第二十話 純粋と心配
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二月某日。諏訪くんと出会ってから三ヵ月が経ち、外は一段と冷え込んでいた。
手を擦り合わせる人、ポケットに手を入れる人、口元までマフラーを巻いている人、目に入ってくる通行人は皆億劫そうに見える。白い息を吐きながら走っている人間なんて私しかいなかった。
学校帰りに赤いランドセルを背負ったまま、諏訪くんが入院している病室に訪れるのが日課になっていた。天気が良い日は川原や公園に立ち寄り、四つ葉のクローバーを探してから病室へ向かう。もちろん今度は探すフリではなく、真剣に四つ葉のクローバーを探した。
そして、この日ついに四つ葉のクローバーを見つけ、早く諏訪くんに報告しようと走って病院へ向かっていた。
病院のエントランスを早歩きで通り過ぎ、個室の部屋に入る。
「諏訪くん! これ見て!」
興奮気味だった私は部屋に入ってすぐに、右手に持った四つ葉のクローバーを見せながら諏訪くんに駆け寄った。
「四つ葉のクローバー? 見つけたの?」
「うん、いつも病院に来る前に探していたの」
「へぇ、良かったね。でも本当は探していなかったんじゃないの?」
「これは……諏訪くんにプレゼントしたくて探したの」
ちょっとだけ、声に出すのが恥ずかしかった。
「僕に?」
「諏訪くんが早く退院できるように、と思って」
ありがとう、と受け取った四つ葉のクローバーを嬉しそうに眺める諏訪くんを見て、探した甲斐があったな、と私まで嬉しくなる。
諏訪くんと出会った頃の私はまだ子供だった。
私は不幸で、我慢強くて、小学生でも現実を知っている、なんて自分が周りより大人だとおませな勘違いをしていた時期もあった。
小学五年生は小学五年生だ。いくらでも勘違いはできる。
友達を作ることができた。あれだけ薄汚れて見えた世界が、今はとても眩しい。まるで物語の主人公になった気分だった。
こんな私でも友達ができたのだから、人生はうまく出来ているのかもしれない。どんな人生でもいつか報われるのかもしれない。不幸があった分だけ幸せが訪れるのかもしれない。
諏訪くんと出会ったことで、私は現実を楽観的に考えられるようになっていた。流石に家族と仲良くなれるとか、私をいじめている子達とまた遊べるようになるとか、ハムスターが生き返るとは思わないけど、それでも諏訪くんと出会う前より少しだけ現実に希望を抱くようになっていた。
だから、四つ葉のクローバーを見つけたら諏訪くんの体が早く良くなるような気がして、ずっと探し続けていた。私にできることはこれぐらいだから、という理由でもあったけれど。
「退院したら、今度は僕が見つけてプレゼントするよ」
「本当に? じゃあ、退院したらまた一緒に探そうよ」
家や学校では嫌なことが多いけど、こうして諏訪くんといられる時間さえあれば、私はそれで良かった。
休みの日。私は財布を持って花屋の前にいた。
四つ葉のクローバーを受け取った諏訪くんの喜ぶ顔が忘れられなくて、一度くらいお見舞いの花を持って行きたかった。けれど、ほとんどお小遣いが貰えない私の財布には一本買えるかどうかの小銭しか入っていない。お見舞いに贈る花にはマナーやタブーがあるが、当時小学生だった私は単純に見た目と値段で選ぼうとして、店の中で悩み続けていた。
長い時間、店内にいたこともあって若い女性の店員さんに「何か探しているの?」と訊かれた。元々人見知りな方だった私は「と、友達が入院していて……お見舞いに……」としろどもどろで答える。
「お見舞いなら、アレとかどうかしら」
そう言って、店員さんが持ってきた花かごには綺麗な花が沢山あった。ドラマのお見舞いに行くシーンで見るような、まさに私が探していたものに近かった。
でも、明らかに高そうで、持っているお金では買えそうになかった。今になってみれば、安くても三千円以上はしたはずだ。
「これはいくらですか……?」
子供の私でも払えないことは分かっていたけど、わざわざ声をかけてもらったこともあって、申し訳程度に財布の中を見ながら購入を検討する素振りを見せようとした。
しかし、私より背の高い店員さんは財布の中身を覗き見ていたようで、「いくらなら欲しいの?」と逆に訊き返されてしまう。私が小さな声で「七百円……ぐらいしか持ってなくて……」と財布の中に入っている全額で答えると、店員さんは考え込むように顎に手を当てるが、すぐに笑顔になった。
「ちょうど七百円なんだけど、買う?」
「え……いいんですか?」
店員さんはわざとらしく首を傾げてくれたけど、子供相手に特別安くしてくれたのは当時の私でも理解していた。
「か、買いたいです!」
私の返事ににっこり笑う店員さんにお金を支払い、花かごを受け取る。「ありがとうございます」と深々と頭を下げて店を出た。
諏訪くんと出会ってから、世界がちょっとだけ私に優しくなった気がする。花かごを手に持ちながら、私はそう思った。
なんだか嬉しくて、走りたくなる。諏訪くんは喜んでくれるだろうか。早くこの花達を諏訪くんに見せたい。自然と足が軽くなり、駆け足になる。
ところが病院へ向かう途中、背中に強い衝撃が走った。
私は前に転び、持っていた花かごを手放してしまった。
起き上がりながら後ろを見ると、そこには学校で私をいじめている女子達が立っていた。三人とも倒れている私を見て、クスクス笑っている。
「こんなところで何しているの~?」
「ちゃんと前見てないから転ぶんだよ」
と、私を転ばせた犯人達は言う。
私は自分の体より落としてしまった花かごの方が心配だった。起き上がり、目の前に転がってしまった花かごに手を伸ばそうとした瞬間、後ろから髪を引っ張られ、咄嗟に抵抗する。
その間に一人が地面に落ちている花かごの前に立ち、ニヤニヤと笑みを浮かべた。私が花かごを取るのを邪魔してくる二人も同様だ。
そして、花かごの前に立っていた女子が足を上げた。真下に花かごがある位置で足を止めて、私の顔を窺う。間違いなく、彼女は花かごを踏みつけるつもりだった。
「や、やめてっ!」
声を上げるが、私の言葉で彼女達が止めるはずなく、「五、四、三……」とカウントが始まる。脳裏に店員さんの顔が思い浮かび、必死に抗うが止められそうにない。
もうダメだと思ったその瞬間――後ろから声が聞こえた。
「アンタ達、何やってんの」
カウントが止まり、私も三人も声の方を向く。
そこにいたのは、諏訪くんのお姉さんだった。
鋭い目つきで怖かったが、それは私に向けられたものではなかった。
「え、えっと、私達は……花を拾ってあげようとして……」
「そ、そう!」
「ね……もう行こうよ」
逃げるように去っていく三人に諏訪くんのお姉さんは「拾ってから行けよ」と不満を漏らす。
「大丈夫?」
「あ、ありがとうございます……」
お姉さんから花かごを受け取り、無事であることを確認する。
「綾香ちゃんだっけ? 今日も和樹のお見舞い?」
「は、はい」
「そう。私も和樹の着替えを持っていく途中だから一緒に行こうか」
何度か病院でお姉さんとは会っているし、諏訪くんからお姉さんの話も聞くことも何回かあった。とは言っても、お姉さんとはほとんど会話したことなかったし、諏訪くんから聞いた話もほとんどがお姉さんに対する不満だったので、そこまで知っているわけではない。
病院まで無言のままなのも気まずいので、勇気を出して会話を試みる。
「お姉さんと諏訪くんって似ていますよね」
「……そんなこと言わないでよ。私と和樹は全然似てないよ」
まずい料理を食べたような顔をされてしまった。
「そうですか? 困っている人を助けてくれるところとか似ていると思ったんですけど」
「和樹は人助けしているのかもしれないけど、私は違うよ」
信号が赤から青に変わるのを待ちながらお姉さんは話す。
「もし綾香ちゃんじゃなくて知らない女の子だったら助けなかった。私はただ弟の友達がいじめられているところを見なかったフリして、あとで嫌な気持ちになりたくなかっただけ」
「それでも助けてくれたことには変わりないですし……」
「いいや、違うよ。和樹は昔から馬鹿みたいに純粋なんだよ。本気でヒーローに憧れたり、どう考えても作り話なのに信じたり、人を助けるのが当たり前だと思っているんだよ」
確かに諏訪くんらしい、と思った。
「私は和樹のそういうところが嫌いなんだ」
「え?」
「綾香ちゃんだって和樹から私達の仲が悪いことぐらい聞かされているでしょ」
諏訪くんはお姉さんのことをあまり好きではなさそうだったし、話を聞いている限り諏訪くんとお姉さんは仲が悪い印象を抱く。でも……。
「どうして嫌いなんですか? 純粋って悪いことではないと思うんですけど……」
「別に純粋な人がいても良いとは思うよ? そういう人が世界に沢山いればいいなって思うし」
「じゃあ、どうして諏訪くんのことを?」
「家族だから嫌なんだよ」
「家族だから?」
首を傾げる。私だったら、そういう人が周りにいてくれた方が断然嬉しい。諏訪くんみたいな家族がいたら、また別の人生を歩んでいたと思う。
「うーん……そうだね。例えば、ヒーローショーで偶然、ヒーローの仮面が取れて、中からおじさんが出てきたとする。当然、観客の小さな子供達はショックなわけだ」
想像してみると、とても嫌な光景が思い浮かぶ。
「幸野ちゃんはそういう小さな子供がショックを受けるところを見たいと思う?」
「見たくないです……」
「でしょ? ま、小さい頃だけならいいんだけどね。成長しても現実とフィクションの違いが分からない家族がいると似たような場面に何度も遭遇するわけ。だから私は和樹が嫌いなの」
なんとなくだけど、お姉さんの言いたい事は分かる気がする。
「大雑把だけど、少しは分かったかな?」
「はい」
多分、私の解釈で合っているはずだ。
「つまり、お姉さんは諏訪くんのことを心配しているんですよね?」
私がそう言うと、お姉さんの顔がみるみる赤くなっていく。
「は……はあァ!? なんでッ! そうなるのッ!?」
「え? 違うんですか?」
「私がアイツの心配なんかするわけないでしょ! 変な事言わないでよ!」
目を泳がせながらお姉さんは必死に否定する。周りにいた人が私達を見るくらい大きな声で。
それからお姉さんは取り乱しながら、「もう帰る! これ和樹に渡しておいて!」と言って、私に紙袋を押し付けて帰ってしまった。
お姉さんはああ言っていたけど、それが嘘であることを私は知っている。
川原で諏訪くんが倒れた後、息を切らしながら病室に駆けつけたのは、瞳に涙を浮かべた――お姉さんだったから。
やっぱり現実は、私が思っていたよりも綺麗なのかもしれない。
私は表情を緩ませながら、この日も諏訪くんの病室へ向かった。
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