花鳥風月

一宮 オウカ

菊花【上】

 重陽の日だと知った彼は、ふいに思い立って菊の花を見に行った。

 小さな庭ーまるで現在の京、そして己の力の無さを象徴しているかのようだ、と彼は皮肉っぽくこのような際にも感じるーへと角を曲がった所で立ち止まる。

 先客があったのだ。


「……主上」

 細く高い、幼子のような声だ、などと彼は敢えて評した。

 相手は己よりもずっと年下、小柄で華奢な体つきや無垢な眼差しなどは年齢よりもずっと稚い、と常々彼は己に言い聞かせ続けている。


「女御も菊を観に来られたか」

「あ……あの、私は……菊酒に……頂こうかと」

「ほう。菊酒か。それは風流なことだ」


 控えめに俯いているのに、その白い貌や長く黒い睫が戦いでいる様などを、当時も後世も色好みで女人には目がない、などと言われていた彼が見逃す筈もなく、きっちり見て取ると共に身内に燻る熾火のような情を覚え、苛立つ。

 だが彼はあくまでも女御には穏やかに語りかけた。


「では今宵、朕も相伴に預かれるであろうか?」

「……主上が……お望みでしたら」

 そっと静かに応じる后にーだが女御が相変わらず喜びや媚びなど全く示さず寧ろ戸惑い、困惑していると感じ取ってーすぐさま彼は声を上げて、自身の失望と怒りも笑い飛ばした。


「やめておくか。大事な女御の邪魔をしては、東の方より雷が飛んで来よう。では、女御、朕は戻るぞ」

 后の表情などは最早確認する気になれず、彼は足早にー半ば逃げるようにーその場を去った。


 己の座所に戻ってからも、ぼんやりと彼は先程別れた少女の面影を追い続ける。

 二年前入内して名を和子と改めた女御、つまりは彼の后である徳川の姫、だ。


 今年十六になった筈だと年齢を数え、すぐに彼は己の考えー衝動に過ぎない、と思うーを否定する。


 だが既に彼自身、后の存在を否定し拒み続けているのが、己の真の意志ではないことも、それがただの意地、というよりも怯懦に過ぎないとも自覚していた。

 彼は、あの幼い、如何にもか弱く触れるだけで消えてしまいそうな儚げな少女が怖ろしいのだ。


 最初は単なる幕府への反発心、横暴で朝廷や帝へも不躾な武家に対する嫌悪感でしか無かった。

 又身の程知らずにも今上である己に后を、しかも徳川などという何処の馬の骨か出自も明らかでないーと彼は考えていたー武家の娘を女御という高い位で入内させるなどという話が、己の知らない所で纏まっていたのに、反発したのだ。

 寵愛し皇子と皇女を産ませた典侍が、幕府の口出しと横車で容易く内裏から追放されたのも気に入らなかった。


 だが彼が如何に抗おうと譲位を口にして脅そうと、彼の臣である筈の朝廷は動かず、そして当然幕府などはびくとも動じなかった。

 予定より二年遅れたが、結局、血筋も賤しい武家出の東女が、彼の女御としての宣旨を受け、彼の憤激を後目に上洛し、彼の御所へ図々しくも入り込んで来た。


 少なくとも彼はそう感じ、そのように口にして、東夷の色黒の醜女などとは生涯褥を共にしない、などと声高に誓った。

 天照大神の御名迄出して天地に宣誓した程だ。


 だが。


 彼を追うように届けられた菊花を女官が丁寧に活けた後退室する迄、彼は花も女官も無視しきって、漢籍を眺めている振りをした。

 今上とはいえ、彼には日常的な勤めなど殆ど無い。

 無論朝廷は機能しており、彼の署名やら花押やらを要求してくるが、それは単なる作業に過ぎず、あるいはそれさえも代筆者などが控えていたりする。

 無為に無害に尊い座に居座る事のみ、彼には求められているのだ。


 繊細な幾重もの花弁を微かに揺らしている花を横目で眺める。

 長く楽しめるようにという気遣いなのだろう、咲ききらぬ蕾の状態で摘み取られた花は、その花を寄越した当の相手を簡単に彼に想起させた。


(十六か)


 初めて間近で顔を合わせた時は彼女はまだ十四で、今よりももっと幼く愛らしい人形のような少女だった。

 最初彼女を見た時には、このような稚い少女を女御として差し出してきた徳川将軍家に、純粋な怒りを覚えた。姫を憐れに感じただけでなく、彼の方は既に二十五で、己の事を充分以上に一人前の男だとも考えていた為、馬鹿にされたあるいは軽侮を受けたような、気もしていた。


 黒目がちの円らな瞳が水晶のような涙を湛え、月光を集めた湖面のように燦めいているのを見て取り、一層苛立ちと腹立ちを覚えて、彼を女御の閨に導いた女房をその場で叱りつけた。

 途端、少女が怯えた貌をして、それこそ月の欠片か金剛石のように美しい涙を零したのに、何も考えられなくなった彼はそのまま女御の殿舎から逃げ出したのだ。


 以後、彼は女御を夜訪れたことはない。


 幼く彼を怖がって疎んじているに違いない女御の許へ敢えて通わなくとも、彼には数多の女官達、禁裏で彼にのみ奉仕する女達が居た。

 それは将軍家やら幕府やらが如何に糾弾しようが、彼の生得の権利であり義務である。


(女御は朕の后だ。故に、女御と褥を共にするのは朕の務め、だ)

 そんな考えが閃くように過ぎったが、すぐに自身で否定する。


(いや。為らぬ。……女御は未だ幼い。それに……)


 先程の女御の貌や挙措を思い起こす。

 彼を見て一瞬、とても愛らしく目を丸くしたものの、すぐに目を逸らしてしまった。

 まるで彼の視線、彼と目が合うこと、彼の想いを知る事を怖れるように。


 この二年彼は彼らしくもなく辛抱強く待ち続けたが、未だ女御は彼には心開かず、彼を怖れ親元に帰りたがっているということなのだろう。


(……だが一旦入内した以上、将軍家の姫であろうが、退出など出来ぬ。和子は朕の后なのだ)


 何れは彼女も諦め、己の運命を受け入れる筈だ、と彼は思った。

 そうでなければ、この内裏では生きてはいけない。


 女御が自ら彼に屈するならば、彼だとて女御の涙も消え失せてしまいそうな儚さも怖ろしくはなくなる筈だ。

 少なくとも今迄の女達はそうだった。


(何れ時が経てば、和子は朕のものになる)

 そんな風に、心中で繰り返し続ける。

 幸い、幼い頃より待つことだけには慣れている。ー慣らされて、いる。


 彼の日々は、これ迄と何ら変わる事無く、牛歩の如く鈍々と退屈に過ぎていく。


 *


「女御様、女御様」

 実家より付き従って来た頼りになるが厳しくもある女房の声に、和、改めて和子は慌てて手にしていた小袋を袖の中に隠した。

 取り澄ました貌を取り繕り、餌を欲しがってぱくぱくと大きな口を動かしている池の鯉達を眺めている振りをする。


「ああ、此方でございましたか、女御様」

「如何した、阿茶」

 だが幼い頃から見慣れた女房を呼び慣れた名で呼んでしまってから、首を竦めつつ舌を出す。


「いけない。民部卿、でしたね」

「……女御様」

 この広い御所での庇護者であるだけでなく教育係でもある女房は、めっと厳しく睨んで来た。


「いけませんよ。そのようなお顔。他の者に見られては、東より来られた女御様は何時まで経ってもお転婆な田舎者と誹られましょう」

「あら。だって本当のことだもの。私は江戸生まれの江戸育ち。それに私、母上似なのでしょう」

 一方的に叱られるのは、幼い頃より周囲の者達皆に可愛がられ甘やかされてきた彼女には当然の如く、不可能な事で、いよいよ叱られると分かっていてもつい言い返してしまうのだ。


「母上は何時だって父上にお転婆だって叱られておいでだったもの。だから私は正真正銘、生まれながらのお転婆なのよ。誤魔化す方が潔くないでしょうに」

 私は嘘なんて吐きたくないし、吐けないもの、と付け加えると、女房は厳しい表情のまま苦笑を浮かべた。


「そのような事、上様や御台様がお聞きになられたら嘆かれますよ」

「そうかしら。父上はお喜びになると思うけど」

 実際心からそう思いながら、又も軽く肩を竦める。


 征夷大将軍という武門第一の位職に就いている父が己を溺愛するのは、先ずは和子が母親似であるから、という動機付けが大きいとは幼い頃より知っている。

 何しろ父本人が、和子やあるいはおそらく姉達にも、「姫は母に似て美しい佳き姫だ」などと繰り返し言っていたのである。

 誰もがー幼かった和子や兄達でさえー父とそっくりだ等と思っていたにも関わらず、たった一人共に育った記憶のある姉にも父は同じような言葉を掛けていた。


 こほんと女房は咳払いをしてから口調を改めた。

「女御様。女御様はこの日の本の国で最も古く尊い御血筋の、神代に通じる今上様のお后なのですよ。お振る舞いには重々注意して頂かねばなりません」

「……」


 和子はぷぅと頬を膨らませた。

 反論は頭の中で渦巻いていたが、口にすべきではないのだろう。

 両親が目の前にいる局を信頼し頼りにしていたと知っているから、反抗し続けるのも気が退けた。

 実際、民部卿がいてくれなければ、和子は誰も知り人も頼れる相手も居ない。


(そりゃ……主上はいらっしゃる、けれど)


 つい先日も偶然、菊園で顔を合わせた、世間一般では夫というべきひとの事を思い浮かべてしまって、和子は慌ててまだ未練がましく飛び跳ねている鯉の日光を受けて輝く鱗を眺めた。

 初めての夜以降、夜殿舎を訪れる事は絶えて無かったが、日中は時折主上は和子の許へ来てくれる。

 徳川将軍家の姫として重んじているだけだ、と和子はどきどきと不規則に乱れる胸の鼓動を鎮めようと努めた。


「御所の鯉は元気ねぇ。江戸の鯉は、国兄様がいつも追い掛けるから、人影を見ると隠れてしまっていたけれど」

「……」

「でも今は国兄様も、いえ、忠長兄上も城を出られたから……安心して泳いでいるのかしら。家光兄上だったらお行儀の悪い事なんて為さらないもの。ねぇ、民部卿」


 特に哀しかったり昔を惜しんでいた訳ではなかったのだが、民部卿はそれ以上小言は言わず、逆に優しく「さ、そろそろ冷えて参りましたから」などと宥めてくれた。


 大人しく殿舎に戻ると暖かい茶を入れてくれただけでなく、薄めの綿入れ迄取りだして肩にかけてくれる。


「駄目よ、勿体ないわ、まだ秋口だもの」

 母がわざわざ自身で縫ってくれたものだと知っている為、大切にもっと寒くなる迄取っておきたいと思い、拒もうとするのにも慈母の如き笑みを返された。


「いいえ。京は江戸とは違って寒さが身に堪えまする。御身、大事に為さらねば、国許の上様、御台所様、兄上様方も心休まらぬでしょう」

「……そう、ね」

 素直に頷いて受け入れた和子が落ち着いたと見たのかもしれない、民部卿は一旦傍から下がると、今度は文箱を手にして目前に座した。


「何?もしかして、江戸からですか?」

 期待に頬が火照るのを感じながら手を差し出し、開かれた文箱から些か乱暴に文を取り出す。

 そのまま己の胸に押し付け、抱き締めた。

 目を閉じて、和子は微細な残り香だけでなく気配迄感じ取ろうとする。


「父上様……父上様の文。そうでしょう?」

「はい」

 民部卿の短い答えが笑い混じりであったのも気にしなかった。

 懐かしく慕わしい空気に包まれて、和子は喩えようもなく幸せで守られているという実感に暫し、浸る。


 だが当然待ち遠しい気持ちに急かされて、父の懐かしい手蹟による宛名をそっと撫でてから、慌ただしく文を開いた。

 最初は真剣に文面を見詰め、漢字仮名交じりの、だが謹厳で真面目な父らしい小難しい文章を読み解こうと努めたが。


 諦め良く文を投げ出し、いつものように民部卿に委ねる。

 早く父が何を言って寄越したのか知りたかったのだ。

 無論、後でじっくり自分でも文を読み込むつもりだし、当分の間、この文は和子にとって何よりの宝物となり、また緩やかに無為な時間を過ごす糧となるだろうが。


「……来年、上洛のご予定だそうです」

「来年?来年のいつ頃?!」

「それは……まだ決まってはいないそうですが」

「そう……」

 しゅんと項垂れる。

 決まっていないということは、明けて早々という訳にはいかない、ということだろう。


「……賀茂宮様のご病気について、心配されておられます」

「まあ」

「江戸においても加持祈祷を幾つかの寺にご依頼されたそうです」

「そうですか。有り難いこと」


 ほっと和子は微笑んだ。

 未だ父が、主上の子ー和子が入内する前に、大納言典侍との間に設けた皇子と皇女ーの存在を苦々しく思い、徳川家と幕府にとって好ましくない存在と見なしているとは知っている。

 その父が、為さぬ仲の皇子の病を案じてくれるのは、やはり和子と、和子と主上の仲を思い遣ってのことだろう。


「江戸や御台様、姉上様方のことは大事ないと。……」

 ぽつぽつと拾い読みをしていた民部卿がふいに黙ってしまったのに、和子は顔を上げた。


 和子と共にいる時の物柔らかで穏やかな気配は形を潜め、かつて江戸城奥を差配していた際の、凛と引き締まりながら才気煥発の、あるいは抜け目なく鋭敏な空気を身に纏っている女房に、和子も沈黙を守りながら待った。

 待つ事しか、己には出来ないと和子は自覚している。


「上様から、内々のお達しがございます」

 低く潜められた女房の声に、和子は不安と怖れを覚えながら、従順に頷いた。


 *


 生母の身分も低く、又、将軍家と幕府を憚って儲君とはしていなかったが、血の繋がった息子であることには変わりがない賀茂宮の病が進み、そしてとうとう儚くなってしまった。


 正式な喪に服すだけでなく、心も鈍く重く塞ぐのにー何しろ、彼にはこれで皇子がいなくなってしまったのだー、月日は容赦なく過ぎていく。そして月日が経つに連れて、亡くした者への情は遠くなるのが世の常であった。

 いや、寧ろ、皇子を亡くしたからこそ、今後の暮らしへと彼の関心と注意は明確に向けられた。


 気付けば新しい年も明け、春の除目などにも追い立てられるようにして、彼は恒例の宮中行事をこなすだけでなく、前々より打診のあった幾つかの昇進についても、皮肉に顔を歪めつつ承認し、と普段よりは忙しく政務ーというには現状では語弊があるかもしれないがそうとしか言い様がない雑務ーに携わった。


 それでもー忙しい最中にもーふと誰かの香が漂う度に、別の、京人のものとは明らかに異なる率直で清々しい香を想い出す。

 年が明け、彼女は十七となったのだ。


 流石に、最早、子供とは言えない年齢である。

 そして。

 女御腹の皇子を得る事が出来れば、関東は勿論、彼と彼の朝廷も文句なく全てが丸く収まるというものだ。


(そうだ。今や同衾したとて誰も文句は言えまい。和子だとてそれは、分かっておる筈)

 自身に強く唱えてみるものの、自信がない、というより非常に心許なかった。


 日中、様子を見にー彼の心情としては女御の顔を見にー殿舎を訪れると、女御は穏やかに迎えてくれるが、その内気さ加減や彼から距離を置いた態度は変わらない。

 そして彼の目には、女御はますます愛らしく可憐に、それでいて儚く弱々しく、見える。


 更に。

 未だ忘れられない、まだ十にも為らないー八つだったと明確に彼は記憶しているー頃、一度だけ巡り逢った花仙女のような女人の面影を、彼の目、意識は見出して、この少女こそ己がずっと捜していた相手なのだ、などという妄想をーあるいは幻想をー彼に覚えさせる。

 決して有り得ない事だと彼の理性はとうに結論付けているのにも関わらず、だ。


 おそらく、彼の初恋のひとー今も時折夢に見て、切ない憧れと初めて味わった挫折感に歯噛みするーは徳川家縁の女人、女御とも血縁であるに違いない。

 だからこそ、己をこっそりと何処とも知れぬ宴に連れて行ってくれた、普段は磊落で皇子である彼を唆す言動が多かった伯父が、「何としてでもあの女人を女官として御所に連れ帰りたい」などと駄々を捏ねた彼をにべもなく突っぱねるだけでなく、強情を張り続けるのにも尻を叩くという無礼な折檻迄した、のだろうと彼は推測している。


 確かに徳川家の女人ならば、朝廷も天皇家も手出しは出来ない。

 当時の徳川家当主、徳川家康こそ、この日の本の国の統一を成し遂げた天下人、征夷大将軍の職位を数百年ぶりに武家にもたらした男であった。

 時の帝の皇子であっても、対抗できる相手ではない。


 そうした武家ー将軍家と幕府ーとの力関係は、彼が帝位を継いだ今であっても変わらない。

 とうにあの女人の身元を探ることも諦めていた。というよりも最早必要としていない。

 今現在の彼は、もっと別の、より切実で切迫した願望に囚われている。


(とにかく。喪が明ける迄はどうにも出来ぬ)

 そんな風に、いやそれだけを心決めて、更に日を過ごしつつあった。


 少なくとも彼は、己の心中以外は何ら変わり映えのない平々凡々たる日常である、などと思い込んでいたのだが。


 彼にとってのー又彼だけでなく彼がようやく治める余りに小さく弱い世界をも揺るがしかねない、あるいは壊しかねない可能性があるー危機に気付いたのは、まるで枯れ野を渡る野火のように内裏中にその噂が拡がった後、であった。


 急ぎ禁中及び内裏に箝口令を敷き、各所へと手を廻したが時既に遅く。

 結局、彼は対策を練るとの名目の下、朝廷においてはその姻戚関係により幕府寄りと見なされている九条家及び二条家の者達を内々に呼んで、弱音紛いの愚痴を吐く事となった。


「全く!愚かな者共だ!何故、かように朕の足を引っ張るような真似しか致さぬのか」

「……」

 同情的な沈黙に、一層惨めな心境に追いやられながら彼は酒杯を空けた。


 普段は彼よりも、頭が固い癖に陰湿に足の引っ張り合いだけは止めない公卿等に煮え湯を飲まされているであろう同席者達だ。

 充分以上に彼の心を酌んでくれているだろうが、どうやら同病相憐れむという心境あるいは境遇は、連帯感は生むものの、支えや力とはならないらしい。


「女御が皇子を毒殺するなど有り得ぬ!馬鹿げた噂を広めて、女御を貶めたつもりであろうが、このような事で女御を追放出来るものか!返って幕府と将軍家を怒らせるだけで、何の益もない!」

「……所司代は如何様に」


 静かに訊いて来たのは、ここ数年関白として彼を支えてくれただけでなく、徳川将軍家との間の頑丈かつ頼もしい橋渡しを務めてくれた者だ。

 将軍家御台所の娘ー女御には父親違いの姉に当たるーを正室としている。


「既に承知しておる」

「ということは、此度の事、江戸にも伝わっておりましょう」


 微かな吐息のように継がれた言葉を、彼は重く受け止めた。

 驚く程に、江戸の耳は早く、その足も手も長い。


「如何様な枷が新たに課せられる事か。……これも道理の分からぬ、物の見えぬ愚か者達のせいで」

 噂を広めた公卿ーあるいは女官かーも、今上である彼に悪意があったとは彼も考えてはいない。

 寧ろ、「当今さんの為」などとすら考えてーあるいは信じ込んでーいたのだろう。

 武家出の女御を忌み嫌い、何としてでも廃したいとの狙いが明け透け過ぎる。


「女御を廃するどころか。法度を笠に武家共が又も乗り込んで来るであろうに」

「……」

 九条家、二条家の者達ーつまりは親子であり、徳川家と縁続きの者達であるーが顔を見合わせ、それからやはり代表者なのであろう父親が、穏やかに彼に問うて来た。


「主上におかれましては……如何様にお望みで?」

「望み?望みとは」

「それは」


 彼が幼い頃に、これも関白であった伯父などとは異なり、将軍家御台所の娘を妻としている男は、見かけも性格もあくまでも静かな文人肌でありながら、その眼差しには不思議と揺るがぬものがある。

 優れた能書家でありながら、性格はあくまでも奔放で武士になりたがっていた伯父ならば、とうに過激な方策ー例えばいっそ関東とは手切れをせよ、とか、あるいは逆に騒動を引き起こした者等を糾弾し厳罰を与えよ、などーを吼え立てながら、彼以上に酒を干していたことだろう。


「無論、女御様のこと。……女御様を内裏より退出させられますか?」

 立場上、心情的にも有り得ない筈の言葉を口にする年上の臣に、彼は瞠目しつつ、その真意を測りかねて口を噤んだ。


「如何なのです?女御様退出をお望みならば、そのように取り計らいます。将軍家も否やはございません」

「し、しかし。そんな……そのような、有り得ぬではないか。あくまで濡れ衣に過ぎぬのに」

「無論、汚名とは承知。将軍家にも単なる卑言として釈明致します。将軍家には、逆に女御様には内裏は危険と耳打ち致せば、快く退出の儀はご了解頂けるでしょう」

「……」


 余りのことに、彼は又も黙った。

 彼の見解では、当然今目の前に居る臣達は、女御の、そして将軍家の味方であり、女御入内にも尽力したのだから女御の後ろ盾でもある筈なのだ。

 女御の退出を勧めるなど有り得ない、と思っていたのだが。


「女御を、退出させよと、いう、のか」

 ある可能性に漸く気付いて、彼の声は自ずと震える。


「女御を、将軍家は、取り戻す気なのか?」

「……」


 父親と息子二人はさり気なく目線を合わせただけだったが、同じ朝廷人でもある彼にはそれだけで充分だった。

 口許へ運びかけていた杯を力無く下ろす。


「何故だ。何故今更そのような……女御腹の次帝があの者共の目的ではなかったのか?」


 徳川家の血を引く帝を輩出すること。

 かなりあからさまにその意図を、前将軍ー亡き大御所であり天下統一を完全に果たした男ーは、公言していたと記憶している。

 その政略を、現将軍も完全に踏襲しているとの共通認識が、幕府や武家だけでなく朝廷や公家にも明確に有った。


 女御の入内、入内に先立つ騒動や始末も、全てそれ等を下敷きにーあるいは温床としてー起きた事共であった筈だ。


「実は、将軍家には、主上が今後設けられる儲君を、女御様の御養子として頂ければ充分とのお考えを伝えて来ておられます。今は……賀茂宮のご不幸もございました故、回答の留保を願い出、了承を得ておりますが」

「女御の養子?では女御は内裏に」

「女御には可能な限り早々に退出して頂き、里帰りの準備をするのが望ましいと」


 臣達は漸く遺憾の念、あるいは彼等にとっての挫折感あるいは諦観のようなものを現して溜息を吐いた。


「内々に、ではございまするが、将軍家より使いが参りました」

 無情な言葉が彼の心を切り裂いた。


「主上のご了解の下、次の上洛時に女御様も共に江戸へ連れ帰りたい、との意にございます」


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