に染めた。


 満開の菊花が、今宵は帝の寝所を飾ることだろう。


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